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涅槃とは完全解脱の境地

涅槃とは完全解脱の境地

聞如是。一時仏在舍衛国祇樹給孤独

園。爾時世尊告阿難。有三善根。不

可窮尽。漸至涅槃界。云何為三。所

謂於如来所而種功德。此善根不可窮

尽。於正法。而種功德。此善根不可

窮尽。於聖衆而種功德。此善根不可

彩尽。是圍阿難。此三善根不可窮尽

得至涅槃界。是故阿難。当求方便獲

此不可窮尽之福。如是阿難。当作是

学。爾時阿難聞仏所說。歡喜奉行

現代語訳

聞くこと是の如し。一時、新国給園に在

しき。駅の時世車、問題に告げたまわく、「三戦戦(三福道)有り、肩尽す町からずして、漸く涅槃界に至る。

云何が三と為すや。所課如来の所に於て功徳を憧う。此の善根窮尽す可からず。正法に於て功徳を種う。此の根窮尽す可からず。是れを何難、此の三善根は窮尽才可

善根窮尽才可からず。変態に於て功徳を憧う。此の善

からず、涅槃界に至ることを待と謂うなり。是の故に何

、朗に方便を求めて、此の窮尽才可からずの間を運べ

し。是の如く所難、当に是の学を作すべし」と。順の時

阿難、仏の所説を聞きて戦がだしね。

このように聞きました。仏さまがコーサラ国の祇園精舎にご得在の時のことです。ある日、世

〇九二

尊は、阿難にこのようにお告げになられました。

「三善根(三福道)というものがありますが、その功徳は無限であり、涅槃界に至ることができるものです。なにをもって三つの善根(福)とするのでしょうか。(第一に)いわゆる如来の所において功徳を種える、この善根(福)の功徳は無限です。(第二に)正法において功徳を種える、 この善根(福)の功徳は無限です。(第三に)聖衆において功徳を種える、この善根(福)の功徳は無限です。阿難よ、この三善根(三福道)の功徳は無限であり、涅槃界に入ることができるのです。したがって阿難よ、三善根(三福道)を修行して、この無限の福を得なさい。このように阿難よ、この三善根 (三福道)を学びなさい」

この教えを受けて、阿難は心より喜び、修行に励みました。

ます。 冒頭でも触れたように、阿含宗では三善根を三福道と呼んでいます。このことについて説明し

解説

『仏教語大辞典』(中村元著、東京書籍)で「三善根」を引くと、

【三善根】さんぜんごん 無貪善根・無議善根・無癡善根の三根。一切の善法がこの三つから生まれるからである。それらは具体的には施・慈・慧となって現われる。三毒の対。

と書かれています。しかし、この『三供養品』に説かれる三善根は、その内容がまったく異なります。それなのに、これを三善根という名称のままで弟子たちに教えるのは、非常な誤解を生むもとだとわたくしは考えました。

それでは、この修行法は、どのように呼ぶべきなのでしょうか?

経文中に、

「此の網尽す可からざるの福を獲べし」

とあるように、この修行法は無尽蔵の福を得る三つの道です。したがって、わたくしはこれを 「三福道」と命名しました。この名称ならば無貪善根・無職善根・無癡善根の三善根と混同することはありません。

そこで、阿含宗では、三善根を「三福道」と変えて読誦しているのです。

さて、右の経文を一読すれば、涅槃界に至るためには三善根(三福道)が必要なのだ、ということをお釈迦さまが説かれているのが分かると思います。

涅槃界とはなんでしょうか?

普通は涅槃の境地・境界の意味で使われます(ただし本経では違う意味を持っておりますが、それについては後述します)。「五戒品』でも触れたように(本書三七頁参照)、涅槃とはサンスクリット語でニルヴァーナといいますが、生死を超越した境界、完全解説の境地です。完全解説とは薬と因縁から完全に解放された状態です。

わたくしたちは業と因縁の境です。業と因縁によって転生を続けています。輪転生とは 「死の転がやまず、無限に生死の流転を繰り返すことです。まるで車の輪がるように絶え

間なく、生と死を繰り返していくので輪転生といいます。また、生死流転、生々流転とも呼ばれます。直線ならば、いつかは終点にたどり着くでしょう。ところが輪というのは終わりがありません。終点がないわけです。輪が贈るから無限なのです。ただただ、グルグルグルグルと生死を繰り返すのです。

そういいますと、

「はてしなく贈ってもいいんじゃないですか。いろいろなものに生まれ変わって、さまざまな人生を味わうことができるわけでしょう。男になったり、女になったり、偉くなったりというよう

に、いろいろな人生を味わうことができるのだから、むしろ楽しいじゃないですか」 そういう人もいるかもしれません。一度限りの人生ではなく、輪廻転生する方が楽しいという人もいるでしょう。

ところが、輪廻転生は決して楽しいことではありません。むしろ苦しいことです。輪廻転生が苦しいことだから、お釈迦さまは輪廻からの解脱を願って修行したわけです。

なぜ、輪廻転生は苦である、とお釈迦さまは説かれるのでしょうか?

それを理解するためには、まず、仏教の人生観を知る必要があります。

仏教では、まず、人生イコール苦であると見ます。人生は、すなわち苦しみであると考えるのです。わたくしもそのとおりだと思います。たしかに人生には楽しみもあります。けれども、一生のうちに体験する苦と恋を一つずつ相殺していくならば、苦しみの方が多く残るでしょう。無数にある苦しみの中に、ときどき喜びがあるというようなものではありませんか?

さらには、その喜びが、次なる苦しみの原因になることが多いのです。

仏教では人間の苦しみを分類して、四苦心苦と呼んでおります。四苦とは人間の基本的な苦しみです。さらに四苦に付随した苦しみが四つ出てきます。これを最初の四苦と合わせて八苦といいます。通常はそれらを総称して四苦八苦というわけです。

四苦八苦は以前にも講義しました(上巻・『申思林経』一三五——一三八頁参照)が、仏教の基本教義として大切なことですから、もう一度復習しましょう。

四苦八苦人は苦の塊

まず、四苦というのは、生、老・・死の苦です。これが人間の基本的な苦しみです。さらにその四苦に付随した苦しみが出てきます。それが愛別離苦・怨憎会苦求不得苦・玉盛苦の四つです。これらの苦を総称して、四苦八苦といいます。こうしてみると、人間というのは本当に苦の塊です。

四苦の第一は生の苦です。実際に自分の人生を振り返ってみればよく分かると思いますが、生きていくこと自体が苦しみです。生まれたこと自体が苦しみです。生きているからこそ楽しいこともあるけれども、その楽しいことが次の瞬間に苦の種となっています。ですから生は苦であるというしかありません。

第二は老の苦しみです。生きている以上は、だれもが年をとります。必ず老いていきます。こ

「れもやはり愉快なことではありません。老いた人ならではの喜びもありましょう。けれども老いれば体力・気力・智力も落ちていくわけですから、「老い」は決して愉快なことではありません。 わたくしなども、朝起きて、ひげを剃るために鏡を見ると、

「ああ、我、老いたり」

という感をしばしば抱きます。自分では若い気でいても、若い時のような強い体力を発揮することはどうしてもできません。老いる苦しみというものは、だれしも味わうものです。

第三は病の苦です。生きているかぎりは、病気をすることもあります。だれが考えても、病気は楽しいものではありません。病気によって得るものもありますが、相対的に見れば病気は苦しいものです。

第四は死の苦しみです。人間だれしも死を迎えます。悟りきった人でないかぎり、死は寂しいし、つらいし、苦しいものです。

なります。 以上が四苦です。この四苦に愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦の四つを加えて八苦に

愛別離苦とは、自分が愛しているものと離別しなければならない苦しみです。どれほど愛し合っている恋人同士、あるいは夫婦、親子、兄弟、友人であっても、いつかは離別しなければなりません。生き別れもあれば死に別れもあります。いずれにしても愛する人と離別することは、本当に苦しく、つらいことですが、絶対に避けられません。

しかも、それは人間関係だけではありません。愛するものとは、必ずしも人間だけではありません。たとえば、お金をこよなく愛している人がいます。

「いやだ!」

「おれはお金だけが恋人だ。ほかにはなにもいらない」

また、地位を愛している人もいます。内閣総理大臣、会社の社長、重役、それぞれのポストをこよなく愛しています。

けれども、お金であろうと、地位であろうと、いつかはそれらとおさらばしなければならない時が必ずやってきます。いくら、

と呼んでみたところで、どうなるものでもないわけです。

次の怨憎会苦とは、怨んだり憎んだりしている相手と会わなければならない苦しみですが、こ

れもまた愛別離苦に勝るとも劣らない苦しみです。

「憎んだり怨んだりしているような、それほど嫌なヤツならば、会わなきゃいいじゃないか」 そういうかもしれませんが、因縁によって離れることができなくなっているから、非常に苦しいのです。その一つが「夫婦、客の因縁」です。最初は愛し合って結婚したとしても、怨憎会苦のもとになる「夫婦縁障害の因縁」があれば、夫婦お互いが憎しみ合うことになります。まるで親の心のように憎み合って、朝から晩までけんかばかりしています。 「それならば、別れてしまえばいいじゃないですか」

理居ではそのとおりです。ところが、それが別れられないのです。いろいろな人間関係・経済的理由、その他さまざまな事情があって、とても離婚できません。これが因縁の恐ろしいところです。しかたがないから我慢をしようと思うのだけれども、我慢しきれなくて、毎日けんかを繰り返すのですから、日々地獄です。

さらにひどい怨憎会苦は、「肉親血歌相剋の因縁」です。この因縁があると、親子・兄弟といった、血を分けた者同士が憎み合います。ひどい時には血を見るようなことがあります。まさに怨憎会苦です。嫌な相手と会わなければいけない、それも年中顔を合わせなければならない、これはまさしく地獄そのものです。

そこまでいかなくても、会社の上司、社長が嫌なヤツでどうしようもないけれども、月給をもらわなければいけないから、そこに勤めざるを得ない、というのも怨憎会苦です。お得意さんが嫌で嫌でたまらない、というのもあります。嫌なヤツだけれども、いろいろ買ってくれるから、

「毎度ありがとうございます」

とニコニコ笑うけれども、腹の中では、

「コンチクショウ」

「オギャー」

と思っている、これも怨憎会苦です。それで血圧が上がったり、心不全などになるのです。 求不得苦とは、求めて得られない苦しみです。これも深刻ですね。人間の一生などというものは、求めることの連続ではありませんか。

と生まれて、無意識のうちにお母さんのお乳を求めて、おっぱいを吸う。生まれてすぐに、お母さんの愛情とお乳を求めるわけです。大きくなるにつれて、求める対象がどんどん増えていきます。そして求めて、求めて、ずっと求め続けて、人生の最期に末期の木を求めて、それをゴクっと飲んで、この世とおさらばしていく。

その求め続ける人生の中で、どれだけ求めたものが得られるでしょうか?

 

は求めたものが得られるでしょうか?

お母さんのお礼と末期の水くらいは、求めて得られるでしょうが、一生涯で求めたものの、 その大半は得られません。百のことを求めて、得られるのはたった一つぐらいではありません

求めて求めて、求める人生。しかし、得られるものは百に一つ、これはまさに苦しみです。

そう考えていくと、この五体そのものが苦しみを盛る器のような気がしてきます。人間とは苦の塊ではないか、とつくづく思わざるを得ません。これが最後の苦、五陰盛苦です。人間そして世界を構成する五つの要素、これを仏教では五陰(五蔵)と呼びます。色(物質的現象)、(感箕)、想(表果)、行、(意志)、(認識・知識)の五陰です。この五陰の執着からさまざまな苦しみが出てきます。したがって人間を構成する五除は、まさに苦を盛る器であるというわけです。 たしかに、生きているということは、とてもすばらしいことです。生きているからこそ、喜びもあるし、自分が向上することもできます。けれどもトータルしてみると、やはり、この世は楽

よりも苦の方が多く、生きること、すなわち苦であります。これが、お釈迦さまがこの世の中を

ご覧になった結論なのです。

来世を決定する末期の境界

生きていくことは苦しいものです。しかし、その苦しみに負けずに、それを乗り越えて、いか

に価値ある人生をつくり出していくか? どのように生きていくか? 苦しみに負けずに、その

苦しみを喜びに変える方法はないのでしょうか?

多くの人間がいろいろと努力をして、苦の解決方法を考えました。試行錯誤を繰り返しました

が、やはり苦しいと電思をもらさざるを得ません。

「いっそ死んでしまったならば、苦から脱出できるのじゃないか?」

それがそうはいかないのです。

わたくしも若いころ、そのように考えたことがあります。難病に取りつかれた時、それから事業に失敗した時などに、なにもかもが嫌になって自殺を図ったことが、合計三回ほどありました。 けれどもわたくしには樹変死の因縁がありませんから、自殺を図っても死ぬことができなかったのです。わたくしは自殺に失敗して、人生というもの、そして因縁というものをつくづく悟りました。自分の命でさえも自由にならないことを悟ったのです。

それまでのわたくしは、自分の命だけは自分の自由になる、と思っていました。

「お金もない。仕事も失敗した。なにもかも失ったけれど、命だけはおれのものだ。命だけは自由になる。だから、苦しみが極まったら自殺してやろう。死んでしまったら苦しみは消えてしまう。だから、いよいよ苦しくなって、どうにも耐えられなくなったら、自殺すればいい。それまでがんばって粘ってみよう」

そう思っていました。それでいよいよ、耐えきれなくなって自殺を図ったのですが、死ねないのです。そこでわたくしが語ったのは、これだけはわがものだと思っていた命でさえも、決して自分の自由にはならないということです。自分の命でさえ自分の思いどおりにならないとなると、

この世の中で自分の思うようになるものは、なに一つないことになります。それがわたくしの一つの悟りとなり、その後の人生に大きな影響をおよぼすことになったのです。

おおよそ人間というものは、自分の思いどおりにならない時に怒りを発します。人間が腹を立てる原因は、全部そうでしょう。思うようにならないから、人は腹を立てるのです。思うようになったならばニコニコしている。ところが人間は生まれた時から死ぬ瞬間まで、自分の思うようになるものなど、なに一つ持っていません。さきほどのわたくしの体験ではありませんが、自分の命さえも思うようにならないのです。寿命が残っていたら、自殺することさえままなりません。 逆にお金がたくさんあって、長生きしたいと思っている人でも、短命となる因縁を持っていたならば、若くして死ななければなりません。

死ぬ、生きるということでさえ、自分の思うようにならないのです。それをわたくしは悟りました。そこからわたくしは新しい人生観を持ち、人生の再出発を開始したわけです。今考えると、 あの時死んでいなくてよかったとつくづく思います。死んでいたならば、霊障のホトケになって、 今ごろはサイの広場をウロウロしていたでしょう。生まれ変わっていたとしても、どうせろくな人間にはなっていないと思います。

人間というものは、死んで終わりではありません。死ねばそれでジ・エンドで、もうこの世に生まれてこない、というわけではないのです。死ねば、また次の生が始まります。人が死ぬと同原野街道という所へ行き、やがてサイの広場へたどり着きます。その広場の奥は断崖で、谷底には三途(三重)の川が流れています。この谷間を飛び越えて向こう岸にたどり着くと、そこが冥界(冥土)です。冥界へ到着したお霊は安心を得てようやく休らかな眠りにつき。ここで転生

の時を待ちます。

一方、生前の業の重さによって谷間を飛び越えられなかったお霊たちは谷底へ堕ち、悪業の強弱によって三悪趣のいずれかへ運ばれ、責め苦を受けることになります。谷底へ堕ちることが恐くて谷間を越えようとせずに、サイの広場をうろついているお霊たちもいますが、年に一回、断崖の下から津波のように水が上がってきて、お霊たちを地獄へさらっていきます。

いずれにしても、三途の川に堕ちたお霊たちは一定期間責め苦を受けて、そののちにようやく冥界へたどり着き、安らかな眠りについて転生の時を待つことができるのです。ちなみに、地獄の責め苦を受ける期間は、その人の怨念や因縁・業によって異なります(死後の世界の様子については、抱著「守護神を持て」をご参照ください)。

状態を決定するわけです。 前述のように、人は冥界を経て(有徳の人は霊界を経て)次の世に転生できるわけですが、生前に徳を積んで修行した人は、よい境界の人間としてこの世に生まれ変わってきますし、反対に不幸な死を迎えた人や不徳の行いを重ねた人間は、悪い因縁を持って生まれ変わってくるのです。 死んでそれで終わりではありません。現世での死ぬ瞬間の状態や現世での行いが、来世の自分の

生を歩みます。 したがって、もしも地獄界の因縁で亡くなるとしたならば、来世は地獄クラスの境遇に生まれてきます。横変死は地獄界の因縁ですから、自殺・他殺・事故死の場合はサイの広場で苦しみ、 地獄に堕ちてさらに苦しみ、生まれ変わっても地獄クラスの人間として生まれて、さらに苦の人

要するに、自殺をして生き地獄の苦しみから遠れたと思っても、死んでも苦しみは続くのです。

そして来世も地獄クラスの境遇で生まれてくるのですから、死は苦の解決にはなりません。

キリスト教などは、別な意味で自殺を禁止しておりますね。仏教は自殺を禁止することはありませんが、それはムダなことだと教えているわけです。人生の苦しみに耐えかねて自殺しても、 死後も来世も苦は存続するのですから。

ですから、苦しいからといって死んではいけません。どこまでも耐えて、耐えて、耐え抜いて、 仏教の修行をして因縁を切っていくならば、必ず菩薩クラスの人間になることができます。生きていればこそ、それができるのです。

す。 実際にわたくしは苦しみに耐え、修行を重ねて、すべての悪因縁を断ち切ったのです。もしも、 あの苦しみの最中に自殺していたならば、わたくしは霊障のホトケとなり、自分も苦しみ、子孫をも苦しめていたでしょう。生まれ変わっていても、地獄クラスの人間として生まれ、再び苦しみの人生を送っていると思います。生き抜いて修行してきたからこそ、今のわたくしがあるので

成仏とは輪廻を絶ち切ること

生死→生死という輪の鎖の輪をどこかで絶ち切ってしまうならば、もう二度と迷いの世界に生まれることがありません。以前講義した「雑阿含経・尼」(上巻・二四八頁)に、

 

「君が生じに尽き、祭日に立ち、所作已にやし、自ら後有を受けざるを知り、阿羅漢を得

もという営業があります。「変が生じに尽き」とは、自分の生はここで尽きたという意味です。

後有とは次の生のことです。夜街というでしょう。後生も後有もほぼ同じ意味です。したがって 「後有を受けざるを知る」は、二度と迷いの世界に生まれないと確信したということです。阿羅僕になって、二度と迷いの世界に生まれることがないことを自覚したわけです。

もしもこれが「我が生尽き、後有を受ける」だったならば、死んでまた次にどこかへ生まれていくことになります。生々流転していくわけです。生が続くことは苦が続くことでありますから、 輪転生するかぎり、苦はいつまでも、いつまでも無限に続いていくことになります。

苦を完全に断つには、輪廻の輪をどこかで絶ち切らなければなりません。解説を得れば、自分がもう二度と苦の世界に生まれないことをはっきりと自覚します。それが「自ら後有を受けざるを知る」です。苦を根本的に解決するには、生と死を超える必要があります。その生と死を超えた境界がニルヴァーナ(複製)です。ニルヴァーナに到達することが、仏教のいちばんの目標でありテーマなのです。

お釈迦さまは、生きたままニルヴァーナに入られました。さまざまな因縁・カルマ(業)を断ち輪組を絶ってニルヴァーナに入られたお方を仏陀とお呼びします。仏陀になることを成仏陀といい、略して成仏といいます。多くの日本人は、なかなかこれが理解できません。成仏といえば、死んだ人が浮かばれることだと思っています。日本では昔から、死者が冥界へ行くことを 「成仏する」と呼んできたからです。しかし、本来の成仏とは、生きている人間が輪廻の輪と絶

ち切って仏陀となることです。それが成仏陀、成仏です。また、ニルヴァーナに入るということです。これをよく知っておかなければなりません。

仏教の目標は、自由自在の存在である仏陀になることです。仏になることが仏教の目標であり、 その点がほかの宗教とまったく違う、仏教のすばらしい特色です。たとえばキリスト教の信者は、 自分が神になるなどとは考えもしません。自分自身がイエスになるとも考えません。神は神、神の子としてのイエスはイエス、信者である自分は自分であって、それは永遠に同じで変わりません。いくら信仰に驚くて、いくら熱心に修行していても、信者がイエスや神になるなどということは絶対に考えません。イスラム教やユダヤ教も同様です。それらの宗教で、自分が神になるなどといったならば、神に対する冒徴とされて、どういう目に遭うか分かりません。

仏教のすばらしいところは、最初は仏さまを礼拝するところから始めるけれども、仏さまが修行された内容を自分も実践し、自分自身も仏になることを究極の目標としている点です。 お釈迦さまご自身が、

「おまえたちも私が修行したとおりに修行すれば、私と同じ仏陀になれる」

とおっしゃって、仏になる方法 成仏法を「阿含経」の中にお残しになられたのです。このよ

うなすばらしい宗教は仏教しかありません。しかし、仏教と名乗ってはいるものの、自分自身が成仏するという本当の仏教を修行しているのは、成仏法の修行をしているわたくしたち阿含宗信徒だけです。たとえば、阿弥陀如来を信仰している浄土教の人たちは、

「自分たちは一生懸命に修行して、阿弥陀如来になるんだ」

などとは考えません。ひたすら阿秀陀如来の恋にすがり、極楽に生ずることを願って、
と唱えるのみです。密教の場合は、自分が大日如来になることをめざすからまだよいのですが、 しかし、それもお釈迦さまの成仏法を修行しているわけではありませんから、実際には成仏できないわけです。

仏教とはいうものの、本来の仏教の趣旨とは異なった、おかしな宗派がずいぶんとあります。 正しい仏教とは、お釈迦さまが教えてくださっているように、修行によって自分自身も仏陀になるというものでなければならないのです。

世間福と出世間福

「三供養品」の内容に戻りましょう。

お釈迦さまは、サーヴァッティーの祇樹給孤独園(祇園精舎)にご滞在の時、弟子の阿難に、 次のようにお告げになられたわけです。

「三善根(三福道)有り、窮尽す可からずして、漸く涅槃界に至る」

さきほども述べたように、「涅槃界に至る」とは、本来は成仏する、阿羅漢になるという意味です。お釈迦さまは、三善根(三福道)によって涅槃界に至るぞ、とおっしゃっています。ただし、ここでいう「涅槃界に至る」とは何渓になることではなく、阿那含になることを指してい

る、とわたくしは考えます。このことについては、あとで詳しく説明します。

それでは、三善根(三福道)とは、具体的にはどのような修行法なのでしょうか? 前述のように、わたくしは三善根を三福道と名づけているのですが、三福道とは文字どおり「三つの福の

道」です。それでは福と成仏の間には、どのような関係があるのでしょうか? またこの福とは、 どのような福なのでしょうか?

だいたい世間一般に福という言葉を使い、だれもが福を求めていながら、あらためて、 「福とはなにか?」

と問われると、なかなかひとことでは答えられません。福を幸せと表現する人もあるでしょう。 いろいろよいものを得ることが福である、という人もいます。福に客の一字をつけて幸福ともいいます。福の表現はじつにさまざまです。

人間である以上、だれもが幸せでありたいと願います。幸せを願わない人はいません。かなり以前のことになりますが、北海道に幸福と愛国という名前の駅があり、「愛の国から幸福へ」のキャッチコピーで「愛国から幸福ゆき」の切符を売りだしたところ、それを買うために、若い女性の観光客が殺到した、と新聞記事で読みました。これは一つの縁起担ぎでしょうが、だれもが幸せを望んでいることを表わす好例ではないかと思います。

さて、仏教では、福には世間帯と出「世間帯の二種類があるとしています。世間福とは一般世間における福です。たとえば財福や寿様のように世間的な福です。財福とは読んで字のごとく金銭的な福で、寿福は長生きをする福です。病気をしないで長生きをする福が寿福です。それ以外にも高い地位を得る福、権力を得る福、すぐれた肉親をたくさん持つ福などがありますが、いず

福の源は徳

お経には、

経文中に「窮尽す可からず」という言葉があります。直訳すれば、極め尽くすことができないということですが、ここでは広大・無限と考えてください。広大の反対は狭小です。狭く小さければすぐに極め尽くしてしまいますが、無限で広大だから極め尽くすことができません。「三善根(三福道)有り、窮尽十可からずして、漸く涅槃界に至る」は、「三善根(三福道)を修行するならば無限の功徳を得て、涅槃界に入ることができる」という意味になります。

それでは、三善根(三福道)とはどのような修行法なのでしょうか?

「如来の所に於て功徳を種う。此の善根窮尽す可からず。正法に於て功徳を種う。此の善根材尽

才可からず。聖衆に於て功徳を種う。此の善根窮尽す可からず」

とあります。つまり三善根(三福道)とは、

①如来のみもとで功徳を種える

③正法において功徳を植える

聖衆において功徳を種える

の三つの修行です。

お釈迦さまは、まず第一に、如来のみもとにおいて功徳を種えよ、とおっしゃっておられます。 功徳という語を、単に徳としてもさしつかえありません。前記のようにだれもが福を持ちたいと

願っていますが、福はなんの理由もなく突然にやってくるものではありません。福が授かるからには、陽が授かるだけのもとがなければならないのです。福のもとはいったいなにかといえば、 それは徳です。福徳といいますが、福は徳から生じるのです。徳がなかったならば福は得られないのですが、一般世間の人はこのことをよく理解していません。世の人は、 「お金が欲しい。財福を得たい、長生きがしたい。権力を得たい。高い地位に就きたい」

ど次々に願い求めて、それなりの努力をしているようですが、それだけでは福は生じません。 たとえ努力をしても、徳のない者には福は生じないのです。仏教には「薄福少徳」という言葉がありますが、お経によっては、「火」となっています。福が薄いから徳が少ないのではなく、実際は逆で、徳が薄いから福が少なくなるのです。徳がないから不幸になるのです。なんの理由もなく不幸になるのではありません。徳が少ないから不幸になり、徳が多いから幸福にな

るのです。わたくしたちは、その点をよく理解しなければなりません。

「幸せになりたい。福を得たい」

といっているだけではしかたがありません。福を得て幸せになりたかったならば、徳を身につければよいのです。

それをお釈迦さまは二千数百年前に、はっきりと教えてくださいました。

っているのです。 「三善根(三福道)という、出世間福を受けるための三つの方法(道)があるのだ」とおっしゃ

それから、お釈迦さまは「功徳を種える」とおっしゃっています。たしかに徳を種えなければ、 幅は実りません。普通、感あるいは功徳という場合は、「積む」という言葉が用いられます。「功徳を積む」「徳を積む」というでしょう。あるいは積徳という熟語があります。

ところがこのお経では、じつに微妙ないいまわしがされます。艦と書いて種えると読ませています。「功徳を種える」となっているのです。大差はないように思うかもしれませんが、意味はまったく違います。「功徳を種える」と「功徳を積む」では、ニュアンスが違うのが分かるでしょう。

「功徳を積む」というと、もうすでにいくらかの徳があって、その上にまた徳を積み重ねるような感じがします。たしかに、だれもがなんらかの徳を持って生まれてくるわけですが、生まれながらに出世間福を得るほどの徳を持っている人など、ほとんどいないといってよいでしょう。わたくしたちはみな、徳を種えるところから始めなければなりません。徳を積むなどというのは、 本来はとてもおこがましいことなのです。

「徳の種まきをせよ」

というニュアンスで、「功徳を種う」とされているのは、じつに表現の妙です。

お釈迦さまは三善根(三福道)の第一として、「如来の所に於て功徳を種う」とおっしゃっています。一見簡単そうですが、実際には非常にむずかしいことです。それはなぜでしょうか?

如来の真義

お釈迦さまは、如来のもとで功徳を種えるならば無限の出世間福が生じる、とおっしゃっているわけです。なぜ、お釈迦さまは、まるで念を押されるかのように、「如来の所に於て」とおっしゃっているのでしょうか? 不思議に思いませんか?

わたくしはこの部分を読んだ時、これには深い意味が込められている、と直感しました。たしかに功徳を補えることは大切です。仏教系の宗旨・教団であるならば、功徳を積めと必ず教えます。それは結構なことであり、お釈迦さまの教えにかなっています。どの仏教教団でも、 「功徳を積みなさい」

といいます。けれども、そのような教団で長年信仰をしている人が、

「自分でいうのもなんですが、私はずいぶんと一生懸命に積徳の行をやっていると思います。で

すが、どうもさっぱりよくありません。問題が解決しません」

というと、その教団は決まって、

「功徳の積み方が足りない。信心が足りない」

と答えます。それからしばらくして、

「あれからまたがんばりましたが、まだうまくいきません」

というと、

「まだまだ足りん」

といわれます。これでは、どれだけやればいいのか分かりません。そのような経験をした人もいると思いますが、『三供養品」を読むと、いくら功徳を積んでも果報が得られなかった理由が分かります。どの教団も功徳を積めと口を酸っぱくして教えますが、いずれも積徳の行を行う上で最も大切なことを見落としているのです。あるいは知っているのに、わざといわないでいるとしか考えられません。

『三供養品』にあるように、お釈迦さまは如来のもとで功徳を種えよとおっしゃっているのです。 これは如来のもとでなければ、どれほど大きな功徳を種えても意味がないからなのです。如来のもとだからこそ、種えた功徳が涅槃界に入るための福になるのです。ところが阿含宗以外のほとんどの仏教教団には、如来がいらっしゃいませんから、如来のもとで功徳を種えることができません。それで福が得られないのです。

そういうと、伝統仏教のご住職などが、

「そんなことはないでしょう。私どもの寺では、国宝級の如来さまが祀られております。非常にありがたい仏さまです。ですからここで功徳を積めば、まさに成仏するだけの福がいただけるのです」

といわれるでしょう。そういって反論する人が出てくることを見越して、「如来の所に於て功徳を纏う」とお釈迦さまは念を押されている、とわたくしは考えます。そうでなければ、わざわざお釈迦さまが、「如来の所に於て」と但し書きのようなことをおっしゃるはずがありません。 なぜならば仏教においては、仏教徒が如来のもとで功徳を積むのは、当然すぎるくらい当然のことだからです。本来ならばいう必要がありません。それもお経を見るかぎり、座長は十大弟子の

一人で、多聞第一と称される阿難です。阿難を座長として、多くの直弟子たちに説かれているわけです。彼らには、ごく当たりまえのことのはずです。これはお釈迦さまが、如来でないものを如来として祀る教団が現われることを見抜かれて、説いておられるとしか考えられません。わたくしはそう思います。

歯に抱かせずにいえば、普通のお寺にお祀りされているのは如来ではありません。

そもそも如来とはなんでしょうか?

如とは直近の略で、真如とは真理という意味です。「真如の世界から来られたお方」ですから、 如来とお呼びするのです。パーリ語・サンスクリット語でタターガタといいます。

如来とは仏の十号の一つです。仏の十号とは仏さまの十種類の呼び名で、仏さまのお力やお働きを十の角度から表現した徳名です。如来もその十号の一つで、ほかに阿羅漢(供・至真・動正(等)・明行足・割・世間解・無上士・調御丈夫(調人師)・天人師・仏世尊があります。したがって如来と呼ぼうと、仏世尊といおうと、完全解脱をされて成仏力を得られた仏さまに変わりはありません。

「如来の所に於て功徳を種う」とは、如来という、解脱と悟りを得られたお方のもとで、功徳を種えなさいという意味なのです。涅槃界に入るだけの無限の福を得るためには、まず本当の仏さまがいらっしゃらなければなりません。「如来の所に於て」、これが仏教の信仰・修行でいちばん大切なことです。要するに本尊論です。自分が仏道修行をする上で、どの仏さまを本尊としなければならないのかが論じられているわけです。

あなた方の家系の種寺にお祀りされているのは、如来ではなくて、如来像でしょう。如来像

あなた方の家系の檀那寺にお祀りされているのは、如来ではなくて、如来像でしょう。如来像

は如来ではないのですから、そこで功徳を積んでもしかたがありません。

ひとくちに仏さまといっても、人工の仏と自然の仏があります。自然の仏が本当の仏であり、 生ける仏なのです。自然のままの本当の仏さま、これを「自然法爾の仏」とお呼びします。対して人工の仏とは、人間が創作した仏像や仏画です。人工の仏は、本当の仏ではありません。

「如来の所に於て」とは、本当の生ける如来のもとでという意味です。この如来はお釈迦さまのように、修行によって実際に成仏された、歴史上実在の仏さまでなければなりません。一般のお寺の本堂に、どれだけ多くの如来がお祀りしてあろうとも、それらはすべて如来像であって、如来ではありません。像という字を辞書で引いてごらんなさい。たいていの辞書は、

「神仏・人・鳥獣などの形を模して描き、また造ったもの」

となっています。つまり、仏像とは仏さまの模型であって、仏さまそのものではないのです。

真正仏舎利こそ生ける如来

んか?」 「それでは、生きた如来さまはどこにいらっしゃるのですか? お釈迦さまはもうずっと以前に亡くなられたのだから、生きた血来さまなんて、もうどこにもいらっしゃらないのではありませ

という質問が出てくるでしょう。

生きた如来さまはいらっしゃいます。それが、お釈迦さまの本体、生ける釈迦と呼ばれている 「真正仏舎利です。これが「自然法爾の仏」です。単なる如来像は、仏でもなければ如来でもありません。真正仏舎利こそが真実の如来です。この「真実の如来のもとで功徳を種えよ」、とお釈 「迦さまはおっしゃっておられるのです。真実の如来・真正仏舎利こそが、『三供養品』に説かれている、生ける如来なのです。

これは、わたくしが勝手にいっているのではありません。密教では古来より、お釈迦さまの御聖・御霊をもって、お釈迦さまの本体としております。このことは拙著『守護仏の奇蹟』 (平河出版社)で、すでに説いております(同書一七七一一七九頁)。

しようじん密教では、シャカの御遺骨、御遺身を「変化法身の釈迦」といって、生身のシャカの本体とするのである。御遺骨、御遺身が、生きているシャカの本体なのである。

仏の本質を緻密に芸術化し、象徴化して表現する点で、密教はもっともすぐれている。

その密教では、シャカに三重あることを説いている。これを「三重の釈迦」という。 第一重のシャカは、胎蔵界マンダラ中 台八葉院にまつられている四仏の一つで、「天数電音仏」という名前でまつられている。

いう。 この名前は、涅槃の智慧を、天鼓(雷)のような法音をもって衆生にさとらせる仏、という意味で、つまりシャカの説いた教法を、仏として表現したのである。自性、身の仏とも

第二重のジャカは、胎蔵界マンダラ釈迦院のシャカで、これが、街「射のシャカの本体と

 

される。本尊としてえがかれているのが、姉来駅、如来舌など、生身のシャカの御運作、御違身である。

第三重のシャカは、ボードガヤの菩提樹の下でさとりをひらかれ、仏陀になられたシャカ。 これは生身のシャカである。

つまり、

第一重・・・・・・シャカの教法

第二重…………生身のシャカの本体編 【御遺身

第三重・・・・・・生身のシャカ

とこうなるのである。

第三重の生身のシャカはすでにおなくなりになって、仏界におかえりになってしまっている。そこで、第二重の、生身のシャカの本体である御遺骨・御遺身をもって、生身の釈迦如来とするのである。

もっとも、密教が、御遺骨(仏舎利という)をもって生身のシャカの本体として、釈迦院にまつったのは、べつに、密教の独断でもなければ、独創でもないのである。

仏教の発街、地インドにおいて、それは仏教の本流だったのである。

シャカのおなくなりになったあと、インドの仏教徒は、シャカの舎利をストゥーパ(塔)

におまつりし、シャカそのものとして礼拝供養した。ところが、奇蹟的な霊験功徳があいついだので、急速に全土にひろがり、ついに仏教信仰の本流となったのである。

これは、考えてみれば当然のことで、ジャカなきあと、仏教を信仰するとしたら、シャカ

の残した教法(阿含経)と、ジャカ仏本尊として御遺骨をおまつりするしかないわけである。

仏とは人間の認識世界をはるかに超えられたお方で、普通の人間の認識はまったくおよびませんし、天才だといわれる人でも、とうていおよぶものではありません。仏の認識世界は、わたくしたちの次元をはるかに超えております。一般の常識では想像もつかないような大いなる存在を、 ちっぽけな人間の概念や知識で創り出せるわけがありません。人工の仏を生ける仏と比べたならば、天と地以上の差があります。

ところが世間を見てみると、あるのは人工の仏ばかりで、生ける仏をお祀りしているお寺は皆無といってもよいほどです。大日如来、阿弥陀如来、薬師如来、不動明王、観世音菩薩、いずれも人工の仏であり、架空の仏であり、空想上の仏です。少し難しくいえば、概念上の仏です。

いうまでもなく、狭い了見の人間が勝手に創り出した仏を一生懸命に拝んで、どういうご利益がありますか。もしもなにかのご利益があるとすれば、それは精巧に彫られた仏像などを見て、 「尊い仏さまだ。ありがたい」

という気分になり、そして気分がよいから物事がうまくいきやすくなる、というような心理的なご利益でしょう。

お釈迦さまが『三供養品』で説かれている如来とは、生ける如来なのです。お釈迦さまがご存命の時ならば、それはお釈迦さまご自身であり、お釈迦さまが仏界に入られてからは、そのご聖骨・真正仏舎利こそが生ける仏なのです。お釈迦さまは、人間が勝手に創作した仏のもとで功徳を種えよ、とはおっしゃっていません。

わたくしたちの供養にお応えくださいます。それだけのお力とお徳を持っておられます。そのよ

うな仏さまを、応供とお呼びします。応供とはパーリ語のアラハントの主格「アラハン」、サンスクリット語のアルハットの主格「アルハン」を漢語に意訳したもので、漢音に写したものが阿羅漢です。応供も阿羅漢も同じように、仏さまの別名です。

ところが、大乗仏教の人たちは、阿羅漢は小乗の覚者であって仏ではなく、位は菩薩の下であるとしてしまいました。仏の十号を見ても分かるように、阿羅漢も応供も仏さまのことです。本物の生ける仏は、衆生の供養に応えて成仏力をお授けくださいますから、応供・阿羅漢とお呼びするのです。反対に、応供・阿羅漢でない――つまり供養に応えることができない――ならば、 真の仏さまとはいえません。阿羅漢を小乗の覚者としてしまったことは、大乗仏教の犯した大罪の一つです。みなさんはこれを理解して、大乗仏教の人から、

「阿羅漢は小乗の覚者で菩薩の下だ」

といわれても、今わたくしが説明したように、きちんと話して聞かせてあげていただきたい。

如来のもとで種えるべき功徳

さて、生ける如来のもとで種える功徳とは、具体的にはどういうものでしょうか?

これは二つに分類できます。分類するといっても両者は別々のものではなく、同時に行うべき

一分にするといっても両者は別々のものではなく、同時に行うべき

「ものです。まず一つは、修行と深い信心です。二つめは供異です。信心・修行と供養を併せて行う、それが如来のもとで種えるべき功徳の内容です。深い信心を持ち、仏さまの教えられたことをそのまま修行すると同時に、仏さまに供養を捧げるわけです。それがここでいう功徳です。

何度もいうように、信心・修行、そして供養は、生ける如来のもとで行われなければ意味がないのですが、今の日本の仏教界を見渡して、生ける如来・真正仏舎利を本尊としている寺や教団がいくつありますか?

本物の仏を本尊とする本物の仏教教団がたくさん出てこなければ、この世の中は救えないとわたくしは思います。そのような教団が、次々と世の中に出てこなければなりません。阿含宗は、 その口切りです。ただ、あとに続けるだけの教団があるかどうか。とにかく現在は阿含宗だけです。決して自慢高慢ではなく、これは事実です。

真正仏舎利を本尊とするのが、歴史的に見ても、仏教学の面から見ても、正しい仏教教団のあり方です。生けるお釈迦さまを本尊とせずに、なにを本尊とするのでしょうか? ニセの仏を祀って成仏できるでしょうか?

できるわけがありません。お釈迦さまが、この『三供養品』でおっしゃっておられるとおりです。このお経をもとにして、わたくしは、

「ニセの仏ではだめだ!」

といっているわけです。決して思いつきやでたらめではありません。わたくしが本に書き、あ

るいはこのようにお話をする場合、必ず仏さまのお言葉をよりどころとしています。

如来のもとでなければ、いくら功徳を積んでもむだだぞ、とお釈迦さまはおっしゃっているの

です。そのむだなことをしている教団が、日本にはいったいどれだけありますか。わたくしたちは、それも世の中に訴えていく義務があります。

おたがいに仏教徒であるからには、どれくらい苦しい修行や供養でも耐えられるでしょう。身を持てても行う供養、これは捨身供養といって最高の供養とされています。わたくしもお釈迦さまのためならば、命を差し出す覚悟があります。仏教徒ならば、だれもがその気持ちを理解してくれると思います。しかし、だからといって、かたっぱしから捨身されては困ります。仏教徒はみな捨身供養をしろということではありません。自分の命をも捨てるほどの覚悟があれば、財産・名誉・地位などには執着せず、一心不乱に修行するだろうということで、捨身供養が尊いとされているのです。

命がけで供養したからには、必ず仏さまはそれに応えてくださいます。仏さまがもらいっぱなしということはありません。必ず供養に応えてくださいます。しかし、それだから供養するというのは間違いです。応えてくださるから供養しなさい、といっているのではありません。わたくしどもは凡夫ですから、応えてくださると思ってしまうことはあるでしょう。でも考えてはいけません。思ってもよいが、考えてはいけないのです。

わたくしたち仏教徒は、仏さまのもとで一生懸命に功徳を積み、修行をします。どれほど苦しい行でもいとわないが、どうかその行は実ってほしいと願うでしょう。しかし、修行が実るためには、生ける仏さまが本尊として必要なのです。生ける仏さまがいらっしゃらないところでどれだけ苦労をしても、実るわけがありません。生きた如来のもとで供養を捧げ、信仰し、修行をする。そうでなければ、仏果は得られません。これは仏教の信仰を始めるに当たって、いちばん重

要なことです。

みなさんはそのことを広く人々に教え伝えてください。どれだけむだな供養を捧げている人たちがいるか。むだな修行をしている人たちがいかに多いか。どこで信仰・信心を行うかの最重要ポイントが、生ける如来の有無です。信仰・修行をするのは結構だが、生ける如来のもとでなければ意味がありません。そのお釈迦さまのお言葉を、一人でも多くの人に伝えていかなければな 「これがわたくしたち阿含宗信徒の使命であり、かつ、功徳を種える行なのです。

正法とはお釈迦さまの説かれた教法

お釈迦さまは三善根(三福道)の第二として、

「正法に於て功徳を種う。此の善根窮尽す可からず」

とおっしゃっています。正しい法とは、生ける如来のみもとで行われる教法のことです。教えとしては縁起の法や四譜の法門などで、法としては上根の成仏法・七科三十七道品、それから下根の成仏法・三善根(三福道)や以前講義した優婆塞の八法・十六法(上巻・『一切事経』九一五六真)などです。

お釈迦さまは優婆塞の八法・十六法で、まず最初にどのように説かれていますか?

正信でなければならない、とおっしゃっているでしょう。優婆塞の八法とは、自分が正信を持

ち()、成を守り()、布施を行い(知)、正法を聞き()、聞いた正法を保ち(持)、正法を観し)、正後に近づき(次)、正逆に向かう(剛)行です。これが優婆塞の八法です。

いえないのです。 優要塞の八法の筆頭は信ですが、その信も正信でなければならない、と『差阿含経・一切事軽」には説かれています。お釈雨さまは、「正信を具足して他人を建立し」というように、わざわざ正信と断られていました。正法とは仏陀になられたお釈迦さまが実際に説かれた教法であり、 その正法を信じることが正信なのです。歴史上実在の仏であるお釈迦さまが、実際にお教えになられた戦後、それが正法です。つまり「阿含経」に説かれている教法です。「阿含経」だけがお釈さまの教法を伝える唯一の経典なのですから、当然そうなります。大乗経典という、お釈迦きまの入滅後、四、五百年も経ってから創られた、ニセのお経に書かれている教法は、正法とは

お釈迦さまは、ご自身が亡くなられたあとに、ニセの経典が次々と創られることを予知なされて、正法と念を押されているのです。事実、お釈迦さまは、ご自分が無余依涅槃に入られたのちに、ご自分の教法(正法)がすたれ、代わりに文芸人の説いたお経が人々の信仰を集めることになるであろう、と「阿含経」の中で予言されております。このことはすでに述べたとおりです (上巻・五〇一五二頁)。お釈迦さまは、ご自分が入滅されたあと、ニセの教法が横行することを予知されていたからこそ、正信・正法とおっしゃっているのです。

なのだ」 真の如来である自分が説いている教法、これが正法であり、その正法を信じることが正信

というように、お釈迦さまはおっしゃっているわけです。お釈迦さまは、

「自分が説いた教法に基づいて、功徳を種えなさい」

と説かれているのです。それが「正法に於て功徳を種う」です。どれほどの功徳を種えても、

どこのだれが説いたのかも分からないような教法に基づいているならば、功徳は決して実りません。ニセの如来のもとで功徳を種えても、福が実らないのと同じことです。正法に基づいて修行しなければ、まったく意味がありません。正法において功徳を種えてこそ、成仏の福が得られる、 まさにそのとおりだと思います。

聖衆とは正法を歩む師と弟子たちの集い

三善根(三福道)の第三として、お釈迦さまは、

「聖衆に於て功徳を種う。此の善根窮尽す可からず」

とおっしゃっております。聖衆とは、ひとことでいえば、生ける如来のみもとで正法を修める人々です。正法を体得した師匠と、その師のもとで成仏をめざしてお互いに励まし合いながら正法を修行している弟子たちの集い、それが聖衆です。この集いを僧伽(サンガ)といいます。

要するに三善根(三福道)とは、仏・・側の三宝それも正しい三宝のもとで行う、功徳を種える修行なのです。如来が仏、正法が法、聖衆が槽(僧伽)です。

仏・法・僧の三宝のもとで功徳を種えるというのは、どの宗旨・宗派でもいっていることです。

しかし、お釈迦さまは、「生ける如来」がおられ、「正法」が行じられていてこそ、その教団は

「聖衆」になるのだ、とおっしゃっているのです。

正しい三宝においてでなければ、供養や修行を行う意味がありません。三善根(三福道)で特に重要なのは、「生ける如来」のみもとであるということです。生ける如来がいらっしゃらないところでは、供養も修行もむだになります。お釈迦さまは、正しい三宝において功徳を種えよ、 と説かれているのです。それが三善根(三福道)です。三善根(三福道)によって修行者は無限の出世間福を得て、涅槃界に入ることができます。ということは、逆にいえば、三善根(三福道) を行わなければ、涅槃界に入るだけの福は得られないということになります。涅槃界に入るための福徳は三善根(三福道)によって得られるのです。

三善根(三福道)と優婆塞の八法・十六法

仏教では、功徳を種える行のことを梵行といいます。「阿含経」に「梵行已に立ち、所作已に作し(発行はすべてやり遂げた。なすべきことはなし終えた)」という言葉が頻繁に出てまいりますが、 その梵行とは、具体的にはどういうものでしょうか?

梵行にはいろいろな表現や分類がありますが、さきほど触れた優要塞の八法・十六法でいえば、 自分が優婆塞の八法を行うだけでなく、その八法を人にも勧めて実践させることこれを優要

富の十六法といいますが梵行になります。これこそが三善根(三福道)の実践です。 優婆塞の八法は自分だけの行です。仏教ではこれを自利の行といいます。しかし自分だけが優

最高の八法を行うのではなく、他の人にも八法を勧め、行わせるならば、それは優婆塞の十六法という発行になります。自分が優婆塞の八法を行うだけならば、それは単なる自己の修行です。 他人に対しても優婆塞の八法を勧めることによって初めて、それは梵行になり、供養になり、利

他の行になります。これが功徳を種えるということです。 「他の人が成仏法を修行できるように勧め、支え、指導することによって、涅槃界に入れるだけ

の福が生じるのだ」 とお釈迦さまは教えてくださっているわけです。仏道修行者は自分だけのことを考えるのではなく、世の中のすべての人々が幸せになることを願うような、慈悲心を持たなければいけません。 人に法を説くということは徳を積む行であると同時に、慈悲心の実践です。菩薩行なのです。そ

れをよく理解していただきたいと思います。

世はまさに、混迷を極め、地獄の様相を呈しつつある国も多く見受けられます。現在繁栄している国でさえも、いつ壊滅するかわかりません。宗教とはその社会のバックボーンである、とわたくしは思います。宗教がなかったならば、人間は動物となんら変わるところがありません。人間はなぜ人間であるのか?

精神的な面からいえば、宗教を持っているからであり、物理的な面からいえば、火を持ったからです。

人間は信仰を持ち、神や仏を認識します。人間は心の中に、仏や神を認識する世界を持ってい

1、空の場を待っています。だからこそ、人間は人間たり得るのです。そうでなければ動物にすぎません。遊具を扱うことができる動物です。そのように道具を使えるけれども高い精神を持たない動物は、自らの生み出した道具・機械によって、自分自身を破滅に追い込むことになります。その道具の最たるものが原子力です。

世界の危機を救うには、信仰を広めるしかありません。それも正しい信仰でなければなりません、歌を断つという、お釈迦さまの真の仏法を社会に広めるほかないのです。ニセモノの三宝によって成り立つ、ニセモノの仏教ではこの世の中は救えません。わたくしはそのように確信しています。なぜならばお釈さまご自身が、そうお説きになられているからです。

わたくしは一身を伸げても、正法を世界中に広めるという、この大梵行を果たさなければなり ・正法を広めるということは、諸君にとっても最大の梵行です。真に世界を救うためにお釈迦さまの成仏法を広める。その決意に燃えて、大梵行を実行している人の集まりが聖衆なので

―二つの涅槃界

続いて、同経原文には「是阿難此三善根不可刷尽得至涅槃界是れを阿難、此の三善根を網尽す何からず、深界に至ることを得)」とありますが、阿含宗ではこの節分を「此三福道不可窮尽。

自須陀泪至阿那含,断五下分結。三福道即至涅槃界(此の三福道は尽可からず。須陀涙より阿那

含に至る。五下分を断ず。三福道は即ち涅槃界に至る)」と読誦しております。

三善根を三福道と呼ぶ理由は前述のとおりですが、「自須陀洹至阿那含。断五下分結」の文言

を挿入しているのはなぜでしょうか?

わたくしは少し前のところで、

といいました。 「ただし、ここでいう「涅槃界に至る』とは阿羅漢になることではなく、阿那含になることを指している、とわたくしは考えます」

たしかに涅槃界といえば通常はニルヴァーナの境地、つまり阿羅漢を指します。しかし、上根

の成仏法・七科三十七道品を完全に体得し、成仏力を体得したわたくしから見れば、三善根(三福道)だけで涅槃に到達して完全に成仏できる、というのはどう考えても理解できませんでした。 どうしても納得がいかなかったのです。

すでに上巻で解説したように、「雑阿含経応説経」(以下「応説経」)には、

「彼の比丘は終に漏尽解説を得ること使わず。所以は何ん。修習せざるが故なり。何等をか修習せざる。調ゆる念処・正動・如意足・根・力・覚・道を修習せざるなり(あの僧侶たちはついに漏尽解を得ることはできません。それはなぜでしょうか? 修行していないからです。なにを移行していないのでしょうか?それは、いわゆる四念処法・四正動法四如意足法・五根法・五力法,七覺支法。

八正道を移行していないからです)」

と、はっきりと示されていました(上巻・六四一八四真参照)。この念処・正動・如意足・根・

力・覚・道(四念処法・四正動法,四如意足法・五根法・五力法・七覺支法・八正道)が七科三十七道品です。

ですから「三供養品」の記述は、「応説経』の内容と明らかに相反しています。これでは道品法の否定になります。

三善根(三福道)はたしかに尊い修行です。しかし、七科三十七道品と比べれば非常にやさしい修行です。これで成仏できるならば、七科三十七道品など最初から不要です。

「これはいったいどういうことか?」 めつぜんそう考えて、わたくしは非常に悩みました。そして、ふと、経文に「涅槃界」とあることに気づきました。それで他の「阿含経」を調べてみると、「『増一阿含経火滅品』には次のように説かれていたのです。

「起にごを製材り。武館が二となすや。有余涅槃界と無余涅槃界なり。彼云何が名けて有余涅槃界と為すや。髪において比丘、五下分岩を滅して即ち般涅槃して此の世に還来せず。これを名けて有余涅槃界となすなり。彼云何が名けて無余涅槃界となすや。是の如く比丘、有漏を尽くし、無漏を成じ、意解脱智慧解脱、自身に作証して自ら遊戯し、生死已に尽き、梵行已に立ち、 所作已に弁じて更に有を受けず、実の如く是を知る。是を無余涅槃界と為すと言うなり(ここに二つの涅槃界があります。なにをもって二とするのでしょうか? それは有余涅槃界と無余涅槃界です。 有余涅槃界とはどういうものでしょうか? 仏道修行者が五下分結を滅ぼして般涅槃を得て、この世には

もう戻らなくなる。これを有余涅槃界と名づけます。では、無余涅槃界とはどういうものでしょうか?

仏道修行者がすべてを断じ尽くし、煩悩がまったく漏れ出ない状態となり、意解智慧解説を自ら成

就して、輪組における生死は尽き、梵行はすでに修め、なすべきことはすべてなし終わって、二度と生まれ変わることがなくなったことを自ら自覚する、それを無余涅槃界というのです)」

これまで講義を受けてきた諸君はすぐに分かるでしょうが、有余涅槃界とは五下分結を滅ぼしてこの世に二度と戻らない境地ですから、これは阿那合を指すわけです。そして、無余涅槃界とは完全に解説した状態ですから、これは阿羅漢の境地です。

要するに、『三供養品』で説いている涅槃界とは、無余涅槃界(阿羅漢)のことではなく、有余涅槃界(阿那含)のことであり、同経では「自須陀洹至阿那含。断五下分結」という意味であることを略しているわけです。そう考えれば、『三供養品』と『応説経』の内容は互いに矛盾しません。つまり、三善根(三福道)で到達できるのは阿那含までで、阿羅漢になるには七科三十七遺品の実践が必要不可欠なのです。

のです。 七科三十七道品は非常に高度の修行法ですから、だれもがすぐに行えるものではありません。 これをストレートに修行できるのは機根(才能・素質)のすぐれた人のみです。けれども、これを実践すれば十結のすべてを断ち切って、阿羅漢になることができます。それでこれを上根(上品)の成仏法というわけです。一方、三善根(三福道)は正しい三宝のもとで功徳を植える修行ですから、七科三十七道品に比べれば容易に実践できます。けれども、これによって切れるのは五下分結までです。須陀祖から阿那含にまでは到達できるけれども、阿羅漢にはなれません。ですから、三善根(三福道)は根根がすぐれていない人の成仏法、つまり下根(下品)の成仏法な

そこでわたくしは意味を通ずるために、阿含宗の信徒諸君には、

「自須陀祖至阿那含,断五下分結。三福道即至涅槃界」

と読踊させているわけです。

人は因縁の操り人形

以前にも講義しましたが(上巻・「出家」一六一一一六九頁参照)、念のためにここでもう一度、

五下分結と聖者の階梯について復習しましょう。

お釈迦さまは、凡夫が成仏するには四つの段階を経る、とされております。ところが大乗仏教

では、凡夫が成仏するまでの過程がはっきりしていません。ただ、

「このお経を一生懸命に信心すると、成仏するぞ」

または、

「この仏さまに一生懸命にご供養を捧げれば、必ず成仏するぞ」

と教えるのみです。

「それでは凡夫が成仏するには、どういう過程(段階)を踏むのですか?」

と訊いてもはっきりしません。たしかに「菩薩の五十二位」や「菩薩の下地」どいう修行段階を良いてはいるものの、どのような修行をすればその境界に到達するのか、という最も大切なことが説かれていません。具体的なことはまったく示されず、ただ、ただ

「成仏するんだ」

 

「成仏するんだ」

というだけです。しかし、凡夫がいきなり、なんの前ぶれもなく成仏するということは考えられません。「阿含経」を見るかぎり、お釈迦さまは、そのようなあいまいなことはおっしゃっていません。凡夫が解脱して成仏するまでの段階をはっきりと示されております。それは四段階になっていますので、これを四沙門果といいます。

沙門とは出家修行者のことで、サンスクリット語ではシュラマナといいます。シュラマナが漢字に音写されて沙門となっただけですから、沙門という文字自体には意味がありません。沙門とは基本的に出家修行者のことですが、ここでは出家・在家と区別をせずに、単に仏道修行者と考えればよいでしょう。

四沙門果の最初の段階は須陀祖です。次が斯陀含で、三番目が阿那含です。そして最後は阿羅 (仏陀)で、これが成仏の状態です。お釈迦さまは修行によって、阿羅漢になられました。わたくしたちも阿羅漢になる(成仏する)ことが究極の目標ですが、一足跳びに阿羅漢に到達することは、お釈迦さまのような有他のお方でないかぎり極めて困難ですから、わたくしたち凡夫は、 まず須陀祖になることをめざして一生懸命に修行しなければなりません。

それでは、どのようにすれば四沙門果が得られるのでしょうか?

因縁のもとになっている十個の煩悩を切っていくことによって、四沙門果は得られます。この因縁のもとになっている煩悩を結と呼びます。人の運命をがんじがらめに結んで、自由に動けなくしてしまうところからその名があります。煩悩は人をぐるぐる巻きに結んでしまうのです。結は十個ありますから、総称して十結といいます。

わたくしは常々、

「人は因縁の塗り人形である」

と表現しております。人は自分の意志で動いているつもりでも、現実には、いつの間にか因縁

の糸に操られているのです。

「操り人形なんて古いですね。今はマリオネットと呼ぶんですよ」

といわれたことがありますが、

「人は因縁のマリオネットである」

ではどうもピンときません。やはり「因縁の操り人形」といった方が、みなさんも理解しやす

いでしょうし、わたくしも自分の気持ちをスパッと表現できます。

仏とは因縁の「ほどけた」人

人は因縁の糸に結ばれています。中途挫折の糸に結ばれている人は、どれほどの努力を重ねても、結局は中途で挫折してしまいます。横変死の糸に結ばれている人は、どれほど気をつけていでも、必ず横変死をしなければならない状況に追いやられます。必死に抵抗しても、必ずそうなってしまいます。むしろ、もがけばもがくほど、よけいに因縁に操られてしまうことがあります。 そこに因縁の恐ろしさがあるわけです。

 

なのです。 人は因に結ばれて生きているわけですが、その結び目をほどいた人が「ほどけた人」、つまり「ほとけ」です。自分を結ぶ因線の糸をほどいた人が仏なのです。自分をがんじがらめに縛っている糸がほどければ、自由自在になれます。運命に操られることなく、自分の思ったとおりの人生を歩むことができます。けれども因縁の糸に結ばれているかぎり、因縁に操られて生きていかなければなりません。自分の意志で動いているつもりでも、実際は因縁に突き動かされていま 「す。その因縁の糸をほどく宗教が仏教であり、ほどいてしまった人が「ほどけた人」、つまり仏

もちろんこれは、わたくしがだれにでも分かりやすいように説明している、いわば桐山説で、

仏の語源については、有名な学者の方々がすでに研究結果を発表されております。正直にいって 「ほとけ」の語源には諸説があり、これが絶対だと断言できるものはないようです。それらの脱の中で最も有力なものは、「ふと」「ふとか」という語に由来しているという説です。仏教はインドから中国、朝鮮半島を経由して、日本に伝来されたわけですが、中国ではサンスクリット語のブッダを漢字に音写して、仏陀・浮層・浮図と記しました。その浮屠・浮図を日本では「ふと」

「ふとか」と読むようになり、それらが転配して、仏陀を「ほとけ」とお呼びするようになった、 という説が有力です。

はせず、 言語学的には、おそらくそのとおりなのでしょう。しかし、わたくしはそういった難しい説明

「自分を縛っている因縁の糸をほどく宗教が仏教であり、ほどいた人が「ほどけた人」、つまり仏(ほとけ)なのだ」

身見

と説いております。いささか落語くさいですが、この方が分かりやすいでしょう。 さて十結の名前をすべて覚えていますか?

射則・・・・・食・無色査・・・無明でしたね。最初の五つ、つまり身見・疑惑・戒取・飲食・議患を五下分結といいます。対して、残りの色貪・無色貪・慢・ 神梅・無明を五上分結と呼びます。五下分結は低い煩悩であり、また比較的切りやすいのですが、 五上分結は高度の煩悩であって、これを断つには高度の技法が必要になります。したがってわたくしたち凡夫は、五下分結から切っていくわけです。

五下分結の中でも最初の三つ、身見・疑惑・戒取――これを三結といいます―――を断つことが、 仏道修行者としての最初の目標で、この三結を切った人が須陀洹です。

身見には二つの意味があります。第一の意は――これが身見の本来の意味ですが――、永遠不滅のアートマンが実在するという、誤った見解です。インドのバラモン教では、人を含めたあらゆるものにはアートマンという永遠不滅の実在があり、このアートマンが輪廻転生の本体であるとします。アートマンは、わたくしたちが霊魂と呼んでいるものに似ていると思うかもしれませんが、それとは根本的に違うもので、古代インドのバラモン教やその流れを汲むヒンドゥー教では、アートマンを万物の本体としています。バラモン教もヒンドゥー教も輪廻転生を教義の根本として、人は裏の尽きないかぎり、生死を繰り返し続けると考えます。人が次々と輪廻転生していくには、生まれ変わりの基本となるなにかがなければならないわけですが、バラモン教はそれ

として人は業の尽きたいかき症 生死を繰り返し続けるとまえますんか次々と輪追転生して。

いくには、生まれ変わりの基本となるなにかがなければならないわけですが、バラモン教はそれ

をアートマンであるとしたわけです。

コンペイトウというお菓子がありますが、昔はこれを割ってみると、中に小さな芥子粒が一つ入っていました。芥子粒を核として、コンペイトウはできあがっていたわけです。核になるものがなにもなかったならば、コンペイトウはできあがりません。よく熱した鍋の上で芥子粒をくるくる回しながら、砂糖を溶かして作った液を上からかけ流していく。そうすると芥子粒に砂糖が付着して固まり、一粒一粒がだんだん大きくなっていきます。何回も何回もその作業を繰り返し続けて、コンペイトウはできるわけです。あれほど小さなコンペイトウでも、核がなければできあがりません。テンプラだって種がなければできませんね。衣だけではテンプラになりませんから、小さくても核は必要です。

人も同じで、次の生を形成する種がなければなりません。そのようなもとがあるから、生まれ変われるわけです。バラモン教ではその輪廻転生の種として、衛生、不潔・常、恒不変のアートマンを想定しました。ですから当然、ヒンドゥー教でもアートマンを説きます。アートマンは常住不滅であり、常恒不変とされます。肉体は滅びても、アートマンは滅することもなければ、変化することもなく、そのまま残っていると考えられたわけです。

「すべてのものは因縁所生

しかし仏教では、すべては縁起であり、歌所生のものであるから、永遠不滅の実在などなく、 「あらゆる存在が業により生じ、業によって滅していくと考えるわけです。仏教も輪廻転生を現本教義の一つとしておりますが、アートマンが輪廻転生するとは考えません。アートマンは実在しない。これを中国では「超訳ではかぎ」と訳しました。アートマンを「我」と漢訳し、その「我」がないということで「無我」としたわけです。すべてが因縁により生じ、因縁によって続するのであるから、人は運命を変えることができるのです。それが仏教の基本的な立場であり、 パラモン教やヒンドゥー教と違う点です。

もしもアートマンが実在し、それが輪廻転生するのであるならば、人は運命を変えることも、 輪組から解脱することもできません。なぜならばアートマンは常住不滅・常恒不変なのですから、 消滅させることも変化させることも不可能だからです。アートマンなどは実在せず、すべてのものが因と縁によって生じ、また滅していくからこそ、人は生死輪廻から解脱することができるわけです。お釈迦さまはそのように縁起の真理を説かれました。

しみました。 さらにバラモン教やヒンドゥー教では輪廻転生を説くものの、そこからの脱出方法は、あまり明確には示しておりませんでした。そのために古代インドの人々は、非常に苦しんだのです。輪廻の中で生き続け、そこから脱出することがままならないわけですから、彼らは来世を案じて苦

「来世はよい境界に生まれたい

い」 あるいは、 「よい境界とはいかないまでも、悪態に堕ちたり動物や虫に生まれて悲惨な一生を送りたくな

と考えました。

ごつきバラモン教やヒンドゥー教も業報思想を持っておりますから、現世で悪業を積んだならば、来世は悲惨なものに生まれて苦しむぞと説きます。犬に生まれてくるかもしれないし、豚に生まれてソーセージにされてしまうかもしれない。またはゴキブリに生まれて、叩き殺されるかもしれません。来世はなにに生まれるか分からないのですから、一分一秒たりとも気が抜けないのです。 これは古代インドの人たちにとって、すさまじいブレッシャーになりました。現代のヒンドゥー教徒も同じです。彼らは常に来世を考えて行動しています。現在よりも来世のことを考えて、 戦々恐々としているのです。そして、来世で苦しみの生を撃けないように、神々を拝み、供物を捧げています。古代インドでも現代のインドでも同じです。これでは生きた心地がしないだろう、 とわたくしは思います。

ところがお釈迦さまが、アートマン思想が蔓延している古代インドに出現されて、

「すべては因縁所生であって、アートマンなどという常住不滅・常恒不変の実在などはない」 と縁起の法を説かれ、さらには輪組から完全に解説する方法・成仏法を説かれたものですから。 当時の人々は、みな、びっくりしたわけです。

けれども、お釈迦さまのおっしゃることをよく聞いてみると、なるほどと納得できます。お釈

迦さまの教法によって、当時のインドの人々の心からプレッシャーがなくなりました。これが、 お釈迦さまの教法がもたらした、第一の救いでした。日本人の、それも現代人のわたくしたちにはなかなか理解できませんが、彼らには最高の福音だったのです。

すべてが縁によって起こる。縁によって生じ、緑によって滅するのであって、常住不滅・常恒不変のものはなにもない。これは、すばらしい真理です。昔、日本のある名僧が、縁起の法を歌に詠まれました。

「引き寄せて結べば髪の彫がな 解くれば元の野原なりけり」

じつに分かりやすい名歌ですね。野原に小屋のような庵が一軒あります。それはいろいろな木材や料・乗を、縛ったり組んだりして造られているけれども、それらをばらばらにしてしまったら、もとのなにもない野原に戻ってしまう。板きれ、茅、柴が転がっているだけの、ただの野原です。それらの材料を集めて、家の形にしたならば庵になるけれども、ばらばらにしてしまったら、もう確ではありません。材料が縁によって集まり、仮合して庵になっているだけですから、 それは常恒不変ではありません。存在はしているけれども、実在ではありません。これを仏教では「空」と呼びます。

人も柴の確も同じです。わたくしも縁によって桐山靖雄という人間になっているだけで、桐山靖雄としての縁がなくなったならば、違う存在になってしまいます。まさに空です。縁起ということは、すべてのものが条件によって変化し続けることでもありますから、古い訳では縁起の法を変易の法としております。変易とは変化するという意味です。

お釈迦さまは、「一切は空であって(一切都空)、アートマンはない(無)」と説かれまし

 

た、緑によって生じ、緑によって滅するのだから、常住不滅・常恒不変の自我が実在すると考えるのは間違いなのです。

ところがそれでも、アートマンが実在すると信じている人がたくさんおります。縁起の法が分からない、あるいは理解しようとしないという煩悩が身見なのです。前述のようにアートマンは 「我」と漢訳されますので、身見は別名を我見といいます。

身見のもう一つの意味は、常住不滅・常恒不変の実在がないということが理解できないために

ないから、 生じる、自己中心的な考え方です。凡夫は永遠不滅の自我があると考えるために、自分に執着し、 「自分のもの」に執着します。これを仏教では我秘どいいます。この世に「自分のもの」などありはしません。今、自分が所有していたとしても、それは自分のところに来る縁がたまたま存在したから、仮に自分のところにあるだけで、永遠に自分の手もとにあるわけではありません。縁がなくなればだれかの手に渡ったり、壊れてなくなったりします。しかし、縁起の道理が分から

「自分のものなのに!」

と執着するのです。これも身見です。

仏道修行者は、永遠不滅の自我が実在しているという安軸ど、なんでも自分中心に考える我執を断ち切らなければならないのです。

この場合の疑惑とは、ただ物事を疑って信じないということではありません。仏さまの正しい

「教えを疑い悪って、なかなか信じないという意味での疑惑です。お釈迦さまの正法に疑いを持つ煩悩、これが疑惑です。

戒取

戒取とは、お釈迦さまの正しい教え以外の宗教、あるいは倫理・道徳・哲学などを信じて、お釈迦さまの真実の教法を信じようとしない煩悩です。

十三結断じた第一の聖者

以上の身見・疑惑・戒取の三つを完全に切った人が須陀洹です。須陀洹は別名を預流といいます。流れに預かる(入る)と書くわけですが、どのような流れに入るのでしょうか?

これは聖者の流れに入るという意味です。須陀洹になった人は聖者で、須陀洹になっていない人は凡夫です。それで須陀洹を聖俗の分かれ目とします。須陀洹になると二度と聖者の流れから堕ちることはなく、必ず成仏に向かいますので、これを「不退転の法を成ずる」というのです。 もちろん同じ須陀洹でも、須陀洹になってからの修行の具合によって、成仏までの時間は異なります。一生懸命に修行をするならば早く成仏しますし、怠けていたならば時間がかかります。 けれどもいずれにしても、必ず最後には成仏します。 わから

「阿含経」には、須陀洹は人間界と天上界を七度往来して成仏する、と記されております。須陀顔がこの世を去ると、天上界に生じて天になります。仏教の天とは、「運を天に任せる」の「天」 のようなとらえどころのないものではなく、サンスクリット語の「デーヴァ」を訳したもので、 神の境界のことです。仏界と人間界との間に、天上界という神々の世界があるわけです。天は仏のように完全な解脱は得ていません。しかし、人間よりは解脱に近づいている存在です。

一般に、天は一神通を持つとされます。○○天という名前でお祀りされているのはみな天上界の神々で、成仏はしていないものの一つの神通を身に備えておられます。たとえばだ黒天、弁天、堂駅天などがそうです。韋駄天は韋駄天走りという言葉があるように、駿足の神さまです。 あっという間に二、三百キロメートルくらい走ってしまいます。ですからマラソン選手などは、 韋駄天を信仰するとよいかもしれません。弁才天というのは芸能の神です。芸能面に関する、すばらしい神通力を持っておられます。

須陀洹は寿命が尽きると天になり、一神通を使って人を救います。そのように、天上界においても修行するのです。天での寿命が尽きると、須陀洹は人間界に戻ってきて、ここでも世のためになるようなことをします。それで人間界での寿命が尽きたならば、再び天界に行くわけです。 合計で七回往来するとされています。

須陀洹となって天上界へ行った人がこの世に帰ってきた場合 天上界では天として一神通を持っていたわけですから普通の人が持たないような、すばらしい力を必ず発揮します。ひょっとすると大天才といわれる人物は、天から戻ってきた人なのかもしれません。モーツァルト (一七五六一一七九一)などは、三歳のころから神童といわれ、五歳で作曲を手がけたそうです。

 

モーツァルトの神童ぶりを表わす数々の逸話がありますが、彼はまさしく天才と呼ぶにふさわしい人物でしょう。もしかするとモーツァルトは、音楽の天から人間界に戻ってきた人かもしれません。

人間を向上させる反省

三結を断じて須陀道になった人が、その後も修行に精進して欲査と職表も減じたならば斯陀含になります。さて、それでは欲食・職患とは、どのような煩悩でしょうか?

敢査とは本能的な欲の貪りです。低級な欲望です。人間として生まれたからには、だれもが本能的な欲を持っています。たとえば睡眠欲がそうですね。眠らなければ人間は死んでしまうわけですから、睡眠欲は本能的に備わっております。また、食欲も同じです。食欲がまったくなくなると、人は生きていけない。それから性欲も本能的な欲です。この三大欲は人間が持っている業であり、三大欲がまったくなくなると、個人および人間社会は存続していけません。だからといって、三大欲が過度になり、貪るようになると、困ったことがいろいろと生じます。したがって、 自分の持っている本能の歌を正常なものにして、過度にならないように絶えずコントロールして

 

 

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