不動明王 ― 断惑譚
― 動かぬ炎、迷いを断つ剣 ―
山の奥深く、かつて修験者たちが修行した岩窟があった。
昼なお暗く、風も音を失うその場所で、青年・真輝は一人、座していた。
準蹄観音の覚醒を目の当たりにした後も、
彼の心は、なお揺れていた。
「慈悲を学んでも、迷いは消えない……
怒りも、恐れも、欲も、なお私の中にある。」
その言葉を、岩が反射した。
炎の尊影
そのとき、岩窟の奥に、赤黒い炎が揺らめいた。
火は、燃え広がらない。
しかし、消えもしない。
その炎の中から、
一尊の姿が、ゆっくりと現れた。
不動明王――
右手に倶利伽羅剣、
左手に羂索。
牙をむき、怒りの相を持ちながら、
その眼は、深い慈悲を宿していた。
「なぜ、怒りを恐れる。」
声は雷のようでありながら、
底には、揺るぎない静けさがあった。
迷いの正体
真輝は、思わず目を伏せた。
「私は、人を傷つけてしまう怒りが怖いのです。
だから、怒りを消そうとしてきました。」
不動明王は、剣を
怒りを“誰かに向けること”が、煩悩なのだ。」
「怒りは、目覚めたとき、
迷いを断つ智慧の刃となる。」
炎が、真輝の周囲を包んだ。
しかし、熱くはなかった。
それは、焼く炎ではなく、照らす炎であった。
断惑の剣
突然、真輝の前に、無数の影が現れた。
怒りに任せて発した言葉。
恐れから逃げた選択。
欲望に支配された過去。
それらは、まるで生き物のように、
彼に絡みつこうとしてきた。
「これが、私の迷い……」
不動明王は言った。
「剣を取れ。」
真輝は、倶利伽羅剣を手にした。
剣は重く、熱く、しかし不思議と、
彼の手に馴染んでいた。
「断つとは、消すことではない。
見抜いて、手放すことだ。」
真輝は、影の一つに剣を振るった。
その瞬間、影は裂け、
消えるのではなく、光へと変わった。
怒りは、勇気へ。
恐れは、慎重さへ。
欲は、志へ。
すべてが、別の姿へと転じていった。
動かぬ心
やがて、影はすべて消え、
岩窟には、再び静寂が戻った。
不動明王は、微動だにせず、炎の中に立っていた。
「私が“動かぬ”とは、
何も感じぬことではない。」
「すべてを感じながら、
迷いに引きずられぬ心である。」
その言葉は、剣よりも深く、
真輝の胸を貫いた。
仏眼仏母の視線
そのとき、岩窟の奥に、
仏眼仏母の微笑が、再び浮かび上がった。
「見る眼が開かれたとき、
断つ力は、自然に現れる。」
不動明王は、深く頷いた。
「慈悲が、眼を開くなら、
私の怒りは、道を塞ぐものを断つ。」
二尊の間に、静かな共鳴が走った。
結び
岩窟を出ると、
夜空には、満月が浮かんでいた。
真輝は、胸の奥が、以前よりも静かであることに気づいた。
怒りは消えていなかった。
だが、怒りは、彼を動かす炎ではなく、
彼を照らす灯火となっていた。
遠くで、風の中に、
不動明王の声が響いた。
「迷いを断つ者は、
人を裁くのではなく、
人の内なる闇を照らす者であれ。」




