倶利伽羅剣 ― 目覚め ―
夜の雨が、都会のアスファルトを叩いていた。
信号の赤が、水たまりに歪んで映り、まるで血のように揺れている。
青年は、廃寺の裏手に立っていた。
取り壊し予定のその寺は、もう誰も参らなくなって久しい。
だが、彼にはわかっていた――
ここに、何かが眠っている。
境内の奥、倒れかけた堂の床下に、錆びた鉄箱があった。
こじ開けると、中には一本の剣が収められていた。
柄は黒く焼け、鞘は割れ、刀身は赤黒く濁っている。
しかし、その剣には、異様な気配が宿っていた。
――動くな。
声が、青年の内側に直接響いた。
「……誰だ?」
――名は、倶利伽羅。
その瞬間、剣身に亀裂のような光が走り、
炎の形をした龍の影が浮かび上がった。
その夜、青年は逃げるように寺を出た。
だが、剣は彼の手を離れなかった。
鞘に戻しても、袋に包んでも、捨てても――
翌朝には、必ず枕元にあった。
やがて、彼の周囲に奇妙な出来事が起こり始める。
怒りに満ちた人間の言葉が、刃のように胸を刺す。
暴力が連鎖し、街の空気が濁り、
人々の心に「壊したい」という衝動が広がっていく。
そのたび、剣が微かに震えた。
――煩悩が、溢れている。
「……だから、何だっていうんだ。」
――斬れ。
青年の手が、思わず震えた。
「人を斬れっていうのか?」
――違う。
斬るのは、人ではない。
人を縛るものだ。
数日後、青年は、かつての親友と再会した。
その友は、成功と裏切りと憎悪の渦に巻き込まれ、
他人を踏み台にしてのし上がり、
今では暴力団の金庫番として闇に沈んでいた。
再会は、罵倒と脅迫で終わった。
「お前みたいな奴はな、
どんな正義面しても、結局は弱いままだ。」
その言葉が、青年の心を深く刺した。
怒りが湧き、憎しみが燃え、
胸の奥で、何かが壊れそうになった。
その瞬間――
剣が、熱を帯びた。
――今だ。
青年は、初めて剣を抜いた。
鞘から離れた瞬間、
刀身は炎に包まれ、龍が剣に巻きつくように現れた。
それは、ただの幻ではなかった。
現実が、剣の形に引き裂かれた。
剣は、友の胸に向かって振り下ろされた――
ように見えた。
だが、刃は肉を斬らなかった。
代わりに、
友の背後にまとわりついていた黒い影――
怨嗟、嫉妬、恐怖、執着、支配欲――
それらが、炎の龍に噛み砕かれ、焼き尽くされた。
友は、その場に崩れ落ち、泣いた。
子どものように、声を上げて泣いた。
「……苦しかった。
ずっと、誰かに勝たなきゃ、
誰かを踏まなきゃ、生きていけないと思ってた……」
青年の手は、震えていた。
だが、剣は静かだった。
――それが、救いだ。
その夜、夢の中で、青年は炎の海に立っていた。
炎の中央に、ひとりの存在がいた。
低く、力強く、動かぬ姿。
天地眼の怒りの相。
剣と羂索を手にした、童子の姿。
――不動明王。
「……あなたが、この剣の主ですか。」
――主ではない。
我は、この剣そのものだ。
不動明王は、ゆっくりと青年を見下ろした。
――倶利伽羅とは、
怒りが智慧へと転じた姿。
破壊が、再生へと転じた形。
お前の心が、怒りに飲まれるなら、
この剣は、ただの凶器に戻る。
だが――
怒りを、慈悲へと変えられるなら、
この剣は、仏の手となる。
「……俺に、そんな資格があるんですか。」
――資格は、覚悟だ。
不動明王の声は、雷のように響いた。
――逃げるな。
――壊れるな。
――立て。
――斬れ。
――救え。
その言葉とともに、炎が青年の胸に流れ込んだ。
目覚めると、剣は静かに、枕元に置かれていた。
だが、もう以前とは違った。
刀身は澄み、赤黒い濁りは消え、
炎の龍は、剣の中で眠るように息づいている。
青年は、剣を手に取った。
「……倶利伽羅。」
――我は、お前の怒り。
――だが、お前の慈悲でもある。
それが、この剣の最初の言葉であり、
彼の修行の始まりだった。
その日から、青年は街を歩く。
剣を振るうためではない。
心を斬るために。
壊すためではない。
生かすために。
炎は、まだ燃えている。
だがそれは、滅びの火ではない。
それは――
目覚めの火だった。




