『一切事経』を、令和の都市を舞台にした仏教小説風に翻案します。
🌆都市の中の静かな灯 ――マハナーマの問い――
その夜、東京の片隅にある小さな寺は、雨上がりの街灯に照らされていた。
コンクリートとネオンの隙間に残されたその場所は、まるで時間から取り残されたように、静かだった。
マハナーマは、仕事帰りのスーツのまま、境内の石畳を踏みしめていた。
スマホをポケットにしまい、深く息を吸ってから、本堂の前に立った。
そこには、年老いた僧がひとり、ほうきを持って立っていた。
だが、その眼差しは、年齢を超えた深さを湛えていた。
「……住職。」
僧は、ゆっくりと顔を上げた。
「どうしたのですか、マハナーマさん。」
マハナーマは一礼し、言葉を探すように、しばし沈黙した後、口を開いた。
「毎日、仕事に追われ、家庭を持ち、社会の中で生きています。
それでも……仏の道を歩んでいると言えるのでしょうか。」
住職は、ほうきを立てかけ、静かに答えた。
「家庭を持ち、社会で働きながらも、
仏と教えと僧のつながりを信じて生きようとする人。
その人こそが、現代の“優婆塞”なのですよ。」
マハナーマは、胸の奥に、わずかな安心が灯るのを感じた。
「では……在家の身で、仏の道を本当に生きるとは、どういうことなのでしょうか。」
住職は、境内の奥に見える高層ビルの灯りを見つめながら語り始めた。
「まず、信じる心だけでは足りません。
行いが伴ってこそ、信は現実の力になります。
正直に働き、他人を傷つけず、
自分の行動に責任を持つこと――それが“戒”です。
けれど、正しく生きるだけでも、まだ足りません。
分け合う心――時間、言葉、思いやり、そして必要ならお金――
それが“布施”です。」
マハナーマは、日々の忙しさの中で忘れがちなことを思い出すように、ゆっくり頷いた。
「信と戒と布施があっても、
教えを学ばなければ、方向を見失います。
だから、こうして寺に来るのです。
本を読み、話を聴き、静かに心を整えるために。」
住職は続けた。
「しかし、ただ聴くだけでは足りません。
心を込めて聴き、
それを覚え、
意味を考え、
日々の選択の中で生かしてこそ、
教えは“生きた智慧”になります。」
マハナーマは、スマホの通知音に心を奪われていた日々を思い出し、苦笑した。
「……なるほど。」
少し間を置いて、彼はもう一つの疑問を口にした。
「でも、住職……
自分の心は少し落ち着いてきましたが、
周りの人は相変わらず苦しんでいます。
自分だけが救われるような生き方で、いいのでしょうか。」
住職は、ほうきを手に取り、落ち葉を掃きながら、静かに答えた。
「それは、自分の心は整えられても、
他人の心に寄り添えない人の姿です。
自分だけは正しく生きているが、
誰かを正しい道へ支えることができない。
自分だけは学んでいるが、
誰かの迷いに光を手渡すことができない。
それは、“自分は安らぐが、他を安らがせられない”生き方です。」
マハナーマは、胸の奥が少し痛んだ。
「……では、自分も、周りの人も、共に安らぐ生き方とは、どんなものでしょうか。」
住職は、ゆっくりと掃く手を止め、まっすぐに彼を見た。
「それは――
自分が信じるだけでなく、
誰かの信を育てる生き方。
自分が正しく生きるだけでなく、
誰かが正しく生きるのを支える生き方。
自分が与えるだけでなく、
人にも与える喜びを教える生き方。
自分が学ぶだけでなく、
人にも学びの場を開く生き方。
自分が実践するだけでなく、
人を実践へ導く生き方です。」
夜風が、境内の木々を揺らした。
「そのような人のもとには、
職業も立場も違う人々が、自然と集まってきます。
その人の存在そのものが、
朝も、昼も、夜も、変わらず人を照らす灯となるからです。
そのような在家の仏弟子は、
この時代にあっても、決して多くはありません。」
マハナーマは、しばらく黙って空を見上げた。
ビルの谷間に、かすかに星が見えていた。
「……住職。」
「はい。」
「僕は、まだ何も成し遂げていません。
でも……今日から、少しずつ、生き方を変えていこうと思います。」
住職は微笑んだ。
「それで十分です。
仏の道は、完成ではなく、歩み続けることそのものなのですから。」
マハナーマは深く一礼し、夜の街へと戻っていった。
だが、その背中には、
ネオンにも負けない、静かな光が宿り始めていた。




