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千年に一人出る天才 

千年に一人出る天才

 

「――ふうん」
康安は、相槌とも独り言ともつかぬ声を落とした。
「行によって、いっさいの対象に向かう感覚を制御し、心を完全に止滅する。その止滅した心に、ありありと仏を映し出したなら……人は、そのまま仏になってしまうのではないか」
「うん、うん。覚えているよ」
康円は、身を乗り出すようにして続けた。
「あのときは、康融さんに“理屈にすぎぬ”と一笑に付されました。でも、今日の講義を聞いた瞬間、直感したのです。――弥勒の降臨説法とは、奢摩他・毘鉢舎那の行による現身成仏の顕れなのではないか、と」
康安は黙って聞いている。
「説法の主は、もちろん無着です。無着は、自分がいくら説いても大衆が信じないことを知っていた。だから、新菩薩が降臨して説法される、と告げて人々を集めた。そして自ら、奢摩他・毘鉢舎那の行によって――弥勒に“なった”のです」
「つまり、変身した、と言いたいわけだな」
「そうです」
康円は即座にうなずいた。
「しかし、それでは結局、弥勒三昧と同じではないか、という反論があるでしょう。ですが、違います。まるで違う」
康円の声に、熱がこもった。
「弥勒三昧の説法であれば、経文はああ書かれない。一座の大衆ことごとく、弥勒菩薩を拝して説法を聴聞した、と記されるはずです。しかし、実際の記述はこうです。
――ある者は、光り輝く弥勒菩薩の姿を見たが、声は聞こえなかった。
――ある者は、声だけを聞き、姿は見えなかった。
――ある者は、何も見ず、何も聞かなかった」
康円は、ひと息置いた。
「これは、体験の“ばらつき”を、あまりに正直に書いている。つまり、誰もが同じ三昧に入ったのではない。そのものが、出現したのです」
「つまり……」
康安が、確かめるように言った。
「無着が、弥勒として現れた、と?」
「そうです」
一瞬の沈黙。
「では無着は、法力で大衆を惑わせ、自説の権威づけをしたのではないか?」
康円は、首を横に振った。
「違います。あれほどの人が、そのようなことをする必要はありません。あれは権威づけではない。立証です」
康円の目が、鋭く光った。
「彼は、自分が弥勒に現身成仏できるほどの法力を身につけ、その瑜伽の技法がこの論書の中に記されている――そのことを、後世に“知ってほしかった”のです。
だから、あえて明言せず、行として示した。これは理論ではない、実践であり、実現可能なのだ、と」
「もし、それを最初から言っていたら?」
「似非学者たちに、常識で切り刻まれて抹殺されたでしょう。彼はそれを見通していた。だから、あの形を選び、有眼の士を待ったのだと思います。正しく理解する者を」
康安は、じっと康円を見つめている。
「だから私は思うのです。この『瑜伽師地論』の中には、無着が実際にやってみせた――現身成仏の瑜伽の法が、必ず書かれている」
「露骨には書いていないかもしれませんが、わかる者にはわかる形で。だから今まで、誰も気づかなかった。――われわれは、それを読み解かねばならない」
「ふうん……」
「さらに言えば、求聞持法も、ここに原形があるはずです」
「なぜそう思う?」
「無着は、弥勒から“日光三昧”を授かり、記憶力が飛躍的に高まったと伝えられています。求聞持法もまた、明星を拝して修する行。日輪と明星――天体と光。そこに共通の鍵がある」
康安は、深くうなり――
「……おどろいた」
と、突然大声をあげた。
康円は飛び上がった。
「な、なんです!」
「今日という今日は、ほんとうにおどろいた」
康安は声を落とし、ぐっと顔を近づけた。
「おぬしと、まったく同じことを言った男が、もう一人いる」
「……え?」
「弥勒の現身説法も、求聞持法の原形も、奢摩他・毘鉢舎那による速疾成仏論も――寸分違わずだ」
「その人は……?」
「入唐している。名は――空海」
康円の目が、大きく見開かれた。
「空海……?」
「おれより三つ下だ。だが、おれはその男に師事している」
「最澄師と比べて、どうなのですか」
康安は、しばし考え、
「最澄が五百年に一人の天才だとすれば……空海は、千年に一人だ」
康円は、息をのんだ。
――むなしく往いて、満ちて帰る。
時代は、すでに動き始めていた。

 

海の向こうの名

空海の名は、最初、誰も大声では口にしなかった。
それは評判というより、微妙な違和感として広がった。
ある講義のあと、「あれ?」と誰かが首をかしげる。
論は正しい。引用も間違っていない。だが、どこか足りない。
――説明は尽くされているのに、息が通っていない。
「唐で、不思議な僧がいるらしい」
そんな噂が、比叡の裾野から、奈良の寺々へと、ゆっくり滲んでいった。
誰も見たことはない。
だが、否定の仕方が、先に変わり始めた。
「そんなことはありえない」
そう言おうとした者が、途中で言葉を失う。
なぜありえないのか、その理由が、どこかで崩れてしまうのだ。
康円は、日ごとに奇妙な感覚を覚えるようになっていた。
経を読む。
論を読む。
すると、これまで当然だと思っていた「読み方」が、
ふと、古くなった衣のように感じられる瞬間がある。
――誰かが、別の読み方をしている。
そんな確信だけが、理由もなく胸に残る。
「空海という僧を知っているか」
ある日、康円は、まったく別の寺の学僧からそう問われた。
その声は、探るようであり、確かめるようでもあった。
「いや……直接には」
「そうか。だが不思議だ。かの名を聞くと、
“自分が遅れているのではないか”という気がしてくる」
康円は、その言葉に、返す言葉を持たなかった。
それは、競争の遅れではない。
理解の遅れでもない。
立っている場所そのものが、ずれている感覚だった。
康安も、同じだった。
彼は、弟子たちの議論を聞きながら、
ときおり、理由もなく目を閉じる。
「……まだだ」
誰にともなく、そう呟く。
空海が語ったという言葉が、
康安の胸の奥で、反芻され続けていた。
――仏は、来るのではない。
――行が熟したところに、現れる。
「ならば、今は……」
康安は、ゆっくりと息を吐いた。
「この国そのものが、行を始めたのかもしれん」
その頃、都では、奇妙な変化が起きていた。
若い僧が、護摩の作法を問い直し始めた。
真言の意味を、「解釈」ではなく「働き」として語る者が現れた。
経の一字一句を暗誦していた学僧が、ある日ふいに言った。
「……覚えているのに、足りない」
何が足りないのか、本人にもわからない。
だが、その欠如は、確かに感じられていた。
空海は、いない。
だが、空白が、拡大している。
人々は、知らぬうちに、
「まだ来ていない誰か」を前提に、思考し始めていた。
――かれが帰ってきたら、どうなるのか。
――かれが語ったら、何が崩れるのか。
そして、誰もが同時に、こうも思っていた。
――もはや、帰国の瞬間が“始まり”ではない。
すでに、何かは始まっている。
海の向こうで、
一人の僧が沈黙のうちに積み上げている行が、
見えない潮となって、この国の思考の岸を洗っていた。
名だけが、先に来た。
姿は、まだない。
だが、仏法の空気は、
確実に、別の呼吸を始めていた。
――むなしく往いて、満ちて帰る。
空海が帰るとき、
人々は初めて知るだろう。
「自分たちは、すでに迎えに出ていた」のだと。

そして――静かな帰国

空海が帰ってきた日、
都は、何ひとつ変わらなかった。
太陽はいつもと同じ高さにあり、
市の声も、寺の鐘も、
前日と寸分違わぬ調子で鳴っていた。
それゆえに――
誰も、その日を特別だとは思わなかった。
入唐の僧が帰国する。
それ自体は、珍しいことではない。
船が着き、名が届けられ、関所を越える。
その一連の手続きは、淡々と進んだ。
ただ、奇妙なことが一つだけあった。
――噂が、追いつかなかった。
名は、すでに知れ渡っていた。
だが、姿が、その名と重ならない。
「……あれが、空海か?」
港で、誰かがそう囁いた。
そこにいたのは、
異相でもなく、威容でもなく、
あまりに普通の、一人の僧だった。
背は高くも低くもなく、
眼差しは鋭いが、前に出ない。
歩みは静かで、周囲を見渡すこともない。
ただ、足音だけが、妙に記憶に残った。
康安が、最初に彼と再会したのは、
寺でも、朝廷でもなかった。
夕暮れの、まだ灯が入らぬ回廊である。
「……お帰りなさい」
そう言ったつもりだった。
だが、声は、思ったより低く、
どこか、問いの形をしていた。
空海は、立ち止まり、
ゆっくりと頭を下げた。
「ただいま戻りました」
それだけだった。
抱擁も、感慨も、
再会を祝う言葉もない。
だが、その場にいた康安は、
自分が“迎えた”のではないことを悟った。
――もう、来ていたのだ。
「唐では……」
言いかけて、康安は口をつぐんだ。
何を聞いても、
言葉にした瞬間、軽くなる気がした。
空海は、何も促さない。
だが、その沈黙は、拒絶ではなかった。
「すぐに、語られますか」
康安は、そう尋ねた。
空海は、ほんのわずか、首を振った。
「語るべき場が、まだ整っていません」
「……場?」
「ええ。人ではありません。
理解でもありません。
呼吸です」
康安は、その言葉に、身動きが取れなくなった。
翌日、
空海は、どこにも現れなかった。
講義もせず、
説法もせず、
誰かを集めることもない。
ただ、寺の一隅で、
淡々と行を続けている――
そう聞くだけだった。
だが、変化は、即座に起きた。
空海が何かを語った、という話はない。
しかし、
「昨日まで、理解できていた論が、今日は浅く感じる」
「同じ真言なのに、音が違って聞こえる」
「説明しようとすると、嘘になる気がする」
そんな言葉が、
あちこちで、同時にこぼれ始めた。
康円は、まだ空海を見ていなかった。
それでも、確信していた。
――もう、逃げ場はない。
この人が現れた以上、
仏法は、再び「わからない場所」へ引き戻される。
だが同時に、
行けば必ず触れる場所へも。
夜、康安は独り、灯の下で思った。
英雄ではない。
救世主でもない。
この男は――
仏法が、自分で歩いてきた姿なのだと。
――むなしく往いて、満ちて帰る。
その言葉の意味を、
誰もが、これから思い知ることになる。
静かな帰国だった。
だがそれは、
嵐の前ではなく、
世界がすでに別の位相へ移ったあとの、静けさだった。

それは、説法ではなかった。
誰かが空海に語らせようとしたわけでもない。
問いを投げた者もいなかった。
ただ、偶然が、重なっただけだ。
夕刻。
寺の庫裏の一角で、数人の僧が低い声で論を交わしていた。
議題は、例の弥勒の現身説法。
いつものように、結論は出ない。
「結局、あれは譬喩なのか」
「いや、象徴だろう」
「現実に起きたと読むのは、無理がある」
言葉は、慎重で、無難だった。
誰も間違ったことは言っていない。
だが、誰も前に進んでもいない。
空海は、そこにいた。
端に座り、黙って湯を冷ましていた。
議論に加わる気配はなく、
視線も、特定の誰にも向けていない。
康安は、後になって思い返す。
――あのとき、すでに“行”は臨界に達していたのだ、と。
「……つまり」
若い僧が、言葉を探しながら続けた。
「実在したかどうかはともかく、
我々にとって大事なのは“教義的整合性”で――」
その瞬間だった。
空海の手が、止まった。
ほんのわずか。
だが、誰かが気づいた。
理由はわからない。ただ、空気が締まった。
空海は、顔を上げなかったまま、言った。
「――起きた、という前提で行じてください」
それだけだった。
説明もない。
補足もない。
声は低く、強くもない。
だが、その場にいた者の、
思考の足場が、音もなく崩れた。
「……前提、で?」
誰かが、思わず聞き返した。
空海は、もう一度だけ、言った。
「起きた、として行じる。
それ以外の扱い方は、行ではありません」
沈黙。
康安は、胸の奥が、ひどく静かになるのを感じた。
――反論できない。
なぜなら、これは主張ではない。
選択の提示だった。
起きたと“信じよ”とは言っていない。
起きたと“解釈せよ”とも言っていない。
ただ、
「起きたという前提で、行じてみよ」
と言っただけだ。
だが、それは――
学問の世界から、行の世界へ踏み出す一線だった。
誰かが、笑ってごまかそうとした。
「……それでは、歴史の検証が――」
空海は、初めて顔を上げた。
視線は穏やかだった。
だが、逃げ場がなかった。
「歴史は、あとから整います」
一言。
それ以上、何も言わなかった。
空海は、立ち上がり、
湯を捨て、
そのまま場を離れた。
残された者たちは、
しばらく、誰も動けなかった。
議論は、続けられたはずだった。
だが、続ける理由が、消えていた。
康安は、悟った。
――この一言で、すでに始まってしまった。
これから誰かが修行に入るたび、
誰かが行に詰まるたび、
誰かが「本当に起きたのか」と問うたび、
必ず、この言葉が立ち上がる。
起きたという前提で、行じてみよ。
それは命令ではない。
しかし、最も残酷な招待だった。
逃げる自由はある。
だが、進めば、もう戻れない。
――むなしく往いて、満ちて帰る。
その言葉が、
この国で、初めて“実践の重さ”を帯びた瞬間だった。
空海は、一言だけ、発してしまった。
そして仏法は、
再び、安全でない場所へ戻った。

 

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