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たけは絶対に尸

の何たるかを教えてあげて、悪い因縁を切るための信仰へ道を問いてた道はこれしかないと思った。

信仰の系譜

じゅんていその当時のわたくしの信仰というと、準胝観音をご本尊とする観音信仰であった。

なぜ、この信仰をもつにいたったかといえば、仕事に大失敗した時、わたくしは、自殺

を決意したことがあった。

道楽したり、怠けたりしたわけではないのに、トラブルが重なり、大きな負債を背負ってしまった。債権者に連日責められる羽目となった。

そこで、二、三日、自分の行く末をじっくり考えてみたいと思い、父が戦争中に拵えて

いた、田圃の中の工場跡へバッグ一つ提げて出かけていった。

二、三日考えているうちに、もう生きているのが面倒になり、いっそ死んでしまえ、と

いう心境に陥ってしまった。いわば、死神がついたということであろう。

死神がつくということがどういうことなのか、この時わたくしははじめてわかったよう

こしら

・逆境に生きる

な気がした。だんだん視野が狭くなってきて、目の前が暗くなる。そのうちに、目の前十センチくらいしか見えなくなってしまって、死ぬこと以外は何も考えなくなってしまう。

どうやって問題を解決するか、などというようなことには、もう頭が回らないというか、 考える気力もなくなって、死ぬしかないという気分に陥り、あとは、どうやって死のうかと、そればかりを考えるようになる。そうなると、もう死ぬ方法も鉄道自殺など面倒になり、とにかく手近にあるもので、パッと死にたくなる。

そんな状態になっているうちに、明け方になり、いよいよ首を吊ろうという気になった。 そして、寝ころがったまま、あの梁あたりに縄をかけて、などと考えながら天井を見上げていたところ、棚が目につき、その棚から何か小さなものがちょいとはみ出しているのが見えた。ふと好奇心がわいて、「あれ、何んだろうな」と思って、ひょいと立ってみた。 これが転機となって、死神がはなれたのであろう。このことがなかったら、わたくしは確実に首を吊っていたと思う。それまでは、思考が完全に停止し、死んだ後、誰が困るかとか、そういった死ぬこと以外の、ほかのことは何んにも考えなくなっていた。

とにかく、立ち上がってそこに見たのは真新しい小さな経巻であった。幅二、三センチ、 長さ五、六センチ、厚み一センチ弱、の小さなものであった。

この工場を引き払って、もう三年にもなるのに、どうしてこの棚に経巻が置き去りになっていたのかと、いぶかしく思いながら、ふと父から以前聞いたある話を思い出した。 父の取引先に中村語郎さんという方がおられた。父は陸軍から引き取った払下げ品の一

を製紙原料として、この中村さんの会社に

そ引先に中村臨郎さんという方がおられた。父は陸軍から引き取った払下げ品の一

部を製紙原料として、この中村さんの会社に納めていた。

中村さんは製紙原料問題としては当時日本一といわれた人であったが、遺棄もだいぶしたらしく、若い頃から苦労がたえず、一時は「おけらの語郎」とさえいわれた人であった。 そのどん底の時に、前途に希望を失った中村さんは「いっそ死んでしまおう」と、冬の木枯しが吹き荒ぶ時季に、洗い晒しの浴衣一枚を着て、近くの川へ出かけた。橋の上から身投げしようとしたところ、いまや飛び込もうとした寸前に、通りかかった人に、「お待ち

なさい」と呼びとめられ、

「あなたは死ぬつもりでしょう」

といわれた。

「いや、死ぬつもりじゃない」

「クソをいいなさい」

「いやあ、実はお察しの通りです。しかし、お情けだから黙ってこのまま死なせて下さい」

といった押し問答の末、

「とにかく、わたくしのところへまずいらっしゃい。それから死んでも遅くないでしょう」

と、その場はひとまずその人の勧めにしたがい、立派な家に連れてゆかれた。ご飯を食

べさせてもらいながら、事情を話したところ、その人は、

「実は、わたくしもその昔、自殺しようと思ったことがあった。その時、やはりある人に 「呼び止められて、『あなたは神仏に対する正しい理解がないから、そういうことになるの

・逆境に生きる

です』と諭され、少しのお金とともにお経をくれた。それで自分も死ぬのを止め、信仰をもって一生懸命に働いた結果、こうしていっぱしの商売人になった」 と、自分の過去を、中村さんに話して聞かせた。

それ以来、その人は、自分を救ってくれた人への恩返しのつもりで、その時手渡されたものと同じ経巻をたくさんつくって、多くの人に布施しているということであった。

この話を聞かされた中村さんは、大いに勇気づけられ、その経巻と、とりあえず飢えをしのげる程度のお金をいただいて、その人の家を去った。その後、一生懸命に働いて、ついには、日本一といわれる製紙原料問屋を築いたというのである。

そして、その中村さんもまた、助けてくれた人と同じ道を歩みたいと、一生に何十万卷かの観音経を布施することを念願された。

ある時、中村さんは父に向かって、

「あなたは何百人もの人を使って陸軍の大きな機械相手の仕事をされているが、非常に危険な仕事でしょうから、一つこれをお守り代わりにみなさんに差し上げてください」

いたのである。 ということで、この観音経を父に一千巻布施してくださったとのことである。先に述べた通り、父は、自分の入れた臨時人夫を指揮して二十四時間作業の機械相手の仕事をして

父は特に信仰というものはなかったが、尊敬している人格者の中村さんのお話であったから、素直にありがたくいただき、全員に配った。それが少し余っていたと思われる。不

素直にありがたくいただき、全員に配った。それが少し余っていたと思われる。不

なことに、その一巻が偶然棚にころがっていたわけである。どう考えてもそんなとこあるわけはないのだが、事実あったのである。いまでも不思議に思っている。

このお経には考えてみると、一つの系譜というものがある。この経巻の布施によって、 「村さん、中村さんを助けた人、そしてまたその人を救った人等々、みな自殺を思いとどしらせている。いままた、自殺寸前のわたくしがこれを手にした。これは本当にただ事で 「はない。これは自分を救おうという何か大きな目に見えない意志が働いているのではないか、この意志に従うべきではないか、その時そう思った。

その利馬、パーッと考えが変わった。ちょうど太陽が昇る瞬間に、間に光が射すかのように、あるいは夜が朝に変わるかのように、心が生き生きと晴れやかになっていった。 「死ぬのをやめよう」「生きよう」と、わたくしは自分自身に誓った。そして、この観音経によって、わたくしが本当に救われたならば、中村語郎さんと同様に、わたくしもこのお緑を布施しようと決心した。

ちょうどその時、山の向こうに朝日が昇ろうとしていた。わたくしは、その太陽に向かって合掌した。そして、声を出して誓ったのである。「どうか私に再起の力をあたえて下さい。もしも、このお経の中に書いてある通り、私が救われたならば、私は生涯にこのお経を百万布施いたします」と。

83

宗教への立ち

のである。 その後、三年間、わたくしは死にもの狂いで働き、当時の借金は全部返済してしまった

・逆境に生きる

そこで、このお経の功徳が大変なものであることがわかったので、どのようにして、それを多くの人びとに布施するかということを考えた。要するに、この時考えたことは、うんと儲けてお寺に寄付するとか、この観音経をもとにして何かのグループを結成し、自分がスポンサーになって、有能な有徳の士に中心になってもらい、その功徳を広めようとい

は夢にも思っていなかった。

うことであった。 観音経に感謝し、誓願も立てていたが、まさか自分自身が宗教家になろうとは、その頃

いま、阿含宗の信徒に授けている勤行式は、その経巻をそのまま拠したものである。

観音慈恵会の設立

そうした諸々の経緯を経て、生麦に出てきたわけであるが、その前後から、完全に治っていたと思っていた身体がまた悪くなり、要注意の状態になったが、行で死ぬなら本望だという気持もあって、どんどん荒行を実行した。

一方、運命学のほうは、アマチュアではあったが、相当勉強もし、多くの人たちの運命を実際に見るという経験も積んだ。したがってすごく当たると、一部ではかなり評判になっていたので、ちょっと宣伝でもすれば、昔の友人や仕事の関係者などいくらでも集まっしきたと思う。しかし、そういう生き方、やり方では、過去の因縁を切ることにはならな

一歩であると思った。過去の引っかかりで収入を得たり、飯を食っていたのでは過去の業は消えぬと思ったのだ。

このような次第で、わたくしは、生まれ変わったつもりで、自分自身が救われた観音経にもとづき、準胝観世音菩薩をご本尊として、観音慈恵会をはじめた次第である。

それまでにわたくしは、仏教の本格的な勉強をしたことがない。だから、自分自身でも坊主になったつもりもなければ、宗教家になったつもりもなく、一介の求道者として歩みはじめたのである。この求道生活によって、一人でも多くの人が救われることが、わたくし自身の罪障消滅になり、因縁解脱につながるのだ、という固い信念があった。

わたくしは、自分の力で、人を救うなどという大それた気持をもったことは一度もない。 自分が救われ、中村語郎さんが救われ、そのまた前の人が救われたという、この救われる一つの系譜というか、その救いの流れの中に、人を入れてあげることによって、人を救うことができるのではないか、あるいはその救いの流れに入るきっかけをつくってあげるだけでも、わたくしの役割を果たすことができるのではないか、それで、人が救われるとしたら、その功徳がわたくしにきて、因縁が一つ一つ切れていくであろう。そう思って、昭和二十九年の秋口に観音慈恵会をはじめたわけである。

・宗教への旅立ち

きっかけが、観音の慈しみと恵みであったから、会の名称を観音慈恵会とし、至極簡単に名前をつけたわけである。それまで使っていた名刺をひっくり返して、その裏にペンで、

・逆境に生きる

「観音慈恵会」と書いて、表札がわりに入口に貼っておいた。

こうして、桐山靖雄という一求道者が、どれだけのことができるか、やれるところまでやってみよう、ということで観音慈恵会が船出していったわけである。

その当時は、二、三年もしたら罪障が消滅し、因縁も切れるであろうから、そうしたら、 自分は念願のもの書きの道に進もうと、多少安直に考えていたところもあったが、悪い因縁を切るということはそんな安易なものではなかった。そういうわけで、懸命な求道生活をつづけているうちに、いつのまにか今日まで来てしまったということである。

法名桐山靖雄の由来

桐山靖雄という法名を名乗りはじめたのもこの時であった。桐山というのは、わたくしの母の実家の性である。

そもそも、桐山という家系は、横変死の因縁があった。

わたくしの叔父、つまり母の弟で、母方の嗣子である長男が、トラックの下敷になって死んだ。この叔父は、一時、真言宗をかじったこともあり、ある程度の信仰をもち、一旦は坊主になることすら考えた人ではあったが、結局、因縁のなせるわざか、坊主になるどころか、交通事故に遭って、あえなく亡くなってしまった。

それから、母のいちばん下の末、

 

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