智慧と記憶 ― 文殊と虚空蔵のあいだ
夜と夜のあいだ。
星がまだ名前を持たなかったころ、虚空は深く息をしていた。
無限の闇ではない。
満ちきった空(そら)――
そこに、ひとりの菩薩が坐していた。
虚空蔵。
その胸には、数えきれぬ記憶が眠っている。
人の祈り、忘れられた誓い、
成仏できなかった願いさえも。
彼はすべてを拒まない。
記憶は、ただ預けられ、抱かれる。
そこへ、獅子の足音が重なった。
若き童子の姿をした文殊が、静かに現れる。
剣は抜かれていない。
経巻も閉じられたままだ。
二尊は言葉を交わさない。
必要がないからだ。
やがて、虚空蔵が問う。
「なぜ、人は苦しむと思う?」
その声は、空間そのものの揺らぎだった。
文殊は即答しない。
剣に手をかけることもない。
「覚えすぎるからだ」
静かに、しかし断定的に答える。
「傷も、後悔も、他人の言葉も。
本来、手放すべきものまで抱え込み、
自分が何者かを見失う」
虚空蔵は微笑む。
それは否定ではない。
「だが、忘れすぎても、人は迷う。
どこから来たのか
何を願ったのか
なぜ生きているのか」
彼の掌に、無数の光が浮かぶ。
それは記憶。
だが、過去ではない。
「記憶とは、縁だ。
人と人、心と心を結び直すための糸」
文殊は一歩、前に出る。
「だから、剣が要る」
剣先が、空を指す。
「切るためではない。
選ぶためだ。
思い出すべき縁と、
終わらせるべき執着を」
一瞬、虚空が静止する。
やがて、虚空蔵は深くうなずいた。
「記憶は、無限であるがゆえに、
智慧を持たねば人を溺れさせる」
文殊もまた、頷く。
「智慧は、鋭すぎれば孤独になる。
記憶という慈悲がなければ、
人は冷たい正しさに傷つく」
二尊のあいだに、光が生まれる。
それは剣でも経典でもない。
思い出すという行為そのもの。
虚空蔵が告げる。
「成仏とは、忘れることではない」
文殊が応える。
「思い出しすぎないことでもない」
二つの声が、ひとつに重なる。
「いま必要な真実だけを、
いまここで思い出すこと」
その瞬間、
名もなき人間の胸に、小さな気づきが灯る。
それは悟りではない。
救済でもない。
ただ、次の一歩を踏み出せるだけの
――十分な智慧と、十分な記憶。
獅子は振り返り、
虚空蔵は再び沈黙に戻る。
空は、すでに満ちていた。




