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静寂へ降る光 — 得至涅槃界

静寂へ降る光 — 得至涅槃界

夜明け前の山は、まだ世界に“色”を持っていなかった。
墨の中にかすかな青が滲み、風も音を忘れたように止まっている。
青年・真輝は、一本の杉に背を預け、ゆっくりと息を吐いた。

呼吸は冷たく澄み、胸の奥は重い岩のように固まっていた。
その岩こそ、彼がずっと抱えてきた“恐れ”だった。

「また失敗するんじゃないか……」
「人を傷つけるんじゃないか……」
「自分は役に立てないんじゃないか……」

声には出さない。
この山ではもう、言葉に頼る必要はなかった。

真輝は目を閉じ、唇をかすかに動かした。

「オン……サンマヤ……」

真言は風がない空気に静かに吸い込まれ、
山の懐の奥へ溶けていった。

今日、これで三時間目の瞑想になる。
膝は痛み、背は強張り、呼吸は何度も浅く乱れた。
それでも真輝は座り続けた。
逃げてもいい理由は山ほどあったが、逃げない理由はただ一つだった。

もう、自分の“恐れ”に押し潰される人生には戻らない。

その決意だけが、彼をここまで連れてきた。

◆ 静まっていく世界

呼吸をひとつ、深く吸う。
吸った息が肩へ、胸へ、腹へと流れていく。

吐く。
細く、長く、すべてを空へ返すように。

吸う。
吐く。

繰り返すうちに、
「呼吸しているのは自分ではない」
という奇妙な感覚が生まれてきた。

呼吸が勝手に調う。
身体が自然に最適のリズムを選び、
真輝の意志はその背景へと退いていく。

静寂が、杉林の奥から滲み出してきた。

耳には何も届かない。
風の音も、鳥の声も、血流のざわめきさえ消え去った。

ただ、呼吸だけがあった。

しかしその呼吸も、
もはや“自分”と呼べるものではなかった。

◆ 黒い点 ― 苦の核

ふっと、胸の中央に小さな痛みが走った。

それは痛みというより、
何かが触れたような微かな感触だった。

ずっと見たくなかったもの。
ずっと蓋をしてきたもの。

真輝は、その正体を知っていた。

恐れの核
失敗への怯え。
責められることへの恐怖。
自分を無価値だと断じる、冷たい影。

その黒い点は、
長い年月をかけて心の奥で凝縮され、
もう自分でも触れられないほど硬く、冷たくなっていた。

真輝の喉がひとりでに鳴る。
この核に触れれば、精神が崩れる。
そう思い込んでいた。

だが、その瞬間──

山の静寂が、
その黒い点を“観よ”と促すように、
ふわりと寄り添ってきた。

逃げる必要はなかった。

真輝は、震える心を抱いたまま、
そっと意識をその黒い点へ向けた。

◆ 溶けていく

黒い点が、かすかに震えた。

胸の奥で固まっていた岩が、
昼の雪のように溶けはじめた。

痛みも、熱も、圧迫もない。
ただ、
心の芯に走っていた一本の“緊張の線”が、
ゆるゆると弛んでいく。

呼吸が、勝手に深くなる。

光が差したのでも、声が聞こえたのでもない。
ただ、

苦そのものが、自分と切り離されていく感覚。

何十年も握りしめていた拳を、
ようやく開いたような軽さ。

胸が広くなる。
腹が温かくなる。
頭の奥の雑音が、次々と消えていく。

真輝は気づいた。

これまで自分を苦しめていたのは、
恐れという“事実”ではなく、

恐れを守ろうとしていた、自分のこわばりだった と。

そのこわばりが、
今まさに溶けていく。

◆ 得至涅槃界

音が戻ったわけでもない。
光景が変わったわけでもない。

ただ、
世界が静かだった。

静かすぎて、
静寂そのものが光を持っているように感じられた。

真輝の心には、
怒りも、不安も、焦りも、
未来への恐れも、
過去への後悔も、
いまはどこにもなかった。

そして理解した。

苦がないのではない。
苦を生み出す“装置”が停止しているのだ。

その瞬間、
真輝は確かに“そこ”に到達していた。

得至涅槃界。

仏典の難しい言葉ではなく、
確かな、身体を通した体験として。

世界が透明で、
呼吸が澄み、
心が、どこまでも静かだった。

◆ 山が色づく

やがて、
東の空がうっすらと紅を差し始めた。

杉林に光が落ち、
影が長く伸びる。

真輝はゆっくりと目を開けた。
目に映る世界は、いつもと同じ。
それなのに、すべてが違って見えた。

山は山のまま。
風は風のまま。
世界はそのままなのに――

“苦を生む心”だけが、もうどこにもなかった。

真輝は小さく息を吸い、吐いた。
胸に残るのは、ただ静けさだけだった。

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