小説風「四苦八苦 ― 人は苦の塊」
雨上がりの寺の庭は、まだしっとりと濡れていた。
本堂の奥、薄暗い灯明の前で、青年・遼(りょう)は膝をつき、老僧の話に耳を傾けていた。
「遼よ、人は苦の塊なのだと、誰かが言ったことがある。」
老僧は目を細め、灯の揺らぎを見つめながら語りはじめた。
「四苦――生・老・病・死。これが人間が最初に背負って生まれてくる苦だ。」
◆生の苦
「生まれることは喜びだと思うかもしれん。しかし、生きていくということは、常に揺らぎと不安の中に身を置くことだ。楽しい時があったとしても、それは次の苦しみを連れてくる。」
青年は、ふと自分の胸の奥に重い石が落ちるのを感じた。
確かに、喜びはいつも “失われる恐れ” と背中合わせだった。
◆老の苦
老僧は微笑んだ。
「わしもな、朝に顔を洗うたび鏡を見る。すると、『ああ、我、老いたり』と心がつぶやく。若い頃は当たり前にできたことが、ある日ふとできなくなる。これが老いの苦だ。」
皺の刻まれたその横顔は、不思議と穏やかだった。
◆病の苦
「どんなに気をつけていても病気はやってくる。病は人を謙虚にするが……それでも、苦しいことには変わらぬ。」
◆死の苦
僧は静かに息を吐いた。
「そして死。悟りきった者でなければ、死は寂しさを伴う。愛する者を残していく辛さ、未知の世界へ踏み込む恐れ――これは誰も逃れられん。」
遼は、亡くなった祖母の最期の顔を思い出した。
その微笑の裏に潜んでいた、言い尽くせぬ切なさ。
「では、四苦だけか?」
老僧は首を振った。
「さらに四つ、愛別離苦・怨憎会苦・求不得苦・五陰盛苦がある。これで八苦だ。」
◆愛別離苦 ― 愛するものとの別れ
「どんなに愛し合う夫婦も、親子も、友も、必ず別れが来る。死に別れ、生き別れ……いずれも避けることはできん。」
青年は、かつて深く愛した人の背中を思い出し、胸が熱くなった。
「そして愛する対象は、人だけとは限らん。金や地位を愛する者もおる。しかし、それらとも必ず別れの日が来る。どれほど叫んでも抗えん。」
◆怨憎会苦 ― 嫌な相手と会い続ける苦しみ
「憎んでいる相手に、会わねばならぬことがある。夫婦因縁、親子因縁、仕事の関係……嫌でも離れられん縁というものがある。」
老僧は小さく笑った。
「『毎度ありがとうございます』と笑いながら心の中で『こんちくしょう』と叫ぶ者もいる。それで血圧を上げて苦しむ……まったく人間とは滑稽なものよ。」
◆求不得苦 ― 求めて得られぬ苦
「人は生まれた瞬間から求め続ける。母の乳を求め、愛を求め、成功を求め……そして死の間際には一口の水を求める。」
「しかし、求めた百のうち、得られるのは一つほどだ。」
遼は、心のどこかでずっと求め続けてきた「何か」を思い、そっと拳を握った。
◆五陰盛苦 ― この身そのものが苦の器
「色・受・想・行・識。五陰と呼ばれるこの身の構造そのものが、苦を生む原因になる。身体も、感情も、思考も、意志も、認識も――すべてが執着と苦の種だ。」
老僧は両手を膝に置き、ゆっくりと目を閉じた。
「生きていることは確かにすばらしい。しかし、全体を見渡せば、この世は苦が多い。生きるとはすなわち苦である……これが、お釈迦さまが見抜かれた真理だ。」
遼は深く息を吸った。
苦の話を聞くはずが、不思議と胸が軽くなっている。
苦しみは逃れようのないもの――けれど、それを知ることで、初めて人は一歩を踏み出せる。
雨の匂いが、庭に広がっていた。




