―――これは、ある冬の朝の出来事である。
道場の空気は張りつめ、寒さの奥にかすかな香木の匂いが漂っていた。天井から吊るされた法輪の影が灯明に揺れる。その静けさの中で、師はゆっくりと立ち上がった。
青年・湧真は自然と息をのみ、姿勢を正した。
「――諸君。」
師の声は大声ではなかった。しかし、一言一言が深い井戸に落ちる石のように、心の底に響いた。
「『五成品・四』『有無品・三』『有無品・五』……いずれも短い経である。だが、その短さの奥には、仏弟子としての根本が説かれている」
湧真の胸の奥で、なにかがゆっくりと軋んだ。
最近の彼は祈りの多くを――心願成就、成功、癒し――そうした“欲”に向けていた。
それがいけないとは教わらなかったが、どこか不安が残っていた。
師は続けた。
「お釈迦さまは言われた。――『此の衆中に於て我一法を見ず』と」
炎の弾む音だけが聞こえた。
「修行に励む者は多い。しかし……広施の行をしている者は、はたしてどれほどいるだろうか?」
湧真の手が膝の上で強く握りしめられた。
「諸君。お導きはしているか? 法を広めているか? 宝珠尊宝生行を人に勧めているか? 真言行を伝えているか?」
青年の胸に針が刺さるようだった。
――自分は、自分の願いばかり祈っていた。
師は少し歩み、祭壇の前で立ち止まった。
「広施の行とは、法を惜しまず、人に分け与える行である。それは布施の中でも最も尊い行であり、仏弟子としての証である」
静かに火が躍り、その炎が黄金の仏像を照らした。
「ただ願いを叫ぶだけでは、法の世界には生きられない。百年、千年勤行を続けても、法施なくしては法の喜びに触れることはできない」
青年の目の奥に熱いものが溢れた。
――自分は、受け取ることしかしていなかった。
与える喜びを知らないまま、仏の道を語ろうとしていたのだ。
師は、柔らかく、しかし確信をもって言い切った。
「やってごらんなさい。
広く法を施したとき――あなたは悟る。
ああ、自分は法の世界に生きているのだ、と。」
湧真の心に静かな灯がともる。
それは炎のようにゆらめきながら、しかし確かに――
誰にも奪えない光として燃えはじめていた。
その日、青年は合掌したまま決意した。
願うだけの修行者では終わらない。
与える者として生きよう――法の世界に、歩み入るために。




