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仏舎利の灯 ― 奇蹟の刻(小説風)

 

仏舎利の灯 ― 奇蹟の刻(小説風)

風が止み、山の伽藍には深い静寂が満ちていた。
灯明の火がかすかに揺れ、香炉から立ちのぼる薄い煙は、まるで天へと戻る魂のように細く伸びてゆく。

青年――名を湧真(ゆうしん)という――は、仏舎利の前にひざまずき、掌を合わせた。
沈黙は長く、しかしその沈黙は空虚ではなかった。むしろ、言葉では測れない力が満ちていた。

師僧が静かに語りかける。

「湧真、神変という言葉を知っておるか。」

青年は首を横に振る。師僧は灯明を見つめたまま、淡く微笑んだ。

「神変とはな、人の常識では測れぬ力のことだ。
人が努力しても到達できぬほどの智慧、慈悲、そしてはかり知れぬ働き。
仏の救いの働きそのものといってよい。」

師僧の声は風のない空気の中で、不思議と奥行きを持って響いた。

「たとえば――夫婦が互いを思い、言葉なくとも心が通うときがある。
家族がまごころで相手を思えば、争いは起きぬ。
人と人が真心で向き合うとき、言葉よりはやく心が触れ合うのだ。
それもまた、ひとつの神変である。」

湧真はゆっくりと頷いた。
ふと、自分の胸の奥にまだ言葉にならぬ理解が宿るのを感じた。

「仏を拝むときも同じだ。
ただ形だけの礼では届かぬ。
心から拝むとき、仏の心と我が心は重なり始める。
密教ではこれを――“入我我入”、そして“即身成仏”と説く。」

師僧は湧真の背後に回り、そっと姿勢を正す。

「湧真よ。礼拝とは、ただ頭を下げることではない。
礼とは礼式に従い、拝とはまごころをもって祈ること。
型の中に信があるとき――仏は応じてくださる。
これを 感応道交 という。」

灯明が一瞬、風もないのに揺れた。湧真の心臓がわずかに震える。

師僧の声はさらに低く、深くなる。

「仏の力は妙なるものだ。
言葉では説明できぬ。
経典ではそれを“妙法”、すなわち“神変”と呼ぶ。」

少しの沈黙ののち、師僧は問う。

「では湧真。仏の功徳を得るにはどうすればよい?」

青年はしばらく考えたが、答えられなかった。

師は優しく告げた。

「――礼拝と供養だ。
その二つ以外にない。」

湧真は息をのみ、仏舎利に視線を戻した。

「供養とはな、仏に何かを差し出すことだ。
金でもよい、時間でもよい。
自分にできる精一杯を捧げるのだ。」

師僧は畳の上に置かれた小さな花を指さした。

「たとえ雑草の花であろうと、心を込めて捧げられたなら、それは供養となる。
しかし――なにも捧げず、ただ功徳や利益だけを求める心は、仏の前では空しい。」

湧真は胸の奥に痛みのような熱を感じた。
自分は、ただ救われたいと願うばかりで、何ひとつ捧げていなかったのだと気づく。

師僧は静かに結んだ。

「湧真。
仏と心が通じるとき、そこから道が交わる。
その交わりを通して――人は変わる。
それはまさしく奇蹟、神変の働きだ。」

湧真は深く息を吸い、掌を合わせ直す。
今度の礼は、先ほどのものとは違う。
形ではなく――心からのものだった。

灯明が再び揺れ、まるで応じるように光を放つ。

その瞬間、湧真は確かに感じた。

仏の心が、自分の心へ歩み寄ったことを。

仏舎利の灯 ― 心の変容と奇蹟体験

その夜、湧真は山門のそばにある小さな僧房へ戻った。
月は高く、空気は澄み、虫の声すら遠くに引いている。
まるで世界の音がすべて、息を止めて彼の変化を見守っているようだった。

湧真は畳に座り、再び掌を合わせた。
だが今度は修行としてではなく――心が自然にそう求めていた。

(仏と通じるとは、こういうことなのだろうか。)

胸の奥に、ほんのり灯がともるような温かさがあった。
その温かさは呼吸に合わせて広がり、体の中心へ溜まっていく。

やがて、ふと心に声が生まれた。

――捧げよ。
――惜しみなく。

湧真は目を閉じた。
その声は外から来たのではない。
自分の心の深い場所――今まで触れたことのない静寂の源から湧き上がっていた。

「捧げる……私が……?」

問いかけると、返事はなかった。
だが言葉以上の確信が胸に落ちた。

湧真は翌朝、本堂へ向かった。
白い息が空に溶けてゆく。

仏舎利の前に立つと、彼は懐から大切にしまってきた数珠を取り出した。
それは修行を始める前、亡き母が手渡してくれたものだった。

母の優しい声がよみがえる。

――「苦しいときも、この珠を握って祈りなさい。
祈りは、必ず誰かに届くから。」

湧真の手が震えた。
ずっと手放せないと思っていた。
だが今は違う。

手放すことが、返すことになる。
返すことで、繋がるものがある。

彼はゆっくりと数珠を供え、深く礼をした。

その瞬間――

空気が静かに震えた。

灯明の火が伸び、糸のような光となって彼の胸の中央へ吸い込まれた。

息が止まる。
怖さはない。
むしろ懐かしい――帰る場所を思い出したような、深い安堵があった。

ふと、湧真は気づく。

自分の心が、消えていく。

怒りも、寂しさも、不安も、
今まで自分の一部だと思っていたすべてが、
静かに、海へ溶ける墨のように淡く消えてゆく。

代わりに――

満ちるものがあった。

それは言葉では言い表せない。
慈しみ、光、包容、沈黙。
そして――涙があふれた。

湧真は声にならぬ声で呟いた。

「……あぁ……あなたは、本当に……」

仏像は動かない。
言葉もない。
だが湧真は確かに感じていた。

――応じてくださった。
心と心が触れたのだと。

しばらくすると光は静かに収まり、灯明はふたたび穏やかに揺らぎ始めた。

湧真は涙を拭うことなく、静かに座り続けた。
師僧が背後から見守っていたことにも、気づいていなかった。

師はそっと言葉を落とす。

「湧真。
それが――感応道交の始まりだ。
仏と心が交われば、人は必ず変わる。
その変化こそ奇蹟であり、真の供養であり、修行の果だ。」

湧真はゆっくり頷き、ようやく声を出した。

「……私は……何ひとつ失わずに、
すべてを返せた気がします。」

師は微笑んだ。

「そうだ。
捧げることで、はじめて受け取れるものがある。
それは教えではなく――体験だ。」

仏舎利の前には、まだ灯が柔らかく揺れていた。
その光は湧真の胸に確かに宿り、消えずに燃え続けていた。

仏舎利の灯 ― 悟りの兆し

ある春の早朝、湧真は村はずれの竹林を歩いていた。
夜明け前の空は紫とも青ともつかぬ色をまとい、
世界はまだ眠りと目覚めの境目に漂っていた。

風はなく、竹の葉が触れ合う音さえしない。
ただ鳥が一羽、遠くで微かに鳴き、
その声さえも世界に吸い込まれるようだった。

湧真は足を止めた。
呼吸が自然に深くなり、体の内側がゆっくりと静まっていく。

心は波を打たず、何かを求めることも拒むこともしていなかった。

ただ――在る。

それだけだった。

湧真はゆっくりと目を閉じた。
その瞬間、意識は体の境界線を離れ、
まるで空気の中へ溶け出すようだった。

鳥の声が聞こえる。
しかしそれは耳で聴いているのではなかった。

川のせせらぎが遠くで響く。
だがそれは外側の音ではなかった。

すべての音、すべての気配、
すべての動きが――
自分の心と同じ場所で起きていた。

湧真の胸に、ひとつの気づきが浮かぶ。

「世界は私の外にあるのではない。
私が世界の外にあるのでもない。
ただ同じ一つの流れに宿っている。」

呼吸がふと消えた。
息をしているのか、していないのかもわからない。
しかし苦しくもなければ、不安もない。

その代わり――

圧倒的な静けさが胸に満ちた。

それは真冬の静寂とは違う。
すべてが凍って沈黙した静けさではない。

むしろ、

すべてが生き、響き、満ちている静けさ。

空間にも、風にも、音にも、
そして自分の存在そのものにも――距離がなかった。

その時ふと、竹林の奥で光が揺れた。
それは炎でも月光でもない。
目ではなく、心で見ている光だった。

光は言葉なきまま湧真に触れ、
優しい声のように消えていく。

湧真の内側で、ひとつの理解が芽生えた。

「悟りとは到達するものではない。
すでに在るものに気づくことだ。」

その瞬間――

竹林が風を受けて揺れた。
鳥が翼を広げ、淡い朝日が空を染める。

だが湧真はそれを外の景色として見てはいなかった。

すべてがひとつであり、
すべてが響き合い、
すべてが言葉にも形にもならぬ慈悲に満ちていた。

湧真の頬を温かな涙が伝う。

それは悲しみでも喜びでもない。
理由のない涙。

ただ、存在の深みから溢れた雫。

湧真は静かに掌を合わせた。

その姿は祈りではなく――
祈りそのものだった。

やがて世界が再び動き始める。
風が吹き、鳥が舞い、日が昇る。

湧真はゆっくり目を開いた。
その瞳は、恐れも迷いもなく、
ただ深い透明さを湛えていた。

そして湧真は静かに微笑んだ。

「私が変わったのではない。
世界の見え方が変わったのだ。」

そう呟いた声は、春の空へ溶けていった。

 

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