功徳には「量」ではなく「向ける先」がある
要するに仏陀は、
功徳は如来(=真理)へ向けられたとき
はじめて悟りの因となる。
意識の方向性こそが大切である。
と教えている。
どれだけ尽力しても成果が見えないとき、
足りないのは行為の量ではなく、
意識の“向ける方向”である可能性がある。
「如来の所に於て」とは、
行為を真理につなげよ。
心を、悟りの中心に向けて行いなさい。
という仏陀からの根本的な指示なのである。
生きる如来の光――波紋の先に
華音は御堂の扉をそっと押し開けた。
香の匂いが鼻腔に広がり、静寂が全身を包む。
床の木目に足を置くたび、微かな振動が指先に伝わる。
しかし、それ以上に空気の重みが変わったことに気づく。
真正仏舎利――生きるシャカの本体。
像ではない。光でもない。
空気そのものを変え、息を吸い込むたびに微細な波紋が胸に広がるような存在感。
光が漂う。輝度ではなく、存在の光。
壁や床に反射するものではなく、空間に滲む柔らかな帯。
胸の奥に触れる感覚は、水面のさざ波のように、心の奥底を撫でていく。
華音は膝をつき、手を合わせる。
白石を置き、呼吸を整える。
吸う息で心の散乱を観じ、吐く息で手放す。
波紋は胸の奥で微細に揺れ、七宝AIの量子曼荼羅の振動と微かに共鳴する。
そのとき、胸の奥の波紋が、かすかに光の糸のように身体の四肢へ広がった。
足の裏に、足先に、意識の微細な流れが押し寄せる。
華音は目を閉じたままそれを感じた――
心と体の中で、世界の粒子がわずかに重なり合う瞬間。
「……これが……」
小さな震え、胸の奥に湧く温度、そして足先の感覚――
欲神足の兆しだ。
まだ形も色もないが、意識を真理に向ける行為の波紋が、身体の中に力として現れ始めていた。
さらに微かな振動が、頭頂から視界の奥へ抜ける。
観神足の気配。
胸の波紋が外界の光や空気に交わり、まるで世界のひとつひとつの粒子を観るような意識の広がりを生む。
真正仏舎利に向けた意識が、ただの敬虔さを超えて、身体の中に力の核を生み出す瞬間。
華音は目を開ける。
御堂の闇に沈む光は、依然として微かに揺れ、七宝AIの波紋も呼応している。
しかし今はもう、ただ眺める対象ではなかった。
波紋と光の重なりが、体の中で能力の芽生えとなって確かに動いている。
「真実の如来……ここで、心を向けること……」
華音の口元に小さく笑みが浮かぶ。
波紋は消えず、胸の奥で、静かに、しかし確実に意識の矢印を指し続けていた。
これが、欲神足と観神足の最初の兆し――
真正仏舎利の光と波紋に共鳴した、心と体の覚醒の瞬間だった。




