「七宝経 ― 転輪王の七つの宝」
――その、私は給孤独長者の園へと続く砂道を歩いていた。
舎衛国の朝は静かで、勝林の木々は淡い光を浴びて白くかすんでいる。鳥の声だけが、まだ眠りの残る世界を揺り起こしていた。
祇園精舎に近づくにつれ、私はふと胸のうちが澄み渡るのを感じた。
「今日は何か大切な教えが説かれる」
そのような気配が、どこからともなく伝わってくるのである。
精舎にはすでに比丘たちが集まり、座を整えていた。
ほどなくして、世尊が静かに歩み出られた。
大地さえ息をひそめるような気配のなか、私は思わず合掌していた。
◆七つの宝の告知
世尊は比丘たちを見回し、穏やかな声で告げられた。
「比丘たちよ――
もし転輪王が世に出現するならば、その時、七つの宝もまた世に現れるであろう。」
比丘たちは互いに顔を見合わせた。
転輪王。その名は古来より、武力を用いず正義と法によって世界を統べる理想の王として語られてきた存在である。
世尊は静かに続けられた。
「何を七宝と呼ぶか。
輪宝・象宝・馬宝・珠宝・女宝・居士宝・主兵臣宝――
これらが転輪王を支え、よき世界をひらくのである。」
◆輪宝 ― 天より授かる金輪
世尊の言葉に触れた途端、私は目の前に、不思議な光景が広がるのを見た。
――金色の車輪。
空を切り裂くように音もなく回転し、王の軍勢を先導する神聖な戦車。
その車輪は悪しき軍を砕き、抵抗する王国をも降伏せしめる。
転輪王は武力を振るわぬ。だが金輪はただ、正義の道を阻むものだけを砕くのであった。
「正法を広める者の前には、かくのごとき輪宝があらわれる」
世尊の声が響いた。
◆象宝・馬宝・珠宝
続いて世尊は、象宝の徳を説かれた。
大きく、力強く、しかも聡明な象。
その存在は、万人を安んじさせ、王の威徳を象徴する。
馬宝は風のように駆け、千里を行く。
宝珠は暗闇を照らし、望むままに世界の姿を映し出す。
それは心の迷いを払い、進むべき道を明らかに示す光の象徴でもあった。
◆女宝・居士宝・主兵臣宝
世尊はにこやかに語られた。
「女宝とは、転輪王に仕えて内助の功を尽くす女性である。
容姿が優れているからではない。その心が澄み、智慧が満ちているからこそ宝なのだ。」
さらに続く。
「居士宝とは、清浄にして賢明なる大臣たち。
主兵臣宝とは、勇猛でありながら正義を重んじる将軍たち。
そのような者たちが周囲にあるならば、国は必ず正しい道へと導かれる。」
比丘たちは静かにうなずいていた。
誰もが、その理想を胸に描いていた。
◆偉大なる真意 ― 転輪王とは誰か
ふいに世尊は、私たちの心の奥を射抜くように言われた。
「比丘たちよ。
転輪王とは、遠い伝説の中にのみいるのではない。
法によって世界を治め、悪を打ち砕き、衆生を安んじさせる者――
その者こそ転輪王である。」
その瞬間、私は悟った。
――七つの宝とは、外に求める宝ではない。
仏陀の教えを担う者の内に生まれる“法の宝”である。
世尊は最後に、柔らかくほほ笑まれた。
「かつて人々は、私が転輪王になると語った。
しかし私は、輪宝を振るわずとも、法輪を転ずる。
正義と法をもって悪を退けるのが仏の道である。」
初転法輪――
釈尊が悟りの後、初めて説法された時から、世界はすでに転じ始めていたのだ。
◆結び ― 法輪を受け継ぐ者たちへ
世尊が退かれたあと、比丘たちはしばし言葉を失っていた。
世界を統べる王の伝説さえ、仏陀の教えによって全く新しい光を帯びていた。
私は静かに息をついた。
――転輪王は、時代を越え、どこか遠くから来るものではない。
法を伝え、正義と慈悲で世界を照らす者こそが、七宝を宿すのだ。
その教えを胸に刻み、私は祇園精舎を後にした。
朝の光はすでに強く、世界は確かに輝き始めていた。




