成仏法が説かれた二つのお経
阿含宗信徒が読誦する『仏舎利宝珠尊解脱宝生行聖典』(以下、『聖典』)には二つの「阿含経」 が載っています。一つは「貯金・経」(以下「応説経』。上巻・六三一八四頁)で、もう一つは今回講義する「一阿含経・三供養品』(以下『三供養品』)です。
でしょうか? わたくしはなぜ、数ある「阿含経」の中から、この二つのお経を選び出し、唱えさせているの
この二つのお経には成仏法、つまり成仏の方法が説かれているからです。
二千数百年前、お釈迦さまは弟子たちに、成仏する方法をお教えになられました。その成仏の
方法には大きく分けて二種類あります。
まず第一の成仏法は応説経に説かれる高度(上根・上品)の成仏法で、七科三十七道品を修
ません。 行して成仏する方法です。わたくしはこれを成仏のための七つのシステム、三十七種類のカリキュラムと呼んでおります。「応説経』についてはすでに講義をしましたので、ここでは繰り返し
第二の成仏法は、現在は徳薄く福少ない者であっても、これを修行することによって必ず大きな福神を身につけ、成仏に向かうことができるというだ概(下部)の成仏法、三割板です(この三善根を阿含宗では三福道と呼んでおりますが、その理由については後で詳しく説明いたします)。これは「三供養品」に説かれています。
お釈迫さまが説かれている成仏法は、この二つのお経に集約されます。すべての「阿含経」は、 最終的にはこの二つにまとめられるのです。お釈迦さまはこの二つの成仏法を時と場合、相手の能力に応じて、あらゆる角度からお説きになりました。したがって、このお経を読託する功徳は、
計りしれないものがあります。ですから、わたくしは阿含宗信徒に読誦させているのです。
運と成功
さて、わたくしが他の宗派に攻撃されながらも阿含宗を立宗し、本山を開いて総本殿の建立計画を着々と進めている時、懇意にしてくださっているある宗派の高僧から、
「桐山先生は運の強い方ですね。人も財物も、どんどん先生のところに集まってきますね。本当に運がお強い!」
といわれました。
「いやあ、悪運が強いんでしょうな」
わたくしは笑ってそのようにお答えしましたが、実際問題として、宗教教団でも、個人でも、 運が強くなければどうしようもないと思います。特に一般の企業人ならばなおさらでしょう。企葉でも、個人でも、あるいは宗教団体でも、運が弱くて、さらに運が悪かったら、どうしようもありません。
わたくしはその高僧から、運が強い、といわれたわけですが、最初から運が強かったわけではありません。いや、たしかに運が強いと思う部分もありました。しかし、その強運を無に帰してしまうほどに、運が悪かったのです。
運の分類には強い・弱いのほかに、よい・悪いがあります。いちばんよいのは運がよくて、さらに強い人です。反対に最悪なのが、運が弱くて、運が悪い人です。その中間に、運は弱いけれども運のよい人と、運は強いけれども運の悪い人がいます。
わたくしは運が強くても、運が悪い人間でした。ですから若い時は、ずいぶんと苦労をしたわけです。運が強いものですから、他人がとれないような大きな仕事をとってきます。ところが運が悪いために、最後は必ず失敗してしまいました。最初はうまくいっても、運が悪く失敗してしまう。この繰り返しでした。
送っていただろうと思います。 ところが正しい仏教を信仰しはじめてからは、失敗することがなくなってきたのです。運が強いだけではなくて、運がよくなってきました。わたくしは運命学によると大晩年運といって、晩年になればなるほど運が強大になるタイプですから、たしかにそのおかげもあったでしょう。しかし仏教の修行・信仰をしなかったならば、悪い因縁のために強い運を活かせず、不運な一生を
わたくしは因縁解説の修行によって悪い運がなくなり、よい運が身についたのです。その上、 運がさらに強くなってきました。あなた方も信仰し、修行するのならば、運の強い人を師匠にしたければいけません。運の強い宗教教団に入って修行しなければ意味がありません。
以前、某大企業が入社の際、合否を試験の成績だけで判断するのではなく、運のよい人間を入
社させようということで、口頭試問の時に、
「君はこれまでの人生を振り返って、運がよかったと思いますか? 悪かったと思いますか?」
と聞いたそうです。そこでうっかり、
「私ほど運の悪い者はいないと思います」
と答えた人は、どれほど優秀な成績の者でも不採用にしたそうです。反対に、
「私は運がよいと思います」
「どうしてそう思いますか?」
「この会社を受験できるということだけでも、私は運がよいと思います。それに、おそらく私は
入社できるでしょう。今まで私は幸運続きですから」
というようなことをいうと、一発で、
「君、入りたまえ」
となったようです。
わたくしは「人間改造の原理と方法』(平河出版社)で、日露戦争時の連合艦隊司令長官・東郷平八郎のことを書いております(同書二〇―三頁)。
明治三十六年、当時の日本は、強国帝政ロシアと戦端をひらく寸前で、全国民をあげて緊張していた。ロシアは当時世界最大の陸軍国であったが、結局、勝敗の帰趨を決するものは刺激権であろうと見られていた。要するに海軍のたたかいである。その海軍の全艦隊をひさいてたたかう連合艦隊司令長官にはいったいだれがなるのか? 軍関係者ばかりでなく、
全国民最大の関心のまとであった。朝野をあげて息をひそめて見まもるなかで、時の海軍大臣山本権兵衛は、舞鶴道守府司令長官東郷平八郎を任命した。異常ともいうべき抜撮であった、当然任命されてしかるべき有能な先輩たちがなんにんかいた。日高壮之丞、柴山矢八などという立派な海将たちがおり、ことに佐世保の鎮守府司令長官である柴山は、十人が十人、 おそらくこのひとが連合艦隊の指揮をとることになろうと見られていた。東郷もすぐれた海将ではあったが、序列を越えて抜擢されるほど、このひとたちを凌駕するずばぬけた能力を持つとは思われていなかった。山本のエコヒイキであるとのつよい批難の声が一部であがった。しかし山本はいっさい意にかいさなかった。あるとき、知名のジャーナリストが、山本に質問した。 ぱってき
「あなたが東野を抜擢したのは、かれのどういうところを買ったのですか?」
「なあに」
と山本はかるく答えた。
「あいつは若いときから運のいい男でな」
「運がいいのですか?」
「うん、あいつほど運のいいやつはめずらしい」
ふうむ、と質問したジャーナリストは絶句してしばらく権兵衛の顔をみつめた。
要するに――、能力にそれほどひらきがなく、おなじようなものだったら、結局、「運」 の
いい人間をとるべきじゃないかというわけである。戦争なんて、バクチ以外のなにものでもないのじゃないかと、この意傑とよばれた海軍大臣は腹の中で考えていたのかも知れない。
結局、歴史はこの山本権兵衛の選択が当を得ていたことを示している。帝政ロシアが誇るパルチック艦隊は、ウラジオストックへ向けて出港以来、不運の連続であったと戦史はつたえる。もちろん、三十八隻という大艦隊が、一五〇〇〇カイリの長距離を乗りきって、半年ちかくの熱剤をつづけて攻撃をかけてくるのだから、さまざまな困難や障害が生ずるのは当然であるが、とにかく、ささいなことにまで思いがけぬトラブルの連続であったという。 これにたいし、東郷は、好運の連続であったといっていい。
実際に山本権兵衛のいうとおりではありませんか。やはり大将は運がよくなければいけません。 不運の大将のもとで闘う部下は、悲惨の一語につきます。
作家の司馬遼太郎(一九二三―一九九六)が、「新史太閤記』(新潮社)で、同じようなことを書いておられます。これも「人間改造の原理と方法」に引用しております(同書一八一二〇頁)。
うか? なにをするにしても、人間、運が悪くてはどうにもならない。人生、運が第一ではなかろ
司馬遼太郎氏の「新史大開記』に適切な表現がある。中国攻めの陣で、羽柴秀吉は、実戦、 高松城を水攻めにすることにした。黒田官兵衛米高がこれを家電した。高さニ〇メートル、 幅二〇メートルの堤防を、四キロにわたって築き、平地にある高松城をかこんでしまおうというのである。この堤防が満々と水をたたえたとき。高松城は湖の中心となって完全に水没するだろう。しかし、その木をどうするか? 城の近くに二つの川が流れている。この
川を流させ、流れを変えて境防の中にそそぎこもうというのである。
この大工事を、人を動かすこと天下無類の大名人である秀吉は、わずか十二日で完成させた、水は徐々に人造湖に流れこんでゆく。が、堤防に立って様子をながめていた官兵衛は、 これはいかんと思った。これはむりだと思ったのである。出来たての湖は、流れこむ水の相当量と大地にかみこませてしまって、水をためるというところまではいかないのである。この分では、いつになったら域が水没するほどの水量になるのかおぼつかない。水没するところまでいかなければ、城かたは降参するはずがないのである。そのうち、広島の本城から、 毛利の軍がかけつけるであろう。
(これはむりだ)
上官兵衛はひそかに思った。
が、官兵衛の心は、歌におわった。
第工して七日後、それまで空梅雨かとおもわれた天が、にわかに変ったのである。豪雨が降った。用が、三日も降りつづいた。陰曆五月は梅雨の季節である。いかにその季節とはいえ、まるで男をくつがえしたようなこれほどの雨がふるというのはまれであろう。
附上陽水を増水した。みるみるうちに人造湖のお鷲があがり、二日目に城の丘が水没し、 三日目には城様の一階はことごとく水面下になり、樹々も怖が水面上に顔を出しているというだけの光新になった。練兵たちは二階にのぼり、捕の上に板を渡し、賞をかけてそこに起居した。かれらにとって敵よりも水とのたたかいであった。官兵衛は舌をいた。 本にではない。
羽生順守という、自分が見込んだあの男の運のよさに対してであった。官兵衛はこの点
で戦国人であった。才容力量があっても運のわるい男を数かぎりとなく官兵衛はみてきた。 力量門地がそろっていても天運の援助のない男を、官兵衛は巨漢とは思わない。小事をなすのは力量である。大事をなすのは天運である。と官兵衛はおもっていた。
(あの男には、大運がついていそうだ)
そう思ったが、しかし大運といってもこの時期、ほんの来月にやってくる本能寺/変という巨大な事態のころがりこみまでを、官兵衛は予想したわけではなかった。しかしながら、 (筑前はいい)
と、自分の見込みがはずれなかったことをひそかによろこんだ。もはやためらう必要はなかった。あの男を輸け、命を賭けてあの男のためにはたらき、あの男を押し立てることによってわが身の運をひらくべきであろう。』(司馬遼太郎『新史太閣記』後篇 新潮社刊) まさに運と力量(能力)について表現しあますところがない。
ただし、司馬氏は、秀吉の運のよさを買った官兵衛を、この点で戦国人であった」といっている。しかし、わたくしは、むしろ、官兵衛のこの着眼を、近代人的であったと表現したい。すくなくとも、官兵衛孝高のこの発想は(もちろんこれはどこまでも司馬官兵衛孝高のわけだが)戦国時代も現代も一貫して不変の人間学といわれるべきものではなかろうか。
運が悪かったらどうしようもないというのは、戦国時代にかぎりません。現代も同じです。むしろ今は、戦国時代以上の苛烈な時代だと思います。どれほど才能にあふれていようとも、どれ
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くらいの能力があろうとも、運が悪かったら絶対にだめなのです。
また、人間というものは、だれもが社長になり、だれもが大将になれるわけではありません。
したがって黒田官兵衛のように、運のよい大将を選んで、あるいは現代ならば運のよい社長を選び、そこに身を寄せて、自分の能力・才能・運をできるだけ伸ばすようにすべきだ、とわたくしは思うのです。もちろん、ただ運が強いだけではしかたがありません。強い運を基礎にして、 死の努力を重ねていく。そうすると、必ず大きな成果を得られるわけです。
けれども運が悪かったのでは、死にものぐるいの努力をしても、努力が実ることは少ないわけです。むしろ努力すればするほど裏目に出て、逆に窮地に立たされることもままあります。企業でも、また宗教団体であっても、人は運の強いところに身を寄せて、自分の能力・才能・運を大いに伸ばす努力をすべきである、とわたくしはかねてからそのように思っています。
でしょうか? しかし、さきにお話ししたとおり、わたくしは最初から運がよかったのではありません。若いころのわたくしは非常に不運でした。それが今のように運がよくなったのは、いったいどうして
みましょう。 「その秘密が『三供養品』に説かれています。仏教の原点ともいえるこのお経をさっそく読んで
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