とです。法施はお金を持っていない人でも。
そしていくらでも施すことができるわけです。
法施がありがたいという第三の理由は、法施は苦を根本から解決するということです。前にも述べましたが、お金がなくて苦しんでいる人に、いくらお金をあげても、それだけでは焼け石に水です。しかし、その人に貧乏で苦しむことの原因、つまり観鬼界の因縁をなくす方法を教えてあげたならば、この人は必ず助かって、お金に困らなくなります。苦しみが根本からなくなるかみこそ、財旅よりも法施が尊いわけです。
大乗仏教のもととなるお経
「五品、四」に、
お釈道さまは、この「有無品・三』と『五品・四』で、非常に重大なことを説かれております。じつは「玉品」と「有無品」という、『増一阿含経』所収の連続した二つの品が、大乗仏飲のもとになっていると思われるのです。
「さに一回り、書くあ行~已れば、人中の福を受け、天上の福を受けて泥洹の証りを得ん。所謂
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施なり」
「若し人有って広く布施を行ぜば、現世の中に於て、色を得、力を得、無得具足し、天上、人中
の食福無量なり」
とあり、「有無品・三」に、
「此の二施有り、云何が二と為すや。所謂法施と財施となり。諸比丘、施中の上なる者は法施に
過ぎず。見の故に諸比丘、常に当に法施を学ぶべし」
とありますが、この二つを合わせて解釈すると、 「法を世の中に広めることによって、成仏することができる」
大乗仏教の教団の多くは、そのように主張しております。たとえば『法華経』系の教団では、
という意味になります。 「法施(この場合は「法華経」を広めること)をするならば成仏できるぞ」
と教えて卵供させています。『法華経」を伏祖とする教団は、だいたいそのようにいっており
まずし、また他の教団でも、似たようなことをいいます。
そのような理由で、わたくしはこの「有無品・三」が、大乗仏教のもとになっているお経だと思うのです。
それでは、それらの大乗仏教教団の主張は正しいのでしょうか?
し、また他の参
そのような理由で、わたくしはこの「有無品
思うのです。
それでは、それらの大乗仏教教団の主張は正しいのでしょうか?
正法を広めてこそ法施
そうではありません。なぜならば、彼らはお釈迦さまの教法が説かれた唯一の教典、「阿含経」 を小乗経典だとけなして、その存在を抹殺し、お釈迦さまが実際に説かれていない大乗経典を広めよ、といっているからです。
お釈迦さまが施しなさいとおっしゃっているのは、あくまでも正法のことです。仏教と名のつくものならば、なんでもかんでも施せばよいのではありません。「まがいもの」の法など、施されるほうが迷惑です。
諸君はだれかからプレゼントをされた時、それがどのような品物でも喜びますか? やはり、 中身によっては喜ぶどころか、逆に怒りが込み上げてくるものもあると思います。怒るというところまではいかなくても、ありがた迷惑に感じることはあるでしょう。要するに、なんでもよいからプレゼントをすればよい、というわけではないのです。
さて、 幼いころに、わたくしは祖父から次のような話を聞かされました。祖父が若いころ、お祭りの日に親戚の家へ遊びに行ったところ、あんこがたっぷりのぼた餅を出してくれたそうです。祖父は甘いものが大好きでしたから、大喜びで食べました。食べ終わると、すぐまたおかわりが出て
「さあ、食べなさい」 それで、二杯目を食べたのですが、食べ終わると三杯目が出てきたそうです。
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あんこたっぷりのぼた餅の三杯目となると、いくら甘党の祖父でも、さすがに胸につかえました。
残したいのはやまやまですが、親戚のおばさんがそばに座って、
「ごろです、うまいでしょう」
というので、しかたなく全部食べたそうです。それで、
「ごちそうさまでした」
「若い者がそれくらいしか食べられなくてどうします。もっと入るでしょう。おまえは甘いもの
というと、
が好きなんだから、遠慮なんかするんじゃありませんよ」
と、またあんこたっぷりのぼた餅を持ってきたというのです。
しかし、もう、どうにもなりません。しばらく思案していると、親戚のおばさんがなにかの用事で奥へ引っ込んだものですから、祖父はこの時とばかりに、お椀を手に取ってぼた餅を縁の下 (と放り込みました。すると、中のぼた餅だけを放り込むつもりが、あんこで手が滑ってお椀ごと――なかなか結構な塗りのお椀だったそうですが――ほーんと放り込んでしまったのです。これは大変だということで、祖父はそのまま裸足で庭に飛び降り、一目散に逃げ帰ったそうです。
わたくしは祖父から、この失敗談をよく聞かされました。これも、ありがた迷惑の一例です。 なんであろうとも、もらえればそれでありがたい、というわけではないのです。逆にいえば、
なんでもせばよいというものではありません。 三日くらいお腹をこわす程度です。しかし信仰というもぐらく、それでいれようとするものです。
となかなか結構なのれは大変だということで、祖父はそのまま裸足で庭に飛び降り一わたくしは祖父から、この失敗談をよく聞かされました。これも、ありがた迷惑の一例ですなんであろうとも、もらえればそれでありがたい、というわけではないのです。逆にいえば、 ばよいというものではありません。
なんでも施せぼた餅を食べ過ぎても、せいぜい二、三日くらいお腹をこわす程度です。しかし信仰というものは、自分の身も心も、現までをも預けて、それで教われようとするものです。信仰に入る人は、
大なり小なり、なにかしらの悩みを持っています。そもそも悩みを持たない人間など、おおよそこの世の中にいるはずはありません。だれもが、なんらかの悩みを持っています。そのような人々に、
「これがお釈迦さまの正しい仏法なんだ! これを信仰すれば、必ず救われるんだ!」
といって信仰を勧めるわけです。ところが、その仏法がお釈迦さまの説かれたものではなく、 どこのだれが創ったのかさえも分からない、創作経典をもとにしているのだとしたならば、いったいどういうことになりますか?
創作経典を真実の仏法として、相手に押しつけていく。これは布施ではありません。逆に、大変な害者を世の中に流すことになります。
ヤー」 ところが大乗仏教はそれをやっているのです。お釈迦さまが説かれた「阿含経」の中から、この「五戒品・四』と『有無品・三」で説かれていることだけを引っ張ってきて、 「財施よりも法施が尊いのだ。法施をすることによって成仏できるぞ。ニルヴァーナに入れる
といって、折伏や問をしているわけです。
仏法を広める説法の仕方には、折伏と授受の二つがあります。この二つは、布教における車の両輪とされています。折伏とは末法の世にあって、仏さまの意見を全然聞き入れない強情我慢・ ※配代の人間を、良ってでもよいから仏法に引き入れる、という布教方法です。強情我慢の角を行って伏させるところから、折伏といいます。
逆に感受とは、喜びや慈悲の心を持って相手を受け入れると
修しく相手に話しかけて、仏法に導き入れるのが摂受です。
日曜大(三三三三八二)は、
「今は末法の世の中で、だれも仏の教えを聞かないから、折伏一本で布教する!」
といって、折状だけを行いました。ですから日蓮系統の宗教教団では、今でも折伏一本でやっているところがほとんどです。ところが仏教本来の布教方法には、折伏と摂受の二つがあるのです。そして、お釈迦さまの説法を拝見するかぎり、摂受こそ布教方法の基本です。ただし、摂受だけでは軟化できない者がいるのも事実なので、摂受による布教を基本としながらも、相手の因
絵しだいでは折伏も織り交ぜて使う、というのが本当の布教のあり方だろうと思います。
しかし、どちらの布教方法であろうとも、問題は、
「なにを与えるか?」
「どのような法を布施するか?」
が真の移しです。 が問題でしょう。最も大切なことは、相手の人がそれを布施してもらって、心から喜び、そして乗せになれるものでなければならない、ということです。それが本当のプレゼントです。それ
「これであなたの病気は治るよ」
をさらに悪くするようなものを相手にあげることぐらい、罪深いものはあり
のです。 と考えて注を施しているのでしょう。しかしながら、その法の見たさに
「これであなたの病気は治るよ」
といいつつ、病気をさらに悪くするようなものを相手にあげることぐらい、罪深いものはあり
ません、大乗仏教の人たちも
「自分は相手の人を助けることができる」
のです。
と考えて法を施しているのでしょう。しかしながら、その法の根本であるお経が、創作経典な
本物のお経でなければ法施にはなりません。お釈迦さまが法施とおっしゃっているのは、お釈迦さまがお説きになった。正しい法、のことです。なんでもかんでも施せばよいのではありませ
「今、わたくしが説いている、この正しい法を施しなさい。これが法施なのだ」
とお釈遇さまはおっしゃっているのです。法施の「法」とは、仏陀であるお釈迦さまがお説きになられた、正法であることが前提条件です。
そうではありませんか?
仏道後何百年も経ってから勝手に創られた、正法ではない法を人々に施せ、とお釈迦さまがおっしゃるわけはないでしょう。お釈迦さまが広く施せとおっしゃっている法とは、お釈迦さま)」 自身が直弟子たちに説かれた正法なのです。
ですから、お経というものは字面だけを追うのではなく、その文字に隠された深い意味までを考えて読まなくてはならないのです。
「注意をすれば功徳になる。成仏できるんだ。だから、うちの仏法を施せばよい」 そんな単純なものではありません。
お釈慮さまがおっしゃっている法とはなにか?
なにをお釈迦さまは、法とおっしゃっているのか?
そういうことを考えながら読んでいくのが、正しいお経の読み方




