以下に、主人公が功徳の本質を悟り、その瞬間に人生が静かに転換していくシーンを、小説として描きます。
語りの深みと霊的な余韻を大切にして書いています。
●小説 ―「功徳の本質に触れた夜」
その夜、主人公――私は、古寺の裏手にある小さな庭へ出た。冬の月が澄んだ光を落とし、池の水面は鏡のように静まっている。風ひとつない。吐く息だけが白く揺れ、すぐに空気へ溶けた。
「……如来のもとでなければ、功徳は実らない」
その言葉が胸の中で何度もめぐっていた。
私は長い間、「功徳を積む」という行為そのものに心を囚われていた。
掃除をし、布施を捧げ、祈りを続ければ、いつか果報が返ってくる――。
そう信じて疑わなかった。
けれど、どれほど行を重ねても、私の心は静まらず、人生は変わらなかった。
――なにが間違っていたのか?
庭の石灯籠に灯る小さな光を見つめていた時だ。
ふいに、寺の客僧として滞在していた慧然(えねん)という老人が、いつの間にかそこに立っていた。
「探しておったよ。考えこんでいる顔をしていたからな」
「慧然さま……。私は、功徳を積んできたつもりでした。けれど何ひとつ変わらなかった。
それが、ようやく分かったような気がするんです。
功徳は“行為”ではなく、“どこへ向かって捧げるか”が決める……と」
慧然は、少し驚いたような微笑みを浮かべた。
「気づいたか。
功徳とは、仏に捧ぐのではない。如来そのものに通じてこそ、初めて法となる。
そして如来とは、遠くの仏像のことではない」
私は息を飲んだ。
慧然は、月光に照らされた池の上を指差す。
「よく見るがいい。この池には、月の影が映っておる。
だが、影を拝んでいても、月そのものには届かん。
功徳も同じだ。形だけの行為は影を相手にしておるのだよ」
その瞬間、胸の奥が熱くなった。
私はこれまで、影に向かって祈っていたのだ。
本当の如来――迷いを断ち、智慧を開いた“覚りそのもの”を仰ぐことなく。
「では……如来とは、どこに?」
問うと、慧然はゆっくり私の胸に手を置いた。
「ここだ。
如来は、自身の心が真に法に向き合った瞬間、胸の奥で初めて目覚める。
心が仏に通じた時、そこに“如来の所”が現れるのだ」
胸を押されたわけでもないのに、思わず膝が震えた。
――如来の所とは、外に求めるものではなく、
――法と響き合った《心そのもの》に現れる境地だったのか。
その気づきは、池の水面に一滴落ちた雫の波紋のように広がり、
今まで築いてきた世界が静かに、しかし確実に書き換わっていくのを感じた。
息を吸う。
冬の空気は冷たいはずなのに、胸の内側から温かさが湧き上がる。
「……慧然さま。
分かる気がします。功徳とは、行為の量ではなく、
如来に通じる“心の向き”そのものなのだと」
慧然は深く頷いた。
「その通りだ。
如来に向かって植えられた功徳は、心を涅槃へ導く“清浄なる種”となる。
今日、お前は初めてその畑に足を踏み入れたのだよ」
その言葉を聞いた瞬間、心がすっと軽くなった。
悩みが消えたわけではない。
だが、悩みを抱えたままでも、歩ける光の道があると知ったのだ。
池の水面に映る月が、揺らぎながら少しだけ明るさを増したように見えた。
人生が変わる瞬間とは、外の出来事が変わる時ではない。
心の“向く先”が変わった時なのだ――。
私は静かに合掌した。
この続きとして、
主人公が“如来の所”を心に感じながら初めて功徳を植える場面
その功徳が現実の人生にどのように作用し始めるか
慧然の教えの奥にある「如来観」「功徳観」のさらなる深層
主人公が“如来の覚り”を垣間見る神秘的体験
など、いくつでも物語として展開可能です。
続きを書きますか?




