因縁の鎖を断ち切る成仏法
夜明け前の林は、まだ薄青い闇に沈み、僧院の堂宇は冷たい霧の中に静かに佇んでいた。
その中心にある講堂では、ひとりの青年僧トウマが、師である慧然(えねん)の前に正座していた。
「師よ……なぜ、成仏を心から願って修行しているはずの僧たちが、成仏できないのですか?」
問いを発したトウマの声は震えていた。昨日、彼は古老の僧が死の間際に叫んだ言葉を耳にしてしまったのだ。
“なぜだ……なぜ私は、まだ解き放たれない……?”
“私は……成仏できておらぬのか……?”
その不安が、朝になっても彼の胸を離れなかった。
慧然は目を細め、外の霧が晴れていく方角を見つめた。
その表情は哀しみとも慈悲ともつかぬ深さを湛えていた。
◆ 「なぜ成仏できないのか」
「トウマよ。彼らは確かに祈った。座った。念じた。だが——」
慧然は静かに言った。
「成仏の“法”を修めなかった。
それがすべてだ。」
「成仏の……法?」
「お釈迦さまが示された、《七科三十七道品》。
四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道——
この七つの科目、三十七の修行が、成仏の道のすべてだ。」
トウマは息をのみ、拳を握った。
聞き慣れた言葉のはずなのに、今は鋭い刃のように胸へ突き刺さる。
「これらを修めずして、どれほど成仏を願おうとも——決して成仏には至らぬ。
お釈迦さまご自身がそう断言しておられる。」
「……そんな……」
僧院で学ぶ者の多くが、この修行に真正面から向き合わず、別の“近道”を探していることを、トウマも知っていた。
しかし、師の厳しくも揺るぎない言葉を前にすると、その現実の重さが襲いかかってくるようだった。
◆ 「修行すれば、望まなくとも解脱に至る」
慧然は、薄明の光がトウマの頬を照らし始めるのを見つめた。
「だが安心するがよい、トウマ。
成仏とは、欲するから得られるものではない。」
師はふと、羽音のように軽く笑った。
「修行が成れば、心は自然に解き放たれる。
解脱を望んでいなくとも、だ。」
「望んで……いなくても……?」
「うむ。ちょうど——」
慧然は講堂の窓の外、木の上に組まれた鳥の巣を指した。
「親鳥が、卵を温め、冷やし、また温め、正しく世話をしているとしよう。
ヒナは『外へ出たい』などと思っていない。
だが——卵は割れ、ヒナは自然と生まれ出る。」
トウマは息を呑んだ。
山鳥の巣から聞こえてくる微かな命の気配が、突然、自らの胸のうちで響き始めたようだった。
「なぜ孵化するのか?」
慧然は腕を組み、青年を見つめた。
「親鳥の世話が十分だからだ。
世話さえ正しくされれば、殻は自然と破れる。」
短い沈黙。
その中で、霧は薄れ、講堂に朝の金色の光がゆっくりと満ちていく。
「同じことだ、トウマ。」
師の言葉は、光とともに胸へ染み渡っていった。
「正しい成仏法——七科三十七道品を修めれば、
解脱を願わずとも、自然に漏尽解脱へ至る。
因縁の鎖は、自然に断ち切れていくのだ。」
◆ トウマの胸に灯った火
青年僧は、ふっと肩の力が抜けるのを感じた。
「では私は……
近道を探すのではなく、
ただ、この道を歩けば良いのですね。」
慧然は頷いた。
「それだけでよい。
それ以外は、何ひとついらぬ。」
その時、外の樹上で、ひとつの卵が小さくひび割れた。
かすかな声が空気を震わせる。
ピィ……
トウマは思わず目を見開いた。
慧然は穏やかな微笑を浮かべる。
「見たか、トウマ。
あれが成仏法の働きだ。」
青年は深く息を吸った。
長い霧が晴れ、胸の奥にひとつの火が灯る。
——因縁の鎖を断ち切る道は、ここから始まる。




