如是我聞。一時仏住拘留国雑色牧牛
聚落。爾時仏告諸比丘。我以知見故。
得諸漏尽。
得諸漏尽。
非不知見。
非不知見。
云何以知見故。
謂此色此色集
此色滅。此受想行識。此識集此識滅
以下、「長経」)の講義を行います。まずは経文を読み、現代語に訳し
如是我聞。一時仏住拘留国雑色牧牛
聚落。爾時仏告諸比丘。我以知見故。
得諸漏尽。非不知見。云何以知見故。 得諸漏尽。非不知見。謂此色此色集
此色滅。此受想行識。此識集此識滅。
の如く我れ聞きぬ。一時、仏、拘留国の雑色牧牛聚蒙に銭まりたまえり。爾の時、仏、諸比丘に告げたまわく、「我れ知見を以ての数に諸漏の尽きることを得たり。 不知見に非ざるなり。云何が知見を以ての故に諸漏の尽きることを得、不知見に非ざるや。調ゆる此れは色なり、 此れは色の集なり、此れは色の減なり、此れは愛・想・ 行、識なり、此れは識の集なり、此れは識の滅なりと」 そうしきぼくぎゆうじゆしき
此色滅。此受想行識。此識集此識滅。
行・識なり、此れは識の集なり、此れは識の滅なりと」
現代語訳
このように私は聞きました。ある時、仏さまはクル(拘留)国の雑色牧牛聚落におとどまりになっておられました。その時、仏さまはもろもろの比丘に、次のようにお話しされました。
「私は知見を得たことによって、もろもろの煩悩がなくなりました。不知見ではないからである。 なぜ、私は知見によって、もろもろの煩悩がなくなったのでしょうか? 不知見ではないからである。
である」 と。 それはどういうことかというと、これは色である、これは色の集である、これは色の滅である、 これは受・想・行・識である、(これは受の集である、これは受の滅である、これは想の集である、これは想の滅である、これは行の集である、これは行の滅である)これは識の集である、これは識の滅
解說
成仏できない僧侶たち
不修方便随順成就。而用心求令我諸漏尽心得解脱。当知彼比丘終不能得漏尽解脱。所以者何。不修習故。不修習何等。謂不修習念処正勤如意足根力覚道。
習せざるなり」
ほうべんずいじゅんじようじゅしか こころ 「方便を修し随順成就せずして而も心を用いて、我れだっえをして諸漏尽き、心に解脱するを得せしめんと求むるもつい ろじんげだつあた当に知るべし、彼の比丘は終に漏尽解脱を得ること能わしゅじゅうゆえなんらず。所以は何ん。修習せざるが故なり。何等か修習せざいわしようごん ねんじよによいそく こん りきかくどうる。謂ゆる念処・正勤・如意足・根・力・覚・道を修
「いろいろな方法を駆使して修行を行っても成就しない者が、もろもろの煩悩が尽き、心に解脱を得たいと思っても、あの僧侶(修行者)たちは、ついに漏尽解脱を得ることはできません。
それはなぜでしょうか?
修行していないからです。
なにを修行していないのでしょうか?
それは、いわゆる四念処法(四念処震)・四正默法(四正、配送)・四城意思密(耳被剧潜),玉概御・玉が出・も覚支出・心政、道を修行していないのです」
ここは、「応説経」の中でも特に重要なことが、説かれているところです。
たいへんなことが書かれているわけですが、諸君はそれに気づいたでしょうか?
福尽解説とは、漏(煩悩)がすべて尽きた状態ですから、完全解説、つまり成仏したということです。その完全成仏を心から願って修行しているのに、それができない僧侶たちがいる、とお釈迦さまがおっしゃっておられるわけです。これは大問題です。
なぜ、その僧侶たちは成仏できないのか?それは、四念処法・四正動法・四如意足法・五根法・五力法・七覚支法・八正道を修行しないからだ、とお釈迦さまは説かれているわけです。
す。 さんじゅうしちどうばんこの四念処法・四正動法・四如意足法・五根法・五力法・七覚支法・八正道というのが、わたくしがいつもお話ししているお釈迦さまの成仏法、「七科三十七道品」です。わたくしはこれを、 成仏のための七つの科目(システム)、三十七の修行法(カリキュラム)であると申し上げております。念処・正動・如意足・根・力・覚・道で七科目。そして、それぞれが四・四・四・五・ 五・七・八からなる修行によって成り立っておりますから、全部を合わせて三十七になるわけで
お釈迦さまは、この修行を行わない者はたとえそれが僧侶であっても、その人がどのように成仏を望んでも、絶対に成仏することはできない、とおっしゃっています。 わたくしは法話でしばしば、
と考えている人がいるでしょう。しかし、それはわたくしの独断や偏見ではありません。仏教の開祖のお釈迦さまご自身が、七科三十七道品を修行しない者はいくら他の修行をしても、絶対に成仏しないと説かれているわけです。
もよいでしょう。 日本にも数々の名僧知識が登場しましたが、この七科三十七道品を修行した人は皆無といって
「仏教の伝来以来、大乗仏教のお坊さんは、誰一人として成仏していない」
と、お話ししています。みなさんの中には、
「管長はずいぶん思い切ったことをいうなあ」
と、おっしゃっておられます。「後比丘」というこの三文字の中に、日本の大乗仏教の僧侶が全部入っているわけです。きっと、「阿含経」以外のお経を信仰し、それを広める僧侶たちが出現することを、予見しておられたのでしょう。
ですから、わたくしはこのお釈迦さまのお言葉に基づいて、 「仏教の伝来以来、大乗仏教のお坊さんは誰一人として、成仏していない」
と説いているのです。
ただし、わたくしは、曹洞禅の祖である道元禅師(一二〇〇―一二五三)と真言宗の開祖弘法太師空海(七七四一八三五)だけは、ひょっとするとこの成仏法をご存知だったのかもしれない、 と考えております。と申しますのは、道元禅師は『正法眼蔵』の第七十三で、
「この三十七品菩提分法(七科三十七道品の別名 著者注)、すなわち仏祖の眼睛鼻孔、皮肉骨髄、手足面目なり。仏祖一枚、これを三十七品菩提分法と参学しきたれり」
と成仏法を讚嘆しておられます。また、弘法大師空海は『私密ご教、獣』で、
「第一の浪室とは取ぢ是れ摩訶般若解脱出身なり。第二の法宝とは露く就定、「智慧の諸の妙。 功徳なり。いわゆる三十七菩提分法なり」
と記しておられます。ですから、このお二人が成仏法を知識として知っているだけでなく、実
Orto
際にそれを修行しておられたとしたならば、このお二人だけは、ひょっとすると成仏しているかもしれません。しかし、それ以外の僧侶は絶対に成仏していない。僧侶が成仏していなかったなちば、それに導かれる弟子も在家信者も成仏していないのは当然でしょう。また、自分を成仏させることができないのだから、先祖のお霊たちも成仏するはずはありません。
仏教を信仰する人は皆、その宗旨の教えや修行で成仏できると思うから、そこで一生懸命に信仰・修行に励むわけです。成仏できると信じればこそ、布教して歩きます。
昔の日本の僧侶たちは、お釈迦さまの教法を知ることができるのは「阿含経」だけだ、という真実を知りませんでした。しかし、今の僧侶たちは、みな知っているのです。
しかし、伝統的仏教は従来の教説の上に立ったままです。
わたくしは、少なくとも宗教家だけはこの世の中がどんなに悪くなっても、真実をいわなければいけないと考えます。だからこそ、宗教家は尊敬に値する存在なのです。もちろん、宗教家といえども、たまには方便を使うこともあるでしょう。しかし、ここ一番、これこそ大切なことなのだということについては、たとえ八つ裂きにされても、本当のことをいわなければならないとわたくしは思うのです。その宗教家が嘘であることを重々承知の上で、信者に真実ではないことを真実であるかのように説教をする。これは絶対に許されないことです。 続きを説明いたしましょう。
譬如伏鶏生子衆多。不能随時蔭餾消息冷暖。而欲令子以觜以爪啄卵自生安穩出殼。当知彼子無有自力堪能方便以觜以爪安穩出殼。所以者何。以彼鷄母不能随時蔭餾冷暖長養子故。 如是比丘。不勤修習随順成就。而欲令得漏尽解脱。無有是処。所以者何。 不修習故。不修何等。謂不修念処正勤如意足根力覚道。
現代語訳
りようだん 「闇えば伏鶏の生める子飛多冷暖すること能わずして、 以て卵を啄き、自ら生まれ安るも、当に知るべし、彼の子が如し。所以は何ん。彼の鶏て爪を以て安穏に殻を出づる長養すること能わざるを以て勤めて修習し随順成就せずしてめんと欲するも是の有ることちょうようつと習せざるが故なり。何等をか修
若比丘修習随顺成就者。雖不欲令報
尽解脱。而彼比丘自然漏尽。心得解
脱。所以者何。以修習故。何所修習。
謂修念処正勤如意足根力覚道。如彼
伏鷄善養其子。随時蔭餾。冷暖得所。
正復不欲令子方便自啄卵出。然其諸
子自能方便安穩出殼。所以者何。以
丘。善修方便。正復不欲漏尽解脱。
而被比丘自然漏尽。心得解脱。所以
者何。以勤修習故。何所修習。謂修
念処正勤如意足根力覚道。
「若し比丘、修習し随順成就する者は漏尽解脱せしめんと欲せずと難も而も彼の比丘、自然に漏尽し心に解脱を
得ん。所以は何ん。修習するを以ての故なり。何をか修
習する所なる。謂ゆる念処・正勤・如意足・根・力・
覚・道を修すること、彼の伏鶏の善く其の子を養い、随
時に蒸餾冷暖所を得、正しく復た子をして方便して自ら
卵を啄きて出てしめんと欲せざるも、然かも其の諸の子
自ら能く方便して安穏に殻を出づるが如し。所以は何ん、
彼伏鶏随時蔭餾冷暖得所故。如是比
現代語訳
「弟子たちよ、(七科三十七道品の成仏法を)修行し、成就する者がいたならば、その修行者が漏
尽解説をしたいと思っていなくても、自然に心に解脱を得て漏尽解脱を得るのです。
それは、なぜでしょうか?
修行したからです。
なにを修行したのでしょうか?
いわゆる、四念処法、四正動法、四如意足法、五根法、五力法、七党支法、八正道を修行したからです。それはちょうど、親鶏が卵を温めたり冷やしたりと十分に世話をしたならば、そのヒナが卵の外に出たいと思っていなくても、自然に殻を破り孵化してしまうのと同じです。 なぜ孵化することができたのでしょうか?
親鶏の世話が十分で、温冷の温度調節がうまくいったからです。
弟子たちよ、同様に(成仏法に則った)正しい修行をするならば、漏尽解脱を願っていなくても、自然に心に解脱を得て、漏尽解脱を得るのです。
なぜでしょうか?
修行したからです。
なにを修行したのでしょうか?
からです」 いわゆる、四念処法、四正勤法、四如意足法、五根法、五力法、七覚支法、八正道を修行した
因縁の鎖を断ち切る成仏法
中略譬如大舶在於海辺。経
夏六月風飄日暴。藤綴漸断。如是比丘。精勤修習。随順成就。一切結縛
使煩悩纏。漸得解脱。所以者何。善
修習故。何所修習。謂修習念処正勤
如意足根力覚道。說是法時六十比丘。
不起諸漏。心得解脱仏説此経已。諸
比丘聞仏所説。歓喜奉行。
現代語訳
「——中略――譬えばだ縦の窓辺に在り夏六月を経て
製、日に暴れなば感謝ぐ断するが如く、是の如く比丘
よ、精勤して修習し、随順成就せば一切の結縛・使・焼
悩・纏より漸く解脱することを得ん。所以は何ん。善く修習するが故なり。何をか修習する所なる。調ゆる念
処 ・正勤・如意足・根・力・覚・道を修習するなり」と。
是の法を説きたまえる時、六十の比丘、諸漏を起こさず
心に解脱を得たり。仏、此の経を説き已りたまえるに諸の
比丘、仏の説かせたまえる所を聞きて、歓喜し奉行しき。
「たとえば夏の六月ごろ、海辺に浮かぶ大きな船が嵐に遭ううちに、 て断ち切られるよ




