このあとで良く「ディクツ」「アター」「アングラニー・エネルギー」(矢丸」
「デムアター」「夏」「イントクなど、すべての旅を配りしておこなわ
のものである。この四つのう
のは完成るたるのである。
この法については、またあとで取く
。、
仏陀の気道の法
前の飴を読まれたら、だいたいおわかりであろう。
釈尊、海において、やはり、欠運をもちいていたのである。
がらす、というからには、行らす“道”がなければならない。その道がである。
ただし、釈尊の気道は、クンダリニー・ヨーガの気道とはかなりちがうもので
ある。それは、クンダリニー・ヨーガの気道の欠阪、欠題というより不十分な部分、を補足したものといってよいだろう。
なぜ、そういうことが
たものである。 これは、割が説く「数」すなわちニルヴァーナを音写したものなのである。この配色を目ざめさせると、髪に到達するというところから、名づけられ
このことは、釈尊の修行法と、クンダリニー・ヨーガ、そして道数、との関連を語るものにほかならず。たいへん美味深いものといえよう。このほかにも、いくつか、これに類した例をあげることができる。
もちろん、道教の伝道の後が、すべて仏陀の気道の法そのままだというのではない。仏陀の気道の法を受けついで、さらに道教等のものに発展させていったということである。原型が釈尊にあり、釈尊にさかのぼることができるというのである。そしてそれはまた、同時に、クンダリニー・ヨーガにもかかわってくるということになる。
ろう。 春の成仏法の修行法を、いま、如実に知ることは至難の業である。それはごく、わずかに、所含部の中に散在するにすぎず。不可能に近いといっていいであ
しかし、クンダリニー・ヨーカー界の行はそ打法と対しつつ実践を重ねていくと、おのずから分覧と浮かんでくるものがあの中にある尊の修
ろう。 く、わずかに、阿含経の中に散在するにう
しかし、クンダリニー・ヨーガと道教の修行法を、阿含経の中にある釈尊の修行法と対照しつつ実践を重ねていくと、おのずから髣髴と浮かんでくるものがあるのである。そしてさらに体験を重ね、錬磨し、修行を積んでいくと、突然、閃
めきとともにかたちをあらわしてくるものがある。
ふくげんわたくしは、三十にして仏道に志し、以来、ひとすじに釈尊の成仏法を求めつづけ、ようやくこれをほぼ復元し、体得したと確信するに至った。
第二章 クンダリニー・ヨーガと成仏法の真「四神足法」
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