覚醒の蛇 ― 仏陀の四神足法
夜明け前の山は、まだ息をしていなかった。
谷に沈む霧が、静かに光を孕む。
その中央に、修行者は座していた。
呼吸ではない。
彼が動かすのは、もっと深いところ――
肉体と霊魂の境で、燃えようとするものだった。
導師は低く告げた。
「息を見よ。息に非ず。
汝が動かすは、生命の根に眠る龍である。」
弟子は、目を閉じたまま、ただその言葉に従った。
呼吸は止まり、時間の流れも止まる。
体の奥で、二筋の光が絡み合う。
一本は太陽の気脈――ピンガラ。
もう一本は月の気脈――イダー。
師の声が、風に乗って響く。
「この二つを結べ。だが急ぐな。
毒龍は、急けば牙をむく。」
背骨の下方、静かに眠るものがある。
それは、炎のようであり、蛇のようでもあった。
古の経では、それを「毒龍」と呼ぶ。
だが仏陀は、その龍を恐れなかった。
むしろ、調伏し、友とした。
師は掌をかざし、弟子の背へと微細な気を送る。
それは道家のツボ――微かな門から放たれる力。
「まず、気を起こす。
道家はここまでしか行かぬ。
だが仏陀は、この気を更なる深淵へ送った。」
弟子の体内で、流れが変わった。
気が、背骨の奥を上昇する。
燃えない炎、光なき光。
その軌跡を、クンダリニーと呼ぶ。
師は言葉を結ぶ。
「仏陀は龍を使わず、龍を行らせた。
己の意でなく、法の意によりて。」
その瞬間、弟子の背が微かに震えた。
冷たくも温かい気が、骨の内側をゆっくりと登っていく。
頭頂に近づくと、世界の音が消えた。
ただ、無限の沈黙の中で――
ひとつの声が、内なる虚空に響いた。
「我は、汝の中に在る。」
クンダリニーは、覚醒していた。
だが、それは破壊ではなく、静寂だった。
怒れる毒龍が、仏陀の掌の中で眠る。
――それが、四神足法の真髄である。
意念を超え、呼吸を超え、
生命そのものを法へと帰す道。
山の端から、朝日が差した。
その光は、まるで龍の息のように、
弟子の額を柔らかく照らしていた。




