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ミラクルの池

 

ふたたび、耳にあの声がよみがえった。

「待ってください」

わたくしは思わず手をあげ、師を制した。

「ちょっと待ってください。いま――ものすごいバイブレーションを感じたのです。あれは、あの方向から――」

指さす先には、雑草に覆われた小さな凹地がある。五十メートルほど先――そこから、震えにも似た振動が、体の芯まで流れ込んできた。

師は静かにうなずいた。

「ああ、あれですか」

「ミラクルの池です」

「ミラクルの池……?」

師の声は静かで、しかしその響きはわたくしの胸の奥に直接触れるように響いた。

「かつて仏陀が奇蹟をおあらわしになった場所。だから、あそこをそう呼ぶのです」

わたくしの心は、ふいにざわめき始めた。奇蹟――その言葉だけで、血の流れが変わるような気がした。

師の説明が始まる。

シュラーバスティーの大長者スダッタが、仏陀のために大金を投じ、この地に大精舎を建てた。仏陀の名声は瞬く間に広がり、弟子や求道者たちが集まった。だが、周囲の寺院の指導者たちはその名声をねたみ、仏陀を「口先だけの者」と侮った。

当時、指導者の条件は神通力の保有。だが仏陀は、その力を必要以上に示さなかった。だから他の教団は攻撃を強め、ついには試合を申し入れる――負けたほうが地を去る条件で。スダッタも、ついに仏陀に承諾を促した。

その日。群衆が息をひそめ見守る中、仏陀は三層の高楼の露台に立たれた。

――わたくしの胸が、静かに、しかし確実に高鳴った。

手すりを乗り越える仏陀。空中に足を踏み出す瞬間、周囲は凍りついたように静まり返る。だれもが息をのむ――そして、仏陀はゆっくりと浮揚し、庭園の池の上に立たれたのだ。

微風にさざ波立つ水面の上で、静かに立つ仏陀。上半身が炎のように輝き、下半身が水面を映した透明な光となる――その光景は、言葉にならない恐怖と畏怖を同時にわたくしの胸に刻み込んだ。

わたくしは額に手をあて、師の声に耳を澄ます。すると、柔らかな振動が脳髄の奥深くまで流れ込み、ひとつの概念が静かに、しかし確実に心の中に浸透していく。

その瞬間――全身に戦慄が走った。血が引くような感覚、時間が止まったような感覚、そして理解を超えた圧倒的な力の存在。心は震え、思考は静まり、ただその場に存在することしかできなかった。

「先生……上半身が火となり、下半身が水になるとは――?」

誰かの声が、わたくし自身の心の奥からも聞こえてくるようだった。

「それは……全身のチャクラが、途方もないエネルギーを放射した結果です」

わたくしは答えた。

「空中浮揚するため、仏陀は全身のチャクラに意識と力を極限まで集中した。その放射が、炎のように、光となり、水となり、世界を震わせた。ヨーガ・スートラにも記されている通り、チャクラの極致では肉体は透明になり、周囲の光や水を映すのです。仏陀の下半身が水に見えたのは、まさにその現象。クンダリニー・ヨーガの極致――それが、このミラクルです」

かつて書き記した仏陀の修行が、今、わたくしの目の前で生き生きと現実化していた。体中の血が震え、心は圧倒的な光に焼かれ、魂は覚醒へと一歩踏み出した――その衝撃を、わたくしは決して忘れることはできないだろう。

光が消え、池の水面が元の透明な静けさを取り戻した。
わたくしは膝をついたまま、息を整える。体は震えているのに、なぜか心は静かだった――と、思った瞬間、背後に微細な違和感が走った。

恐れだった。

いや、恐れというより、理解を超えた震え――
光に触れ、宇宙の意識とひととき重なったわたくしの中で、何かがまだ鳴っていた。
それは、生きていることそのものに対する、深い畏怖だった。

「これは……わたくしのものなのか?」
頭の中に問いが浮かぶ。
体の中で、まだ熱と冷たさが交錯する。
火と水――あの光景が、いまも残像として体を揺さぶる。

悟りか、これは――?

光を見、宇宙の波動を感じた。だが、それを理解したとは限らない。
悟りとは、ただ光を浴びることではなく、その後の自分の内側の静けさと、外界との関わりのなかで現れるものだ――わたくしは、ぼんやりとそんな思いにとらわれる。

師が静かに近づいてきた。
その目には、柔らかな慈悲と揺るぎない静寂が宿っている。

「恐れを感じていますね」

声は柔らかいが、心に直接触れるようだった。

「はい……光を見たあとで、なにか、底知れぬものが胸に押し寄せてきました」

師はにっこり微笑み、手をわたくしの肩に置いた。

「それは自然な感覚です。光を見ることは、宇宙の全体に触れること。あなたの中の『小さな自己』は、未知の深淵を前に震えます。恐れは、悟りの前触れでもあるのです」

「悟り……とは、どう区別するのでしょうか?」

「恐れは、未知に対する反応です。体も心も動揺し、頭では理解しきれない。でも悟りは、その震えのあとに訪れる静寂。光を浴びた体験を受け入れ、日常の中でその意識を保持できること。恐れを避けるのではなく、恐れを抱えながらも、全体を見渡せる状態です」

わたくしはうなずいた。
胸の奥で、まだ小さく鳴る光の余韻。恐れが完全に消えたわけではない。
しかし、今はそれを拒まず、ただ存在させることができる――
その感覚こそ、悟りの入り口に立った証なのだと、静かに理解した。

わたくしは師の顔を見上げた。
そこには言葉以上の安心と、全てを包む静寂があった。
光の中で体験した恐怖も、歓喜も、すべてはこの世界の一部――
悟りとは、体験を分離せず、すべてを抱きしめることなのだ。

わたくしは深く息を吸い、そしてゆっくりと吐いた。
光の余韻が心を洗い、恐れは柔らかな波となり、胸の奥に静かに落ち着いた。
これが――悟りへの一歩なのだ。

 

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