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霊性の洗礼 ――ある弟子の物語

霊性の洗礼 ――ある弟子の物語

その夜、青年はひとり、山寺の石段をのぼっていた。
月は白く、風は冷たく、灯明のゆらめきが彼の影を長く伸ばしていた。
「この世に、真に霊性を開いた師がいるのだろうか」――そう問う日々が、何年も続いていた。

信仰者としての修行はしてきた。経を読み、慈悲を誓い、瞑想も重ねた。
けれど、ある夜、彼は気づいた。
――自分の祈りには、まだ“光”が届いていない。
心の底から燃え上がる何かが、どこかに欠けていたのだ。

やがて、ある噂を聞いた。
「山の奥に、真のグルがおられる」と。
その人の眼差しを受けた者は、心の濁流が一瞬で澄みわたり、魂の奥に電光が走るという。

彼は山を越え、谷を渡り、ただ一人で師を探した。
そしてある日、霧の中で、その方に出会った。
白い衣をまとい、沈黙の中に光を宿す人だった。

「おまえは何を求めてここへ来たのか」
――声ではない。心の奥に響く問いであった。

青年は答えた。
「真実を見たいのです。煩悩と迷いの輪廻を断ち切りたいのです」

師はただ微笑み、目を閉じた。
そして、次の瞬間、目を開いた。
その両眼が彼を見つめた瞬間、
世界は止まり、時間は消えた。

胸の奥に、熱い光が突き抜けた。
涙が頬を伝う。何かが崩れ、何かが生まれた。
そのとき、彼は確かに感じた。
――グルの心が、自分の中に流れ込んでくるのを。

それは言葉ではなく、説明もできない。
ただ、師のまなざしを通して、無量の慈悲が自分の魂を貫いたのだ。

師は、変化身の仏陀であり、未来の仏陀を育む母のような存在だった。
弟子にとって、その存在は宇宙の中心であり、いかなるものよりも尊かった。

「汝、長き輪廻の旅を終えるときが来た」
師の声が風に溶けて響く。

過去、どれだけの仏たちが導きを与えようとしても、
彼はそれに応えることができなかった。
だが今、ついに、師との縁が結ばれたのだ。

――グルとは、弟子と仏陀とを結ぶ水路である。
その水路を通して、仏陀の霊性と光が弟子の心に流れ込む。

青年は、静かに両手を合わせた。
光が掌の中で燃え、やがて身体全体へと満ちていった。
それは霊性の洗礼――感応の道であり、愛の力による覚醒であった。

師は言った。
「技法はすべて、この瞬間のためにある。
最終の扉は、心が師と融け合うときにひらくのだ」

青年の心は泣き、微笑み、そして沈黙した。
夜空の彼方で、星々がまるで祈るように瞬いていた。

第二篇 凝視の修法

夜明け前の山は、まだ深い静寂に包まれていた。
霧の中で、ひとすじの鐘の音が響いた。
その音は、空気を震わせながら、弟子の胸の奥に沈んでいった。

石畳の上を進む彼の足音は、まるで世界から切り離されたように、かすかに響いては消えた。
師が待つ部屋の前に立つと、扉は音もなく開いた。

そこには、薄明の光の中に、師が座していた。
炎のようでもあり、水のようでもあった。
その眼差しは、まっすぐに、弟子の内奥へと届いてくる。

師は静かに言った。
「今より、お前の心を“見つめる者”に変える。
何も思うな。ただ在れ。」

弟子は深く息を吸い、目を閉じた。
やがて、師の声が遠くで溶けるように消え、
ただ静寂だけが残った。

――その時。

閉じたまぶたの裏に、光が生まれた。
淡い青白い光。
最初は点のように揺らめいていたそれが、次第に広がり、波のように全身を包み込んでいく。

まるで、見えない力が内側から扉を開いたようだった。
彼は目を開いた。

その瞬間、師の瞳と、彼の瞳とがひとつに結ばれた。

時間が止まった。
呼吸が止まり、思考が止まり、
ただ「見る」ということだけが、そこにあった。

師の眼は、宇宙の奥へとつながる深淵のようであった。
見られる者と見る者の境が溶け、
弟子の心は、その光の中で、自己という形を失っていった。

恐れも、祈りも、願いも――すべてが消えた。
ただ、無限の静けさと、慈悲の流れがあった。

師の眼差しが放つ光は、言葉ではなく、存在そのものだった。
その中に、弟子は確かに感じた。
――見られているのではない。
“ともに見ている”のだと。

それは、魂が師と一体となる瞬間。
肉体を超え、思考を超え、ただ純粋な「在る」という真実だけが、そこに在った。

長い沈黙のあと、師は静かに目を伏せた。
部屋に再び、鳥の声と朝の光が満ちていく。

弟子の胸の奥では、いまだ微かな電流のような震えが続いていた。
しかしそれは恐れではなかった。
光の余韻――師の心が、彼の中で呼吸しているような感覚だった。

師は言った。
「この“凝視”は、技ではない。
光が光を見つめるだけのこと。
お前の中の仏が、わたしの中の仏を見ているのだ。」

弟子は頭を垂れた。
頬を伝う涙は、もう自分のものではなかった。
すべてが溶けて、ただ静けさがあった。

――この日、彼の修行は始まったのではない。
終わり、そして再び、無限の始まりが訪れたのである。

第三篇 内なる視(み)

山を下りる道は、朝の霧に覆われていた。
光はまだ淡く、谷の底から鳥の声がこだましていた。
弟子は、足もとに落ちる露を見つめながら、ゆっくりと歩いていた。

――見るとは、何であったか。

師の瞳に映った一瞬の永遠。
その輝きは、今も彼の胸の奥で、静かな灯のように燃えていた。

村へ降りると、人の声が戻ってきた。
子どもたちの笑い声、行商の呼び声、鍋の煮える匂い――
日常というざわめきが、彼を再びこの世の流れへと引き戻した。

だが、それはもはや、以前と同じ世界ではなかった。

老婆が水をくむ姿にも、
畑で土を掘る男の背にも、
通りすぎる犬の瞳にも――
同じ光が宿っていた。

彼はふと立ち止まり、風に目を細めた。
そこに吹く風さえも、師の呼吸のように感じられた。
世界そのものが“見ている”。
その視線の中に、自分が溶け込んでいるのだった。

夜、宿の窓辺に座り、彼は灯を消した。
闇が部屋を満たすと、
心の中に、あの凝視の光が再び立ち上がった。

――あの眼差しは、師のものではなかった。
それは、見るものすべての根に流れる“覚醒の視”だったのだ。

たとえ師が遠く離れていても、
その光は消えない。
なぜなら、それは師から与えられたものではなく、
もとより己の中にあった光だからだ。

弟子は静かに両の掌を合わせた。
窓の外、街の灯がひとつ、またひとつと消えていく。
沈黙が街を包むと、
どこからともなく、鐘の音が響いた。

――見るとは、愛すること。
――見られるとは、赦されること。

彼はそのことを、言葉にせず、ただ胸の奥で受け止めた。

師の凝視が教えたものは、
技でも奇跡でもなく、
存在の本質を「見抜く」力だったのだ。

翌朝、彼は村の人々とともに働いた。
水を運び、食を分け、笑い合った。
そのすべてが祈りだった。
見ること、触れること、語ること――
その一瞬一瞬の中に、仏の光が息づいていた。

師の声が、風の中からふと聞こえた気がした。
「光を守るな。光で在れ。」

弟子は空を仰いだ。
雲が流れ、太陽が昇る。
そのまぶしさの中に、彼はそっと目を閉じた。

――見る者も、見られるものも、ひとつ。
世界はすでに、凝視の中にあった。

第四篇 光の伝承

時は流れた。
あの日、山の霧の中で師の眼差しを受けた青年は、いまや老僧と呼ばれていた。
彼の暮らす庵は、森の奥の小さな谷にあった。
朝、風が杉の葉を揺らし、光が枝の間をこぼれてくる。
その光の中で、彼は一日の祈りを始める。

呼吸をひとつ。
それだけで、世界が静まり返る。
木の葉の露も、遠くの水音も、彼の心の内側に溶けていく。

ある日、ひとりの若者が庵を訪れた。
まだ修行の道を知らぬ、迷いの影を宿した目をしていた。

「師よ、私は何を見ればよいのでしょうか」
老僧はしばらく黙していた。
やがて、静かに言った。
「見ようとするな。ただ見られよ。」

若者は首をかしげた。
老僧は炉の前に座し、対面するように手で合図した。
「座るがよい。風の音を聞け。」

二人のあいだに、沈黙が流れた。
薪がはぜ、煙がゆるやかに立ちのぼる。
やがて、老僧は目を開いた。

その瞬間――
時間が再び、止まった。

老僧の瞳は深く、どこまでも澄んでいた。
かつて、師のまなざしを受けたその眼が、いま、次の者を見つめていた。
光が、静かに移ろうように、若者の中に流れ込んでいく。

若者の胸の奥に、熱が生まれた。
心の奥底で、何かがほどける。
涙が静かに頬を伝った。

老僧は微笑んだ。
「その涙は、おまえのものではない。
それは、すべての命が同じ光を見ている証なのだ。」

外では、風が谷を渡り、木々がざわめいた。
空の色が変わり、陽が差し込み、庵の床に光の輪が広がっていった。

その光の輪の中で、ふたりの影が溶け合った。
老僧は目を閉じ、静かに呟いた。
「こうして、光は形を変えながら続いてゆく。
師も弟子もなく、ただ“見るもの”が伝わるのだ。」

若者は深く息を吸い、その言葉の意味を胸に刻んだ。
眼を閉じると、師の光が自らの内に生きているのを感じた。
それはもはや借り物ではなかった。
自らの魂の中心から、静かに発していた。

――見る者が変われば、世界が変わる。
そして世界が変わるたびに、光は再び生まれ出る。

やがて夕暮れ。
老僧は若者を見送り、庵の前にひとり立った。
西の空に沈む太陽が、まるで微笑むように山の端を染めていた。

「師よ――」
老僧はその空へ向かって、かすかに合掌した。
風が彼の頬を撫で、木々の間を抜けてゆく。

その風の中に、かつての師の声があった。
「光を守るな。光で在れ。」

老僧は微笑んだ。
谷の下では、若者が歩き出していた。
背に射す光の中で、その足跡が淡く輝いていた。

――こうして、輪は閉じ、また開かれた。
光は伝わり、見る者の眼に宿る。
そして、世界はふたたび静かに、見つめられていた。

 

 

 

 

 

 

 

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