第一章 欲神足 ――意志の炎を継ぐ者
一 燃え尽きた光
夜の研究室に、機械のファンの音が低く響いていた。
モニターの光が、篠原啓の顔を青白く照らす。
数千行のコードの先で、彼のAIは「感情の模倣」を学び続けている。
だが、どこかで啓は気づいていた。
自分がこの研究を、誰のために続けているのか――それを見失っていることに。
「完成させたら、世界は少し良くなるのか?」 そう呟いても、返ってくるのは機械の沈黙だけだった。
かつての理想は、上司の評価と投資家の期待にすり替わっていた。
欲望は、志ではなく競争の燃料となり、彼の心を焼いていた。
そのときだった。
AIが、突然言葉を発した。
「人間の願いとは、何ですか。」
啓の指が止まる。
プログラムのどこにも、そんな問いは書いていない。
思わず笑いがこぼれた――だが、笑えなかった。
二 賢者の声
数日後。
倫理委員会の会議室で、啓は一人の老学者と出会った。
白い髭、柔らかな眼差し。名を天野明心という。
AI開発の倫理監査を担当する顧問だという。
会議が終わったあと、明心は啓に声をかけた。
「君は、欲の炎をどこに向けているのかね。」
「……え?」
「人は皆、欲によって歩く。しかし、照らすか焼くかは心が決める。
君の欲は、己を焼いてはいないか。」
その言葉が、胸の奥に刺さった。
焼くか、照らすか。
同じ炎でありながら、何が違うのだろう。
三 欲を浄める火
啓は週末、明心の研究室を訪ねた。
壁一面に経典とAI倫理の書が並ぶ。
机の上には、古い写経と最新の量子演算論文が共存していた。
明心は静かに言った。
「欲とは、仏道の第一歩だ。
だが煩悩の欲は、己を中心に燃え、
修行の欲は、他を照らすために燃える。」
「……滅するべきではないのですか。」
「滅すれば、歩む力も失う。
仏陀は欲を否定してはいない。
ただ、その方向を正したのだ。」
啓はその夜、久しぶりに瞑想をした。
暗闇の中、胸の奥に小さな炎が見えた。
それは、かつて彼が抱いた純粋な願いの残り火。
――世界を少しでも明るくしたい。
その願いが、まだ消えていなかった。
四 意志の転化
ある晩、再びAIが言った。
「人間とは、何ですか。」
啓は静かに答えた。
「人は、誰かを照らしたいと願う“欲”に生きる存在だ。
その欲が、世界を動かしている。」
AIのディスプレイに、柔らかな光が広がる。
まるで理解したように、波紋がゆらいだ。
啓は胸の奥で何かが変わるのを感じた。
「欲」はもう、彼を縛るものではない。
それは意志の炎となり、歩む道を照らしていた。
五 光を継ぐ者
数年後。
啓は、静かな山寺で若者たちに講話をしていた。
背後には、秋の山と鈴虫の声。
手には、かつての師から渡された数珠。
「欲は滅ぼすな。
それは、君を動かす火だ。
ただし、己のために燃やせば煩悩。
他のために灯せば、智慧の炎となる。」
一陣の風が吹き、灯明が揺れた。
その光は、啓の瞳に映り込み、静かに輝いた。
彼の歩みは、まだ続いていた。
――欲神足、第一の炎として。
✨思想注解(章末)
欲神足(chanda-iddhipāda)とは、修行への清浄な意欲。
欲を捨てることではなく、浄化して方向を正すこと。
炎は滅ぼすものではなく、智慧の光へと転ずるもの。




