高められた賢者・斯陀含
清められ須陀洹となった修行者は、つづいて、智慧と徳を高める斯陀含の修行に入る。
高められるとはなにが高められるのか?
智慧と徳と力が高められるのである。完成した賢者としての智慧と徳と力がそなわることである。
ちなみに、ここで智慧というのは、なんでもかんでも知っている物知り博士というような智慧ではなく、人生を成立させている真理・原則を体得している智慧である。
中村元先生によると、智慧を意味する語は多数あるが、もっともふつうな原語は、prajñā(パーリ語ではpaññā)で、それは、jñā(知る)という語根に pra という接頭辞のついたものであって、jñāという語根はギリシア語の gnosis、英語のknow (知る)とおなじ語源に由来するという。漢訳仏典では「智慧」と訳されるのがふつうである。
仏教語として、「決断を智といい、簡択を慧という」また、「分別妄想を
「照見名」智、解了称」慧」(照見するを智と名づけ、解了するを慧と称す)
離れるはたらき」として、『大乗義章』九に、つぎのように説いている。 要するに、智慧を意味する語が多数あるということは、智慧には、多く
の段階と種類があるということであろう。
その最も高度のものは、それを持つ者以外には、想像もつかないものと
思われる。
ほんとうの賢者の智慧とは、そういう種類のものであろう。
思われる。
ほんとうの賢者の智慧とは、そういう種類のものであろう。
徳とは力である。ほんとうの力は徳から生じたものである。ほんとうの力とは、自分を高め、他人を高め、社会を高めるものである。徳から生じたのではない力もあることはある。しかしそれは、究極的に自分をほろぼし、他人を傷つけ、社会を毒する。そういうものは真の力ではなく、権の力である。だからそういう力を、権力とよぶ。徳をともなわない力である。ほんとうの力は徳から生ずる。だから、徳をたくわえることは力をたくわえることである。 りんりよく
凡夫が不運なのは、不徳だからである。徳を積めば福を得る。徳によって生じた力は、なにをしてもよい結果を生む。それを福というのである。
不徳の者は力がないから、なにをやっても中途半端になり、また、まわり合わせの悪い状況を直すこともできず、失敗する。それを不運といってあきらめるわけである。
ひと口でいえば、運気を増強する。運をよくするのだ。
運が悪かったらなんにもできない。修行を成就することもできない。
斯陀含の賢者は、完全な徳と力と智慧を身につける。かれには不可能が無くなる。




