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宗教がわかってない人はこの4原則を知らない 何を信じ、礼拝し、服し、目指していくのか

中村 圭志

 

さまざまな哲学者や預言者がこれに類するものを思いつきました。ペルシャではザラスシュトラ(ゾロアスター)という神官がペルシャの多神教の神々を整理して、アフラ・マズダーが絶対なる世界神だと主張しました。エジプトではある王様がアテンという太陽神を唯一神のように拝みました(この信仰は彼一代でついえたようです。彼の死後はまたもとの多神教に戻っています)。

唯一神信仰で大成功をおさめたのは、古代イスラエル民族(今日のユダヤ人のご先祖様たち)のヤハウェ信仰です。ヤハウェはもともと中東の多神教世界の中の一柱の神にすぎなかったのですが、イスラエルの民はこれを唯一絶対の神、天地創造の神と解釈しなおしました。この伝統からユダヤ教が生まれ、のちの時代にユダヤ教からキリスト教とイスラム教が派生します。ユダヤ教、キリスト教、イスラム教は代表的な一神教です。

多神教、一神教それぞれの美点と欠点

一神教は、多神教の神々を否定する形で発達してきました。諸民族の奉じるさまざまな神々はぜんぶ幻だ、というのが一神教の主張です。ユダヤ教もキリスト教もイスラム教も原理的にはたいへん排他的です。一神教の神は唯我独尊の派生・影響です。

一神教にはジレンマがあります。万人の上に立つのが唯一神ですから、万人はこの神の前に平等とされます。しかし、その神を信じない人に対しては「真理に背くヤツ」ということで批判的な目を向けます。だから、事実上、「信者 vs. 異教徒」という差別意識が現れるのです。「平等だ、愛だ、平和だ」と唱えつつ、異教徒の弾圧を行う――そういう悪い癖が一神教にはあります。

これに対して、多神教は通例、ほかの民族の宗教に対して寛容です。神々が多いのに慣れていますから、民族Aの神々と民族Bの神々は容易にごっちゃになってしまいます。

古代ローマ帝国では、ローマの神々もギリシャの神々もエジプトの神々もシリアの神々も自由に拝んでいました。日本の「七福神」はインドと中国と日本の神々のチャンポンです(弁天と毘沙門天はヒンドゥー教の神、布袋は仏教の菩薩、福禄寿と寿老人は中国の道教の神、大黒はヒンドゥー教のシヴァ神と日本のオオクニヌシの合体、恵比寿だけが神道固有の神です)。

では、多神教に比べて一神教はひどい宗教かというと、そうとも言い切れません。

一神教は「人間は神の下に平等だ」というファンタジーをもっていますから、弱者に対する慈善活動に熱心でした。

 

宗教とは何でしょうか?

ひとまず、「霊や神のような不合理な(非科学的な)存在の働きを前提とする文化の様式」と定義することにします。

もっと簡単に言うと、「霊や神を語る文化」ということです。

宗教すなわち霊や神の「ファンタジー」は、しばしば、信者に対して道徳的訓戒や人生の指針のようなものを提供しています。

どのようなものを前提としているかによって、次のように分けて考えるのが便利です。

①アニミズム………動物や自然物、先祖などの「霊」を信じる
②多神教……………さまざまな権能を帯びた「神々」を礼拝する
③一神教……………宇宙の独裁者である「唯一神」の権威に服する
④悟りの宗教………人生の霊妙な理法を「悟る」ことを目指す

以下で、それぞれについて簡単に説明します。

① アニミズム――霊の信仰

農業が始まったのは1万年ほど前だとされています。数千年かけて農業は各地に広まりましたが、それよりも昔、人類はどこでも獣や魚を獲ったり、木の実を採集したりして暮らしていました。

この時期の人間にとって、自然は人間を包み込む絶対の母胎のようなものでした。人間はただ自然の恵みをいただいて暮らしているのであり、自分たちが自然界の存在よりも優位に立っているなどという自意識は無かったはずです。今日でも、狩猟採集民は森林やジャングルの動物たちと「対等な立場」で暮らしていると言われます。

そんな彼らにとって、動物は人間と同様の意識をもつ存在です。人間どうしが互いに言葉を交わすようにして、彼らは動物とコミュニケートします。動物も植物も霊をもつ存在であり、人間にメッセージを発している。もちろんそれは擬人的な幻想ですが、ちょうどペットを飼っている人が飼っていない人よりも犬や猫の「言語」の理解に長けているように、彼らは動植物の生態を的確につかんでいたと思われます。

自然界に満ちる霊、すなわち目に見えぬ意識的存在を感じながら暮らす文化を、アニミズムと呼びます。アニマとはラテン語で「霊」「魂」のことです。

霊や魂の信仰において、自然の霊と並んでもうひとつ大きな働きをもっているのは、死んだ人間の霊、祖先の霊です。動物霊と祖先の霊がいっしょくたになっている場合もあります。自分の祖先はオオカミだったというように。

葬式や法事にはアニミズム型の文化が生き続けている

儒教というのは、祖先の霊をおまつりする習慣がそのまま歴史時代の宗教にまで成長した宗教です。命日に死者の頭蓋骨を一族の子供などがかぶり、霊の宿る「かたしろ(身代わり)」となります。霊媒師が祈る中、祖先がこうした形で現世に帰ってきて、子孫たちと交わるのです。この頭蓋骨がやがて仮面に代わり、それが名前を書いた板に代わって、今日日本人が仏壇に収めて拝んでいる「位牌」にまで進化しました。これは仏教の形をとった儒教の交霊術の道具であり、儒教の背後には太古のアニミズムが隠れています。

現代日本人にとって重要な宗教行事は葬式や法事でしょう。葬式にやってきた人々が皆死者の霊を文字どおり信じているわけではないでしょうが、「冥福を祈ります」と言ったり、「亡くなった○○さんが天国で見守ってくれる」などと言って遺族をなぐさめたりするのは、たとえレトリックだとしても、まだ生き続けているアニミズム型の文化です。

「無宗教」を称する日本人ですが、アニミズムの気分はまだ濃厚に残しています。どこそこで人形の供養をした、さらには道具やロボットの供養をしたなんて記事も見かけます。供養(=霊に何かを捧げること)をする以上、人形や道具には霊が宿っているのでなければなりません。

② 多神教――神々の信仰

太古における農業の発明は、人間の動植物に対する優越意識を高めたようです。もはや人類は森林やジャングルの恵みに頼って生きていないからです。人間は種をまいたり、収穫したり、あるいは森林を焼いたり、水路を引いたりして自然をコントロールして暮らすようになりました。

霊的存在も、霊というよりは神と呼びたい存在となります。社会は格差化が進み、富裕な者や豪族が幅をきかすようになり、豪傑や王者のイメージが天界に投影されて、目に見えない王様のような姿の神々を各民族は拝むようになります。

かくして多神教のファンタジーが発達していきました。家ごと、村ごと、地域ごとにそれぞれ因縁のある個性的な神々を拝むわけですから、それらの神々を足し合わせれば多神教となります。また、神々は人間の願望の投影ですから、願望の種類だけ神々の個性も多様化するでしょう。そういう意味でも神々は複数存在することになります。

心理的効果ももたらした神々の信仰(多神教)

多神教のファンタジーにおいては、豊穣の神を拝めば、雨を降らし、農作物を実らせてくれます。戦争の神を拝めば、戦争に勝たせてくれるのです。

昔の人々がどこまでこうした神々の効能を期待していたかは怪しいとは思います。神に向かって雨乞いしたとしても、雨が降るとは限らないからです。しかし、今日でも人々は神社に合格祈願の絵馬を奉納したり、占いを「信じ」たり、疑似科学的な健康法を試したりしています。人間は生の現実よりもファンタジーを信じたがるもののようです。

神々の信仰の多くは共同体の行事です。だから神々を信仰するという形で人々の共同意識を高めるという効果もあります。雨乞いに気象学的効果はないとしても、お祈りの行事をするとき、村人たちが危機感を共有できます。戦いの神に戦勝祈願するときも、兵士たちの士気は上がります。

そのような心理的効果があるのであれば、神の信仰にも立派な社会的機能があることになります。今日では、スポーツ観戦や国家行事における集団的熱狂やナショナリズムの盛り上がりのようなものが、神々を崇める行事に似ていると言えそうですね。

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