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普賢菩薩

普賢の名を継ぐ者

風が鳴いていた。
それは、ひとつの旅が終わることを告げる風だった。

慧真は、ふもとの村を見下ろす丘に、ひとつの庵を建てていた。
白木の柱に藁屋根をのせた、質素な庵。
その前には、小さな蓮池があり、春の陽を浴びて青葉が揺れている。

あれから幾年が過ぎたのだろう。
旅を終え、法を説くことも少なくなり、ただ静かに、祈る日々が続いていた。

だが、その静けさを破るように、ある日、ひとりの訪問者があった。

**

「お師匠さま――」

その声に、慧真は振り向く。
そこに立っていたのは、かつて病から救った少女、沙良だった。

あのとき、命の灯がかすかに揺れていたあの小さな少女が、
いまや堂々とした衣をまとい、自らも教えを伝える僧侶になっていた。

「今日から、この庵の隣に、小さな道場を開こうと思います。
ここで、普賢さまの祈りと教えを、子どもたちに伝えていきたいのです」

慧真は、静かに笑った。

「そうか……命は、こうして渡っていくのだな」

沙良は、そっと慧真の膝に座った。

「私にとって、命が延びたあの日からずっと、
生きるということは、“誰かに灯すこと”でした。
だからこそ、今度は私が――」

慧真は頷いた。

**

その夜、慧真は夢を見た。
白象が、雲の上を歩いていた。

その背には、かつての師、桂雲尼、少年烈――
命の途中で出会った多くの面影があった。

やがてその象は、彼のもとに近づき、こう語った。

「名とは、灯の名。
普賢とは、すべての命を照らす者の名。
その名は、お前ひとりのものではない。
歩みし者に、受け継がれる名なのだ」

慧真は、ゆっくりと目を覚ました。

庵の外では、朝日が蓮池に差し、
白い花が、そっとひとつ、咲いていた。

**

数日後――

慧真は、沙良に僧衣の襟を正してもらいながら、静かに語った。

「わしの名は、今日で終わる。
これより先は、お前が“普賢の道”を継ぎなさい。
わしの延命は、お前のなかに生きているのだから」

沙良は涙ぐみながら深く礼をした。

「はい、慧真さま。
私の命がある限り、あの祈りを灯し続けます」

**

結び

慧真の旅は終わった。

だがその灯は、沙良に、烈に、名もなき人々に――
無数の蓮の花のように、静かに広がっていった。

そのすべてを、白象に乗る菩薩は、やさしく見守っていた。

「命とは、渡る火であり、咲く蓮であり、歩みつづける道」

それが、普賢の名であった。

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