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えらび取ることが修行

択法覚支

これは、宗教、信仰、哲学というたくさんの教法、思想のなかから真実なるものをえらびだすということです。

「択」というのは、チャクと読みますけれども、タクとも読みます、「選択」のタクです。略さない本漢字は「選擇」と書いて、「選」もえらぶ、「擇」もえらぶ、という字です。

つまり、ほんとうに真実なる教法をえらびとる、ということですね。この世の中には、さまざまな宗教、信仰、思想があります。そのなかから真実なるものをえらびとる。そうして、まちがったものや、いつわりのものを捨てる、取捨選択するということです。

そこで、この、教法の選択というものが、はたして修行といえるのだろうか? 正しい教法をえらびとって、真実でないもの、まちがったもの、正しくないものを捨てさる、それが修行なのだろうか? あなたがた、そう思われるのじゃないでしょうか。わたくしも最初、そう思った。

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解説へのテーマ

 

正しい信仰をえらびとって、正しくないものを捨てさるということが修行というのは、

うことなんだろう? そう思ったことがありますけれども、考えているうち、やはりそれは修行なんだなと思うようになった。というのは、それが修行であるというのは、自分自身の勉強、知能によってそれをなすというところにあるわけです。

たとえば、つぎのようなことです。

お釈迦さまが出家されて、自分がさとりをひらくに到るまでには、当時のさまざまな信仰や宗教、いろいろなことを教える思想家、そういったかたがたに、㈱あたりしてぶつかっていっているわけです。いろいろな仙人にもあって、はなしを聞く、それだけではなくて、それが正しいか、正しくないか、ということをご自分で一生けんめい考えられたということです。

そうして結局、当時のインドにあったところのあらゆる教え、宗教というものは、みな正しくないという結論に達したわけです。それには、釈迦ご自身のふかい修行と勉強によってそこに到達したわけです。

ですから、わたくしたちも、この択法覚支が修行であるというのは、自分自身の勉強と修行によって、ほんとうに真実なるものをえらびとり、正しくないものは捨てさる、ということをしなければいけないんです。

たとえていうならば、瞑想一つとっても、日本に、瞑想を教える学校みたいなところや、瞑想

第四章

 

うるる。そういったものがたくさんあるでしょう。そのたくさんの想のなかから、どれがどしなのる?どの先生が。正しい数想法を教えているのか? ということを自分自身はしなければいけないということです。

たいていの場合は、自分自身の研究や知後、あるいは修行によって取を選択するというひとはすくない。たいてい評判を聞くだけです。

「あのニホン・メディテーションセンターというのはどうなの?」 「あれは、線向さんというひとがやっていて、いいと

といったり。

「あれはダメだ。インテキだよ」

なんていう。そうかなあ、どうなんだろうか。 Meditation,(Transcendental 想の略語)というのがいいというひともいれば、T・Mというのにダメだというひともいる。その評判だけできめてしまう人が多い。

それをお釈迦さまは、ありとあらゆるいろいろな教法をご自分でよつかって調べてみる。 想についても、すぐそれがいいとかわるいとか、ひとの評判とか、そういったものにはまどわされない。ご自分がその瞑想をやってみて、これはいかん、これはいい、というように選択される。

そういう意味で、教法覚えというのが旅行になるわけです。自分が歩行をして確かめて、そう

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