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文殊の知恵に導かれて

文殊の知恵に導かれて

その日、私は古びた山寺の石段を登っていた。朝露に濡れた苔が、足元に静かな冷気を伝える。見上げると、杉の木立の先に朱塗りの山門が、まるで時の番人のように佇んでいた。

「ここに、文殊菩薩が祀られていると聞いたんだ。」

案内をしてくれた僧はそう言って、微笑みながら扉を押し開けた。

本堂の奥、柔らかな灯明に照らされて、ひとりの菩薩が静かに坐していた。文殊師利菩薩——その名を口にするだけで、空気が澄んでいくような感覚に包まれる。鋭くもやさしいまなざしは、すべてを見通す智慧を湛え、右手には知恵を象徴する剣、左手には経典を支えていた。

僧は語った。

「文殊菩薩はな、かつて舎衛国に生まれたとされるバラモンの出身でな。仏の言葉を記し、教えを広める手助けをしたという。だが、ただの学問の神ではない。虚空蔵菩薩が“記憶”の知を司るのに対し、文殊は“見極める智慧”をもたらすお方。ものごとの本質を照らし、迷いを断ち切る力を授けてくださる。」

私はその言葉に、心のどこかが反応するのを感じた。そう、答えを探して旅に出たはずが、いつしか迷いに呑まれていた。進むべき道が、見えなくなっていた。

「“三人よれば文殊の知恵”……というじゃろ? それは、誰の中にも文殊の光はある、という意味でもあるんだよ。」

本堂を後にしようとしたそのとき、私はもう一度、菩薩の像を振り返った。その背に、卯の文字が刻まれているのを見つけた。そう、文殊菩薩は卯年生まれの守り本尊ともされている。私の干支でもあった。

“導いてください。迷いを断ち、真実を見極める目を……”

祈るように手を合わせたその瞬間、不思議と心が澄みわたり、何かがほどけていくのを感じた。

それは、きっと——智慧が灯る瞬間だった。

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