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脳の解脱——サハスラーラの門》

《脳の解脱——サハスラーラの門》

彼は静かに座していた。夜明け前の微かな光が、閉じたまぶたの奥に滲んでいる。世界がまだ目覚める前、彼の内側ではすでに“進化”の炎が灯っていた。

これは単なる瞑想ではない。
これは、脳の奥深くに潜む“獣”――ウマとワニを、解き放つ儀式だ。

原始の衝動、逃走と攻撃、快楽と恐怖。それらを生む“旧い脳”を手放すことで、彼は新たな段階へと歩み出す。
額の奥、アージュニャー・チャクラが、わずかに震えを帯びて開き始めた。
それは“知”と“直観”を統べる門。視床下部を超え、深奥にある“新皮質”の先にまで意識が届くよう、神経の橋を架ける工程だ。

この修行は、準備に過ぎない。
その先に待つのは――滅尽定。

呼吸を手放し、思考をも超える。
サハスラーラ・チャクラが静かに回転を始めたとき、彼の魂はすでに形を脱し、“空”の入口に立っていた。

気息が止まり、時間が消え、
彼は“無”へと溶けていく。

それは死ではない。
それは、生の奥に潜む、完全なる沈黙の目覚め。

脳の進化はここに極まる。
ウマも、ワニも、もういない。

あるのはただ、“一”なるものと結ばれた、
真の存在だけだった。

 

第五章 滅尽定――語られざる光の岸へ

1 息の止む門

深山の庵(いおり)。
トウマは夜半、最後の松明を吹き消した。
闇が、呼吸のように静かに降りてくる。
――まず、長くやわらかな息。ついで、かすかな脈動。
やがて鼓動さえ物語の外へ退き、
「聴く者」も「聴かれるもの」も同時に消えていく。

意識の輪郭がほどけるとき、
彼は一羽の鷺(さぎ)が水面に映らず飛ぶのを見た。
それは象徴でも幻でもなかった。
ただ、「象(かたち)」を必要としない合図――
滅尽定への扉が、音もなく開いた印だった。

2 無でも空でもない領域

時間は刹那ごと蒸発し、
空間は残光のない灯火のように溶ける。

しかし「無」ではない。
微かな「在る」が、在るとも言えぬ純粋さで
――声なき透明の雷鳴のように――
どこでもなく到りつづけている。

そこには「観る者」も「観られるもの」もなく、
ただ、“法”(ダンマ)が自らを示さずに示す。
名を呼べば即座に遠ざかり、
言を絶てば無窮に迫る光。

トウマは“私”を失いながら、
「失った」と認識する主体も同時に失う――
それが滅尽定の核心だった。

3 帰還──透明な世界

朝鳥の羽ばたきが遠くに揺れたとき、
最初に戻ったのは、
胸奥をかすかに打つひとつの脈だった。

鼓動、呼吸、肌の冷たさ――
世界が静かに色を取り戻す。
だが、戻ってきたのは以前の世界ではない。

木々のざわめきは言葉より澄み、
露の光は因果の網そのものの輝きとして映る。
煩悩の影は探しても見当たらない。
代わりに、ものごとの縁起が
透けた水脈として心を流れつづける。

4 師との対話

庵の門前。
師・霊峯(れいほう)は薪割りの手を止め、
戻った弟子を見て静かに笑う。

師「何を得たか。」
トウマ「――得るべきものがなかったと知りました。」
師「では、何が残った。」
トウマ「残るとも言えぬ“光”。
名づければ逃げ、黙すれば満ちる、
そんな気配だけが。」
師「それを携えて生きよ。
滅尽定は終わりではなく、
煩悩なきまま世を照らす “はじまり” だ。」

トウマは掌を見つめる。
そこに置かれた一枚の枯葉が、
宇宙と同じ静寂で脈打っていた。

5 そして旅はつづく

庵を離れる朝、
霧の谷に日が差し込む。
世界は昨日と同じ形をして、
しかし昨日より限りなく軽い。

トウマは歩き出す――
滅尽定から授かった、
名もない光を灯籠のごとく胸に抱きながら。

次に向かうのは、
「無色界よりもさらに彼岸」と伝えられる
“空性の曼荼羅”――
そこに待つものを確かめるために。

*あとがき的メモ
本章では

滅尽定に入る瞬間を五感の消滅として、

「無」でも「空」でもない領域を言語の外側で仄見せし、

帰還後の変容を世界の透明感で示し、

師弟の短い対話でその意味を余韻として残しました。

ご要望に合わせ、物語で描ける限界ぎりぎりの“体験”を詩的に掬い取っています。
さらに深い探求や、トウマの次なる旅路も続編としてお手伝いできますので、またお声がけください。

 

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