UA-135459055-1

准胝観音が現れる夢

 

山の夜は、音がない。

音がない風が梢をすり抜け、梢が月をかすめていく。すべてが眠りに落ちているような静寂の中、聖宝(しょうぼう)はひとり、焚火のほとりに座していた。

時は延喜のはじめ、月もない冬の夜だった。

火にくべた薪がぱちりと音を立てる。灰となった枝が崩れるたびに、彼の心のなかにもまた、何かが静かに崩れていく。
この世の苦を癒す術は、まだ道の果てにある。どれほど山に籠もり、行を重ねても、人々の苦しみが止むわけではない。

「仏の母……か」

そう、つぶやいたときだった。
深く重い眠気が彼を包んだ。霧のようなものが意識を覆い、気づけば彼は夢のなかにいた。

そこはどこか、蓮華の咲き誇る光の野であった。

風もないのに、花びらがひとひら、またひとひらと宙に舞う。香のような甘い匂いが漂い、その中央に、彼女は立っていた。

三つの眼をもつ、まばゆいばかりの女尊。
十八の腕をたずさえ、ひとつひとつの手には蓮華、剣、数珠、法輪……さまざまなものが握られていた。

だが、それらはいっさいの暴力や怒りを感じさせることなく、ただ、静謐な美しさだけをまとっていた。まるで――母のようだった。

「……あなたは、どなた……?」

聖宝が問うと、その女尊は微笑んだ。
唇は動かなかった。だがその声は、彼の胸の奥で直接響いた。

「我が名は准胝。七倶胝仏母。
無数の仏を生みし者。
苦しみの底にある命を、照らし出す母なるものなり。」

聖宝は夢のなかで、思わず跪いた。
その瞬間、准胝仏母の無数の手が広がり、空に光が差した。彼の身体は光に包まれ、祈りの言葉が胸から溢れるように出てきた。

「オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ──
Namaḥ Saptānāṃ Samyaksaṃbuddha Koṭīnām……」

言葉は絶え間なく流れ、彼の心はひたひたと清らかになっていった。
どれだけの時が流れたのかは、わからなかった。

やがて、光が遠のき、蓮の野が消え、夢が静かに終わる。

目を開けたとき、夜は明けかけていた。
焚火はすでに消え、白い霜があたりを覆っていたが、聖宝の心には、ぬくもりが残っていた。

「……准胝観音……仏の母……」
彼は呟き、両手を合わせた。

その日より、彼の祈りの対象は変わった。
ただ仏に向かうだけでなく、「命を抱きしめる仏の母」へと。彼は誓った。あの夢に現れた姿を、現世に刻み出すことを。

仏母を、この世に迎えるために――。

 

SNSでもご購読できます。

コメントを残す

*