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四正断法(ししょうだんほう) 旧訳では四正勤といいます。断断(だんだん)・律儀断(りつぎだん)・随護断(ずいごだん)・修断(しゅだん)の4つの修行 四つの剣──修行者トウマの道

四正断法(ししょうだんほう)
旧訳では四正勤といいます。断断(だんだん)・律儀断(りつぎだん)・随護断(ずいごだん)・修断(しゅだん)の4つの修行

 

四つの剣──修行者トウマの道

深山の庵に、ひとりの若き修行者がいた。名をトウマという。
師に従い、長い沈黙のなかで己と向き合う日々を送っていたが、ある夜、焚き火の前で師が静かに語った。

「トウマよ。仏道を歩む者には、心を護る四つの剣がある。
それが“四正断”──あるいは“四正勤”とも呼ばれる修行だ」

トウマは火のゆらぎを見つめながら、師の声に耳を澄ませた。

「第一は“断断(だんだん)”。
すでに生じた悪しき心──貪り、怒り、迷い。これを見極め、断ち切る剣だ。
お前は近頃、慢心に呑まれかけたことはなかったか?」

トウマは心を刺されたような気がした。
先日の坐禅の後、「自分は少し悟ったかもしれない」と、ふと誇りが胸をよぎったのを思い出した。

「第二は“律儀断(りつぎだん)”。
まだ起きていない悪しき心を、起こさぬように自らを律すること。
たとえ風のように心が揺れても、その風に火を灯さぬことだ」

「……風が吹いても、火種を起こさぬように」
トウマは呟いた。

師はうなずいた。

「第三は“随護断(ずいごだん)”。
すでに心に芽生えた善き思いを、壊さぬように見守り育てること。
慈しみも、精進も、油断すればすぐに枯れる。水を与え、陽を当てねばならぬ」

「第四は?」

「“修断(しゅだん)”。
未だ心に生じぬ善を、これから育てていく修行だ。
たとえば、他者を心から許すという智慧──お前はまだそれを学びつつあるだろう」

トウマは黙ってうなずいた。
彼の胸の内には、許せぬ過去と向き合うための修行が、いま始まろうとしていたのだ。

その夜、トウマは焚き火の前で長く座り、
四つの剣を一つずつ、心の中に刻んでいった。

第二章 断つべきもの、守るべきもの

その翌朝、山の気は澄み渡り、白い霧が谷を覆っていた。
トウマは、いつものように庵を出て、谷あいの村へと下りていった。今日は月に一度の托鉢の日である。

村では、子どもたちが彼を見て駆け寄り、大人たちも手を合わせて迎えた。
だがその中に、ただ一人、苦々しい目で彼を睨む男がいた。

リュウゾウ──かつてトウマの兄弟子でありながら、戒を破って山を下りた者。
村で噂を広げ、トウマを偽善者と呼び、人々の信頼を試そうとしていた。

その日も、リュウゾウはトウマに向かって言った。

「坊主の格好をして、清らかな顔をして……お前は、ほんとうに清らかか?
山の静けさに隠れているだけじゃないのか?」

トウマの心に、怒りの火が灯りかけた。

──断断。
すでに心に起きた怒りを、見つめて、断ち切るのだ。

彼は目を閉じ、ひと呼吸した。
リュウゾウの言葉に応じることなく、黙って頭を下げた。

それを見て、リュウゾウは一瞬たじろいだようだったが、背を向けて去っていった。

村人の一人が言った。「あの人の言うこと、気にしないでください。皆、あなたのことをよく知ってますから」

トウマは微笑んで言った。

「いいえ。心を律する機会をいただいたのです。ありがたいことです」

──律儀断。
悪しき心が芽生えぬよう、あらかじめ己を戒め、守ること。

山へ帰る道すがら、彼は道端に咲く一輪の花を見た。
ふと、そのかすかな命に目を留める自分の心に気づいた。

──随護断。
この慈しみの心を絶やさぬように。何気ない感動を守り育てるのだ。

その夜、師は火を囲みながら、トウマに問うた。

「リュウゾウに会ったか?」

「はい。怒りが胸に上がりかけましたが……それを断つことができました。
彼の言葉が、私の煩悩を照らしてくれました」

「それでこそ修行者よ。だが最後の剣は、まだ抜かれておらぬな?」

「……修断、ですね。善を、まだ生じていない善を生み出すこと」

師は静かに火を見つめていたが、やがて言った。

「明日、村の老女を訪ねなさい。目がほとんど見えぬが、かつては絵師だった。
その人の話を、よく聞いてくるのだ。お前の中に、新たな光を描く力があるかもしれぬ」

トウマはうなずいた。
それが自分にとって、まだ芽吹いていない善の種──
つまり、修断の修行なのだと、心に刻んだ。

 

第三章「絵を描く老女と、修断の始まり」

その朝、山の庵に風が吹き抜けた。
師の言葉に従い、トウマは小さな包みを持って村のはずれへと歩き出す。
目指すは、深い竹林の奥にひっそりと佇む、かつての絵師が住むという小屋。

扉の前に立ち、手を合わせて呼びかけた。

「お婆さま。私は山の庵から参りました。トウマと申します」

しばらくの静寂ののち、やがて軋むような音と共に扉が開いた。

現れたのは、白髪を後ろで束ねた、やせ細った老女だった。
目は濁り、視線は宙をさまよっているが、その顔には不思議な品があった。

「……仏の子か。入っておくれ。火はまだあたたかい」

小屋の中には、古びた筆と絵具が埃をかぶって並び、壁には色褪せた絵がかかっていた。
それでも、光を宿したままのように思えた。

「あなたが描いたのですね?」

老女はかすかに笑った。

「もう見えはせぬが、描くことは、やめたくてもやめられなかった。
光が見えなくなっても、心には、まだ残っていたからね」

「……光、ですか?」

老女は、火に手をかざしながら言った。

「私は、光を絵に閉じ込めようと生きてきた。
朝の山の気配、子どもの笑顔、死を前にした人の眼差し……
どれも、消えてしまう前に残したかった」

トウマは、胸の奥にふと暖かなものを感じた。

「あなたは、善を描こうとされたのですね。人の心を照らすものを」

老女はかすかにうなずいた。

「だけど、描くことができたのは、私が“見ていた”から。
今は……もう誰かに、見てほしいと思っている。
私の代わりに、この世界の光を」

その言葉に、トウマの胸が強く打たれた。

──修断(しゅだん)
まだ自分の中に生じていない善を、育てること。
それは、絵を描くことではなく、誰かの見えぬ光を共に見つけ、語ることかもしれない。

トウマはそっと、老女の前に座った。

「もしよろしければ……これから、時々ここに来て、あなたの記憶にある“光”を聞かせていただけますか?
私にそれを、言葉で描かせてください」

老女の目から、涙が一筋、頬を伝った。

「……それは、絵より美しい贈り物だよ」

小屋の中に、静かに火が揺れた。
それは確かに、ひとつの光だった。

 

第四章「光を紡ぐ言葉」

あの日から、トウマは幾度となく老女のもとを訪れた。
小屋の火はいつもあたたかく、そして老女の声は、まるで深い井戸の底から湧く清水のようだった。

彼女の名はユナという。

トウマは、ユナの語る記憶を、丁寧に言葉に起こした。
彼女がかつて描いた光景──山の朝霧、亡き夫の笑顔、少女時代に見た蓮の池、病に伏せた母の手の温もり──
そのすべてが、彼の中に静かに降り積もっていった。

「あなたの言葉は、筆みたいね」とユナは言った。

「私は……ただ聴いているだけです」
トウマはそう答えながらも、ふと気づいた。

──これは、心を写す修行だ。

彼の中で、「見る」という行為が変わりつつあった。
人の表情、言葉の背後にある沈黙、そして語られぬ哀しみや喜び──
それらが、言葉に宿る仏性として浮かび上がってくる。

ある日、ユナは語った。

「昔、村の子に“絵を教えてほしい”と言われたことがあったの。
でも私は、それを断ってしまった。“見える目がなければ描けぬ”と……
今になって思うの。あれは傲慢だったと」

トウマは、静かに言葉を紡いだ。

「……目に見えるものより、目に見えぬ“心の光”を伝えるほうが難しい。
だからこそ、あなたが私に話してくれることには、深い意味があります。
私はそれを描き続けます。言葉で」

ユナは、何も言わず、微笑んだ。

その帰り道、山道に一人の影が立っていた。
褐色の外套をまとい、木に背を預けていた男。
かつての兄弟子──リュウゾウだった。

「久しぶりだな。……ずいぶん穏やかな顔になったな、トウマ」

「……あなたが、ここに?」

「この山には、まだ捨てられぬものがある。いや……まだ、断ち切れていないのかもしれないな」

リュウゾウは、昔とは違う、疲れた眼をしていた。

トウマはその視線を受け止めながら、思った。

──これは、修断の続きなのかもしれない。
自分の中に、まだ芽吹いていない善。
かつて敵意を抱いた人と、もう一度向き合い、癒やしをもたらすという善。

だが、それは容易なことではなかった。
言葉を紡ぐだけでは届かぬ壁が、そこにあった。

山風が吹いた。
二人の間の沈黙が、冬のように冷たかった。

「また、会いましょう」
トウマは静かに言った。

「……ああ」
リュウゾウは背を向け、風の中へと去っていった。

だがその背には、かすかなためらいと、拭いきれぬ何かが、確かに宿っていた。

 

第五章「背を向けた者に灯す火」

あの日の再会以来、リュウゾウは姿を消した。
だが、どこかで見ている気配がある。
風の音に、落ち葉のざわめきに、彼の沈黙がひそんでいる気がした。

ユナの小屋で、火を囲みながらトウマは語った。

「……人の痛みに寄り添おうとするとき、自分の傷が疼きます。
だから、怖いんです。リュウゾウ兄は……僕の中に、いまも刺さっているから」

ユナは、静かに火に薪をくべながら言った。

「それでも、あなたは行くでしょう。
あなたの言葉には、火を灯す力がある。
冷たくなった心にも、種火は残っている。
それを吹き起こすのが“慈しみ”という火の技法なのだよ」

トウマは、その夜、筆を取り、手紙を書いた。

「リュウゾウ兄へ。
あなたの言葉を、ずっと待っていました。
あの時、僕もあなたに背を向けてしまった。
今、ようやく気づいたんです。あなたの苦しみは、僕の中にもあったのだと。
もしよければ、再び火を囲んで話しませんか?
言葉がなくてもかまわない。ただ、そこにあなたがいてくれれば」

そして手紙を、山道の祠にそっと置いた。
リュウゾウがかつてよく祈っていた場所だった。

数日後──

ユナの小屋に向かう道すがら、焚火の煙が上がるのをトウマは見た。
そこにリュウゾウがいた。
火の前に、無言で座り込んでいた。

トウマは近づき、黙って向かいに座った。
二人の間に火があり、風が枝を揺らしていた。

沈黙の中、やがてリュウゾウが言った。

「……あの時、俺は道を誤った。
正義の名のもとに、師に逆らい、お前を責めた。
でも……結局、自分を見失っていた。
“自分の善”がどこにあるかも、わからなかった」

トウマは、静かに火を見つめながら答えた。

「兄さん……僕も同じです。
でも今は、自分の中に芽生えつつある善を、見逃したくないんです。
あなたにも、まだそれがあると思う。
その火を……一緒に守っていけたら、うれしい」

リュウゾウの目に、光が揺れた。
それは涙ではなかった。
だが、彼の中で何かがほどけた気配がした。

火がパチリと音を立てた。

その音に乗せて、二人の心の距離がわずかに近づいた。

慈しみとは、語ることだけではない。
沈黙を分かち合うこと、同じ火に手をかざすこと──
それもまた、「修断」の一つだった。

 

第五章「背を向けた者に灯す火」

あの日の再会以来、リュウゾウは姿を消した。
だが、どこかで見ている気配がある。
風の音に、落ち葉のざわめきに、彼の沈黙がひそんでいる気がした。

ユナの小屋で、火を囲みながらトウマは語った。

「……人の痛みに寄り添おうとするとき、自分の傷が疼きます。
だから、怖いんです。リュウゾウ兄は……僕の中に、いまも刺さっているから」

ユナは、静かに火に薪をくべながら言った。

「それでも、あなたは行くでしょう。
あなたの言葉には、火を灯す力がある。
冷たくなった心にも、種火は残っている。
それを吹き起こすのが“慈しみ”という火の技法なのだよ」

トウマは、その夜、筆を取り、手紙を書いた。

「リュウゾウ兄へ。
あなたの言葉を、ずっと待っていました。
あの時、僕もあなたに背を向けてしまった。
今、ようやく気づいたんです。あなたの苦しみは、僕の中にもあったのだと。
もしよければ、再び火を囲んで話しませんか?
言葉がなくてもかまわない。ただ、そこにあなたがいてくれれば」

そして手紙を、山道の祠にそっと置いた。
リュウゾウがかつてよく祈っていた場所だった。

数日後──

ユナの小屋に向かう道すがら、焚火の煙が上がるのをトウマは見た。
そこにリュウゾウがいた。
火の前に、無言で座り込んでいた。

トウマは近づき、黙って向かいに座った。
二人の間に火があり、風が枝を揺らしていた。

沈黙の中、やがてリュウゾウが言った。

「……あの時、俺は道を誤った。
正義の名のもとに、師に逆らい、お前を責めた。
でも……結局、自分を見失っていた。
“自分の善”がどこにあるかも、わからなかった」

トウマは、静かに火を見つめながら答えた。

「兄さん……僕も同じです。
でも今は、自分の中に芽生えつつある善を、見逃したくないんです。
あなたにも、まだそれがあると思う。
その火を……一緒に守っていけたら、うれしい」

リュウゾウの目に、光が揺れた。
それは涙ではなかった。
だが、彼の中で何かがほどけた気配がした。

火がパチリと音を立てた。

その音に乗せて、二人の心の距離がわずかに近づいた。

慈しみとは、語ることだけではない。
沈黙を分かち合うこと、同じ火に手をかざすこと──
それもまた、「修断」の一つだった。

 

第六章「風の中の戒律」

山を吹き抜ける風が、季節の変わり目を告げていた。
トウマとリュウゾウは、村に向かって歩いていた。
かつて修行の場とされていたこの地に、今は一つの不穏な噂が流れていた。

──疫病が、広がり始めている。

山間の村には医者もおらず、里の者たちは恐れと偏見の中で声を失っていた。

「見舞いなど、危険だ」「感染する者を隔離せよ」
そんな声が飛び交い、やがて病人への差別と排斥が始まりつつあった。

トウマは唇を噛んだ。
かつての自分なら、ただ目を伏せて通り過ぎただろう。
だが今は、修断の道を歩む者として、退けぬ問いがあった。

──人と関わるとは、痛みを引き受けること。
──善を守るとは、誰かの孤独を見過ごさないこと。

トウマは、罹病した子供とともに閉じ込められた母親のもとを訪れた。
周囲の者は遠巻きに見ていたが、彼はただそっと戸口の前に座り、言った。

「僕は、あなたたちを独りにしません。
一緒にいます。ただそれだけしか、今はできないかもしれませんが……」

その姿を、リュウゾウは少し離れた場所から見ていた。
かつてのトウマにはなかった、静かな律(おきて)を感じた。

その夜、村の長老たちが集まり、トウマとリュウゾウを呼び出した。

「お前たちは、“修行僧”だろう? ならば、村の戒めを破るな。
感染を広げるような行為は、善ではない。
律を破れば、お前たちもこの村から追放だ」

トウマは答えた。

「私が学んできた“律”とは、人を傷つけないこと、人を恐れの中に放置しないことです。
病を防ぐための知恵と慎重さは必要です。
しかし、それが“排除”という名の悪へ変わってしまうなら……私はその律に従うことはできません」

リュウゾウは、トウマの隣に立った。
無言で、だがその姿が語っていた。

──この者の「律」を、私は信じる。

翌日から、二人は感染防止の策を講じながら、病人の世話を始めた。
道具を煮沸し、薬草を煎じ、誰よりも慎重に、誰よりも丁寧に。
それを見た若者たちが、少しずつ手伝い始めた。

風は変わった。
恐れの風から、希望の風へと。

数日後、快復した子供が笑いながらトウマの手を握った。

「ありがとう、トウマ。……お兄ちゃんみたいだ」

その言葉に、トウマの中の何かが静かに灯った。

リュウゾウはぽつりと呟いた。

「お前の律は……人を包むんだな」

トウマはうなずいた。

「でも、まだ揺らいでいます。
善を守るには、もっと深く、自分を問う必要がある気がする。
修断の道は、まだ続いています」

リュウゾウは笑った。かつての皮肉のない、初めての微笑だった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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