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第一部「四念住」

第一部「四念住」

第二章 受念住 ― 揺れる心、たゆたう感覚

それは、ある雨の日のことであった。

小屋の屋根を打つ雨音が、単調に続いていた。外界とのすべての関係が断たれ、アーナンダは己の心とだけ向き合う静寂にあった。

彼は坐を組み、そっと目を閉じる。

「次に観ずべきは、受である」と、師バラモンは語っていた。

「受とは、感受である。喜び、苦しみ、快・不快、無関心――それらは心に生じては消える波。だが、愚者はそれを“わがもの”と思い、掴み、流される。賢者はそれを“ただの感受”と見て、手放す」

アーナンダは、その言葉を思い出しながら、心の中を見つめる。しばらく何も感じないように思えた。だが、そこに注意を集中すると、確かにあった。

――物悲しさ。
――孤独。
――そして、小さな焦り。

(ああ、わたしの中には、苦の“受”がある……)

彼は、その苦を否定せず、ただ見つめた。まるでそれが誰か他人の苦しみであるかのように。

やがて、その苦は、静かに姿を変えていった。悲しみの底にあったのは、愛だった。師への思慕、仲間への想い。だがその想いが叶わぬとき、人は苦を生じる。

「なるほど……」

次に、彼の心に過去の記憶がよぎった。師の言葉に褒められたあの日、胸が熱くなったあの瞬間。

(これが、楽の“受”)

楽しさもまた、ただの感覚。永遠には続かず、変わりゆくもの。

そして今――雨音だけが響く静寂の中で、彼の心は不思議な「中立」の感覚に包まれていた。苦しくもなく、楽しくもない。ただ、静かにそこにある。

(これが、捨受。すなわち「無記の受」……)

アーナンダの呼吸は深くなっていく。感覚が、波のように生まれては消えていくのを、ただ見守っている。

そこに、永遠なるものはなかった。

苦も楽も、「わたし」のものである必要はなかった。

それらは、ただ生じて、ただ滅する。

それが真実なのだ。

アーナンダはそっと目を開いた。雨は、いつのまにか止んでいた。雲間から一筋の光が差し込み、土の匂いが、清らかな風に混じって流れてきた。

彼はその光と香りを、ただ受け取った。歓喜もなく、拒絶もなく。

――これが、受念住。

心に生じるあらゆる感覚を、ただの“波”として見る。その深奥に、智慧の芽がひそかに宿りはじめていた。

心念住 ― 心のかたちを映す鏡

月が昇るころ、山の庵には、静寂が降りていた。アーナンダは、薄衣を肩に掛け、今夜もひとり、坐に入った。

「身を観じ、受を観じて、最後に残るもの。それが“心”である」と、師は語った。

「心念住とは、今この瞬間、いかなる心があるかを知ること。貪りがあるか、怒りがあるか、迷いがあるか。あるいは、それが去ったのか。それを知り、見抜き、離れていくこと」

アーナンダは、呼吸とともに心を澄ませていく。すると、突如――

ひとつの記憶が浮かび上がった。

それは、かつて仲間の修行僧と些細な言い合いをした日のこと。相手の言葉が、どうしても許せなかった。彼の中に、怒りがふつふつと沸いた。

そして今、瞑想の中でもなお、その怒りの「残り香」が微かに蘇ってくるのを感じた。

(怒り……)

彼は、その心を見つめた。

怒りとは、火のようなものだ。心を焼き、理を失わせる。だがその火も、ただ心に生じた一つの現象にすぎない。真実の“我”ではない。

アーナンダはさらに心を沈めた。

すると今度は、静かな慈しみが湧き上がってくる。あのとき、自分もまた苦しかった。相手もまた迷いの只中にいた。――それを赦す心。

(これも、また心)

欲する心、怒る心、信じる心、疑う心――どれもが、現れては消える。流れる雲のように。

それを「私」と呼ぶなら、「私」は刻々と形を変え、定まることがない。

(では、“私”とは何なのか?)

アーナンダは、その問いを胸に置いたまま、ただ心を観じ続けた。

今、この瞬間、自分の心は穏やかか、動揺しているか。眠気はあるか、喜びはあるか。ありのままに、それを映し出す“心の鏡”を、自らの内に据える。

すると彼の内なる空間に、透明な静けさが生まれた。

心とは、無限の姿を取りながら、空に浮かぶ雲のように、来ては去り、現れては消える。

それを知ったとき、アーナンダの中に、柔らかな微笑が芽生えた。

もはや、怒りや欲に巻き込まれる必要はなかった。

なぜなら――彼は、それらが「ただの心の状態」であると、知ったからだ。

 

心念住 ― 心のかたちを映す鏡

月が昇るころ、山の庵には、静寂が降りていた。アーナンダは、薄衣を肩に掛け、今夜もひとり、坐に入った。

「身を観じ、受を観じて、最後に残るもの。それが“心”である」と、師は語った。

「心念住とは、今この瞬間、いかなる心があるかを知ること。貪りがあるか、怒りがあるか、迷いがあるか。あるいは、それが去ったのか。それを知り、見抜き、離れていくこと」

アーナンダは、呼吸とともに心を澄ませていく。すると、突如――

ひとつの記憶が浮かび上がった。

それは、かつて仲間の修行僧と些細な言い合いをした日のこと。相手の言葉が、どうしても許せなかった。彼の中に、怒りがふつふつと沸いた。

そして今、瞑想の中でもなお、その怒りの「残り香」が微かに蘇ってくるのを感じた。

(怒り……)

彼は、その心を見つめた。

怒りとは、火のようなものだ。心を焼き、理を失わせる。だがその火も、ただ心に生じた一つの現象にすぎない。真実の“我”ではない。

アーナンダはさらに心を沈めた。

すると今度は、静かな慈しみが湧き上がってくる。あのとき、自分もまた苦しかった。相手もまた迷いの只中にいた。――それを赦す心。

(これも、また心)

欲する心、怒る心、信じる心、疑う心――どれもが、現れては消える。流れる雲のように。

それを「私」と呼ぶなら、「私」は刻々と形を変え、定まることがない。

(では、“私”とは何なのか?)

アーナンダは、その問いを胸に置いたまま、ただ心を観じ続けた。

今、この瞬間、自分の心は穏やかか、動揺しているか。眠気はあるか、喜びはあるか。ありのままに、それを映し出す“心の鏡”を、自らの内に据える。

すると彼の内なる空間に、透明な静けさが生まれた。

心とは、無限の姿を取りながら、空に浮かぶ雲のように、来ては去り、現れては消える。

それを知ったとき、アーナンダの中に、柔らかな微笑が芽生えた。

もはや、怒りや欲に巻き込まれる必要はなかった。

なぜなら――彼は、それらが「ただの心の状態」であると、知ったからだ。

第四章 法念住 ― 真理に目覚めるまなざし

森の夜は、深く、静かであった。
アーナンダは、灯明も持たずに、木の根元に坐った。目を閉じ、ただ己の呼吸と共にある。

この夜、彼は、ある問いを胸にしていた。

(苦しみの根は、どこにあるのか?)

思い返せば、さまざまな「感情」「思考」「記憶」が、彼を悩ませてきた。だが、それらは単なる現象ではなかったか? なぜ、人は現象に巻き込まれ、迷い、煩悩にとらわれるのか?

その答えを、師はこう語っていた。

> 「アーナンダよ、汝は“法”を観ずして、ただ感情に揺れるばかりではないか。心に生じるもの、すべては“因と縁”によって生じる。
> それを見よ――すなわち“十二因縁”の観察である。
> 無明あれば、行あり。行あれば、識あり。識より名色、六処、触、受、愛、取、有、生、老死……」

アーナンダは、師の言葉を胸に、その因縁の連鎖を観ていった。

――無明。
(知らぬこと、気づかぬこと。真理を見ないまま生きること)
――行。
(無明から出た衝動、業の積み重ね)
――識。
(意識が生まれ、世界と自我が目覚める)

……と連鎖は続き、やがて「老い」「死」へと至る。

(このすべてが、苦の流れ。だが、その根源は、“無明”にあったのか……)

アーナンダの心は、少しずつ沈み込んでいった。

彼はまた、五蘊にも思いを馳せた。
色・受・想・行・識――すなわち、肉体、感覚、認識、意思、意識。

(これが「わたし」だと思ってきたものは、すべて集まりでしかなかった……)

彼は、自らの心身を、「自己」としてではなく、「法」として見始めた。

喜びも、怒りも、肉体の疲労も、思い出も――すべては因縁によって一時的に現れた、無常の現象であった。
それらを掴んで「これは私」と思うことが、苦のはじまりだったのだ。

彼の心は、深い沈黙のなかで、透き通っていった。
――すべてのものは、縁により生じ、縁により滅す。
――それが、「法(ダンマ)」である。

アーナンダは、静かに息を吐いた。
彼の内なる目は、ついに「真理の流れ」を見つめはじめたのだった。

煩悩は、ただ現れては消える泡。
「我」は、それに名前を与えていたに過ぎない。

――これが、法念住。

四念住の最後にして、智慧の扉が開く一歩手前の、最も深い観照。

夜が明け、東の空が白みはじめていた。
アーナンダのまなざしには、もはや揺らぎがなかった。

 

 

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