第一章 身念住 ― 身に宿る無常の声
夜の静寂が、山の寺院を包んでいた。薄明の空に一番星が瞬く頃、修行僧アーナンダは静かに座を調えた。古びた木床の上、右膝を左足に重ね、背筋をただす。
――今、わたしは、この身を見つめる。
それが、師から与えられた第一の課題、「身念住」であった。
呼吸が、音もなく出入りする。だが心は落ち着かない。修行を志してから幾度も坐禅を組んできたが、「自らの身体を見つめよ」という言葉は、どこか曖昧だった。
「身体は無常である。ただの肉と骨である。そのように観ぜよ」と、師バラモンは言った。
アーナンダは目を閉じる。耳の奥で鼓動が聞こえる。喉の奥で唾を飲み込む音がする。背筋がわずかに軋む――そのたびに、彼の心が反応する。
「これは“私”なのか?」
その問いが、胸にのしかかる。
彼は呼吸に意識を向けた。息は入って、出ていく。だがその一呼吸ごとに、微細な感覚が身体の中を走る。痛み、熱、かすかな痒み――それらはまるで、自分のものではないように現れては、消えていく。
(この身は、思うままにはならぬ……)
次第に、意識の奥底で何かが変わり始める。
かつて、彼は若き日の己を思い出す。剣術を学び、身体を誇ったあの頃。だが、今はどうだ? 肉は痩せ、骨は軋む。老いと病の影は誰にも訪れる。命ある
それが、身である――
「これが、身念住……」
その瞬間、アーナンダの心に、静かな覚醒が差し込んだ。身体とは、所有するものではない。ただ五蘊の一部、借り物にすぎない。わたしという幻を支える土台でありながら、実体はない。
小さく、だが確かな光が、心の中心に灯った。
風が、襖をわずかに揺らした。
外では、夜が静かに明けようとしていた。




