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有漏の正思惟

朝靄の中、若き修行者シンは山道を登っていた。足元には霜の残る落ち葉が敷き詰められ、踏むたびにかすかな音を立てる。その音さえも、彼には自らの心を映すように感じられた。

――私はまだ、煩悩の只中にいる。

欲望が去ったわけではない。怒りが消えたわけでも、迷いが尽きたわけでもない。ただ、それらの闇を見つめる目だけは、ようやく少しずつ開かれつつあった。

師は言った。「思惟を恐れるな。ただし、それが煩悩に染まらぬよう注意せよ。それが正思惟だ」

彼は思い返す。

出離の思惟――この世を離れたいという願い。それは逃避ではない。快楽や欲望の果てに疲れ果て、ほんとうの安らぎを求める静かな意志。欲にまみれた心が、それでもどこかで「このままではいけない」と目覚める、かすかな光だ。

無瞋の思惟――怒りを抱いても、それに呑まれずに済む道を探すこと。誰かに心を傷つけられたとき、その苦しみの連鎖を断ち切ること。

無害の思惟――弱き者に手を差し伸べ、傷つけずに生きようとする姿勢。たとえ敵意を向けられても、報復を求めず、慈しみを返す勇気。

それらは、シンの中でまだ完成されてはいなかった。けれど確かに、芽生え始めていた。

「正思惟とは、煩悩を否定することではない。煩悩のなかにいても、それに引きずられず、清らかな心の方向を選ぶことだよ」

師のその言葉が、風のように耳の奥で響いた。

谷の向こうから、朝日が射し始めていた。冷えきった山の空気に、ひと筋の温もりが差し込む。シンは立ち止まり、静かに目を閉じた。

「この身は、まだ煩悩に染まる。しかし、この心に、正思惟の灯をともそう――」

それは小さな誓いだった。けれど、その一念が、迷いの森を抜ける第一歩になることを、彼はうすうす感じていた。

 

 

 

 

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