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第二章 正思惟 ―― 正しき意志を生む – 第一節:思いの力 –

第二章 正思惟 ―― 正しき意志を生む

– 第一節:思いの力 –

 

「思う、ということが、世界を作っている。
君はそのことを、どこかで気づいていたかね?」

 

凌山の声が、静かな池の水面に落ちた石のように、蒼の心に波紋を広げた。

 

東京の片隅。あの公園で出会って以来、蒼は週に一度、凌山のもとを訪れるようになっていた。
それは誰にも告げていない、彼だけの密かな修行の時間だった。
スマホを置き、音楽を断ち、情報から目を逸らして、ただ「自分を見る」ための時間。

 

今日は少し郊外の、古い寺に連れてこられた。
人影のない本堂の前。石畳の冷たさが、彼の足元を引き締める。

 

「正見によって、苦しみの根を“見る”ことができた。
だが、見ただけでは変わらぬ。
次に必要なのは、“どう在りたいか”という意志じゃ。
それが、正思惟(しょうしゆい)。
つまり――正しく思うこと」

 

蒼は、少しだけ困った顔で言った。

「“正しく”って……それが一番わかりづらいです。
どこかの誰かが決めた正しさを、また押しつけられるんじゃないかって」

 

凌山は笑わず、しかし優しい声でこう返した。

「“正しさ”は外にはない。
それは、自らの心に問うもの。
だが仏法には、ある基準がある。
正思惟とは、三つの意志を育てることじゃ」

 

彼は人差し指を立てた。

「ひとつ、離欲の思惟。
欲にとらわれず、冷静で澄んだ心を求める意志」
「……物欲とか、承認欲求とか、ですか」
「そのとおり。執着の欲を離れることじゃ。
次に、無瞋の思惟――怒りを持たず、他を害さぬことを願う心」
「……ムカつくやつに怒らないとか、難しすぎません?」
「怒りに飲み込まれるか、怒りを観察するか――それが修行の差だ」

 

そして三本目の指。

「最後は、不害の思惟。
生きとし生けるものを傷つけず、思いやりと慈しみの心を持つ意志じゃ」
「慈しみ、か……。自分に向けることすら、忘れてました」

 

蒼はふっと笑った。
それは自嘲ではなく、かすかな光のような笑みだった。
凌山はうなずいた。

「“思い”は種となる。
怒りを思えば、怒りが芽吹き、
欲を思えば、欲が育つ。
だが、慈しみを思えば、世界は静かに優しくなる。
思惟とは、未来を選ぶ力なのじゃ」

 

蒼はそっと目を閉じた。
過去の怒り。失望。人を羨んだ日々。
愛されなかった記憶と、自分を責める声。
そうしたものが、胸の奥でざわめいているのを感じた。

けれどそのざわめきの下に、
ほんの小さな、やわらかな光があることにも、気づき始めていた。

 

「俺、変わりたいと思ってます。
でも、変わるって、怖くもあるんです。
今の自分はダメだと認めることになる気がして……」

 

凌山は、しばし黙って空を見上げた。

 

「変わることは、今の自分を捨てることではない。
それは、“正しき意志”に、いまの自分をそっと預けることじゃよ。
大切なのは、“どう在りたいか”を問い続ける姿勢なのだ」

 

風が吹いた。
木々がさわさわと揺れる。
蒼の心にも、小さな風が吹いた。

 

その日、彼は初めて「思いを育てる」という感覚を知った。
無理に変えようとせず、ただ自分の中にある思いを見つめる。
そして、それを少しだけ温かく整える。
それだけで、何かが確かに変わっていくことを感じた。

 

夜、寺をあとにする頃、蒼は小さく呟いた。

「きっと、俺の中にも……慈しみが、ある気がします」

 

凌山は微笑み、ただ一言だけ言った。

「あるとも。
君がそれを“思いたい”と願った瞬間から、もうそれは在る」

【第二章 正思惟 ―― 正しき意志を生む

– 第二節:問いの種子 –

 

秋の夕暮れ。
寺の庭に、ほのかに沈む陽が差し込んでいた。
石畳の端に腰をおろし、蒼は何かを考え込んでいた。

 

「……どう在りたいか、なんて。
考えれば考えるほど、分からなくなってきました」

 

ぽつりとこぼした声に、凌山は枝を箒で掃く手を止め、言った。

 

「それでよい。正思惟とは、問いを持つことから始まる。
答えはすぐに見つからぬものだが、
問いを抱いた者は、もう旅路にいる」

 

蒼は枝の影に手をかざしながら、ゆっくりと呟いた。

「どう在りたいか……たとえば、“怒らない人”になりたいって思ったとします。
でも、実際はすぐにイライラしてしまうんです。
思っても、現実の自分とのギャップがつらくて……」

 

凌山はそっと石に腰かけ、落ち葉を見つめながら言った。

 

「それは“問いの種子”じゃ。
君の中に、“怒らずにいたい”という願いが芽吹いた証。
たとえ今は実現しておらずとも、
種子を蒔かなければ、芽も出ぬ。
まず、その問いを大切に持ち続けるのだ」

 

蒼はふと、ポケットの中にあるメモ帳を取り出した。
最近、少しずつ感じたことや気づいたことを、短く書くようになっていた。

「“今ここにある感情を、敵としない”……これ、昨日書いた言葉です」
「うむ。よいな」
「怒りや不安があると、それを“悪い”と思って押し殺してました。
でも、それも自分の一部なんだって……少し思えるようになったんです」
「それが、思惟の力だ。
意志とは、“否定する力”ではない。
むしろ、“受け入れたうえで選ぶ力”なのじゃよ」

 

しばらく二人は黙って、空を見上げていた。
西の空が、柔らかな橙に染まっていた。
風が吹き、どこからか金木犀の香りがした。

 

「凌山さん……」
「なんじゃな?」
「たとえば“優しい人になりたい”っていうのも、正思惟ですか?」
「優しさとは“与える心”だ。
与えようとする願いは、まさに正思惟の花だ。
だがそれは、“誰かのため”というよりも、
“自分の在り方として”育てるものなのじゃ」

 

蒼は、その言葉を少しのあいだ胸の中で転がした。

 

「俺は、誰かに優しくされたいって思ってた。
でも、優しさって、自分から選ぶことでもあるんですね」

 

凌山は立ち上がり、庭の灯籠のそばへ歩いた。
その灯籠の穴に小さな蝋燭を差し込み、火を灯した。

 

「そう。思いは、心の蝋燭。
火をつければ、他を照らす。
だが、まず“火をつけたい”という願いが必要なのじゃ」

 

蒼はその灯りを見つめながら、ゆっくりと呼吸をした。
冷え始めた風のなかで、自分の奥底にひとつの種があることを、確かに感じていた。

 

「俺も……小さな灯りを持っていたい」
「それでよい」
「優しさを、思い出せるように」
「その思いが“正しき意志”の根となる」

 

――問いは、時に痛みを伴う。
だが、真に大切な問いは、人を内側から目覚めさせる。

蒼の胸にいま、たしかにその種子は根を下ろし始めていた。

 

 

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