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それでは――

第三章 正語 ―― 言葉が現実を形づくる

– 第一節:声なき声に耳を澄ませ –

 

「人は、言葉で世界を作っている。
そして、言葉で誰かの世界を壊してもいる」

 

その朝、蒼は久々に街の喧騒の中にいた。
平日の通勤ラッシュ。
耳にはさまざまな声が飛び交っていた。
怒号。小言。皮肉。無言のいら立ち。

 

「おい、早くしろよ!」
「は? 聞いてないんだけど、それ」
「だるい、まじ無理」
「……あんたって、ほんと使えないね」

 

言葉は空気に溶けて、誰かの心に刺さっていた。
蒼は立ち止まり、雑踏の中で目を伏せた。
ふと、自分もまた、こういう言葉を吐いてきた記憶がよみがえってくる。

 

「うるせえよ」
「何様だよ、お前」
「別にどうでもいいし」
「……俺には関係ないから」

 

凌山の寺へ向かう途中、その重さは胸の奥に積もっていった。

 

 

その日、境内には誰もいなかった。
朝の読経が終わり、ただ静かな風が松の枝を揺らしていた。

蒼は本堂の縁側に座り、凌山に問いかけた。

 

「“正語”って、ただ丁寧に話せってことですか?」
「丁寧さだけでは足りぬ。
正語とは、“清らかな言葉で生きる”という修行。
それは“何を話すか”以上に、“どう生きるか”という問いじゃ」

 

凌山は、法具の脇に置いてあった小さな巻物を手に取った。
そこには、正語の四つの指針が記されていた。

 

「まず、妄語(もうご)――偽りの言葉を語らぬこと。
嘘は、自他の心を曇らせる」
「……嘘って、相手のためでもあるじゃないですか」
「それは方便の知恵と呼ばれるもの。
だが、方便を語るには、己が真実に生きておらねばならぬ。
自らを欺く者は、いつかその“方便”に堕ちる」

 

次に、両舌(りょうぜつ)――人と人とを裂く言葉。

「分断を生む言葉は、無意識のうちに使われる。
“あいつがこう言ってたぞ”、
“あの人は君のこと嫌ってる”、
言葉の刃が、見えぬ傷を刻む」

 

三つ目は、悪口(あっく)――怒りや軽蔑から発する言葉。
そして最後は、綺語(きご)――意味のない、おしゃべり。

「綺語……それもダメなんですか?」
「無意味な言葉は、心を散らす。
本当に必要な声が、聞こえなくなるのじゃ。
言葉とは、本来“祈り”に近いものなのだ」

 

蒼は静かに目を伏せた。
SNSで吐いた不用意な言葉、
場を持たせるためだけの軽薄な笑い、
人を笑わせるために誰かを落とした日々。

それらが心のどこかに澱のように残っていた。

 

「俺……言葉に、無頓着でした。
でも、言葉って、たぶん……誰かの“祈り”に触れるものかもしれないですね」

 

凌山はそっと手を合わせた。

 

「そう。
言葉とは、心の“波紋”のようなもの。
優しく語れば、世界も優しく響く。
だからこそ、“何を語るか”より、
“どこから語るか”が大事なのじゃ」

 

夕方、蒼が寺をあとにするころ、
彼の足取りは以前よりも静かで、深かった。

 

その日、帰り道で出会った子どもが転んで泣いていた。
蒼は思わず声をかけた。

「大丈夫? 痛かったね。でも、すぐ良くなるよ」

 

子どもは泣きながらも、少しだけうなずいた。
母親が礼を言い、去っていく。

 

蒼はふと、自分の声が誰かの心を少しだけ温めたことを感じた。

 

「言葉って……やっぱり、生きてるんだな」

 

彼の中に、もう一つの「声なき声」が生まれていた。
それは、言葉を選ぼうとする“意志”。
そして、言葉に祈りを宿そうとする“願い”だった。

 

【第三章「正語」第一節 完】
(※つづけて「第二節:沈黙の修行」へ進むことができます)

ご希望に応じて「第二節:沈黙の修行」へ続けて執筆いたします。
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