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ありがとうございます。
それでは――

第一章 正見 ―― 見るべきものを見る

– 第二節:四つの真理 –

 

「見えるものを教える……?」

蒼は繰り返した。
老僧・凌山の言葉は、どこかこの世界の論理を少しだけ外れているように感じられた。
なのに、不思議と違和感がなかった。
この人なら、自分の知らない「何か」を知っている――そんな確信めいた感覚が、胸の奥でひそかに芽生えていた。

 

「蒼といったな」
「……どうして、名前を?」
「君の背中がそう語っていた。呼ばれたくて、名乗りたがっていた」

微笑みを浮かべながら、凌山は足元の砂を指先でなぞった。
そして、小さな四つの円を描いた。

 

「四つの真理がある。仏陀が最初に見た、そして誰もが見るべき真理だ」
「真理……ですか」
「うむ。苦・集・滅・道。四諦(したい)という。
この四つは、君の内側の地図になる。
君の“苦しみ”がどこから来て、どこへ向かえば終わるのか――それを示す地図だ」

 

風が一瞬だけ吹いた。
枝がゆれ、木漏れ日が地面に揺れた。
凌山の声がその風に溶けていくように、静かに続いた。

 

「第一の真理は苦諦(くたい)。
この世は、苦に満ちている。
生きること、老いること、病むこと、死ぬこと。
愛するものと別れ、嫌うものと出会い、求めて得られず、得たものは失う。
これらすべてが“苦”なのだ」

蒼はゆっくりと息を吸った。
思い当たる節が、ありすぎるほどあった。
だが、それらを「苦」と名付けたことはなかった。

 

「苦があるのなら、なぜ苦しむのか?――それが第二の真理、集諦(じったい)。
すべての苦には“因”がある。
無明、欲、執着。
ものごとを正しく見られない眼が、苦の根となる」
「……自分が、何に執着しているかも、よくわからない」
「それを、見るのだよ。正見とは、見るべきものを見ること。
苦の原因を見る。執着を見る。無知を見る。
そこからしか、道は始まらない」

 

凌山は、二つめの円の横に、小さな点を描いた。
その点は、他の円を貫いて向こう側へ突き抜けようとしていた。

 

「第三は滅諦(めったい)。
苦には、終わりがある。
執着を断ち、欲を手放し、無明を照らすならば、苦は止む。
苦しみは“絶対”ではない。
消え得る“現象”なのだ」
「……本当に、終わるんですか?この重たさが……?」
「終わらせることを選ぶなら、終わる。
だが、それには道がいる」
「……道?」

 

凌山は最後の円を指でなぞりながら言った。

 

「第四、道諦(どうたい)。
苦を滅するための道――それが、八正道だ。
正見・正思惟・正語・正業・正命・正精進・正念・正定。
八つの“正しき修行”こそが、苦しみの彼岸へ向かう舟になる」

 

蒼はしばらく黙っていた。
まるで、自分の心の奥底に沈んでいた巨大な石に、初めて手が触れたような感覚だった。

 

「君の苦しみは、今もそこにある。
だが、君がそれを“見た”なら、それはもう苦そのものではない。
見たものは、変えられる。
見ようとすること、それが“正見”の始まりだ」

 

その言葉が胸の奥に響いたとき、蒼の中で何かが、少しだけ溶けた。

 

「……見てみたいと思いました。
自分が何を恐れ、何を知らないでいたのか」

 

凌山は静かにうなずいた。
彼のまなざしは、秋の澄んだ夜空のようだった。

「では、始めよう。
君の“目”の修行を」

 

木々の向こうで、夜が訪れていた。
都会の街灯がひとつ、またひとつと灯っていく中、
蒼の中で、目に見えない灯りが一つ、そっとともされた。

 

【第一章「正見」完】
(つづいて第二章「正思惟 ―― 正しき意志を生む」へ続きます)

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