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後有(未来の生)を断滅した涅槃の成就―

ご覧ください

的もそこにあった。 1、その人能力により、人間に輪廻転生の事実のあることすそとり、旅行して、そこからの解説を成就したのである。そうして、かれの説く教えの目 of

後有(未来の生)を断滅した涅槃の成就――これ以外にないのである。それは、こころみに、おもな阿含経典のどれでもよい。アトランダムに、一部、手にとってみるがよい。 その末尾は、必ず、といっていいほど、こうむすばれているのを見るであろう。

(湯)愛滅するがゆえに、恥を生ぜず、取生せざるがゆえに繋習を生ぜず、繫著せずんばすでに自ら涅槃を覚り、我が生すでに尽き、梵行すでに立ち、所作すでに作し、自ら後有を受けざるを知る。(『雑阿含経』第二、三世陰世食経)

この、「わが生すでに尽き、梵行すでに立ち、所作すでに作し、自ら後有を受けざるを知る」という句は、おもな阿含経典のむすびとして必ず出てくる文章である。 つまり、ブッタの教えの、これこそがテーマだったのである』

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この経文のなかに、「梵行すでに立ち、所作すでにだし」そうしてもう輪廻転生の輪の中から脱して未来の生は滅してしまった、とあります。この「梵行」というのが、それなのです。

この「梵行」というのが、因縁解脱・成仏のための修行なのです。

では、梵行とはなにか。

それは、

と、

きよめること

たかめること

の行です。

まず、きよめる行とは、自分の、身・心・霊の三境にわたって、浄化し

具体的にいいますと、

どう 1、前生から持ちこしているところの、身体の悪しき業を浄化する。

2、前生からのこころの悪しき業、すなわち煩悩を浄化する。

3、不成仏霊や霊障を浄化して、霊的存在としての自分を浄化する。

以上がきよめる行

 

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3、不成仏霊や

以上がきよめる行です。

「これにたいし、高める行とは、徳を積んで、福を身につける行です。

苦しむわけです。 不徳のものほど、すべてにおいて低いのです。精神的にも、霊的にも低い。徳のあるひとを、『高徳のひと」と申します。『徳が高い”というでしょう。徳のないものほど、人間が低い。わるい因縁を持つひとほど不徳で、徳がない。いや、徳がないから、わるい因縁を持って

できるかぎり徳を積んで、自分を高めなければいけない。因縁解脱の窮極は、自分自身、仏陀になるということです。徳なくして仏陀になれますか? わかりきったことではありませんか。なんとしてでも徳を積まなければいけない。しかし、いくら徳を積みたくても、身・心・ 霊の三業の悪因縁をきよめなければ、徳などとうてい積めるものでない。

では、きよめる行、高める行、つまり、浄化の行と積徳の行を、どのようにしてすすめていったらよいのか? むずかしいことです。

それを、だれでもができるように編成したのが、

因緣解脱準胝尊千座行

 

 

*

なのです。

身・心・霊の三つをきよめる

よく入行してすぐに、阿含経の「七科三十七道品」その他の修行をすぐに教えてくれといい、教えないと不平不満をいうひとがいます。中には、よそへ行って、桐山は本にいろいろ書いており、それをすぐに教えてくれると思って入行したが、ちっとも教えてくれない。あれはインチキだといい、またそれをすぐにとりあげて、桐山密教はインチキだ、阿含密教はサギだなどとわめきまわる坊さんなどがおりますが、まことにおろかきわまることです。

仏教の修行というものは、すべて、因縁を解脱し、さとりをひらいて、仏になるという修行です。徳なくして仏になどなれるか。こころに煩悩の悪業が満ち、霊的に不浄の霊障を持ち、 それですぐに仏になる修行ができると思うのか。

七科三十七道品という成仏のための修行法は、学問にたとえれば、大学、大学院を卒業して、さらに高度の研鑽を積む、大学の研究室のようなものです。そこに入るための高度の知顔、才能というものが必要であることは、いうまでもないことでしょう。

 

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て、さらに高度の研鑽を積む。大学のな

時、才能というものが必要であることは、いうまでもないことでしょう。

身心の向舎の七第三十七道品にたどりつくまで、十数年間の血の出るような修行ああった。死にものぐるいの勉強があった。しかし、わたくしは、わたくしのこの勉強と修行がみのって、仏陀直説の成仏法にたどりついたのだとは思えない。それだけではないのです。

わたくしは、密教の修行、仏教の勉強のほかに、ひたすら徳を積んだ。いくら勉強や修行をしても、徳がなかったら、仏陀直説の成仏法などを手にすることはぜったいにできない。ましてや、それを修行し、成就することなど、考えることもできない。頭のよい、わるいの問題ではない。徳の問題なのです。徳なき者には、第一、仏さまが許さないのです。わたくしがこの成仏法を手にすることができたのは、ひとえに、徳を積んだおかげであった。ですから、修行者は、徳を積むことがなによりも大事なのです。しかし、どうしたら徳が積めるか?

準貶尊千座行は、身・心・霊の三業をきよめ、この三業の悪因縁を切り、徳を積んで、成仏法を成就する器になるための修行であり、それはすでに七科三十七道品の第一歩なのです。仏陀のいわれる梵行なのです。

問題は高める梵行

宝運をよくするための正しい行を持つ三つのポイント

 

この準既尊千座行は、そうむずかしいものではありません。やる気さえあれば、だれでもで

きます。しかし、決してやさしいというものでもありません。

むずかしいといえば、むずかしいことが一つあります。

それは、「高める」梵行のほうです。

「きよめる」梵行のほうは、そうむずかしいことはない。それは、主として、「法」がやってくれるからです。

因縁解脱・成仏法の本尊である準延如来の加被力と、導師の成仏力と、修行者自身の浄撚この三つの力によって、すべて法がやってくださる。

毎日の勤行と、毎月の例祭の法要で修せられる解脱護摩の法の力で、修行者にまつわる不成仏霊は解脱し、成仏して、修行者は霊的に浄化されます。

霊障を発するほどの強い不成仏霊はむりですが、ふつうの不成仏霊は、千座行という、千日間の毎日の行で、かならず成仏させてしまいます。また、この霊的な浄化につれ、身・心の悪業も浄化され、因縁が切れてゆく。これら浄化の梵行は、さだめられた行をきちんとやっておりさえすれば、あとは、法の力がやってくれる。

問題は、高めるほうの梵行です。

は、法がしてこれはすこしむずかしい。パイクを景品なぜならば、これは、自分自

ゆ式出

りさえす

だからむずかしい。 しかしい。 なぜならば、これは、自分自身がやらなければならない行だからです。浄化のほうの梵行は、法がしてくださるが、高めるほうの梵行は、自分自身がしなければならぬ行だからです。

修行者を見ていますと、浄化のほうの行は日に日にすすんでいくのだが、高めるほうの行がさっぱりすすまない。いつまでも、境界が低い。いくら浄化の行がすすんでも、徳がともなわないと、ある線のところで止まってしまう。法の力を受けることができなくなってしまうのですね。徳がない、あるいは、あっても低いから、法の力が受けられないのです。そうして、結局、千座行から脱落してしまうようなことになる。

法の力で、先祖の不成仏霊などはほとんど成仏しかかっているのだが、徳を積まないから、 人間的にちっとも高くならない。成長しない。低いのです。こころの因縁―――性格の欠点などがすこしも直らない。そこで脱落して、せっかく成仏しかけていた不成仏霊など、みな、元にもどってしまう。自分自身の行――自分を高める積徳の行がないからです。

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家運をよくするための正しい信仰を

 

 

 

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