『防波堤の上』
夜の風は、冷たくはないが、どこか遠い記憶を運んでくる。彼は静かに、防波堤の上に立っていた。足元に砕ける波の音が、心の中の沈黙を破るたび、少年の頃の彼がよみがえってくる。
まだ若かったあの頃。
海の色に怯え、打ち寄せる波を恐れて走り去った日。
ただただ、自分が「自由」だということが、こんなにも孤独で、こんなにも悲しいものなのだと、知らなかった。
夜の道を車で走るとき、窓の外に広がる景色に、ふと目を奪われることがある。空と海の境目、見失いそうになるほど淡く溶け合う境界。その間に走る一筋の稲妻は、まるで過去と現在を切り裂くようだった。
彼はいつの間にか、大人になっていた。
扉を開けて、人と出会い、恋に落ち、誰かの体温の中で眠る夜もあった。
期待され、裏切られ、信号の変わる音に立ち止まることに慣れてしまった。
ラジオからは、優しいアコースティックギターと、どこか遠い国のロマンティックなK-popが流れてくる。
その旋律はまるで、彼の人生のBGMのようだった。
語るべき言葉を失った夜。
誰に伝えるでもない思いが、空気の中に消えていく。
遠くで波の音が聞こえた。
「悲しいほど、自由だな……」
呟いた言葉は、誰にも届かない。
今日も彼は一人、防波堤の上に立ち尽くしていた。
風が背中を押す。
迷いも、躊躇もすべてさらっていくように。
「行け」と風が言う。
もう逃げる理由なんてないのだ。
そう思いながら、彼はそっと一歩を踏み出した。




