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愛染明王の導

 

愛染明王の導き

かつて、心の奥に激しく燃え上がる恋の炎を抱えた一人の若者がいた。叶わぬ想いに苦しみ、煩悩に心を乱されながらも、ただ純粋に、誰かを想い続けることに意味があるのではないかと問い続けていた。

そんな彼の前に、ふと現れたのは、全身赤く染まり、三つの目と六本の手を持つ異形の存在——愛染明王であった。

「愛とは、ただの欲ではない。欲の中にこそ、真の悟りへの道があるのだ」と明王は語る。その声は燃えるように熱く、それでいて不思議な静けさを宿していた。

仏教では、愛欲は煩悩とされ、捨てるべきものと教えられてきた。しかし密教では、煩悩こそが菩提、つまり悟りへの入口であると説く。「煩悩即菩提」——人の欲望の奥底にこそ、真理への扉が潜んでいるのだ。

愛染明王はその教えを象徴する存在。恋に悩む者を導き、結ばれるべき縁を紡ぎ、病を退け、命を守り、時には戦をも勝利に導く。彼のご利益は多岐にわたり、染物屋や水商売に生きる人々にまで及ぶという。

彼は弓を持ち、まるで西洋のキューピッドのように愛の矢を放つ。だが、その矢はただ人の心を射るだけではない。煩悩を射抜き、それを悟りの光へと昇華させる力を秘めていた。

若者はそっと目を閉じ、愛染明王の真言を唱える。

「オン・マカラギャ・バザロウシュニシャ・バザラサトバ・ジャクウン・バンコク」

その瞬間、胸の奥に灯る炎は穏やかな光に変わり、彼の心を静かに照らし始めた。愛は苦しみではなく、歩むべき道だったのだ。

 

 

「愛を、悟れ」

失恋から立ち直れずにいた大学生の遥(はるか)は、ある夜、友人に誘われて渋谷の小さな神社を訪れた。

「この神社、恋愛成就に効くらしいよ。特に愛染明王っていう神様が有名なんだって」

半信半疑でお参りした帰り道、遥はひとり、境内に残った。木々の間から赤い灯りがゆらめき、不意に時間が止まったような静けさに包まれる。

「君は、まだその想いを捨てられずにいるのか」

声がした。振り返ると、そこには赤く燃えるような衣を纏い、三つの目と六本の腕を持つ異形の存在が佇んでいた。だがその目は不思議と優しく、どこか懐かしい光を宿していた。

「愛染…明王…?」

遥が言葉を失っていると、明王は静かに語り始めた。

「愛に苦しむのは、悪いことではない。愛欲、煩悩——それらは、決して捨てるべきものではない。むしろ、それがあるからこそ、人は真の自分と向き合える」

「でも…愛って、こんなに苦しいものなの?」

遥の問いに、明王は微笑むように答えた。

「それでも、愛を選ぶか?」

遥は黙ってうなずいた。その瞬間、明王の六本の手のひとつが、弓を取り、もう一方の手が矢をつがえる。そして、光の矢が遥の胸を射抜いた——苦しみの中心にある、彼自身の「本当の願い」を貫いて。

胸の奥で何かが弾けた。涙があふれる。遥はようやく、自分がただ相手を想っていただけでなく、「誰かに必要とされたい」と願っていたことに気づいた。

「オン・マカラギャ・バザロウシュニシャ・バザラサトバ・ジャクウン・バンコク——唱えるがいい。愛を求めるその心が、やがて誰かを癒す力となる」

夜が明けた。あの不思議な出会いが夢だったのか、現実だったのか、遥にはわからなかった。ただ、心は軽く、目の前の世界が少しだけ色鮮やかに見えた。

そして新学期、遥はキャンパスの図書館でふと目が合った、笑顔の誰かに——新しい恋に、歩み始めるのだった。

 

第三章 ― 煩悩の光

七海の瞳の奥に揺れていた赤い光は、遥の心に深く刻まれていた。
あれは幻なんかじゃない。彼女の中にある何か——それはきっと、まだ言葉にならない「闇」と「願い」だった。

数日後、キャンパスの片隅で、七海がぽつりと話し出した。

「私ね…人を好きになるのが怖いの。期待されたり、信じられたりすると、裏切るんじゃないかって思っちゃう」

遥は黙って聞いていた。彼女の表情は、どこか哀しくて、それでいて静かだった。

「それでも…君は、誰かを助けたいと思ってるんだろ?」

「……なんで、そんなことわかるの?」

「君が俺に、最初に話しかけてくれたあの日から、ずっと感じてた。優しさがある。でも、自分にその資格がないって思ってる目だった」

七海の目に、一筋の涙が浮かんだ。

「遥くん、もし私が普通の人じゃなかったら…それでも、隣にいてくれる?」

遥は、深く息を吐いてからうなずいた。

「君が誰でも、どんな過去を持ってても…俺は、君を好きでいさせてほしい」

その言葉と同時に、世界が歪んだ。

空が裂け、赤い光が舞い上がる。二人の足元が淡く発光し、空間が変わった。神社の境内。あの夜、遥が出会った場所だった。

そして、彼の前に再び、愛染明王が現れる。

「遥よ。試練の時だ。七海の心の奥、煩悩の炎を受け入れ、そのすべてを光に変えられるかどうか。問うのは、愛の覚悟だ」

七海の体に、紅い炎がまとわりつき始める。その瞳には、もう一人の彼女がいた。過去に傷つけ、裏切られ、自らも他人を遠ざけてきた「業火のような孤独」。

「来ないで…!私を見ないで!」

遥は一歩踏み出し、炎の中に飛び込んだ。

「君がどんなに傷ついても、俺は目を逸らさない。君の煩悩ごと、抱きしめたいんだ」

遥の腕が七海に触れた瞬間、赤い炎は白い光に変わり、境内は穏やかな風に包まれた。

「煩悩を、拒むな。愛とは、それを抱きしめてなお、進もうとする力だ」

愛染明王の言葉が、二人の心に静かに響いた。

気づけば、元のキャンパスの芝生に戻っていた。七海の目から、涙がぽろりと零れる。

「…ありがとう。遥くんがいてくれて、よかった」

「こっちこそ」

そして、ふたりはようやく、心から微笑み合った。

外伝 ― 愛染の誓い

ずっと昔——まだ人々が欲を“罪”としか知らなかった時代。
ひとりの青年僧がいた。名は羅光(らこう)。清廉潔白、厳しい戒律を守り、多くの弟子たちから尊敬されていた。

だが、彼には密かに心を乱す存在があった。
それは、かつて共に修行をしていた女性僧——瑠璃(るり)。

彼女は自由で、よく笑い、風のように人の心に入り込む人だった。
羅光は、彼女を仏道の道に誘ったことを、どこかで後悔していた。なぜなら彼は、瑠璃を人として愛していたからだ。

だがその感情は、当時の戒律では重い「煩悩」だった。

ある日、瑠璃は寺を去る。理由を問う羅光に、彼女はただ一言だけ告げた。

「あなたは、私の心を見ようとしなかった。煩悩と呼んで切り捨てただけ。
でも私は、自分の心ごと仏に届く道があると信じたいの」

それが、羅光の心を激しく揺さぶった。

——“煩悩を否定することが、本当に悟りなのか?”

彼はその問いを抱えたまま、深い修行に入り、やがて密教に辿り着く。
そこには新たな教えがあった。

「煩悩即菩提」
——欲も苦しみも、捨てるのではなく昇華することで、悟りに変える道。

羅光は、かつての想いを胸に抱きながら、自らを炎の中に投じる。
欲、怒り、執着、嫉妬——あらゆる感情を飲み込み、解き放ったとき、
彼の姿は変わった。

燃えるような赤の肌。第三の目に、六本の手。
——愛染明王の誕生である。

その手に持つ弓と矢は、愛を射抜き、迷いを導くためのもの。
彼が守るものは「人の弱さ」、そして「愛するという煩悩」だった。

彼は今でも、煩悩に揺れる者に問いかけている。

「それでも、愛を選ぶか?」

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