如来の真義
「功徳を積みなさい」
お釈迦さまは、如来のもとで功徳を種えるならば無限の出世間福が生じる、とおっしゃっているわけです。なぜ、お釈迦さまは、まるで念を押されるかのように、「如来の所に於て」とおっしゃっているのでしょうか? 不思議に思いませんか?
わたくしはこの部分を読んだ時、これには深い意味が込められている、と直感しました。たしかに功徳を種えることは大切です。仏教系の宗旨・教団であるならば、功徳を積めと必ず教えます。それは結構なことであり、お釈迦さまの教えにかなっています。どの仏教教団でも、
といいます。けれども、そのような教団で長年信仰をしている人が、
「自分でいうのもなんですが、私はずいぶんと一生懸命に積徳の行をやっていると思います。でというと、その教団は決まって、
すが、どうもさっぱりよくありません。問題が解決しません」
「功徳の積み方が足りない。信心が足りない」
といわれます。これでは、どれだけやればいいのか分かりません。そのような経験をした人もいると思いますが、『三供養品』を読むと、いくら功徳を積んでも果報が得られなかった理由が分かります。どの教団も功徳を積めと口を酸っぱくして教えますが、いずれも積徳の行を行う上で最も大切なことを見落としているのです。あるいは知っているのに、わざといわないでいるとしか考えられません。
『三供養品』にあるように、お釈迦さまは如来のもとで功徳を種えよとおっしゃっているのです。 これは如来のもとでなければ、どれほど大きな功徳を種えても意味がないからなのです。如来のもとだからこそ、種えた功徳が涅槃界に入るための福になるのです。ところが阿含宗以外のほとんどの仏教教団には、如来がいらっしゃいませんから、如来のもとで功徳を種えることができません。それで福が得られないのです。
そういうと、伝統仏教のご住職などが、
「そんなことはないでしょう。私どもの寺では、国宝級の如来さまが祀られております。非常にありがたい仏さまです。ですからここで功徳を積めば、まさに成仏するだけの福がいただけるのです」
といわれるでしょう。そういって反論する人が出てくることを見越して、「如来の所に於て功徳を種う」とお釈迦さまは念を押されている、とわたくしは考えます。そうでなければ、わざわざお釈迦さまが、「如来の所に於て」と但し書きのようなことをおっしゃるはずがありません。
なぜならば仏教においては、仏教徒が如来のもとで功徳を積むのは、当然すぎら
龍本殿
くしはそう思います。
一人で、多聞第一と称される阿難です。阿難を座長として、多くの直弟子たちに説かれているわけです。彼らには、ごく当たりまえのことのはずです。これはお釈迦さまが、如来でないものを如来として祀る教団が現われることを見抜かれて、説いておられるとしか考えられません。わた
歯に忍着せずにいえば、普通のお寺にお祀りされているのは如来ではありません。
そもそも如来とはなんでしょうか?
如とは真姉の略で、真如とは真理という意味です。「真如の世界から来られたお方」ですから、 如来とお呼びするのです。パーリ語・サンスクリット語でタターガタといいます。
如来とは仏の十号の一つです。仏の十号とは仏さまの十種類の呼び名で、仏さまのお力やお働ようごじようきを十の角度から表現した徳名です。如来もその十号の一つで、ほかに阿麗薬(応供・至真・戴 ・正(正等選)・明行足・割起・世間解・無上士・調御太夫(調心師),愁卵・仏世様があります。したがって如来と呼ぼうと、仏世尊といおうと、完全解脱をされて成。 仏力を得られた仏さまに変わりはありません。
「如来の所に於て功徳を種う」とは、如来という、解脱と悟りを得られたお方のもとで、功徳を種えなさいという意味なのです。涅槃界に入るだけの無限の福を得るためには、まず本当の仏さまがいらっしゃらなければなりません。「如来の所に於て」、これが仏教の信仰・修行でいちばん大切なことです。要するに本尊論です。自分が仏道修行をする上で、どの仏さまを本尊としなければならないのかが論じられているわけです。
あなた方の家系の種那寺にお祀りされているのは、如来ではなくて、如来像でしょう。如来像
んか?」 「それでは、生きた如来さまはどこにいらっしゃるのですか? お釈迦さまはもうずっと以前に亡くなられたのだから、生きた如来さまなんて、もうどこにもいらっしゃらないのではありませ
ればならないのかた謝し
あなた方の家系の檀那寺にお祀りされているのは、如来ではなくて、如来像でしょう。
は知来ではないのですから、そこで功徳を積んでもしかたがありません。
ひとくちに仏さまといっても、人工の仏と自然の仏があります。自然の仏が本当の仏であり、 生ける仏なのです。自然のままの本当の仏さま、これを「自然法爾の仏」とお呼びします。対して人工の仏とは、人間が創作した仏像や仏画です。人工の仏は、本当の仏ではありません。
「如来の所に於て」とは、本当の生ける如来のもとでという意味です。この如来はお釈迦さまの
ように、修行によって実際に成仏された、歴史上実在の仏さまでなければなりません。一般のお寺の本堂に、どれだけ多くの如来がお祀りしてあろうとも、それらはすべて如来像であって、如
来ではありません。像という字を辞書で引いてごらんなさい。たいていの辞書は、
「神仏・人・鳥獣などの形を模して描き、また造ったもの」
となっています。つまり、仏像とは仏さまの模型であって、仏さまそのものではないのです。
真正仏舎利こそ生ける如来
という質問が出てくるでしょう。
いう。 この名前は、湿、笑の智慧を、天豉(雷)のような法音をもって衆生にさとらせる仏、という意味で、つまりシャカの説いた教法を、仏として表現したのである。自性、敷の仏とも
生きた知来さまはいらっしゃいます。それが、お釈迦さまの本体、生ける釈迦と呼ばれている真正仏舎利です。これが「自然法爾の仏」です。単なる如来像は、仏でもなければ如来でもありません。真正仏舎利こそが真実の如来です。この「真実の如来のもとで功徳を植えよ」、とお釈奥さまはおっしゃっておられるのです。真実の如来・真正仏舎利こそが、『三供養品』に説かれ 、生ける如来なのです。
ているこれは、わたくしが勝手にいっているのではありません。密教では古来より、お釈迦さまの御 ・御選作をもって、お釈迦さまの本体としております。このことは拙著『守護仏の奇蹟』 (平河出版社)で、すでに説いております(同書一七七一一七九頁)。
密教では、シャカの新作、御遺身を「変化出身の釈迦」といって、生駅のシャカの本体とするのである。御遺骨、御遺身が、生きているシャカの本体なのである。
仏の本質を緻密に芸術化し、集欲化して表現する点で、密教はもっともすぐれている。
その密教では、シャカに三重あることを説いている。これを「三重の釈迦」という。 第一重のシャカは、胎蔵界マンダラ咲、部心薬院にまつられている呼びの一つで、「天鼓雷欲仏」という名前でまつられている。
第二重のシャかは、胎蔵界マンダラ釈迦院のシャカで、これが、街射のシャカの本体と
消身である。 される。本尊として人がかれているのが、新発駅、新話など、生身のジャカの御建、美
つまり、
第三重のシャカは、ボードガヤの菩提樹の下でさとりをひらかれ、仏陀になられたシャカ。
これは生身のシャカである。
第一重シャカの教法
第二重生身のシャカの本体御遺骨
御遺身
第三重……………生身のシャカ
とこうなるのである。
来とするのである。 第三重の生身のシャカはすでにおなくなりになって、仏界におかえりになってしまっている、そこで、第二重の、生身のシャカの本体である御遺骨・御遺身をもって、生身の釈迦如
もっとも、密教が、御遺骨(村という)をもって生身のシャカの本体として、釈迦院にまつったのは、べつに、密教の独断でもなければ、独創でもないのである。
仏教の照明、インドにおいて、それは仏教の本流だったのである。
ジャカのおなくなりになったあと、インドの仏教徒は、シャカの舎利をストゥーパ(塔) におまつりし、シャカそのものとして礼拝供養した。ところが、奇蹟的な置験功徳があいつ
いだので、急速に全土にひろがり、ついに仏教信仰の本流となったのである。
これは、考えてみれば当然のことで、シャカなきあと、仏教を信仰するとしたら、シャカ




