暗闇を切り裂くように月が雲間から現れた。伽藍の奥深く、金襴の垂れ幕が微風に揺れている。香炉から立ち上る白煙が、漆黒の厨子に収められた尊像を優しく包み込む。
「これが七千万の仏を生み給うた母というのか」
若い修行僧が震える指先で灯明の火を揺らした。瑠璃色の光の中に浮かび上がったのは、一際異彩を放つ観音像だった。十六歳の乙女のような柔和な面立ちながら、手には金剛杵が握られ、宝剣が鞘に鳴りを潜めている。衣装の褶(ひだ)ひとつに至るまで、この世のものとは思えぬ精緻さで刻まれた像は、どこか異界の気配を漂わせていた。
「元はドゥルガー女神と聞けば納得がいく」
背後から響いた老僧の声に、修行僧はひざまずいて額を畳につけた。老僧の錫杖が石畳を叩く音が、深夜の仏堂に清冽に響き渡る。
「阿修羅どもが天界を脅かした時、シヴァ神の妃は十の腕に神々の武具を授かり、乳海から立ち上る悪鬼を討ち伏せた。その勇姿が仏法に取り入れられし時、戦いの女神は安産の守り手に姿を変えたのだ」
ふと厨子の奥で金色の光が波紋のように広がった。准胝仏母の第三の目が微かに輝いているように見えた。修行僧が息を飲むと、老僧は静かに経文を唱え始めた。
「七倶胝仏母…数え切れぬ過去世において無数の仏を胎内に宿し、この世に送り出したという尊格。だが天台の教えでは如来に、真言の法灯では観音菩薩に。その矛盾こそが、この尊が仏と衆生の狭間を司る証ではなかろうか」
突然、外を駆け抜ける風が全ての灯明を消した。暗闇の中、准胝観音の宝冠に嵌められた七宝が幽かに光り始める。修行僧の耳元で、赤子の産声のような、しかし千年の時を超えた声が囁いた。
(全ての命は我が胎内より)
再び灯明がともった時、老僧の姿はすでになかった。修行僧の掌に、白檀の香りを纏った紅い糸が巻きついている。月は西の山稜に傾き、暁光が東の空を染め始めていた。




