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知・情・意、すべてを強化する幸福な修行の秘密”The secret of happy training that strengthens knowledge, emotion, and will.”

  1. 念覚支の修行法は、単に「おもいを平らかにする」だけでなく、こころを平安にする結果が修行そのものではないとされる。
  2. 修行は念の力を強化することから始まり、これは知・情・意の力を均等に強化し、かたよりなく平均化する訓練である。
  3. 知的な力、情緒面、意志を均等に強化し、かたよりないバランスを保つことが重要。
  4. 念そのものの力も神秘的に強化し、一点に集中したときに火を発するほどの力を得る。
  5. 「空観」の体得により、諸法の実相が理解でき、縁起の法を如実に悟ることができる。
  6. 七覚支法の中で念覚支は目玉とされ、真実なる宗教や教法を選び択し、他を捨てる取捨選択が必要。

 

The training method of Nengakusho is said to not only “calm the mind,” but also that the result of making the mind peaceful is not the training itself.
Training begins with strengthening the power of mind, which is training to equally strengthen the powers of intellect, emotion, and will, and even out them without bias.
It is important to maintain an unbiased balance by equally strengthening your intellectual, emotional, and willpower.
The power of the mind itself is also mysteriously strengthened, gaining the power to emit fire when concentrated in one point.
By mastering the “view of emptiness,” one can understand the reality of various laws and realize the law of dependent origination.
Nen Gakusho is considered to be the centerpiece of the Seven Gakushuho, and it is necessary to choose the true religion or teaching method and discard the others.

 

 

 

念力をつよくして

ノ一バランスをたもつ

 

これはどういう修行法かと申しますと、仏教辞典などを見ますと、「おもいを平らかにする」うように説明しております。念覚支とは「おもい」つまり念を平安にすることである、とこ’うように説明しておりますけれども、わたくしは、それだけでは念覚支の修行の説明になっないと思います。

わたくし自身の修行体験によりますと、そんな簡単なものではなくて、こころを平安にする、いは確かにそうでありますけれども、それは結果から出てくるものであって、修行そのものでらいわけです。おもいを平安にするというのは、念覚支を修行した結果、つねにおもいが平安なる、おもいが平らかになる、ということであって、それ自体が修行ではない。

わたくしは、この修行を二つに分けることができると思うんです。まず、念の力を強化する。

活力といってしまうと、なにか安っぽくなってしまいますね。自分で『念力』という本を書いおきながら、そういうことをいうのはおかしいけれども、念力、と言でいってしまうと、ちっと安っぼくなってしまう。念の力を強化する、要するに、精神力というものを非常に強化すということですね。

それをただたんに精神力というと、漠然としますけれども、要するに、意志の力、知能の力。ういったものを非常に強化する訓練である。

もっというならば、人間の精神作用というものは、知・情・意、この三つから成り立っていま

知性の力、知能の力、そして情緒的なはたらき、それから意志の力です。

要するに念の力を強化するというのは、この三つの部門(知・情・意)のはたらきを強化し、しかも、そのいずれにもかたよらないようにする、ということです。それが、結局、結果的におもいが平安になるということじゃないですか。

人間の精神力というものは、この知・情・意のはたらきから成り立っています。ところが、こいがかたよりやすいわけです。

夏目漱石の『草枕』の書き出しに、

-知にはたらけば角が立つ。情に棹させば流される。とかくこの世は住みにくい」とあるでしょう。

だから知というものにかたよると、とかく理くつっぽくなって角が立ちやすい。頭が非常よいと、知能のはたらきがつよいですから、すぐ理くつでものをわりきろうとします。

情に棹させば流される それはそうでしょう、人情的になりすぎれば流されてしまいます。

意志がつよかったらどうかというと、これは強情で、どうにもしようがないということになりますね。

ですから、知・情・意、それぞれのはたらきを強化し、たかめる、そういう修行です。しか

そのいずれにもかたよらないように平均化する、これがいちばん大切なことじゃないです知的にも非常に高度で、情緒面においても、いわゆる情操がゆたかであるというように、芸術面などでもよく理解することができる。情操的な情のないひとというのは、無昧乾燥にな力やすいわけです。芸術的なことは、なにもわからない、はなしをしてもちっともおもしろくない、シャレをいったって、ニコリともしない。今日きいたシレを、三日ぐらいたっ七急に笑,い出じて、「ああ、そうだ,ったのか」なんて(笑)、それじやあおはなしにならんでしょう。

意志がつよいのはけっこうだけれども、それが頑固になってしまうのではいけない。

だから、知・情・意の精神作用を、非常に強化し、たかめるという訓練をする。そしてそのいずれにもかたよらないということ。これがまず第一です。

しかし、それだけじやない。

念そのものの力を、神秘的にまで強化する。一点に集中したとき、火を発するほどの力を出す。ですから、この念覚支の修行には、クンダリ’’ー ヨーガの修行が入るわけです。

つぎに「空観」を体得する。ですから、この七覚支には、「四念処法」の修行が入っている。

この空の体得により、諸法の実相がわかるようになります。つまり、「縁起の法」を如実 にさとることになるわけです。

この念覚支が、七覚支法の中の、目玉といつてよいでしよう。いや、三十七道晶の中でも

これは、宗教、信仰、哲学というたくさんの教法、。思想のなかから真実なるものをえらびだす

ということです。

択というのは、「選択」のタクでず。 略どない本漢字は「選揮」と書いて、選 えらぶ、「揮」。もえらぶ、という字です。

つまり、ほんとうに真実なる教法をえらびとる、ということですね。この世の中には、さまざまな宗教、信仰、思想があびます。そのなかから真実なるものをえらびとる。そうして、まちがったものや、いつわりのものを捨て石、取捨選択するということです。

Strengthen your psychokinesis
maintain balance

 

As for what kind of training method this is, if you look at Buddhist dictionaries, it is explained as “to level out your thoughts.” Although Nen Gakusho is explained as “omoi”, that is, making one’s mind peaceful, I do not think that alone is sufficient to explain Nen Gakusho’s training.

According to my own experience with training, it is not that simple, and it is true that it does bring peace to the mind, but it comes from the results, not the training itself. Making your thoughts peaceful means that as a result of practicing Nen Gakusho, your thoughts will always be peaceful, your thoughts will become flat, but this is not a training in itself.

I think this training can be divided into two parts. First, strengthen your mind.

When I say vitality, it sounds cheap. It’s strange to say something like that when you’ve written a book called “Telekinesis” yourself, but calling it “Telekinesis” seems a bit cheap. It strengthens the power of the mind, in other words, it greatly strengthens the power of the mind.

Simply calling it mental power may sound vague, but in short, it is the power of will and the power of intelligence. This is training that greatly strengthens these skills.

In other words, the human mind is made up of three things: knowledge, emotion, and will.

The power of the intellect, the power of the intellect, the emotional function, and the power of the will.

In short, strengthening the power of mind means strengthening the functions of these three departments (intellect, emotion, and will), and not relying on any one of them. Isn’t that what will ultimately lead to peace of mind?

Human mental power is made up of the functions of knowledge, emotion, and will. However, carp is easier to do.

At the beginning of Natsume Soseki’s “Kusamakura”,

– If you work on your knowledge, you will gain strength. If you allow yourself to be carried away by emotion, you will be swept away. In any case, this world is difficult to live in.”

Therefore, when we focus too much on knowledge, we tend to become too logical and stand out. If you are very intelligent, your intelligence is strong, and you will quickly try to reason things out.

If you let your emotions get the best of you, you’ll be swept away, but if you’re too empathetic, you’ll be swept away.

If you had a strong will, this would mean you’re stubborn and there’s nothing you can do about it.

Therefore, it is a practice that strengthens and enhances the functions of intellect, emotion, and will. deer

The most important thing is to average them so that they are not biased towards either of them.Intellectually, they are very advanced, and emotionally, they are rich in so-called sentiments, and they also have a good understanding of artistic aspects. can do. People who are emotionally devoid of compassion tend to become careless and dry. When it comes to artistic things, I don’t understand anything, I don’t find the stories interesting at all, and I don’t even smile when I tell a joke. After about three days, you suddenly burst out laughing at something you heard today and said, “Ah, that’s right, that happened” (lol).

It’s fine to have a strong will, but it shouldn’t turn into stubbornness.

Therefore, we train to greatly strengthen and heighten the mental functions of knowledge, emotion, and will. And don’t rely on either of them. This is the first thing.

But that’s not all.

It mysteriously strengthens the power of thought itself. When concentrated on one point, it generates enough power to start a fire. Therefore, the practice of Kundali’-Yoga is included in this practice of mental awareness.

Next, learn how to see the sky. Therefore, this Seven Gakkushi includes the training of the “Four Thought Treatment Methods”.

By experiencing this emptiness, you will be able to understand the reality of the various dharmas. In other words, we will clearly understand the “Law of Dependent Origination.”

You could say that this Nen Gakusho is the highlight of the Seven Gakusho. No, even among the 37 Daoaki

This includes many teaching methods: religion, faith, and philosophy. Select the truth from thoughts

about it.

Selection is not just a matter of “selection.” The original kanji with no abbreviations is written as “senki”, which means “senki”. The character is moerabu.

In other words, choose the teaching method that is truly true. There are many different religions, beliefs, and ideas in this world. Choose what is true from among them. Then, we throw away the wrong things and the false things and weed them out.

 

 

 

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Buddha  Japan Journal

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日本の仏教を発信しますSend Japanese Buddhis

 

 

七道品経

七道品経

 息の如く我れ聞きぬ・一時仏が殴の町彫りたまえにか即ぞあり・仏のしたてまっり退きて一面に坐に印して詔さくぐ世尊のとは如餓ノ世尊いご所が覚分と冷すや。仏い比丘にげたまわくヽ「所謂七道喜・’狩・定’・捨覚な力じ。(要略)

和 訳

 是の如く我れ聞きぬ。一時、仏、舎衛国の祗樹給孤独園に住まりたまえり。その時世尊、彼の比丘に告げたまわく、「上に説けるが如し。差別せば是の如く七覚分を修習し已らば当に二種の果を得べし。現法に漏尽きて無余涅槃を得、或は阿那含果を得んと。仏此の経を説き已り給いしに、諸の比丘、仏の説かせたまう所を聞きて、歓喜し奉行しき。

雑阿含経「果報経」下

 和 訳

 是の如く我れ聞きぬ。一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園に住まりたまえり。「上に説けるが如し。差別せば是の如く比丘、七覚分を修習し已り、多く修習し已らば、四種の果、四種の福利を得ん。何等をか四と為す。所謂須陀百果・斯陀含果・阿那含果・阿〔現。法〕現世のこと。

〔無余涅槃〕身心ともに解脱して涅槃に入ること。羅漢果なりと。仏、此の経を説き已りたまいしに、異比丘、仏の説かせたまう所を聞きて、歓喜し奉行しき。

 

雑阿含経「七種果経」

 

 和 訳

 是の如く我れ聞きぬ。一時、仏、舎衛国の祇樹給孤独園に住まりたまえり。「上に説けるが如し。差別せば、若し比丘、七覚分を修習するに多く修習し已らば当に七種の果、七種の福利を得べし。何等をか七と為す。是の比丘は、現法の智証の楽、若くは命終時(の智証の楽)を得ん。若し現法の智証の楽、及び命終時(の智証の楽)を得ざらんも、而も五下分結尽くるを得て、中般涅槃せん。若し中般涅槃を得ざらんも而も、生般涅槃を得ん。若し生般涅槃を得ざらんも而も、無行般涅槃を得ん。若し無行般槃を得ざらんも而も、有行般涅槃を得ん。若し有行般涅槃を得ざらんも而も、上流般涅槃を得ん」と。仏、此の経を説き已りたまいしに異比丘、仏の説かせまう所を聞きて、歓喜し奉行しき。

 〔現法の智証の楽〕阿羅漢を得て、現実肉身の上に涅槃の証果を得る。有余涅槃のこと。

 〔命終時の智証の楽〕死の刹那に涅槃を得る。無余涅槃の〔中般涅槃〕欲界(この娑婆世界)に死んで、色界(天界)に生ずる中途に涅槃を得る。

 〔生般涅槃〕色界に生じて、久しからずして涅槃を得る。

 〔無行般涅槃〕色界に生じて修行せず長時間を経て涅槃を得る。

 〔有行般涅槃〕色界に生じて久しく修行して涅槃を得る。

 〔上流般涅槃〕色界に於て、天下より上天に進み、色究竟天に至って涅槃を得る。以上、五種不還を説いたもの。

大意

くあるとき、外道の出家が来て、ヽ釈尊に、成仏のための修行法をおたずねした。 

 釈尊は、「七覚支」土そその成仏法でだるとおっしゃって、1 官支・択法覚支・精進営淮党支・狩覚支丿定覚支・捨覚支の七つの修行法をお説きに

                                     

説ぎれた王で、阿那 果にも五種の涅槃の得かたがあるとくわしくお教えになられたので仙った。                               

そして、この七覚支を修行すれば、阿羅漢果ヽ阿那含果 斯陀合果 須陀似果が得られると解こなられたのであった

七覚支成仏法

 講説        

 釈尊の成仏法は、前にのべましたように、七科三十七道品といって、。七科目、三十七種類のカリキュラムから成り立っています。すなわち、四念処法、四正勤法、四神足法、五根法、五力法、七覚支法、八正道です○                        

このうちの七覚支法について、解説されたものです。

 成仏法について質問した外道の出家に、釈尊がなぜ、七科目の中の一つである七覚支について解説したのかと申しますと、これはわたくしの体験からの推測ですが、この異比丘がもし釈尊のお弟子となって成仏法を修行するとしたら、七覚支の修行が一番よいどお考えになったからだと思います。

 というのは、釈尊の成仏法は、七科目三十七種の修行馳全部やらなければならないというものではないのです。七科目の中の、二科目位をやればいいわけです。というのは、七科目の修行法の中にはでおなじような修行法が、ダブつて入っております。それで、釈尊は、お弟子の因縁を三みてい七科目の中から、おまえはこの修行をせよ、おまえはこれとこれの修行法がよい、というように選別されてあたえたのであろうと思われます。 時には、科目にかまわず、一三十七種の修行法の中から自由にいいくつかえらび出して、修行者に課したものと思われます。 

 そこで、この七覚支の修行法というのが、どんなものであるか、おはなしいたしましょましう。

 

念力をつよくして

ノ一バランスをたもつ

 

これはどういう修行法かと申しますと、仏教辞典などを見ますと、「おもいを平らかにする」うように説明しております。念覚支とは「おもい」つまり念を平安にすることである、とこ’うように説明しておりますけれども、わたくしは、それだけでは念覚支の修行の説明になっないと思います。

わたくし自身の修行体験によりますと、そんな簡単なものではなくて、こころを平安にする、いは確かにそうでありますけれども、それは結果から出てくるものであって、修行そのものでらいわけです。おもいを平安にするというのは、念覚支を修行した結果、つねにおもいが平安なる、おもいが平らかになる、ということであって、それ自体が修行ではない。

わたくしは、この修行を二つに分けることができると思うんです。まず、念の力を強化する。

活力といってしまうと、なにか安っぽくなってしまいますね。自分で『念力』という本を書いおきながら、そういうことをいうのはおかしいけれども、念力、と言でいってしまうと、ちっと安っぼくなってしまう。念の力を強化する、要するに、精神力というものを非常に強化すということですね。

それをただたんに精神力というと、漠然としますけれども、要するに、意志の力、知能の力。ういったものを非常に強化する訓練である。

もっというならば、人間の精神作用というものは、知・情・意、この三つから成り立っていま

知性の力、知能の力、そして情緒的なはたらき、それから意志の力です。

要するに念の力を強化するというのは、この三つの部門(知・情・意)のはたらきを強化し、しかも、そのいずれにもかたよらないようにする、ということです。それが、結局、結果的におもいが平安になるということじゃないですか。

 人間の精神力というものは、この知・情・意のはたらきから成り立っています。ところが、こいがかたよりやすいわけです。

 夏目漱石の『草枕』の書き出しに、

-知にはたらけば角が立つ。情に棹させば流される。とかくこの世は住みにくい」とあるでしょう。

 だから知というものにかたよると、とかく理くつっぽくなって角が立ちやすい。頭が非常よいと、知能のはたらきがつよいですから、すぐ理くつでものをわりきろうとします。

 情に棹させば流される それはそうでしょう、人情的になりすぎれば流されてしまいます。

意志がつよかったらどうかというと、これは強情で、どうにもしようがないということになりますね。

 ですから、知・情・意、それぞれのはたらきを強化し、たかめる、そういう修行です。しか

そのいずれにもかたよらないように平均化する、これがいちばん大切なことじゃないです知的にも非常に高度で、情緒面においても、いわゆる情操がゆたかであるというように、芸術面などでもよく理解することができる。情操的な情のないひとというのは、無昧乾燥にな力やすいわけです。芸術的なことは、なにもわからない、はなしをしてもちっともおもしろくない、シャレをいったって、ニコリともしない。今日きいたシレを、三日ぐらいたっ七急に笑,い出じて、「ああ、そうだ,ったのか」なんて(笑)、それじやあおはなしにならんでしょう。 

 意志がつよいのはけっこうだけれども、それが頑固になってしまうのではいけない。

 だから、知・情・意の精神作用を、非常に強化し、たかめるという訓練をする。そしてそのいずれにもかたよらないということ。これがまず第一です。

 しかし、それだけじやない。

 念そのものの力を、神秘的にまで強化する。一点に集中したとき、火を発するほどの力を出す。ですから、この念覚支の修行には、クンダリ’’ー ヨーガの修行が入るわけです。

 つぎに「空観」を体得する。ですから、この七覚支には、「四念処法」の修行が入っている。

この空の体得により、諸法の実相がわかるようになります。つまり、「縁起の法」を如実 にさとることになるわけです。                                

 この念覚支が、七覚支法の中の、目玉といつてよいでしよう。いや、三十七道晶の中でも

 これは、宗教、信仰、哲学というたくさんの教法、。思想のなかから真実なるものをえらびだす

ということです。

択というのは、「選択」のタクでず。 略どない本漢字は「選揮」と書いて、選 えらぶ、「揮」。もえらぶ、という字です。

 つまり、ほんとうに真実なる教法をえらびとる、ということですね。この世の中には、さまざまな宗教、信仰、思想があびます。そのなかから真実なるものをえらびとる。そうして、まちがったものや、いつわりのものを捨て石、取捨選択するということです。

 正しい信仰をえらびとって、正しくないものを捨てさるということが修行というのは、どういうことなんだろう? そう思ったことかありますけれども、考えているうち、やはりそれは修行なんだなと思うようになった。というのは、それが修行であるというのは、自分自身の勉強、知能によってそれをなすというところにあるわけです。         、

 たとえば、つぎのようなことです。

 お釈迦さまが出家されて、自分がさとりをひらくに到るまでには、当時のさまざまな信仰や宗教、いろいろなことを教える思想家、そういったかたがたに、肘あたりしてぶつかっていっているわけです。いろいろな仙人にもあって、はなしを聞く、それだけではなくて、それが正しいか、正しくないか、ということをご自分でI生けんめい考えられたということです。

 そうして結局、当時のインドにあったところのあらゆる教え、宗教というものは、みな正しくないという結論に達したわけです。それには、釈迦ご自身のふかい修行と勉強によってそこに到達したわけです。

 ですから、わたくしたちも、この択法覚文が修行であるというのは、自分自身の勉強と修行によって、ほんとうに真実なるものをえらびとり、正しくないものは捨てさる、ということをしなければいけないんです。

瞑想ひつとっても、日本に、瞑想を教える学校みたいなところや、瞑想の先生、そういったものがたくさんあるでしょう。そのたくさんの瞑想のなかから、どれが正しい瞑想法なのか? どの先生が、正しい瞑想法を教えているのか? ということを自分自身がはっきりと取捨選択しなければいけないということです。

 たいていの場合は、自分自身の研究や勉強、あるいは修行によって取捨選択するというひとはすくない、たいてい評判を聞くだけです。

「あのニホンーメディテーションセンターというのはどうなの?」

「あれは、桐山さんというひとがやっていて、いいよ」

 といったり、

 「あれはダメだ、インチキだよ」

 なんていう。そうかなあ、どうなんだろうか。T・M(、rranscendental Meditationo超越瞑想の略語)というのがいいというひともいれば、T・Mというのはダメだというひともいる。その評判だけできめてしまう人が多い。

 それをお釈迦さまは、ありとあらゆるいろいろな教法をご自分でぶつかって調べてみる。瞑想についても、すぐそれがいいとかわるいとか、ひとの評判とか、そういったものにはまどわされない。ご自分がその瞑想をやってみて、、これはいかん、これはいい、というように選択される。

 そういう意味で、択法覚支というのが修行になるわけです。自分が修行をして確かめて、そうそういう立場から、いろいろな宗教にぶつかっていってみた。そうすると、なかなか明瞭な答が出てこないんです。

 天理教にしても、ひとの道にしても、そのほか、わたくしはいろいろな宗教にぶつかってい1つた。ところがそこで、「この宗教で救われるとは、いったいどういうこ&なんですか?」と聞いてみても、これが明瞭でないんですね。

 ある宗教では、救うというのは「しあわせにするLということ、救われるというのは「しあわせになる」ということと、こう簡単に答える。では、’「しあわせ」というのはいったいなにかと追及してみると、その定義がはっきりしない。

 しあわせというのは、要するに、一つの満足感をあじわうことでしょう、そうわたくしは思い

ます。病気で苦しんでいるひとが、病気が治ったら満足しますから、それで救われたと思うでし

ょう。お金がなくて苦しんでいるひとが、お金が入ると満足しますから、よろこびをもって救われたと思う。

 しかし考えてみますと、満足なんていう状態はないんです、人間にとって。しあわせとか満足とかいうことばはありますけれども、実体はない。というのは、しあわせにしても、満足にしても、これは人間のそのときの状態によってあらわれるものです。

 わたしはしあわせだ、予は満足であるぞよ、とこういう。しかし、そのしあわせとか満足というのは、人間がある状況下で、ある状態においてあじわうもので、どこまでも主観的なものです。ところが、人間の状況とか状態というものは、いつも変わる。「無常Lです。はやいはなし、

わたくしがいつも例にとりますけれども、お腹がすいてお腹がすいてどうにもならない。二日も三日も食べないで、ぷっ倒れるほどお腹がすいている。もうなんでもいいから食べたい。そこへ、ウナ丼や天丼やカツ丼がワーツと出たら、これは満足ですよ、もうむしゃぶりついて食べるでしょう。もう満腹する、これはしあわせですね。

 さっきはぶっ倒れるほどお腹がすいていたのが、こんどはぶっ倒れるほど食べる。そうすると苦しいですよ、なにか消化剤はないか、ということになる。

 江戸小咄のなかに、そういうのがありますね。町かどに乞食がすわっている。そこへ、宴会帰りの旦那が、いいきげんで鼻うたまじりでフラフラやってきた。そこで乞食が、

 「旦那さま、一文やってくださいませ。わたくしは、もう二日も三日もごはんを食べないで、ぶっ倒れるほどお腹がすいております

 といったら、旦那が、思わず、

 「それはうらやましい

 といった。旦那は、あんまり飲んだり食べたりしたので、気分がわるい。そうすると、お腹のたいし、ごちそうをうんと食べすぎたひとは、お腹のすいている状態が引らやましくなる。

 お金がほしいお金がほしい。そこでお金がたくさん入ると、泥棒が入るんじゃないか、だれかにだまし取られやせんか、それが気になって夜も眠れない。

 一つの状況下において、満足感をあじわっているというのが、しあわせという状態なのだから、その状況が変わってしまったら逆になってくるわけです。だから、そんなものはあり得ない。一時的な現象としてはあるけれども、そういったものはつづかない、あたりまえのことです。

 そういうしあわせをあたえる、あるいは満足をあたえるなんていうことは、決して宗教の目標ではないはずです。宗教によって救うとか、救われるということは、永遠的なものであり、永続するものでなければいけない。

 どこかの教団が説くように、この信仰をすれば金か儲かる、大臣になれる、代議士になれる、金持になれる、そんなものはしあわせでもなんでもない。それは到達した瞬聞からそれを失いたくないという苦しみに変わるものです。 

 では、いったい救うとは、救われるとはどういうことなのか?

 それを追求して わたくしはあらゆる宗教の門をたたいて、どれも満足する答は得られなか

った。結局、仏教へもどっていった。

 どうかというとヽ大乗仏教では「試れんをあたえる」ということをいっています。

仏教では、アッシッをアンジンという。あなたがたが、大乗仏教のお坊さんに、

 「あなたの宗旨では、どのように人を救うんですか?」

 と聞いたら、禅宗だろうが、浄土宗だろうが、なに宗だろうが結局、「安心をあたえる」とこういいますよ。                                    

 「安心というのは、いったいなにか? これは儒教のほうで、「安心立命」ということばがあります。要するに、心を安んじて、生ぎるいとなみをつづけるということです。人間というものは、いつもなにかしら不安な心におそわれている、そういった不安感をなくし、心を安らかにして命を立てる、つま句生活をするということ、それを安心という、その安心をあたえるのだ、と必ずこういいます。また、死後の不安をとりのぞくという意味で使うこともあり吏す。

 だから、」仏教のいろいろな宗旨・宗派を調べてみますと、みな、いかにして安心をあたえるかということが、匹テーマになっています。

しかし、では、安心というのはいったいなにか? いつもこころが平安で悩みがないということだ。では、それをどういうようにしてあたえるのが、と問題はそこに行く。

そうしますとこんどは、大乗仏教は、答がみなわかれてしまうんです。禅宗の場合は、坐禅観天台宗。ぱ、「朝題目に夕念仏」といって、朝のおつとめには法華経を誦み、夕方のおつとめにぽ念仏を唱える。日蓮上人は天台宗出身ですから叡山に行って、彼は生一本な男ですから、それで疑問をもった。宗教というのは一本でなければいけない、あれもこれもなんていうのはおかしい。。ところが、比叡山の勤行は、「朝題目に夕念仏」といって、朝は「ナムミョウホウレッゲキョウ」といって法華経を唱え、夕方の勤行には「ナムアミダブ、ナムアミダブ」といって阿弥陀仏をおがんでいる。いったいどっちなんだ? ということになる。

 日蓮上人というひとは生一本なひとですから、信仰というものはただひとすじでなければいかん、といヶことで、かれはいろいろ研究して、結局、法華ひとすじ、法華一乗ということで日蓮宗を立てたわけです。                                   

 天台宗の場合は、法華経を信仰して「摩詞止観」の修行をする。真言宗へいくと、密教の修法―金剛界の法と胎蔵界の法を修行して即身成仏する。そういうようにみんなまちまちなんで

そして、結局、なにをあたえるか? 安心だとこういう。安心をあたえる方法というのが、おなじ大乗仏教でみんなちがうんですよ。いったいどれがほんとうなんだ、ということになるでしょう。

 

 これみんな落第なんです、この答は。仏教の目標というのは「安心」なんかじゃない、「成仏」することなんです。『葉隠』の表現を借りると、「仏教とは成仏することと見つけたりです。仏教とは安心をあたえることなりなんて、そんな曖昧模糊なものではない。大乗仏教はもうそこからおかしいのです。なぜそうなったかと考えてみると、成仏法がないからです。さっきいいましたように、各宗旨でみんな安心をあたえる方法がちがう。というのは、はっきりした成仏法がないから、そうなる。そして、「安心をあたえる」というようなはづきりしないことになってしまうのです。

 お釈迦さまはどうおっし『やっているかというと、「成仏することだ」とおっしやっている。涅槃に入ることだと教えておられる。解説して、涅槃に入って成仏したら、安心も不安心もない。

安心とか不安心とかいう相対的なものを越えた、絶対の境地に入ってしまう。これがほんとうの仏教なんです。

 わたくしは、あらゆる宗教を遍歴して仏教にもどり、その仏教の中でまたあらゆる宗旨の門をたたき、最後に最もすぐれた釈尊直説の阿含にたどりつくことができた。ここにくるまで三十年以上かかっています。そのあいだ、択法覚支の連続であった。

 あなたがたは、わたくしよりもよっぽど徳がありますから、わたくしのようにぞんなに時間をかけなくてもすんだ。ぱあっと阿含にきてしまった。よっぽど徳があるんですね。しかし、そのぶん、択法が足りないかも知れん。        

 しかし、そうはいものの、あなたがただって、わたくしほどの勉強はしなくても、現代人としでの感覚、教養、。常識から、この阿含宗をえらびとうた。宗教上の勉強では、、プロ政宗教家や坊さんに。かなわないかも知れないが、しなにより右、おそらく、’自分の人生を賭けるという意気ごみで阿含をえらび取った。これぱすばらしい択法覚支であったと思うです。

                          

朝霧高原にやってきて、三泊四日の出家をして、阿含教法の中でもより高度な法をえらんで身にいつけるため伝法をうけている。りっぱな択法覚支です,

 

精進鴬支            

 択法も、ただえらんだだけではなく、えらんだものを一心に努力精進してぃ自分の身につけなければならない。阿含を学んで、知識として、阿含は最高の仏教であるとわかっただけではだめだ 最高のもだとわかった阿含の教法を、全に自分のものにするために、心。不乱の努力精進というものがなければならない。そこに精進営支があるわけです。

 

修行が苦しいというやつは人前になれない

 

喜覚支

 しかし、その精進覚支も、ミいやいやながらにやったのではだめだというのが、つぎの「喜覚支」なんです。喜覚支というのはよろこびに住する修行だ、というのです。その精進が、真実の教法を身につけるよろこびに住するということです。

えろこびに住さなきゃならんという、これはちょっとむずかしいかもしれませんね。よろこびに住せよ。しかし、「それはわかりますけれども、わたしちっともよろこべないんです。ちっともうれしくないんです岬せめてもう、泣きっつらしないだけ、゛泣きごとをいわないでI生けんめいやっているだけ、。いいと思ってぐださい。

まあ、『それくらいでかんべんしてくださいLというひとがあるかも七れないけれども、お釈迦さまは、それではほんとの修行じゃないとおっしずるんです。

一どんなつちい精進も、どんな苦し。い修行も、それがよろこびに住するという境地でなければ、ほんものの修行ではない、身につかんということいんだ。その苦しいのを苦しいながらにがまんして、努力することが、それが修行じゃないですか、精進じゃないですか、それでいいんじゃないんですか、という理屈も成り立つとおもうんです。そうでしょ、。苦しいことは苦しい、つらいことはつらい、’いやなことはいやだ、けれども苦しいとおもいながら、つらいとおもいながら、いやだとおもいながら、『まあ、とにかく」生けんめいにやってるんだから、それが修行というもので、それでいいんじやないですか、とこういうかもしれないけれども、それじゃほんとうの修行ではない、とこうおっしゃる。なぜかというと、いくつかの理由があげられるとおもうんです。ほんとに、最高にして真実なる教法を選択して、それをわがものにするとい。う努力をしているんだったらば、たとえ苦しくともそのなかによろこびがあるはずだということです。

 それは、わたくしは、わたくし自身の体験でわかるんこのまえもおはなししたけれども、桂米朝という、関西の有名な噺家がおります。あの米朝さんが、この間『米朝全集』という

七冊ぐらいの本を出した。昔からのいろいろな落語を、全部集めて、かれ自身それを演じたのを速記にとって本にした。はなし自体もおもしろいが、その「あとがきLがことにおもしろい。その演じたはなしにまつわる出来ごとや思い出がいろいろ書いてある。その中で、米朝さんがこういうことをいっているんです。

 明治時代の、名人といわれた或る噺家があって、その噺家がこういうことをいっているというんです。どういうことかといいますとね。修行がつらいというやつで、いまだかつて一人前の芸人になったためしがない、というんです。修行をつらいつらいといっているやつで一人前の芸人になったためしはない。こういうことを、その名人が言ったというんです。それを読んで、わた

くしは、つくづくその通りだなあと感じた。

 だれだって、苦しいことは苦しいんです。痛いものは痛いし、悲しいことは悲しい。それを、苦しいと感ずるな、痛いと感ずるな、つらいと感ずるな、というのは無理です。しかしながら、自分にとって最高の価値あると思われるものにふれて、それをわがものにしようとI生けんめいになっているものにとっては、苦しいことは苦しいながら、よろこびがその底にあるんです。・充実感がそこにある、ということです。

 そのよろこび、充実感がないものは、原点にもどって、自分にとって最高に価値あるものをわがものにしようとしている姿勢がほんものかどうか、問い尨せ、ということです。ほんものだったら、苦しい中によろこびがある。      

 わたくし自身の修行体験をはなしますと、そうですね、いつもおはなししていますけれども、

京都で滝行をやうていた時代がある。七年間、わたくしは連続して冬の滝行をやった。夏はやらない。

 九月すぎ、十月ごろから滝に入って、翌年の四月いっぱいやるわけです。そして五月になったら滝場をはなれる。なぜかというと、五月から、入梅過ぎ、暑くなってくると、滝場が混んでしようがないんです。夏、暑くてしようがないときに滝浴びるのは修行じゃない、とわたくしは思う。それはレジャー・ですよ。海水浴へ行くのとおなじだ。

 やっぱり寒いときに滝を浴びてこそ修行なんであって、夏、暑くてし乱うがない、ひとつ滝へでな入ろうか、などといったらシャワーを浴びているようなものでしょう。それはもう修行では

ない・ところがヽおかしいことにヽそういう夏場、滝獣混んでしよ5 がないんです。いろいみな信者をつれて、滝へやってくる。いまはもうそうおがみ屋の先生などが、十人、二十人と弟子や信者をつれていう人たちも少なくなったが、あの時代はずいぶん多かった。

 そういうひとたちが、五人、十人、すくないのは三人、四人、多いひとは十人、二十人と連れてきて、お滝へ入れて滝行し、そのあと飲んだり食ったりして、時にはケッカなんかしてヽますよ。飲んだあと(笑)。いったい何のために滝に入っているのか。

 これは、まあレジャーなんですね。そして家を出るときには、みんなに、『わしは、これから行ってお滝をいただいて、修行してくるんじや』

                          S

「ほう、えろうおまんなあ」

 というようなことで来るわけ。来て、お滝がおわると、精進落しで、酒をのんで、ときには取っ組み合いのケンカなんかしている。もうさきに立つ先生がベロッベロッに酔って、   。

「おまえ、いつもお布施ちびって罰当るぞ」

なんてやっている(笑)。もうどうしようもない。うるさぐてしようがないから、夏は行かないんです。だから、ほんとうに真剣な弟子と師匠は、冬、霜が降りるようになってから来る。しかしそれはご。くわずかで、滝場はシーンとしていますよ。

 そういう時季になってから、。わたくし牒行く。それを七年間やっ、た。         j

昭和三十何年でしたかね、そのころは、いまよりも何か寒かったような気がしますけれども、

正月0 七日でした。そのころは、或るお寺を借りて指導をしておった。観音慈恵会は、まだ道場をもっていない時代です。わたくし自身が修行中ですから、朝、暗いうちに起きて滝に行ぐわけです。朝四時半ごろ、まだまっ暗で、世間は寝しずまっている。

 そこで身じたくをすませて、おもてに出ようとすると、雪が降っている。ピュー″と風が吹いて、雪が吹きつけてくる。気が重いですよ。これからどこかへ行って、爛でI杯やるっていうのだったらそれは心もはずむでしょうけれども、これから滝まであるいていっ七、そこで白衣に着がえて、そうして滝に入るということになると、やっぱり心臓もドキドキしてきますし、気が重い。

けれども、いったん思いたって、仏さまに、やりますと誓っているわけですから、いやもおうもない。勢いよくあるき出す。昭和三十年代のはじめですから、クルマなんていまめように多くはない。自家用車持っているひとなんてごくわずかです。タクシーだってすくない。通りはクルマの行き来もなくしIんとしている。もちろん、お滝に行くのに車を乗りつけるなんていうこはしません。精神的にもそんなことできないが、またそんなことやったら、かえって非常に危険なんです。ヒーターを熱くして、パーツと雪の中を飛ばしてきて、そのヒーターの熱い勢いでパーツと着がえて、パーツと飛び込んだら、パアッといっぺんに心臓マヒです(笑)。だから一歩一歩あるいて行くわけです。そのお寺から約三十分くらいかかりました。

 一歩一歩あるきながら、からだにいいきかせているんです。さあ、これからお滝をうけるんだぞ、しっかりせよ、と、心とからだにいいきかせている。それは前の晩からそうなんです。床に入ると、潜在意識に、あしたの朝起きたら、お滝をうけに行くんだぞ、しっかりしなきゃいかんぞ、ぜったいカゼはひかん、だいじょうぶだ、寒くないぞ、たのしいぞ、といいきかせてねむそれで、潜在意識はたのしいと思うか知らんけれども、表面意識は、やっぱり、寒い、冷めたい、これはたまらんぞという気持です。

 着くと『心経』をあげて、真言をとなえて、そして行衣に着がえて、流れで身をきよめ、それから沌に入る。まあ、それはいいんですよ。もう慣れていますから、スムーズに一連の動作としぐやノしトようがヽ殼初にお滝の水がからだにかかった瞬間、それは冷めたいなんてものじゃない。大根おろしでサア″と肌をけずられているような感じです。

 ことに、わたくしは結核をやって、だいたいが腺病質だった男です。今は修行でこういうが″チリした体に見えるかも知れないけれども、これは見かけ倒しで、もともとは結核で死にかかった人間ですから、寒暑に非常に敏感な体質なんです。寒さはひとよりも寒く感じるし、暑さはひとよりも暑く感じる。もっともそのかわり、うまいものはひとよりうまく感じるかも知れんから(笑)、そのぷん損得なしかも知れんが、とにかくそういったことで寒暑を非常に敏感に感じる体質・なんです。要するに結核体質で、風邪などひくと危険なんです。

\七かし、それはもともと覚悟しているわけで、そんなこと気にしていたら滝行などできない。

そしてあがると、五社の滝神社の奥様がちゃんと薪を燃やしておいて下さるから、それにあたって体を温め、食事をして帰ってくるのだけれども、しんからからだが冷えきってしまっている。

毎日ですから。

 だから、わたくしが本気に滝行と取り組んでいた時代には、真夏になっても水の音をきくと、体じゅうがゾクソクとしたものです。水道の水の音を聞いただけで、体じゅうにトリ肌がたったものです。いまから思うと、徹底的に、水でがらだがいためつけられていたのでしょう。汗をかいていても、水の音を聞くと、トリ肌がたった。

 食事がすむと、ぬれた行衣をふろしき包みにつつんで、今はもう人家がずっとならんでいるけれども、日赤の病院のうらのところの細い道を、五社の滝からおりてくる。いまはもう、大分かわってしまっているようですね。

 その日は、まだ雪がだいぶはげしく降っていて、コウモリ傘をさしてあるいてくると、道の両側に人家がつづいている。道がせまいですから、歩きながらふと見ると、窓があいていて、家の中がのぞけるわけです。のぞこうと思わなくてものぞくことになってしまう。

 それで、ひょうと、一軒の家をのぞいた。すると、その家のおやじさんらしいのが、七日正月というわけでしょう、コタツに入って、お銚子が二、三本ならんでいて、ちょうど、おチョコを

口にこう持っていく’ところでず。とたんに、あ、いいなあ、うまそうだなあ、と思った。同時に、人間の人生というものは、じつにさまざまなものだなあと思った。‐こうして朝暗いうちに起きて滝に飛びこんで、カタカタふるえながら雪の中を帰ってくる男もあれば、起きぬけにコタツ

の中に入って、熱爛で一杯お正月を祝っている男もいる。それが窓一重を境にしているのだから、世の中というものはじつにさまざまなものだ。そう、つくづく思った。

 いったい、三自分はなんのためにこんなことをしているんだろうか。べつにひとにいいつけられたわけでもないし、仏さまに命じられたわけでもない。自分自身、修行に行きづまって、こんなことでもしたら道がひらけるかと思って、‐やむにやまれぬ思いで滝にとびこんだ。自分ひとりの考えではじめたんだから、自分自身でやめようと思ったら、明日といわず、今日から滝に入らずにすむ。

 しかし、じゃあやめてしまうか七いうと、それがやめられない。いままでこれだけ苦労し、つらい思いをしのんでやってきたことが、ここでやめてしまったらなんにもならなくなってしまう。そう思うと、とてもやめられない。

 五年なら五年、。七年なら七年、思いたっただけ、なにがなんでもやり抜こう。ここでやめたら、いまま’でつらい思いをしてきたことが、それこそ水の泡になってしまう。何も得るところがなく、やめるのでは、いままでいったいなにをやってきたのかということになる。なんとかなるか、ならぬか、とにかく、とことんまでやろう、そういう気持になる。同時に、そんな寒いつらい思いをしながらでもiそれはつらいと思いますよ、滝へ入る瞬間は、一瞬であるけれども、もうやめちまおうかと思う。けれどもそれは一瞬であって、やはりこころの根底には、こういうつらい行をいま自分はしている。欲も得もない、ただ純粋に精神的ななにかを求めてこういう行をしている。ごれだけの行が、世間一般の連中にできるか、それをいま自分はやっているんだ。そういうひとつの誇りとよろこびが胸の底にあるんです。

 だから、わたくしは、コタツに入って一杯やっているおっつぁんをみて、ああ、うまそうだなあ、いいなあ、と思ったのは一瞬だけです。ほんとうにうらやましいと思っているのかというと、ちっともうらやましくなそない。むしろ軽蔑している。軽蔑というとおかしいが、あれはふつうの人間、おれはぢょっとちがうぞ、という誇りがあるわけです。あのおっつぁんは、いまああして一杯やって楽しいことだろうが、あれだけのものだ。おれはいまこういうつらい思いをし

ているけれども、いまになにかつかむぞ、なにもつかめなくっても、ふつ`うの人間にはできないことをおれはやっているんだ。そして一歩一歩、仏さまに近づきつつあるんだ。これはだれにもできん。おれだけにしかできないことなんだ。そう思うと、ひとつの誇りと満足感、充実感というものが胸の中にあふれてくる。

 わたくしは、行というものはつらいものでなきゃいかん、苦しいものでなければいかんと、つくづく思いますよ。苦しい、つらい、だからこそ、こんな思いをするんだから、なんとしてでも、なにかつかまなきゃつまらん。そう思って真剣になる。精魂こめて、て心不乱に工夫をす

る。命がけでぶつかってゆく。そうすると、つらいも苦しいも、ふっ飛んでしまう瞬間がくる。あ、これだ、これなんだ、と、天に向かって叫びたいような一瞬がくる。これは、喜びなんていうありふれた言葉では表現できない感情です→喜びが自然に湧い

てくる

 米朝さんが本で書いている名人のはなしというのは、それだと思うのです。

 いまとちがって、明治時代の噺家の修業なんていうのは、たいへんなものだったと思います。

師匠から、人間あつかいされないで、仕込まれる。そりゃあそうです。人情かけていたら、芸なんて仕込めやせんのです。

 この仏法の修行だってそうですよ。

 ほんとういったら、あなたがたをほんとうにきたえようと思ったら、人情なんてものを出したら、ぜんぜんだめです。人情なんかかけていたら、ぜったいに人など教えられるものではない。

人間だと思ったら修行なんかさせられませんよ。現に、わたくし自身が前にやってきたようなことを、いま、あなたがたにやらせられるかというと、とてもやらせられない。かわいそうで かわいそうだという気持が先に立ってしまって、やらせることができない。

 しかし、それではいけないんで、ほんとうは心を鬼にして、諸君を人間あつかいにしないで、

滝つぼにでも何にでもたたき込む。泣きべそかいたら、たたきつけ、けとばす。そのくらいのいきおいでなければ、ひとなんてものは教えられないし、ましてひとを救うなんてことはできんのです。

 けれども、わたくしはまだ修行未熟だからそこまでできないんですよ、あなたがたに。もう、

たった三泊四日のこの位のことで、「まあ不自由でしょうが、しんぽうしてL、なんて言っている(笑)。なにを言っているか(笑)。しかし、わたくしは本気でそういっているわけじゃあない。

ことばでは不自由でしょうが、といっているけれども、そんなことあたりまえなんだ。このくらいのことができないで、ほんとうの仏法の修行ができるか。おれのやってきた百分の一にもあたらんじゃないか。そう腹の中ではいっています。けれども、わたくしは、元来、気の弱い、心の

やさしい(笑)人間でありますから、なかなか徹底できない。

 しかし心の中で、つねに、何とかもっと非人情にならなきゃいかん、情というものを捨てなき

ゃいかん。それが弟子にとって最高の情なんだ、そう考えているのだけれど、なかなかそれができないんですね。

 こういうはなしがあるんだね。これも噺家で、このあいだ亡くなった、何とかという名人といわれたひとですが、あるとき、弟子入りして一年か二年の、十六、七か十七、八の弟子を二人連れて、寄席まわりをしていた。今とちがってむかしですから、雪が降って寒い晩だが歩きです

寄席がおわって弟子といっしょに帰ってきた。もう弟子も師匠も、おなかが空いてペコペコ。寒いなか弟子たちは、

顔を見合せて大喜び、これは師匠、ごちそうしてくれる。あったかい天ぷらツバでもごちそうし

さが囃射にしみる・とヽ師匠がその弟子二人を連れてツバ屋のノレッをくぐったてくれるのだと思ってニコニコして入った。 そうしたら師匠の注文が、天ソバーつ。弟子たちは耳をうたがったわけです。三つというのだろうと思ったら、二つだというんだ。一つの天ぶちソバを三人で食うのかしらん、と思っている

内に、天ぷらツバが出てきた。師匠が割りばしを口で割って、ブウブウ吹きながら、ソバをすする。ふと、顔を上げて弟子たちの顔を見ながら、

 「食いたいか」といったという。ヽ片方はヨダレをのみこみながら、

 「そりゃあ師匠、食べたいですよ」

 「そうか、食いたかったら、はやく一人前になれよ」‐         I ノ     ニ

 フそういってツルッルと食べおわると、金をはらって外に出た。こんちきしょう、と思ったとい呑んだね、弟子たちは。こんな鬼のような師匠があるか。絞め殺してやりたいと思った。けれども、いくちなんで心、絞め殺すわけにはいかないし、その。師匠のところを飛び出したらもう噺家の仲間では食ってはいかれないから、腹の中で、こんちきしょう、いまにみていやがれ、おれは早くえらくなって、天ぷらソ八三杯食ってやるぞ(笑)なんて。

‘もうほんとうに腹が立った。それでお正月すぎに、薮入か何かで家へ帰ったときに、父親から、

「どうだ、師匠、よく仕込んでくれるかL

 ごと聞かれたときに、帰り腹ペコペコで一緒にソバ屋に入ったら、自分だけ天ぷらツバーつとって食って、食いたいか、

とこういいやがるんですよ。それは食いたいから、師匠食いたいです、といったら、そうか、食いたかったら早く一人前になれ、そう言いやがって、とっとと表に出てしまいやがった。あんなヶチで不人情な奴はみたことない」

 そう答えたら、そのおやじさん、いきなりぱあんと肘が横ッ面を張り」ばして、こんなおりがたい師匠がこの世に二人とあるか、と叱りつけたという。これがほんとうにひどを仕込む、師たるものの心がまえだね。わたくしにはそれができないんだな。わたくしだったら、もう天ぶちツ八五杯たのんで、  ’

「おれは一杯でいい。おまえたち二杯ずつ食え」

前になれ。これがほんとyつの師匠というもの(笑)です。わたくしもせいぜい修行して、諸君にになんて(笑≒そんなことではダメだねえ。ほんとうに食いたいか、食いたかったら早く一人何も食わさず、ひと句で天ぶちソバを食えるように心がけまして、つらい、苦しい、と思っ七いたら、芸なんて身につくものじゃない。ようし、人より早く一人前になってやるぞ、と発奮して一心に努力すれば、ふ云が身につぐ喜びどいうものが出、て来士

す。そうなったらいもう、じつらいも苦しいもない。そういうつらさ、苦しさが、芸の糧になってごはなしが横みちにそれましたが、この弟子たちにしても、こういうことをいつまでも根にもつくる。それが、自分でもわかるようになってくる。

 そうで力くて、修行が、苦しい、つらい、といっているやつは、とうてい一人前の芸人にはなれん。なったやつはいない、と、こう、米朝さんの書く名人が言ったというんだね。

 それを、わたくしは、ちがう角度からお釈迦さまはおっしゃっていると思うのです。

 修行はつらいものだぞ、ということが前提なのです。「喜覚支」よろこびに住せよ、という。なぜ、わざわざお釈迦さまが、よろこびに住せよとおっしゃっているのか。それは、修行というものは、つらいものだぞ、苦しいものだぞ、悲しいものだぞということを、前提にして、おっしゃっているのです。

 その中で、よろこびを見出せIいや、よろこびを見出すというのだったらまだほんとうではない。住す、というんですから、自然に、よろこびが湧いで出るのでなくてはならない、ひとりでに、よろこびがこみあげてくる。つらい修行が、よろこびにみちた修行になるよう修行せよ、とそうおっしゃっているわけです。だから、修行、精進というものは苦しいものだぞ、ということをお釈迦さまはこの「喜」という字のかげにおっしゃっているのです。仏法の精進、努力というものは悲しいものだぞ、苦しいものだぞ。決してたのしいものではないのだぞ、つらいものだぞ。

 しかし、その中からよろこびに住するようにせよ。よろこびに住さないようでは本物になれんぞ。じゃあ、どうやってよろこべるようにするのですか。それはおまえが工夫するんだ、どいうことです。工夫することが修行なんです。だから、わたくしが、こうすればよろこべるようにな

石なんていった6 、それはあなたがたの修行にはならん。まあ、ここでのこんなていどの修行は苦しくもつらくもないはずなんだけれども、苦しい、つらいと感じているひとがもしあるとするならばにんな苦しいつらいなかからどうやっとならば、どういう心がまえを持ったならば、。よろこびに住せるのだろうか、と一心不乱に考える。工夫する。そしてそのように努力する。それが「喜覚支」ということである。そう、わたくしは解釈しています。          一xI

ごこ今桜 微笑を持て

 碕覚支

 

 この「狩」というのは、ちょっとわかりにくい文字ですが、「軽安」と訳しているお経ります。    

 忙喰覚乞、という。これは、つねに身心を軽やかに快的にする、ということです。修行中、つぬに身心がかろやかでなくてはならない。どんなにつらい修行、苦しい修行をしていても、しかめっ面で、のろのろ鈍重なことをやっていたのではいけない、というのです。チラシまき修行だろうが、お便所掃除だろうが、なんであれ、身心軽快でなくてはならない。

 この反対の言葉があります。というような意味で、人をして煽惰、怠慢ならしめるものです。睡眠蓋という。のは「心くらく身を重からしめるLという心作用で、人をして、ものごとを行なうにあたり、不活発、鈍重ならしめる。ことを行うにあたって心巧みでない。                    十

 これではいけませんね。軽安覚支はその正反対です。

  ということで、煩悩の一種です。幡沈というのは、「心のめいること。ふさぎこむこと。沈億

不活発な気質Lあるいは、「心を暗く沈ませる心作用Lというような意味で、人をして頼労、

げしに回イにづ悩の中にヽ愉漑瞭睨戸という宗あ芯を覆う

 ここの修行中でも、そうでしょう。朝、目をさまして、起床する。ねむいし、もう、体のあちこちが痛むし、とても身心かろやかどころではない。どうにもならん、みんな仏頂面して、ぷす″として、口もきかない。しかし、それは身心かろやかではない。

 身心をかろやかに、ニゴニコして、おはようございます、と声をかけ合う。何十人という人が目をさましてJだれひとり、にこやかな顔をしておはようございますといわない集団なんて、なんとも異様だとわたくしは思う。

 どんなことがあっても、朝、目がさめる、おはようございます、とニコニコ笑って声をかけ合う。そこから、活気というものが出てくる。それがエネルギー・となって盛りあかってくる。だれもかれもしかめっ面をして、黙ってもぞもぞやっている。悟沈睡眠蓋ですよ。いつまでも、暗く沈んだ空気で、活気がない。だれでもいい、だれかひとり卒先してやるんですよ。「おはようございます。いい天気ですね」まあ、この朝霧高原ではあまりいい天気の日というのはないが、それだけにこっちが明るく軽快でなくてはいけない。おはようございます。今日もがんばりましょう。だれかひとり、そう声をかけてごらんなさい。明るい軽快な気分がみんなにひろがってゆく。そこから活気が湧いてくる。その活気が子不ルギーとなって盛りあがり、みんなの活力とな

ってゆく。

 自分が身心をかろやかにするということは、ひとをも身心かろやかにさせてあげなければいけない、ということです。

 これは、自分ひとりのときでもそうです。

 わたくしは、つねに、「心に微笑を持て」といっています。そうして、心でいつもつぶやくのです。

「かろやかに、明るく、楽しく」

 

修行法と梵行

定覚支

 これは、心をひとつのものに集中してみださない修行です。瞑想法で、純然たる修行法ですから、文字や口では説明できない。実地に指導をうけて体得してゆく。「滅尽定L「四禅定」などをふくむ七科三十七道品の中でも、根本的な修行法ですい

 

捨覚支

 あらゆるものごとにたいし、とらわれる心を捨離する。ものごとにとらわれ、執着するところ

から、煩悩が生ずる。、

「煩悩の犬、追えども去らず」

 などということばがありますが、十分わかっていて、こだわってしまう。とらわれてしまう。

 わたくしは、若いころ、’‐そういうとき、心の中で、「サラリ’、サラリ」とつぶや’いたものです。

とちわれた句、こだわりそうになったとき、サラリ、サラリ、とつぶやいて流してしまうのでを横に向けてしまうので、’心をほかのものに転じてしまうのですね。こ柚は案外、効果がありまつい一こ以て、「であるからこれは執着してはいけない。

す。いろいろ、いろいろと心の中で理くつをこねてとらわれの心を剖一にしすべきだ」なんて考えるよりヽサラリヽサラリ、とつぶやいて横を向いてし

まうのが、1番です。

 しかし、根本的には、「定覚支」による瞑想、「念覚支」による縁起観法、、等によって、完全な「捨」の境界に達するわけです。その境界に達すると、一切を捨て切って、心中、微塵の影もなく、こころ明鏡のごとし、ということになるわけです。`そうなったら、いつ、この世を去っても、異陰など生ずる余地がないわけです‥

’以上、ざ『つとJ七覚支についておはなしいたしました。

、そごで、どの、七覚支の講義を終えるにあたってい最も大切なことを一つ、おはなししておきたいと思います。

 それは、この七党支の修行法をずうっと見て、なにか、気がつくことはありませんか? なにか、気のつくことがあると思います。  ―

それは、、この成仏法が、二つのものから成り立っている、ということですJ     上上一つは純然たる修行法。

これは非常に興眸のあることですね。

 どういうように分けられるかというと、修行法では、「念覚支Lそれから「定覚支」それから捨覚支です。この三つは、特殊な技法から成り立っている。たんなる心がまえ、心がけといったようなものではない、純然たる修行法です。

 い梵行にあたるのは、「精進覚支」喜覚支」「軽安覚支」です。

 「択法覚支Lは、修行法と梵行と両方の立場がある        。            ’ゝ

 以上のように分けられますね○ ’              ‐        ‘     j`

 

 で、これは、七覚支だけのことかというと、そうではない。他の六科目の成仏法すべてにあて’

はまるめです。ただいその比率が、修行法と梵行とが、半々の割り合いでできている場合もあれば、、七対三、六対四ノというようになっている場合もあり、一律ではありません。しかし、かならず、成仏法は、純然たる修行法と梵行とがら成り立っています

 

 これはいったいどういうわけか。もっとも、前に出たお経に、 『-一一優婆塞の諸々の梵行を修し、此法律に於て狐疑を度るものありや不や』

とありましたから、成仏法が、法と梵行と、この二つから成り立っていることは、わかっていたことでありますが、これはどういうわけであるか。

 わたくしは、この、梵行を修行法に加えることにより、在家の者も、出家者とおなじく、解脱の成果をあげることができるようになった、釈尊のご配慮だと思うのです。この、釈尊のご工夫Jじように、成仏できるようになったのだ、そう思います。

により、在家者も出家とおなじように行をしながら、衆生を救済する、指導するというのが建て前ですから、これは特に徳を積むといするようになっている.

よりといいますのは、梵行とはなにかというと、それは「徳を積む行」です。出家者は、自分の修う行をする必要がない。出家者の生活そのものが徳を積む行をするようにずるような方向にいきやすい。これを補正するためには、どうしても、徳を積む仕組みをくわえ

なければいけない。それが、梵行です。

 

 念竟支・定覚支、というような、純然たる技術としての修行法をいくらやっても、それだけでは、成仏はできないのです。徳がなければ、どんなに技術としての修行法をマスターしても、成仏はできない。いや、第一、徳がなかったら、その技術としての修行法を、マスターすることができないのです。必ず、中途で挫折してしう。

 時々あるのですが、わたくしのところへ、超能力の修行法を求めてくるひとがあります。求聞持法あるいは念力の護摩法を体得したいということでやってくるわけです。あるいは霊視力、霊感などを持ちたいという。わたくしの門人になって、一、二年法を修めれば、そういう超能力が得られると思っている。

 ところが、そういう人たちにわたくしがやれというのは、「準祗尊干座行」です。そうして、チラシまき、便所掃除、下足番をやれという。それで、ちょっとやってみて、すぐに、なんだバカバカしい。こんなことで超能力なんてものがつくはずない。もっとほかにいい修行法があるにちがいない、ととび出して、あっちこっち、’「秘法」を求めて、転々としてあるく。  j

 いいですか。

 どんな高度の修行法があっても、修行法で成仏するんじゃないんです。’「徳Lで成仏するんです。。修行法で修行して成仏力を身につけるのには、どうしても徳がなければならない。。徳がなかったら、修行法そのものにさえ、縁がいただけない。  

 

「準眠尊千座行」は、釈尊の成仏法、七科三十七道品にのっとって、修行法と梵行から成り立っている。「準眠尊于座行」と梵行で「五下分結」は必ず切れるのです。必ず「阿那合」―にまではゆける。しかしそれには、修行とともIにしっかり梵行をやって徳を積んでゆかなきゃならんのです。

 

 徳なくして、どうして成仏できるか。

 第一、仏さまのことをなんというか      。 一

「万徳円満」というじゃありませんか。すべての徳が完全にそなわっている、というのです。成仏、というのは、その仏に等しくなることです。徳なくして、万どうしてそれができるか。梵行こそ、」それを可能にするただ一つの道です。修行法に梵行をくわえたことにより、釈尊は者にも、・ぴろく成仏の道をひらかれたのであり、大乗仏教のひとたちがよくいうように、決して

釈尊め仏教は「出家仏教」ではないのです。出家、在家を問わず、すべて、解脱へ到達せめる、゛かの婆践出家が讃嘆したように、まさに、それは、

そく うぱい  もし なん もし によ ことごと みなした

塞、優婆夷、若は男、若は女、悉く皆随

ぷっ ぼう そう ぴょうどぅほうりっ

仏・法・僧の平等法律なることや』

 てんおお  あめふ  すいるしたが  くだ  ごと  くどん ほうりつ !たまたかく ごと  びく  ぴくに  うぱ

『天大いに雨りて水流随いて下るが如く、琶曇の法律も亦復是の如し。比丘、比丘尼、優婆

ヽく うぱい  もし なん もし によ ことごと みなしたがなが  ねはん むか ねはん さら はこ  はなはき

邑、茫冬ぼ、、ぼよ君、窃まな、悉く皆随い流れて涅槃に向い涅槃に浚え輸ぶ。甚だ奇なり。なのです。

 

おわりに

原爆坦二度落ちる

 わたくしは、この、日本という国ほど、業のふかい国はないと思うのだ。

 なぜか?

 

 地球上でただ一つの、原爆の被爆国ではないか。

 しかも、一度ならず二度までも    」                \

 ほかに}国もないのである。日本だけなのだ、この惨禍を受けたのは。

 これはいったいどうしたことか。

 もちろん、わたくしは、一日本のほかにも被爆国の道づれがあったらよかったといっそいるのではない。

 

 

おわりに

 この国を以て人類の狂気のみせしめにされた思いである。

 しかも、それで終わるのではないのだ。原爆はこの国にもう1度落ちる。それがわたくしには見えるのだ。

なんという業のふかさか。

 いまや、この国の上空を、破滅のカルマが一面に覆い、それは日に日に、厚く、濃く、なりつつある。

 それが頂点に達したとき、原爆は落ちるのだ 

 カルマを断ち切る方法は、シャカの説いた教法にしかない。 わたくしが、かくもホケトに、現代にシャカをよみがえらせようとしているのは、この国を滅亡から救うために、それしか方法がないからである。

 シャカは、カルマを断つ教法をもとに、個人の成仏を説いた。個人の成仏は、即、国土の成仏にほかならない。それはそのまま、社会の成仏につながる。なぜならば、個人の集団が、国であり、社会であるからだ。

 

 

“家族の影響力:心理学的視点から見た運命の因縁”  “Family Influence: Fate and Fate from a Psychological Perspective”

 

 

 

1. 近代心理学は、フロイトの個人的に抑圧された無意識とユングの集合的無意識に分かれ、ソンディは家族的無意識を提唱し、宗族を個人と群衆の間に位置づけた。
2. ソンディは家族的無意識の中で特殊な抑圧意識を見出し、「個人のなかに抑圧されている祖先の欲求が、恋愛・友情・職業・疾病および死亡における無意識的選択行動となって、個人の運命を決定する」と主張した。
3. ソンディ理論は平面彬成(空間)の理論であり、「選択の根源は家族的欲求にあり、衝動的な無意識的選択が運命を形成する」と述べている。
4. タテの因縁とヨコの因縁により、人間の因縁が形成され、業によって異なる因縁を持つと仏陀の教えに言及されている。
5. 因縁の交わるところが自分であり、祖先から受け継いだ系(タテの因縁)と前生でなした業(ヨコの因縁)によって自分の因縁が成り立つ。
6. 脳障害、二重人格、癌、循環器系統障害などの因縁について述べられ、これらが遺伝や前世の業に関連しているとされている。

 

Modern psychology is divided into Freud’s individually repressed unconscious and Jung’s collective unconscious, and Sondhi proposed a familial unconscious, positioning the clan between the individual and the crowd.
2. Sondhi found a special sense of oppression in the familial unconscious, and said, “The desires of the ancestors that are suppressed within the individual become unconscious choices in love, friendship, occupation, illness, and death, and the individual will decide the fate of the
3. Songdi theory is a theory of plane Bincheng (space), which states that “the root of choice lies in family desires, and impulsive unconscious choices shape destiny.”
4. The Buddha’s teachings mention that human relationships are formed by vertical and horizontal relationships, and that people have different relationships depending on their karma.
5. You are where your karma intersects, and your karma is established by the lineage you inherited from your ancestors (vertical karma) and the deeds you did in your previous life (horizontal karma).
6. The causes of brain disorders, dual personalities, cancer, and circulatory system disorders are described, and these are said to be related to genetics and karma in previous lives.

 

 

近代心理学は、

(1)フロイトの個人的に抑圧された無意識の層、

 

(2)ユングの集合的(群衆)無意識の層、

 

の二つの道を歩んできた。

 

 これに対し、

〔3}ソンディは、その中間にある家族的無意識の層を発見したのである。

つまり、個人と群衆のあいだに「宗族」を発見したのだ。これは、当然、出ずべくして出でたものである。個人

にしても群衆にしても、だれひとりとして「家族」でなかったものはない。とすると、当然そこにひとつの無意識司が存在(または形成)されるはずである。

 では、その無意識層の中に、ゾンデ″はなにを発見したか?

 かれは、「家族的無意識」と名づける無意識層の中に、特殊な抑圧意識を発見したのである。

 それは、ひと口でいうならば、

  「個人のなかに抑圧されている祖先の欲求が、恋愛・友情・職業・疾病および死亡における無意識的選択行動とたって、個人○運命を決定する」

というのである。

 

 ソンディはこういう。

  「恋愛・友情・職業・疾病および死亡における選択の分析にもとづいて、選択の根源はこの家族欲求」

 つまり、ひとの、恋愛、友情、職業、病気、死にかたまで、すべて、それらを決定するのは、そのひとのこころの深奥にひそんでいる祖先の抑圧された意識である、というのである。

 

 これは、個人の運命を形成するこれらの選択行動は、意識的・理性的な考慮の上に立つ決断にょって決定されるのではなく、(もちろん表面的にはそれがなされるが、実際には)選択行動は衝動行為であり、衝動的に選択する無意識的なものによって動かされるのだということである。(ここまではフロイトもほとんどおなじである。フロイトとちがうのは、その衝動が、その宗族-祖先-にふかい関連、かおるというのである)

 

 それはなにかというと、ひとの運命を決定するものが、抑圧された祖先の欲求ばかりではないということである。それがすべてではないということだ。それは非常に大きな要因ではある、が、そればかりではないということである。

 なぜかというと、密教占星術によれば、運命の「時期」まで決定されているからである。ソンディ理論によれば、「形式」の形成の説明はつくけれども、「時期」が決定される説明はつかない。それは先祖の抑圧意識のほかにも要因、かおるからである。それについてのわたくしの理論と意見はここでは述べない。べつな機会にゆずることにする。かなりに厖大な址となるからである。

ソンディ理論は「平面彬成」(空間)の理論であり、このほかに「立体構成」(時間)の理論かおる。㈲の理論は、ソンディのごとく、心理学的方法でなされるが、時間の理論は数学的方法でなされ、かなりに難解なものになる。これはまたべつな一冊の書物となるであろう。

 

タテの因縁とヨコの因縁

タテの因縁とヨコの因縁

人間の持つ因縁の大体を述べてきた。

あなたも、これらの因縁の中のいくつかを必ず持っているはずである、
では、これらの因縁ぱ、いったい、どこから生じたのであろうか?

 仏陀は、経典の中で、
「種の差別は業に由る」 とおっしやっておられる。

つまり、「業」によって、人それぞれちがう因縁を持って生まれるのである、とおっしやっているのである。
では、業は、因縁に対してどのようにはたらくのか?

基本的には「タテの因縁」と「ヨコの因縁」となってあらわれると説く。
タテの因縁とはなほか?

先祖から受けついだ系である。

ヨコの囚縁とはなにか? 自分が前生でなした業である。

このタテの因縁とヨコの因縁の交わるところが、自分である。
図示すると、つぎのようになる。

タテの因縁
(祖先から受けついだ業)
ヨコの囚縁
(自分の前生になした業)
交わるところ
(我である)

つまり、祖先の業と、自分の前生の業と、この二つの業によって生じたのが、自分の因縁である。言葉を替えていえば、自分は、祖先の因縁と自分の前生になした因縁と、この二つによって、この世に生まれ存在しているわけである。この二つの系続から成り立って
いるのが、自分という存在だ。

 どんな人でも、親-祖先なくしては存在しない。ということは、親、祖先から、さまざまなものを受けついでいるということである。顔かたち、性格、体質、その他もろもろのものを受けついでいる、これはどんな人も否むことは出来ない。
有名な儒教の大学者、安岡正篤先生は、その著書『大学』(経書の書名)の講義の中で、こうのべておられる。

 

脳障害の因縁

この因縁は、精神病の場合と、精神病でない頭部の障害、の二種に分けられる。
すなわち、精神病(ノイローゼ、脳梅毒など)と、頭部の怪我、または脳溢血、脳軟化
症等の病気で、程度の軽い因縁の人ぱ年中、頭痛、肩こり、不眠症などに悩まされる。
肉体障害の因縁をあわせ持つ人は、脳溢血から中気になったり、頭の負傷で手足がきか
なくなったりする。脳性小児マヒなどもこの因縁のあらわれである。

二重人格の因縁

前記の脳障害の因縁の系列に入る因縁に、この二重人格の因縁がある。
酒を呑むと、ガラリと人が変わってしまって、全く別人のようになってしまう。
酒乱はこの因縁である。表面意識がアルコールで麻庫すると、遺伝している潜在意識や深層意識が浮かび出て、別の性格が入れかわって出て来るのである。異常性格・同性愛などもこの因縁である。
この因縁は、家運衰退の因縁にも深い関連があり、二、三代前の縁者で、非常に不幸な、恵まれない死に方をした人か、あるいは、他人で、その家に非常な怨念を抱いて死んだ者
のいることが特徴である。

癌の因縁

胃ガン、子宮ガンなど、この因縁を持つ人ぱ必ず癌になる。

循環器系統障害の因縁

心臓、腎臓、肝臓等の循環器系に故障を起こす因縁である。

 

 

 

 

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脳を最適化し、パフォーマンスを上げる脳内物質  Brain chemicals that optimize your brain and increase performance

脳を最適化し、パフォーマンスを上げる脳内物質とは

脳を最適化するために、次に注目すべきポイントは、脳内物質「セロトニン」「オキシトシン」「ドーパミン」のバランスをとることです。

これらの脳内物質が整うと、脳の疲れは回復し、脳のパフォーマンスは最大化し、集中力や記憶力も高まります。私は、脳を活性化する「三大脳内物質」と位置づけています。

セロトニンは、メンタルの健康に欠かせない「癒やしホルモン」で、感情をコントロールします。セロトニンが低下すると気分が落ち込んだり、イライラしたり、キレやすくなったりするので、注意が必要です。

オキシトシンは、「つながりのホルモン」とも呼ばれ、家族やパートナー、友人、ペットなどとのコミュニケーション、スキンシップによって分泌されます。他者と信頼関係を築き、不安や緊張を和らげます。

ドーパミンは、幸福感や快感を司り、「幸福ホルモン」とも呼ばれています。ドーパミンが分泌されることにより意欲が湧き、高い目標達成が可能になって、人は成功していくのです。

三大脳内物質のバランスが脳を最適化する

メンタルが強くなり(セロトニン)、他者との円満な人間関係を結んで(オキシトシン)、仕事にも意欲的に取り組めれば(ドーパミン)、脳は最適化されていると言えます。

仕事の生産性を上げたいなら、まず、この3つの脳内物質をうまく使いこなすことが重要です。

これらの脳内物質は、5〜10分程度の短時間でも分泌が変化します。つまり、人間の行動や環境次第で、意識的に分泌量を上げられるということです。

What are the brain chemicals that optimize the brain and improve performance?

The next point to focus on in order to optimize your brain is to balance the brain chemicals serotonin, oxytocin, and dopamine.

When these brain chemicals are in order, brain fatigue is recovered, brain performance is maximized, and concentration and memory are improved. I position them as the “three major brain chemicals” that activate the brain.

Serotonin is a “healing hormone” that is essential for mental health and controls emotions. When serotonin levels decrease, you may feel depressed, irritable, and easily angry, so you need to be careful.

Oxytocin is also known as the “hormone of connection” and is secreted by communication and physical contact with family, partners, friends, pets, etc. Build trusting relationships with others and relieve anxiety and tension.

Dopamine is responsible for feelings of happiness and pleasure, and is also called the “happiness hormone.” The secretion of dopamine motivates people and allows them to achieve high goals, leading to success.

If you become mentally strong (serotonin), have harmonious relationships with others (oxytocin), and are motivated to work (dopamine), you can say that your brain is optimized.

If you want to increase your productivity at work, it is important to make good use of these three brain chemicals.

The secretion of these brain substances changes even in a short period of about 5 to 10 minutes. In other words, it is possible to consciously increase the amount of secretion depending on human behavior and environment.

 

 

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なぜ戦争は絶えないのか? 仏教が教える平和への道” Why do wars never end? The path to peace taught by Buddhism

どうしてなのか?

  1. なぜ現代において、科学や技術の進歩と共に宗教や倫理、道徳が説かれるにもかかわらず、戦争や殺戮が絶えないのか?
  2. 戦争が戦争を生む悪循環や、意識改造が不十分な人間脳の構造的欠陥による問題があると述べられている。
  3. 心理学的な「運命の反復」現象に焦点を当て、特殊な祖先の抑圧された欲求が子孫の行動に影響を与え、運命の繰り返しを引き起こしているとの見解が紹介されている。
  4. この状況を解決するためには、人間の脳の構造的欠陥や運命の反復現象に対処する必要があり、意識改造だけでなく、遺伝子伝達機構の理解も重要であると提案されている。
  5. 最後に、戦争が続く限り人類に平和が訪れないとの懸念が述べられ、今後の戦争が人類絶滅の可能性を秘めているとの警告がされている。

Why?

Why do wars and killings continue in modern times, despite advances in science and technology and the preaching of religion, ethics, and morality?
It has been stated that the problems are due to a vicious cycle in which war breeds war, and to structural defects in the human brain that are insufficiently modified in consciousness.
Focusing on the psychological phenomenon of “repetition of fate,” the paper introduces the idea that the repressed desires of special ancestors influence the behavior of their descendants, causing a repetition of fate.
In order to resolve this situation, it is necessary to address the structural defects of the human brain and the phenomenon of repeated fate, and it has been proposed that not only consciousness modification but also an understanding of gene transmission mechanisms is important.
Finally, he expressed concern that peace would not come to humanity as long as wars continued, and warned that future wars had the potential to wipe out humanity.

 

これはど、科学と技術が進歩し、これほど、多くの宗教や、倫理、道徳が説かれているのに、どうして、こんな野蛮な殺戮や戦争が絶えないのであろうか?
戦争をやめるために戦争がはじめられ、不正を正すために戦争がはじめられ、そしてそのために戦争が絶えたことは、一度もない。
うちつづく戦乱と闘争が、暴力、貧困、環境破壊、人間性の荒廃を、無限に拡大している。
いつか、一大破局が訪れるであろうと、多くの人びとが恐れおののいている。

 

なんとかしなければならぬと、人類の大半が憂慮し、永遠の平和を心から望み求めながら、心の底で、絶望を感じている。

 

どうしてなのか?

二つの原因があげられる。多くの人びとが気がついていない二つの大きな原因があるのである。その第一は、人間の脳の持つ構造的欠陥である。あとでのべるように、人間は、脳に致命的欠陥を持っている。この欠陥を是正・改造せぬかぎり、人類に平和と安穏は永久に来ない。欠陥脳が欠陥文明を生んだのだ。今までの宗教、倫理・道徳は、「意識の改造」だけを考えてきた。「諌山」である。つまり、「ものの考えかたを変える」ということを目ざしたのである。ものの考えかたを変える「教え」を説いたのだ。しかし、いくら、心がけ、心がまえを変えようとしても、満足する効果をあげることは出来ないのである。なぜならば、それを受け入れる脳に欠陥があるからだ。意識、考え、を生み出す根源の部分に存在する欠陥を除去せぬかぎり、効果を期待することは出来ない。「ウマの耳に念仏」という俗諺がある。いくらよい教えを説いても、人間の脳の一部に、ウマの脳があったらどうなるか?ウマの部分を除去せぬかぎり、古いことばだが、「意馬心猿」という、けものの心が、いつなんどき動き出すか、わからないのだ。いや、ここ一番という、一番たいせつなときに限って、ウマの脳があばれ出すのだ。そしてー、あとでのべるように、じっさいにわれわれの脳には、ウマの脳が存在しているのである。この脳を改造せぬかぎり、人類に平和と安穏は永久に来ない。教えや理くつだけでは、欠陥脳は改造できないということを、われわれは充分に認識しなければならぬのである。

 

第二に、心理学でいわれる反覆強迫観念による「運命の反復」現象である。

多くの人は、このことにあまりにも無知過ぎる。

 

人間の深層心理に目を向けた近代心理学は、まず、ジークムント・フロイトの、個人の無意識層分析から始まった。次いで、カール・グスタフ・ユングの集合的無意識層(群衆心理学)に進んだ。これに対し、リポット・ソンディは、この二つの層の中間にある「家族的無意識」という無意識の第三番目の領域を、研究対象としてとりあ
げた。

つまり、それまでの「個人」と「群衆」の中間に、「家族」を発見したわけである。

これは、無意識の特別な領域であった。ソンディは、この学説を、

 

「運命分析心理学」

 

と名づけたが、それによると、

個人の無意識層のなかに抑圧されている特殊な祖先の欲求が、子孫の、恋愛・友情・職業・疾病および、死亡の形式における無意識的選択行動となって、その運命を決定する。

というのであった。
要するに、特殊な先祖の抑圧された欲望や葛藤が、子孫の無意識の意識にはたらきかけて、子孫の恋愛(結婚)・友情・職業・病気・死にかたまで運命的に決定してしまう、というのである。
その結果あらわれる現象が、「運命の反復」である。特定の先祖の運命を、そのまま繰り返すという現象である。

 

その繰り返しは、まったくおなじ運命を繰り返すという例と、まったくおなじではなく、あるワク内での相似した運命をたどるというものと、二種類あるが、いずれも、ソンディの発見した一つの原則にしたがってその反復現象は起きるのである。(ソンディは、かず多くの例をあげて論証しているが、特に、バルザック、ドストエーフスキーの二大作家の例証は有名である.

 

どうして運命の反復が起きるのか? ソンディは、その原因を、遺伝趣性にあるとする。
しかし、わたくしが考えるのに、この運命の反復のすべての原因を、遺伝塑性のみに帰するのは無理なのである。他にも原因を考えねばならぬのだ。
というのは、義父母、義祖父母、義祖々父母、等々というように、直接の血縁関係でなく、故に、遺伝子(DNA)が遺伝しない間柄においても、明白に

 

運命の反復現

 

象が起きているからである。つまり、遺伝子によって遺伝されなくても、特殊な祖先の抑圧された欲求や葛藤は、その子孫の無意識の意識にはたらきかけて、その運命を決定してしまうのである。その実例はいくつもあげられる。

これはいったいどういうことか?
端的に言おう。
「個人の無意識層の中に抑圧されている特殊な祖先の欲求」とは、或る個人の無意風のなかに、特殊な祖先(すでに死者となっている)の欲求 (怨念)が抑圧されていて、その個人(子孫)の行動を決定する、ということにほかならない。

つまり、死者の怨念が、生きている者の無意識の意識を動かして、死者の怨念(欲状)を満足させるための行動をとらせる。それが、死者の人生と同一の道をたどらせることになる。それが運命の反復だ。そして、ここで注目しなければならぬことは、

その死者の怨念の伝達機構である。かならずしも遺伝子によらぬとしたら、いったい、なにがその怨念を伝達するのか?

答は、一種のバイブレーション、というしかないであろう。

ところで、一つの国家、民族、種族は、運命共同体であり、一つの家族である。

運命の反復理論は、そのまま、これにあてはめることが出来るであろう。その場合、
「歴史はくり返す」という現象になってあらわれる。個人の場合は、運命の反復、国、。

 

「歴shi家・社会の場合は、繰り返される歴史となってあらわれるのである。
人類の歴史は、戦争の歴史である。
戦争による死者の怨念が、生きている人間たちを、次の戦争へと駆り立てる。かくて、はてしなく戦争の歴史が繰り返されるのである。

このままでは、戦争が止むとき、それは人類が絶滅したとき、ということになろう。
宇宙は、宇宙意識によってみたされている。その宇宙意識のバイブレーションの中から、全地球を覆う死者の怨念を消滅させぬかぎり、地球に平和と安穏は、永久に訪れることがないであろう。

以上げた二つの問題をどう解決するか、また、はたして解決することが出来るのか、次に起きる戦争こそ人類絶滅の戦争であると予言されているいま、人類にとってこの上なく切実、かつ緊迫した問題ではないか。
あなたはどう思うか?

 

 

Why?
Why is this barbaric slaughter and war constant, even though science and technology have advanced and so many religions, ethics, and morals have been preached?
War has never been started to stop the war, to correct injustice, and to stop it.
The ongoing war and struggle are endlessly expanding violence, poverty, environmental destruction and the devastation of humanity.
Many people are afraid that one day a catastrophe will come.

 

Most of humanity is worried that they have to do something about it, and they feel despair from the bottom of their hearts, hoping for eternal peace.

Why?

There are two causes.
There are two major causes that many people are unaware of.
The first is the structural defect of the human brain.
As we will see later, humans have fatal defects in their brains. Unless this defect is corrected and remodeled, peace and peace will never come to humankind.
The defective brain gave birth to the defective civilization.
Until now, religion, ethics, and morality have considered only “remodeling of consciousness.” It is “Iwayama”.
In other words, the aim was to “change the way we think about things.” He preached a “teaching” that would change the way we think about things.
However, no matter how much you try and change your mind, you will not be able to achieve a satisfactory effect. Because there is a defect in the brain that accepts it.
No effect can be expected unless the defects that exist in the root of consciousness, thought, and generation are removed.
There is a popular saying, “Nembutsu in the ears of horses.”
No matter how good the teachings are, what if there is a horse brain in a part of the human brain?
Unless the horse part is removed, it is an old word, but I do not know when and how the beast’s heart, “Imashinsaru”, will start to move. No, the horse’s brain is exposed only when it is the most important time here.
And, as we will see later, there is actually a horse’s brain in our brain. Unless this brain is remodeled, peace and peace will never come to humankind. We must be fully aware that defective brains cannot be remodeled by teaching and reasoning alone.
The second is the phenomenon of “repetition of fate” due to the rebellious obsession in psychology.
Many are too ignorant of this.

Modern psychology, which focuses on the deep psychology of human beings, began with Sigmund Freud’s analysis of the individual’s unconscious layer. He then proceeded to Carl Gustav Jung’s collective unconscious (crowd psychology). On the other hand, Lipot Sondy focuses on the third area of ​​the unconscious, “family unconscious,” which lies between these two layers.
I got it.

In other words, he discovered a “family” between the “individual” and the “crowd”.

This was a special area of ​​the unconscious. Sondy wrote this theory,

 

“Fate Analysis Psychology”

 

I named it, but according to it,

The special ancestral desires that are suppressed within the unconscious layer of the individual become the unconscious choice behaviors of the offspring in the form of romance, friendship, occupation, illness, and death, which determine their fate.

It was.
In short, the suppressed desires and conflicts of special ancestors act on the unconscious consciousness of the descendants, and the love (marriage), friendship, occupation, illness, and death of the descendants are destined to be decided. be.
The resulting phenomenon is “repetition of fate.” It is a phenomenon in which the fate of a specific ancestor is repeated as it is.

 

There are two types of repetition, one is to repeat the same fate, and the other is to follow a similar fate within a certain vaccine, both of which follow one principle discovered by Sondy. Repetitive phenomena occur. (Sondy argues with many examples, but the examples of the two major writers Balzac and Dostoevsky are particularly famous.

 

Why is the repetition of fate happening? Sondy blames heredity on the cause.
However, I think it is impossible to attribute all the causes of this repetition of fate solely to genetic plasticity. We have to think about other causes.
This is because, such as step-parents, step-grandparents, step-grandparents, etc., not directly related to each other, and therefore, even in relationships where the gene (DNA) is not inherited.

 

Repetitive manifestation of fate

 

Because the elephant is awake. In other words, even if it is not inherited by a gene, the suppressed desires and conflicts of a special ancestor act on the unconscious consciousness of its offspring and determine its fate. There are many examples.

What exactly does this mean?
Let’s just say it.
“The desire of a special ancestor suppressed in the unconscious layer of an individual” means that the desire (grudge) of a special ancestor (already dead) is suppressed in the unconsciousness of an individual. It is nothing but determining the behavior of the individual (descendant).

In other words, the grudges of the dead move the unconscious consciousness of the living, and take actions to satisfy the grudges (desires) of the dead. It will follow the same path as the life of the dead. That is the repetition of fate. And what you have to pay attention to here is

It is the transmission mechanism of the grudge of the dead. If it doesn’t necessarily depend on genes, what exactly conveys that grudge?

The answer would be a kind of vibration.

By the way, one nation, one race, one race is a fateful community and one family.

The iterative theory of fate could be applied to this as it is. In that case,
It appears as a phenomenon that “history repeats itself”. For individuals, the repetition of fate, the country ,.

 

“In the case of the history family / society, it appears as a repeating history.
The history of mankind is the history of war.
The grudges of the dead from the war drive living humans to the next war. Thus, the history of war is endlessly repeated.

At this rate, when the war stops, it will be when humankind is extinct.
The universe is seen by the consciousness of the universe. Peace and peace will never come to the earth unless the grudges of the dead that cover the whole earth are extinguished from the vibration of the cosmic consciousness.

Now that it is predicted that the next war will be the war of extinction of humankind, how to solve these two problems, and how they can be solved, it is not the most urgent and urgent problem for humankind. mosquito.
What do you think?

 

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アドレナリン

アドレナリンとは

アドレナリンとは、腎臓の上にある副腎というところの中の髄質から分泌されるホルモンです。主な作用は、心拍数や血圧上昇などがあります。
自律神経の交感神経が興奮することによって分泌が高まります。その結果、主な作用として、心拍数や血圧上昇が上昇し、体のパフォーマンスが高まります。
また、覚醒作用があり、集中力や注意力も高まります。アドレナリンが分泌されることにより、目の前の恐怖や不安に対して、体と脳が戦闘モードに切り替わり、立ち向かうことができるのです。

ノルアドレナリンとは

ノルアドレナリンは、脳内の神経伝達物質、自律神経の神経伝達物質、副腎髄質から分泌されるホルモンとしての3つの役割があります。
ノルアドレナリンの分泌を促すものは、痛み、かゆみ、寒暖差、人間関係などのストレスがあります。アドレナリンと同じく、目の前の恐怖や不安に対して、体と脳が戦闘モードに切り替わり、立ち向かうことができるのです。そのため、集中力を高めたり、積極性な行動を起こすことにも役立ちます。
ノルアドレナリンが不足すると、やる気や集中力が低下してしまいます。また、逆にノルアドレナリンが過剰に分泌されると「パニック障害」を引き起こす原因になるといわれています。

ノルアドレナリンとアドレナリンの違い

ノルアドレナリンとアドレナリンの最も大きな違いは、脳への精神的な作用の有無です。ノルアドレナリンは、脳内で神経伝達物質として分泌されるため、恐怖や怒り、不安などの精神的な作用にかかわっています。一方、アドレナリンは脳内ではほとんど分泌されず、また、副腎髄質で分泌されたアドレナリンは血液脳関門を通過することができないため、精神的な作用には関与していません。

ノルアドレナリンは神経伝達物質、アドレナリンはホルモンとして紹介されていることがありますが、これは分泌量や作用として主に働く場所を指しているためです。

ストレスへの反応

ストレスを感じると自律神経を介して、アドレナリンやノルアドレナリンが放出されます。そして、ストレスに対処できるように体や脳を戦闘モードへと切り替えます。短期間のストレスであれば、このアドレナリンやノルアドレナリンの働きにより、私たちの体はストレスに負けずに保たれます。しかし、過剰なストレスや長期間に及ぶストレス状況下では、アドレナリンやノルアドレナリンの過剰が続きます。この状況が長期間続くと、防衛態勢が弱まったり免疫力が低下したりすることに繋がります。そのため、日頃からストレスを積極的に解消するように心がけることが大切です。

 

 

 

 

 

 

幸せホルモンには種類がある!出し方を学ぼう!

 

チャクラの不思議な世界: 仏教の視点で知る、自分の可能性」  The mysterious world of chakras: Understanding your potential from a Buddhist perspective.”

超能力開発のシステム

チャクラの機能

 

  1. ムラダーラーチャクラ
    • 仏教の視点では、このチャクラに集中することで体力が向上し、精力が増進し、病気が治癒するとされています。
  2. スヴァジスターナーチャクラ
    • エネルギーをこのチャクラに集中させると、気力が充実し、不動の信念を持ち、超人的な手腕力が発揮されるとされています。
  3. マニピューラーチャクラ
    • ヨーガースートラによれば、このチャクラを綜制することで体内の組織を知り、自由にコントロールできるようになります。また、火のエネルギーを発することも可能とされています。
  4. アナハターチャクラ
    • 他心通の力が発揮され、他人の心を理解し、自由に動かす能力が得られるとされています。このチャクラを熟達することで霊界との交流が可能になります。
  5. ヴィシュダー・チャクラ
    • 超人的な聴力が備わり、通常聞こえない音や主導霊の声を聴くことができるようになります。また、物質を変化させる力も持つとされています。
  6. アジナー・チャクラ
    • 透視力が向上し、微細なものや遠くのものを知ることができ、テレパシー能力が発現します。八種の自在力を得ることができるとされています。
  7. サハスララーチャクラ
    • 頭部の光明を目覚めさせ、すべてのチャクラを統合して制御できるようになります。これにより変容し、四次元生物である超人に変身するとされています。

Muladhara Chakra:
From a Buddhist perspective, concentrating on this chakra improves physical strength, increases energy, and cures illness.
Swajisthana Chakra:
It is said that by concentrating your energy in this chakra, you will be full of energy, have unwavering faith, and exhibit superhuman strength.
Manipula Chakra:
According to the Yoga Sutra, by controlling this chakra, you will be able to understand and control the internal tissues of your body. It is also said to be able to emit fire energy.
Anahata Chakra:
It is said that the power of understanding other people’s hearts will be demonstrated, giving you the ability to understand and freely move the hearts of others. Mastering this chakra allows you to communicate with the spirit world.
Vishudha Chakra:
Equipped with superhuman hearing, you will be able to hear normally inaudible sounds and the voices of leading spirits. It is also said to have the power to change matter.
Ajna Chakra:
Your clairvoyance will improve, you will be able to see minute and distant things, and you will develop telepathic abilities. It is said that it is possible to obtain eight types of free power.
Sahasrara chakra:
Awaken the illumination in your head and become able to integrate and control all chakras. This is said to transform him into a superhuman, a four-dimensional creature.

 

 チャクラを、内分泌腺という近代医学、生理学の面からながめてみた。それでは、そのチャクラを、仏教はどのように考え、どのように説明しているか。

 

 

 

 

1ムラダーラーチャクラ

 体力が里ハ常に増進して、普通人の三?五倍の精力を持つようになる。三日、四目の徹夜くらい平気になる。一切の病気を受けつけず、健康体そのものとなる。病弱だった者は、その悪いところがみな癒ってしまうのだ。このチャクラにを集中したとき瀕死の病人でも床を蹴って立ち上るだろう。男女ともに実際の年令より10歳以上若くなる。そのかわり、強烈な性状と生殖力を持つようになるので、その干不ルギーを、オージャスという知能の干不ルギーに変える方法をあわせ教える。

2 スヴァジスターナーチャクラ

 このチャクラにエネルギーを集中すれば、気力が充実し、勇敢になって、積極果敢な行動力をチャクラの位置

発揮するようになる。なにものをも畏れず、なにごとにも惑わず、不動の信念をもってどんな困難にもひるまない。生死を超越した超人的手腕力量を発揮する。

3 マニピューラーチャクラ

ヨーガースートラの「臍輪に綜制をほどこすことによって、体内の組織を知ることができる」というのが、このチャクラでる。体内の組織を知ることができるというのは、ただ知るということだけではなく、からだの組織を自由にコントロールすることができるということである。それも、自分のからだだけではなく、他人のからだも自由にコントロールする力を持つから、人の病気なども即座に癒してしまうのである。

 このチャクラは、五気のうちの「サマーナの気」に属するものであるから、「サマーナ気を克服するならば、身体から火焔を発することができる」とあるように、このチヤクラを綜制することにより、火のエネルギーを出せるようになる。念力の護摩の火は、このチヤクラと、ヴィシュダー・チヤクラを使って出すのである。クンダリニー密教の奥義書には、「定に入って目を閉じているとき、このチャクラから、黄色味を帯びた白熱の火焔が水蒸気のように立ちのぼるのが見え、また、道を行くとき、同じ色をした火焔に腰から腹部のあたりがつつまれているのが見える。うすい煙か霧のように見えることもある」と記されている。このチヤクラが、ムラダーラーチヤクラで増強された生殖干不ルギーを、別な物質に変化させる。おなじように、体内に入ってきた毒物、毒素は、このチヤクラが分解したり、べつな物質に変えてしまう。だからPCB、DDT、などの毒物も、このチャクラの力で無害のものにしてしまうことができる。

 はっきり火焔が出せるようになると、物質原素を変化させて、べつな物質に変えてしまう力を持ちはじめる。

4 アナハターチャクラ

 他心通の力があらわれてきて、他人の心が手にとるように分るようになると同時に、他人の心を自由に動かす力が出てくる。つづいて、目に見えぬものの高い心(聖霊、神霊、主導霊と表現する)と心を交流することができるようになる。自分にとって不可解な、理解できぬことなどを、天地にみちた、すぐれた心、

智恵の干不ルギーに同化してそこから聞くことができる。つまり、人の肉体はほろびても、その人の持っていた心のエネルギーはこの空間に痕跡をとどめているので、このチヤクラでその心の波動と同じ波動になれば、その心が持っていたすべてのもの、意識も、知能もみな自分と同化し

て自分のものになるということである。そういう意味で、このチヤクラに十分熟達すると、霊界(四次元)の世界と交流の道がひらけるのである。

 

 

5 ヴィシュダー・チャクラ

 超人的な聴力がそなわる。実際に、このチヤクラが使えるようになると、それまで全く聞こえいなかったある音響を聞くことができるようになる。

ことは、人の聴覚は、四〇、〇〇〇?五〇、〇〇〇キロサイクルの振動波しか聞くことができないが、このチヤクラを修得すると、その倍以上に聴覚の幅がひろがるということである。一〇〇メートルはなれて人の心臓の鼓動も聞くことができるということである。ちなみに、犬の聴覚は、八〇、〇〇〇?九〇、〇〇〇キロサイクルとされている。

 また、いろいろな声を聞く。主導霊の声をはっきり耳にするようになる。

 ヨーガースートラにある「あらゆる生きものの叫び声の意味がわかる」という能力が身にそな

わる。仏教の天耳通である。

 また、このチヤクラは、頭部、上肢(両腕)及び胸部の筋肉運動に深い関係を持つ。

6 アジナー・チャクラ

 異常な透視力を持つようになる。ヨーガースートラにある「心の発現にそなわる光をあてることによって、どんなに微細なものでも、人目につかぬところにかくされているものでも、はるか遠くにあるものでも知ることができる」という能力である。

 テレパシー能力が生ずる。ヨーガースートラにいう″大肌身″が可能になるのはこのチヤクラである。

 このチヤクラは、また、命令のチヤクラ、願望成就のチヤクラ、自在力のチヤクラともいわれ、熟達すると、自然に命令してこれを自在に動かし、自由に支配ナることができるようになる。すなわち、八種の自在力をそなえるようになる。八種の自在力とは、前にも述べたように、山身体を極限まで小さくして、岩などを自由に通り抜ける力 即からだを大空にいっぱいになるほど大きくする力 即蓮の糸や綿くずよりも軽くなる力 ㈲望みのままに、月にでも指をふれることができる力 即自分の意志するままに、どんなことがらでも実現できる力 ㈲世界を創造し、支配する力 閉万物を自分の意のままに従わせる力 ㈲大地のように身を重くすることのできる力、あるいは、自分の意欲の対象を必ず手に入れることのできる力、の八種である。

7 サハスララーチャクラ

 頭のなかの光明Murdhajyotioといわれるチヤクラである。Brahma randhra梵の座、梵の裂け目という頭蓋骨の接合するところの真下に位置する。梵の座、梵の裂け目とは、梵すなわち聖なるもの、と一体になる場所という意味である。

 このチヤクラを目ざめさせると、この部位に光明があらわれて、燦然とかがやく。頭のなかの光明である。

 このチヤクラはすべてのチヤクラを統合してこれを自由に制御する。すべてのチヤクラを自由に制御することができるようになると、彼は次第に変身する。昆虫が全身を覆うかたい表皮を次第に溶かし、しなやかな、しかし丈夫な羽翼を自然に身につけて、空飛ぶ蝶に変態するごとく、彼はヒトからべつな生物に変身する。三次元生物のホモーサピエンスから四次元生物の超・ヒト、ホモーエクセレンスに変身する。ヨーガでは、これを聖なるものと一体になる、と形容した。

このチヤクラを、聖霊が宿り、聖霊と交流するところであるといっている。このチャクラを完成した修行者を、超人、大師、救済者と呼ぶ。超人は、物質世界を超越し、時間と空間の制限を受けない。ヨーガースートラにあるように、自由に自分の肉体を消失させ、一瞬のうちにヒマラヤの奥地から東京に飛来し、一刹那のうちにヨーロッパヘ去る。彼は、四次元世界の時間と空間の秘密を体得しているのである。二次元(平面)世界の生物にとって、三次元(立体)世界の生物の行動はナソとしか思えぬように、三次元生物のわれわれには、四次元世界に住む超人の動きは

全く理解できない。インドでは、仏陀が超人であるとして、このチャクラの完成者であることを、形を以て示している。その形を、おそらく、あなたも必ず目にしているはずなのである。

 

ESP development system

Chakra function

I looked at the chakra from the aspect of modern medicine and physiology called the endocrine gland. So how does Buddhism think and explain the chakra?

1 Muradara Chakra

Physical strength is constantly improving, is it the third of ordinary people? You will have five times as much energy. On the third day, I feel fine about the fourth night. It does not accept any illness and becomes a healthy body. Those who are sick will heal all their bad things. Even a dying sick person will kick the floor and stand up when concentrating on this chakra. Both men and women are 10 years or older younger than their actual age. Instead, it will have strong properties and fertility, so I will also teach you how to change that dryness into an intelligent dryness called Ojas.

2 Svaj Starner Chakra

If you concentrate your energy on this chakra, you will be more energetic, brave, and aggressively act in the position of the chakra.

It will be demonstrated. Don’t be afraid of anything, don’t be confused by anything, and with an unwavering belief, don’t be afraid of any difficulties. Demonstrate superhuman skill that transcends life and death.

3 Manipuler chakra

This chakra is what Yoger Sutra says, “By applying a sutra to the navel ring, you can know the tissues inside the body.” Being able to know the tissues in the body is not just about knowing, but also being able to freely control the tissues of the body. Because it has the power to freely control not only one’s own body but also the body of another person, it can heal a person’s illness immediately.

Since this chakra belongs to the “Samana Ki” of the Five Kis, it controls this chakra as it says, “If you overcome the Samana Ki, you can emit a flame from your body.” By doing so, you will be able to generate the energy of fire. The fire of psychokinesis is made using this chakura and Vishda chiyakura. The mystery of the Kundalini Esoteric Buddhism says, “When I enter and close my eyes, I see a yellowish incandescent flame rising like steam from this chakra, and when I go down the road, it is the same. You can see the colored flames wrapping around the abdomen from the waist. It may look like light smoke or fog. ” This chakra transforms the reproductive dryness enhanced by the Muradara chakra into another substance. In the same way, the toxins and toxins that have entered the body are decomposed by this chakra and converted into other substances. Therefore, even poisonous substances such as PCB and DDT can be made harmless by the power of this chakra.

When it became possible to produce a clear flame, it began to have the power to change the substance element and change it into a different substance.

4 Anahata chakra

The power of other minds appeared, and at the same time as the minds of others came to be grasped, the power to move the minds of others freely came out. Next, you will be able to interact with the high heart of the invisible (expressed as the Holy Spirit, the Spirit, and the Leading Spirit). An excellent heart that sees things that are incomprehensible and incomprehensible to me

It can be heard from there assimilated into the dryness of wisdom. In other words, even if a person’s body is unraveled, the energy of the person’s mind remains in this space, so if the vibration of this chakra becomes the same as the vibration of that mind, that mind would have. All things, consciousness, and intelligence are assimilated with me

It means that it will be yours. In that sense, if you become fully proficient in this chakra, you will be able to open the way to interact with the world of the spirit world (four dimensions).

5 Vishda chakra

It has superhuman hearing. In fact, when this chakra becomes available, you will be able to hear certain sounds that you have never heard before.

That is, human hearing is 40,000? You can only hear vibration waves of 500,000 kilocycles, but if you master this chakura, your hearing will be more than doubled. It means that you can hear the heartbeat of a person at a distance of 100 meters. By the way, the hearing of dogs is 80,000? It is said to be 90,000 kilocycles.

Also, listen to various voices. You will hear the voice of the leading spirit clearly.

The ability of Yoga Sutra to “understand the meaning of the screams of all creatures” is acquired.

It’s wrong. It is a Buddhist heavenly ear connoisseur.

In addition, this chakura has a deep relationship with the muscle movements of the head, upper limbs (both arms) and chest.

6 Ajina chakra

It will have abnormal clairvoyance. The ability of Yoga Sutra to “see the light that is associated with the manifestation of the mind, so that we can know even the finest things, hidden things that are hidden from the public, and things that are far away.” Is.

Telepathic ability is generated. It is this chakra that makes the “big skin” of the Yoger Sutra possible.

This chakura is also called a command chakura, a wish fulfillment chakura, and a free power chakura, and when you become proficient, you will be able to command and move it freely and control it freely. That is, it will have eight kinds of free power. As mentioned earlier, the eight types of free power are the power to make the mountain body as small as possible and freely pass through rocks, etc. The power to make the body so large that it fills the sky immediately. The power to be lighter than the power to be able to touch the moon as desired ㈲ The power to realize anything immediately as you wish ㈲ The power to create and control the world The power to obey at will ㈲ There are eight types of power: the power to be heavy like the earth, or the power to be sure to obtain the object of one’s motivation.

7 Sahasla Rachakra

It is a chakura called Mourdhajyotio in the head. It is located just below the joint of the skull, which is the seat of Brahma andrra 梵, and the rift of the 梵. The seat of the 梵, the rift of the 梵, means the place to be one with the 梵, that is, the sacred thing.

When this chakura was awakened, a light appeared in this part and it brilliantly shined. The light in my head.

This chakra integrates all chakras and controls it freely. He gradually transforms when he is free to control all the chakras. He transforms from a human to a strange creature, as insects gradually melt the hard epidermis that covers their entire body, naturally wearing supple but strong wings and transforming into flying butterflies. He transforms from the three-dimensional creature Homo sapiens to the four-dimensional creature super-human, Homo Excellence. In yoga, this was described as one with the sacred.

This chakra is said to be the place where the Holy Spirit dwells and interacts with the Holy Spirit. The practitioner who completed this chakra is called a superhuman, a master, and a savior. Superhumans transcend the physical world and are not restricted by time and space. As in Yoga Sutra, he is free to lose his body, fly from the hinterland of the Himalayas to Tokyo in an instant, and leave for Europe in a moment. He has mastered the secrets of time and space in the four-dimensional world. Just as the behavior of the creatures in the three-dimensional (three-dimensional) world seems to be nothing but the behavior of the creatures in the two-dimensional (planar) world, for us of the three-dimensional creatures, the movement of superhumans living in the four-dimensional world is

I can’t understand at all. In India, the Buddha is a superhuman, showing in form that he is the perfector of this chakra. You’re probably sure to see that shape.

 

 

 

 

 

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Buddha  Japan Journal

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日本の仏教を発信しますSend Japanese Buddhis

 究極の平穏:釈尊の秘められた修行法   「四神足法」  Ultimate peace: Shakyamuni’s secret training method “Four God Foot Methods”

 

 

  • クンダリニー・ヨーガでは、チャクラを統合して制御し、超常的な力を得ることが目指される。
  • サハスラーラ・チャクラはクンダリニー・ヨーガの最終目標で、完成した修行者は超人と呼ばれる。
  • 仏陀の頭部が大きく盛り上がった「肉髻」は、サハスラーラ・チャクラの完成を象徴している。
  • 四神足法は欲神足法、勤神足法、心神足法、観神足法の四つの修行法から成り立ち、大聖者に至る。
  • 四神足法の修行者は欲神足法から出発し、精神的能力を高めていく。
  • 釈尊の成仏法において、「法」の中心は四神足法であり、これには五力法が補助として関与する。
  • クンダリニー・ヨーガのチャクラ開発と四神足法の関連があり、各チャクラのエネルギーを統合させる技法が必要とされる。
  • クンダリニーの覚醒は仏陀の成仏法には含まれず、危険で限定的な方法であるため、代わりに安那般那(アーナーパーナ)の法が教えられた。

 

このチャクラはすべてのチャクラを統合してこれを自由に制御する。 すべての チャクラを自由に制御することができるようになると、彼はしだいに変身する。 クンダリニー・ヨーガでは、これを聖なるものと一体になる、と形容する。 このチャクラに、聖霊が宿り、聖霊と交流するようになるといっている。この チャクラを完成した修行者を、超人、大師、救済者と呼ぶ。 超人は物質世界を超 越し、時間と空間の制限を受けなくなる。

インドでは、仏陀が超人であるとして、このチャクラの完成者であることを、 形を示している。それは、仏像の頭頂がまるで帽子でもかぶったように大きく盛り上がっており、これを「肉髻」と呼ぶ。サハスラーラ・チャクラの修行が 完成して頭骨がこのように発達していることを示すのである。 続きを読む

四神足法  Four god foot method 四如意足とも訳す。 四つの自在力を得るための根拠となるもの。超自然的な神通力を得るための4種

 

 

四如意足とも訳す。
四つの自在力を得るための根拠となるもの。超自然的な神通力を得るための4種『欲神足(よくじんそく)・勤神足(ごんじんそく)・心神足(しんじんそく)・観神足(かんじんそく)』の修行法。

四如意足とも訳す。
四つの自在力を得るための根拠となるもの。超自然的な神通力を得るための4種『欲神足(よくじんそく)・勤神足(ごんじんそく)・心神足(しんじんそく)・観神足(かんじんそく)』の修行法。

  1. 四神足を修練し、豊かになれば、多様な神変を経験し、一身と多身が融合し、現れたり隠れたりする神通力を得る。
  2. 牆壁や山岳を自在に超え、空中や水中、地上で行動する能力を持ち、大神通・大威徳を手に入れ、梵天の世界を支配できる。
  3. 四神足の修練により、清浄で超人的な耳を備え、天的な声や人間的な声を遠く近くで聞くことができる。
  4. 他の生存者の心を理解し、貪りや怒り、迷妄などの心の状態を見抜くことができ、四神足の豊かな修練により心の解脱を得る。
  5. 過去の生涯や宇宙の成立・破壊期を思い起こし、多様な生命体の経験を明らかにする。
  6. 四神足の修練により、清浄で超人的な天眼を開き、生存者の死と再生を見通し、善悪に応じて異なる運命を知覚する。
  7. 生存者の業に従って地獄や天の世界へ生まれ変わる様子を超人的な天眼で明らかにし、煩悩の汚れが解脱されることを示唆する。

 

 

四神足が修練され豊かにされた時に、種々なる過去の生涯を想いおこした、ーすなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、百千の生涯を、またいくたの宇宙成立期、いくたの宇宙破壊期、いくたの宇宙成立破壊期を。「われはそこにおいて、これこれの名であり、これこれ姓(gotta)であり、これこれのカースト(vanna)であり、これこれの食をとり、これこれの苦楽を感受し、これこれの死にかたをした。そこで死んでから、かしこに生まれた」と。このようにかたちや名称とともに種々なる過去の生涯を想いおこしたのである。このように四神足が修練され豊かにされたときに、清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死にまた生まれるのを見た。すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと、醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業にしたがっているのを明らかに知った、ー「じつにこれらの生存者は身に悪行をなし、ことばに悪行をなし、こころに悪行をなし、もろもろの聖者をそしり、邪(あやま)った見解をいだき、邪った見解にもとづく行為をなす。かれらは身体が破壊して死んだあとで、悪しきところ、堕ちたところ、地獄に生まれた。また、他のこれらの生存者は、身に善行をなし、ことばに善行をなし、こころに善行をなし、もろもろの聖者をそしらず、正しき見解をいだき、正しい見解にもとづく行為をなす。かれらは身体が破壊して死んだあと、善いところ、天の世界に生まれた」と。このように清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死にまた生まれるのを見た。すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業にしたがっているのを明らかに知った。このように四神足が修練され豊かにされたときに、もろもろの煩悩の汚れがほろぼされることによって、汚れなき心の解脱・智慧の解脱をこの世において、みずから証知し、現証し、具現して住する。

 

  1. の人間的思考の運動を制して、豊かにされた時に、種々なる過去の生涯を想いおこした。
  2. 一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯…と数え、宇宙成立期や宇宙破壊期なども考えた。
  3. 自己を名前や姓、カースト、食べ物、苦楽、死にかたなどで定義し、死後に再び生まれることを語った。
  4. 視覚による人間的思考の運動を制し、清浄で超人的な天眼を持つと、生存者たちが死に生まれ変わる様子を見た。
  5. 悪行をなす者と善行をなす者が、死後にそれぞれ異なる結末を迎えることを説明した。
  6. 思考の運動を制することで、広がりを持った視点で世界を見ることができ、真理を自ら観て覚る必要性を述べた。
  7. 人間的思考の運動を制しエネルギーのコントロールが修練されると、煩悩の汚れが取り除かれ、汚れなき心の解脱・智慧の解脱を実現する。

 

心の人間的思考の運動を制して、豊かにされた時に、種々なる過去の生涯を想いおこした、ーすなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯、四つの生涯、五つの生涯、十の生涯、二十の生涯、三十の生涯、四十の生涯、五十の生涯、百の生涯、千の生涯、百千の生涯を、またいくたの宇宙成立期、いくたの宇宙破壊期、いくたの宇宙成立破壊期を。「われはそこにおいて、これこれの名であり、これこれ姓(gotta)であり、これこれのカースト(vanna)であり、これこれの食をとり、これこれの苦楽を感受し、これこれの死にかたをした。そこで死んでから、かしこに生まれた」と。このようにかたちや名称とともに種々なる過去の生涯を想いおこしたのである。目で感知する視覚による人間的思考の運動(快⇔不快)を制し、豊かにされたときに、清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死にまた生まれるのを見た。すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと、醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業にしたがっているのを明らかに知った、ー「じつにこれらの生存者は身に悪行をなし、ことばに悪行をなし、こころに悪行をなし、もろもろの聖者をそしり、邪(あやま)った見解をいだき、邪った見解にもとづく行為をなす。かれらは身体が破壊して死んだあとで、悪しきところ、堕ちたところ、地獄に生まれた。また、他のこれらの生存者は、身に善行をなし、ことばに善行をなし、こころに善行をなし、もろもろの聖者をそしらず、正しき見解をいだき、正しい見解にもとづく行為をなす。かれらは身体が破壊して死んだあと、善いところ、天の世界に生まれた」と。このように清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死にまた生まれるのを見た。すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれの業にしたがっているのを明らかに知った。この、人間的思考の運動を制することによって、今まで見えなかったものが見える。なぜか?それは、思考の運動が止まることにより、見方が広がるからである。人は、運動によって、好きなものしか見ようとせず、嫌いなものは見ようとしない。その運動を止めない限りは、この世の実相を知ることはできないのである。このように人間的思考の運動を制しエネルギーのコントロールが修練され豊かにされたときに、もろもろの煩悩の汚れがほろぼされることによって、汚れなき心の解脱・智慧の解脱をこの世において、みずから証知し、現証し、具現して住する。すなわち教えによって知るのではなく、自らが真理を観て覚るのである。

 

If you practice the four divine feet and become rich, you will experience various divine transformations, fuse one body and many bodies, and gain the divine power to appear and hide.
He has the ability to freely transcend walls and mountains, act in the air, underwater, and on the ground, acquire great divine power and mighty virtue, and rule the world of Brahma.
Through the training of the Four Divine Feet, he is equipped with pure, superhuman ears, and is able to hear celestial and human voices both far and near.
He can understand the minds of other survivors and see through their mental states such as greed, anger, and delusion, and through his extensive training in the Four Gods, he can attain liberation.
Reminiscing about past lives and the periods of creation and destruction of the universe, it reveals the experiences of diverse life forms.
Through the training of the Four Divine Legs, he opens his pure and superhuman Celestial Eye, sees the death and rebirth of survivors, and perceives different fates depending on whether they are good or evil.
He uses his superhuman heavenly eye to reveal how survivors are reborn into hell or heaven according to their karma, suggesting that they will be liberated from the taints of earthly desires.

 

 

 

When the Four Divine Feet were cultivated and enriched, various past lives were recalled: one life, two lives, three lives, four lives, five lives, ten lives, twenty lives. A lifetime, 30 lifetimes, 40 lifetimes, 50 lifetimes, 100 lifetimes, 1,000 lifetimes, 10000 lifetimes, the period of the creation of the universe, the period of destruction of the universe, the period of the universe. The period of establishment and destruction. “There I was with such and such a name, such and such a surname (gotta), such and such a caste (vanna), I ate such and such food, experienced such and such pleasures, and suffered such and such a death. He died there and was born somewhere else.” In this way, various past lives were recalled along with shapes and names. When the four divine feet were cultivated and enriched in this way, with a pure and superhuman heavenly eye, he saw the various survivors die and be reborn. I saw clearly that the lowly and the noble, the beautiful and the ugly, the happy and the unhappy, and all the survivors were doing their own work. They do evil in their bodies, they do evil in their words, they do evil in their hearts, they revile saints, they hold wrong opinions, and they act on evil opinions. After destroying and dying, they were born into the evil place, the fallen place, and hell.And these other survivors did good deeds in their bodies, good deeds in their words, good deeds in their hearts, and all kinds of things. They do not slander the saints, they hold correct opinions, and they act based on correct opinions.After their bodies were destroyed and they died, they were born into a good place, the heavenly world.” With such a pure and superhuman heavenly eye, he saw various survivors die and be reborn. I saw clearly that the lowly and the noble, the beautiful and the ugly, the happy and the unhappy, and the various survivors, were following their own karma. When the Four Divine Feet are cultivated and enriched in this way, the stains of various earthly desires will be destroyed, and we will be able to witness, demonstrate, and embody the liberation of the pure heart and the liberation of wisdom in this world. Inhabit.

 

When he mastered the movements of human thought and became enriched, he recalled various past lives.
He counted it as one lifetime, two lifetimes, three lifetimes… and also considered the period of the creation of the universe and the period of its destruction.
He defined himself by his name, surname, caste, food, pleasures and sorrows, and manner of death, and talked about being reborn after death.
When he controlled the movement of human thought through vision and possessed a pure and superhuman heavenly eye, he saw how the survivors were reborn after death.
He explained that those who do bad deeds and those who do good deeds have different outcomes after death.
By controlling the movement of thought, he was able to see the world from a broader perspective, and he stated the need to see and realize the truth for oneself.
When the movement of human thought is mastered and the control of energy is practiced, the stains of earthly desires are removed, and the liberation of pure mind and wisdom is realized.

 

When he mastered the human thinking movements of his mind and became enriched, he recalled various past lives: one life, two lives, three lives, four lives, five lives, Ten lifetimes, twenty lifetimes, thirty lifetimes, forty lifetimes, fifty lifetimes, one hundred lifetimes, one thousand lifetimes, one hundred thousand lifetimes, the period of the formation of the universe, and the number of universes. A period of destruction, a period of destruction when the universe was established. “There I was with such and such a name, such and such a surname (gotta), such and such a caste (vanna), I ate such and such food, experienced such and such pleasures, and suffered such and such a death. He died there and was born somewhere else.” In this way, various past lives were recalled along with shapes and names. When he mastered the movement of human thought (pleasure ⇔ displeasure) through the sense of sight he sensed with his eyes and became enriched, he saw the various survivors die and be reborn with his pure and superhuman heavenly eyes. I saw clearly that the lowly and the noble, the beautiful and the ugly, the happy and the unhappy, and all the survivors were doing their own work. They do evil in their bodies, they do evil in their words, they do evil in their hearts, they revile saints, they hold wrong opinions, and they act on evil opinions. After destroying and dying, they were born into the evil place, the fallen place, and hell.And these other survivors did good deeds in their bodies, good deeds in their words, good deeds in their hearts, and all kinds of things. They do not slander the saints, they hold correct opinions, and they act based on correct opinions.After their bodies were destroyed and they died, they were born into a good place, the heavenly world.” With such a pure and superhuman heavenly eye, he saw various survivors die and be reborn. I saw clearly that the lowly and the noble, the beautiful and the ugly, the happy and the unhappy, and the various survivors, were following their own karma. By controlling this movement of human thought, we can see things that we could not see before. why? This is because by stopping the movement of thought, one’s perspective expands. Through exercise, people only try to see what they like and not what they don’t like. Unless we stop this movement, we will never be able to understand the reality of this world. In this way, when the movement of human thought is controlled and the control of energy is cultivated and enriched, the stains of various earthly desires will be destroyed, and we will be able to prove to this world the liberation of the immaculate mind and the liberation of wisdom. Know, demonstrate, embody and live. In other words, one does not come to know the truth through teachings, but one sees and realizes the truth for oneself.

 

修行者の秘密:四神足法が織りなす奇跡の物語”  The Secret of the Practitioner: A miraculous story woven by the Four Gods’ Ashiho

四神足の修練によってニルヴァーナへ

  1. 四神足の修練により、豊かな神通力が身につき、空中を自在に行き来し、大神通・大威徳を発揮することができる。
  2. 修練により、清浄で超人的な天の耳を得て、天的なまた人間的な声を聞くことが可能となる。
  3. 他の生存者の心を了解し、貪欲な心や怒りの心などを正確に読み取り、解脱の心を培う。
  4. 四神足の修練により、過去の生涯や輪廻転生の概念を超え、宇宙の成立や破壊の過去の出来事を見ることができる。
  5. 清浄で超人的な天眼を持ち、生存者が死に生まれ変わる様子を観察し、業に基づく報いを知る。
  6. 最終的に、四神足の修行により、煩悩の汚れがほろぼされ、汚れなき心の解脱・知慧の解脱を得て、ニルヴァーナに到達する。
  7. 修行者の努力と熱意によって、準・ニルヴァーナに到達することが可能であり、それは至難の業であるが成し遂げられる。

 

 

 

さらに、輪廻転生瞑想法の原典である釈尊の成仏法、その真髄たる四神足法 修練していくとどうなるのか?

釈尊の体験を見てみよう。

パーリ文 「スッタニパータ」を、中村元先生の訳によって載せてみる。

このように四神足を修練し、豊かならしめたならば、多様なる神変を身 に受ける。 一身にして多身となり、多身にして一身となり、あるいは現わ れ、あるいは隠れ、牆壁や山岳をよぎって、礙げなく、行くこと空中にお けるがごとく、地中に出没すること水中におけるがごとく、水中を行きて られざること地上におけるがごとく、虚空においても結跏趺坐してそぞ 歩きすることは飛鳥のごとく、このように大神通・大威徳あるこの日月 を手でとらえて揉んでしまい、梵天の世界にいたるまでも身をもって支配 する。

このように四神足を修練し豊かならしめたならば、清浄にして超人的な 天の耳の本性をもって、遠近にある天的なまた人間的な声をともに聞く。 このように四神足を修練し豊かならしめたならば、他の生存者、他の

人々の心をば心によって了解して知る。 貪りある心を貪りある心であると 知り、貪りを離れた心を貪りを離れた心であると知り、また怒りある心を 怒りある心であると知り、怒りを離れた心を怒りを離れた心であると知 迷妄ある心を迷妄ある心であると知り、迷妄を離れた心を迷妄を離れ 心であると知り、収縮した心を収縮した心であると知り、散乱した心を 散乱した心であると知り、偉大な心を偉大な心であると知り、偉大ならざ 心を偉大ならざる心であると知り、ある心を上ある心であると知り、 無上の心を無上の心であると知り、定にあらざる心を定にあらざる心であ ると知り、定のうちにある心を定のうちにある心であると知り、解説して いない心を解説していない心であると知り、解脱している心を解説してい 心であると知る。

Furthermore, what happens when you practice Shakyamuni Buddha’s Buddhism method, which is the original source of the reincarnation meditation method, and its essence, the Four God Foot Methods?

Let’s look at Buddha’s experience.

I will post the Pali text “Suttanipatha” as translated by Hajime Nakamura.

If you cultivate the four divine feet in this way and become rich, you will receive a variety of divine transformations. To be one body and many bodies, to be many bodies and one body, to appear or to hide, to cross walls and mountains, and to go without hesitation; To appear in the earth, as in the air; To appear in the ground, as in the air. Just as it is impossible to walk in the water as if on earth, in the void it is possible to sit on one’s knees and walk like a flying bird.In this way, grasping this sun and moon of great divine wisdom and great virtue in one’s hands. He massages them and even dominates them even in the world of Brahma.

Once you have cultivated and enriched your four divine feet in this way, you will listen to both heavenly and human voices both near and far, with the pure and superhuman nature of your heavenly ears. Once you have cultivated the four divine feet in this way and become rich, you will be able to help other survivors and others.

Understand and know people’s hearts. Know that a greedy heart is a greedy heart, know that a greedy heart is a greedy heart, know that an angry heart is an angry heart, know that a greedy heart is a greedy heart, know that a greedy heart is a greedy heart, know that an angry heart is an angry heart, and know that a greedy heart is a greedy heart, a greedy heart that is free from greed, and an angry heart that is angry, Knowing that a delusional mind is a delusional mind, knowing that a delusional mind is a delusional mind, knowing that a shrunken heart is a shrunken mind, knowing that a shrunken heart is a shrunken mind, and a scattered heart. Knowing that a great heart is a great heart, knowing that a heart is not great, knowing that a certain heart is a superior mind, Know that the mind that is not fixed is the mind that is not fixed, know that the mind that is in the fixed is the mind that is in the fixed, and explain the mind that is not explained. We know that it is the mind that is not liberated, and we understand that it is the mind that is liberated.

 

 

 

このように四神足が修練され豊かにされたときに、種々なる過去の生涯 を想いおこした、すなわち一つの生涯、二つの生涯、三つの生涯 四 つの生涯、五つの生涯、十の生涯、 二十の生涯、三十の生涯、四十の生.五十の生涯、百の生涯、千の生涯 百千の生涯を、またいくたの宇宙 成立期、いくたの宇宙破壊期、いくたの宇宙成立破壊期を。 「われはそこに おいて、これこれの名であり、これこれの姓 (gotta) であり、 これこれの カースト (vanna) であり、これこれの食をとり、これこれの苦楽を感受 これこれの死にかたをした。そこで死んでから、かしこに生まれた」 と。このようにかたちや名称とともに種々なる過去の生涯を想いおこした のである。

このように四神足が修練され豊かにされたときに、清浄で超人的な天眼 をもって、もろもろの生存者が死にまた生まれるのを見た。すなわち卑賤 なるものと高貴なるもの、美しいものと醜いもの、幸福なものと不幸なも そしてもろもろの生存者がそれぞれの業にしたがっているのを明らか 知った

「じつにこれらの生存者は身に悪行をなし、ことばに悪行をなし、 こころ に悪行をなし、もろもろの聖者をそしり、邪った見解をいだき、邪った見解にもとづく行為をなす。かれらは身体が破壊して死んだあとで、悪しき ところ、堕ちたところ、地獄に生まれた。また他のこれらの生存者は、身 善行をなし、ことばに善行をなし、こころに善行をなし、もろもろの聖 者をそしらず、正しい見解をいだき、正しい見解にもとづく行為をなす。 かれらは身体が破壊して死んだあと、善いところ、天の世界に生まれた」

このように清浄で超人的な天眼をもって、もろもろの生存者が死にまた 生まれるのを見た。すなわち卑賤なるものと高貴なるもの、美しいものと 醜いもの、幸福なものと不幸なもの、そしてもろもろの生存者がそれぞれ の葉にしたがっているのを〔明らかに知った。

そうして最後につぎのように結んでいる。

このように四神足が修練され豊かにされたときに、もろもろの煩悩の汚れがほろぼされることによって、汚れなき心の解脱・知慧の解脱をこの世 において、みずから証知し、現証し、具現して住する。

けっきょく、四神足の修行によって、釈尊は解脱を得たというのである。つ まり、四神足の修練によって、ニルヴァーナに到達したというのだ。

ニルヴァーナにまで到達するのは、至難の業である。わたくしといえども、 そこまで修行者を導く自信はない。しかし、準・ニルヴァーナにまで到達させ

る自信はあるのだ。すべては、修行者の努力と熱意しだいだが―。

 

Achieve Nirvana through the training of the Four Divine Feet

Furthermore, what happens when you practice Shakyamuni Buddha’s Buddhism method, which is the original source of the reincarnation meditation method, and its essence, the Four God Foot Methods?

Let’s look at Buddha’s experience.

I will post the Pali text “Suttanipatha” as translated by Hajime Nakamura.

If you cultivate the four divine feet in this way and become rich, you will receive a variety of divine transformations. To be one body and many bodies, to be many bodies and one body, to appear or to hide, to cross walls and mountains, and to go without hesitation; To appear in the earth, as in the air; To appear in the ground, as in the air. Just as it is impossible to walk in the water as if on earth, in the void it is possible to sit on one’s knees and walk like a flying bird.In this way, grasping this sun and moon of great divine wisdom and great virtue in one’s hands. He massages them and even dominates them even in the world of Brahma.

Once you have cultivated and enriched your four divine feet in this way, you will listen to both heavenly and human voices both near and far, with the pure and superhuman nature of your heavenly ears. Once you have cultivated the four divine feet in this way and become rich, you will be able to help other survivors and others.

Understand and know people’s hearts. Know that a greedy heart is a greedy heart, know that a greedy heart is a greedy heart, know that an angry heart is an angry heart, know that a greedy heart is a greedy heart, know that a greedy heart is a greedy heart, know that an angry heart is an angry heart, and know that a greedy heart is a greedy heart, a greedy heart that is free from greed, and an angry heart that is angry, Knowing that a delusional mind is a delusional mind, knowing that a delusional mind is a delusional mind, knowing that a shrunken heart is a shrunken mind, knowing that a shrunken heart is a shrunken mind, and a scattered heart. Knowing that a great heart is a great heart, knowing that a heart is not great, knowing that a certain heart is a superior mind, Know that the mind that is not fixed is the mind that is not fixed, know that the mind that is in the fixed is the mind that is in the fixed, and explain the mind that is not explained. We know that it is the mind that is not liberated, and we understand that it is the mind that is liberated.

 

When the four divine feet were cultivated and enriched in this way, various past lives were recalled, namely, one lifetime, two lifetimes, three lifetimes, four lifetimes, five lifetimes, ten lifetimes, and two. Ten lives, thirty lives, forty lives, fifty lives, a hundred lives, a thousand lives, a thousand lifetimes, a period of the creation of the universe, a period of destruction of the universe, a period of the destruction of the universe. A period of destruction during the creation of the universe. “We set him there, with such and such a name, with such and such a surname (gotta), with such and such a caste (vanna), who ate such and such food, experienced such and such pleasures, and suffered such and such death. He died there and was born somewhere else.” In this way, he recalled various past lives with shapes and names.

When the Four Divine Feet were cultivated and enriched in this way, with the pure and superhuman Celestial Eye, I saw the various survivors die and be reborn. The lowly and the noble, the beautiful and the ugly, the happy and the unhappy.

“Indeed, these survivors do evil in their bodies, evil in their words, evil in their hearts, slander the saints, hold evil opinions, and act on evil opinions. After their bodies were destroyed and they died, they were born into an evil place, a fallen place, and hell.The rest of these survivors did good deeds, did good deeds in their words, did good deeds in their hearts, and did all sorts of things. They do not disparage the saints of God, but they hold right opinions and act in accordance with right opinions. After their bodies were destroyed and they died, they were born into a good place, the heavenly world.”

With such a pure and superhuman heavenly eye, I saw various survivors die and be reborn. That is, the lowly and the noble, the beautiful and the ugly, the happy and the unhappy, and the various survivors following their own leaves.

Finally, it concludes as follows.

When the four divine feet are cultivated and enriched in this way, the stains of various earthly desires are destroyed, and one can personally testify, demonstrate, and embody the liberation of an immaculate heart and the liberation of wisdom in this world. I live there.

After all, it is said that Shakyamuni attained liberation through the training of the Four Gods. It is said that he was able to reach Nirvana by practicing the four divine feet.

Reaching Nirvana is an extremely difficult task. Even I don’t have the confidence to lead the practitioners to that extent. However, reaching quasi-nirvana

I have confidence that I will. Everything depends on the effort and enthusiasm of the practitioner.

 

 

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