UA-135459055-1

求聞持聡明法 火の呼吸

火の呼吸

**イントロ**
静かに息を吸い込んで
火の呼吸が目を覚ます
肋間筋が共鳴を呼び
内なる力が解き放たれる

**サビ**
チャクラの声を響かせて
脳の奥に届く響魂の深くへと導かれ

内なる声が真実を告げる

求聞持聡明法 火の呼吸

火の呼吸

クンダリニー・ヨーガの修行をしていなかったら、おそらく、それ以上のこころみは全 メドが立たなかったろう。 クンダリニー・ヨーガのチャクラ開発は、特殊な呼吸法に秘訣がある。 それと、チャクラ周辺の筋肉のバイブレーションだが――。 先ずその呼吸法が役に立った。 ざっと説明してみよう。

音声というものは、呼吸と発声と共鳴の三つから成り立つ。そのいずれも同じ程度に重要である。 発声は そのものであり、共鳴はその振動を倍加させ、振動の力を増強するものであり、呼吸はその両者の原動力である。

ところで、クンダリニー・ヨーガの呼吸法は、「火の呼吸」とよばれるように、フイゴの如く強 く激しい。これが、発声と共鳴の原動力として、どれだけ強力に作用するか、想像以上のものである。

火の呼吸、発声、共鳴の三つの要素を完全にはたらかせるためには、からだ全体を強化しなけれ ばならないが、とりわけ、強い肋間筋と腹筋、それに頑丈な横隔膜が必要である。

わたくしは、さきに、ムラダーラと、マニピューラの二つのチャクラを完成しかけていたと述べ たが、肋間筋 腹筋 横隔膜は、実に、ムラダーラとマニピューラの両チャクラが支配しているの である。この二つのチャクラを目ざめさせたら、この三つの器官はどのようにでもはたらかせるこ とができるのである。それまでにこの二つのチャクラを完成しかけていたことは、まことにと いうべきだった。

呼吸法と発声が完成したら、つぎに独自の共鳴腔をつくりあげなければならない。

音声の共鳴は、喉腔をとりまく骨組みの付加運動のはたらきによる。つまり、頭部の中の、腔と 振動によって共鳴をつくりあげるわけである。 それは、練習によってだれにでもできるように なる。上手下手の別はもちろんあるが――。 だが、わたくしの場合はさらに特殊な工夫が必要であ った。というのは、その共鳴を、自然の法則に反して内部にとり入れなければならなかったからで ある。

生物の発声器官は、すべて、外部に向って音声を発するように出来ている。 わたくしはそれを内 部に向ってしようというのである。思いもよらぬことであるが、ついにわたくしはそれをなし得る ようになった。それを可能にしたのは、やはりチャクラの力であった。

発声させ腔内で共鳴させた真言の振動を、脳の深部に送りこむ作業は、マニピューラ、 スヴァジスターナ アナハタ、の各チャクラの力を借りなければぜったいに出来ないのである。思 いきって、わたくしの完成したこの秘密技術の一部を洩らすことにしよう。 喉腔内でつくりあげた 共鳴の振動を、そのまま脳の深部に送りこむことはできないのである。それはぜったいに出来ない。 わたくしは、何百回、何千回とくりかえしたあげく、ついに不可能とさとった。それは生体の法則 であるのだろう。ではどうすればよいのか?

火の呼吸とチャクラの伝達系

わたくしは、昼夜の別なくトレーニングを進めているうち、しだいに、自分が、真言密教の真髄 に近づきつつあることを感じた。いまだかつて密教の指導者のだれもが気づかなかった秘密の技術 に迫りつつあることを知った。

火の呼吸とチャクラの伝達系

わたくしはそれを完成することができた。

それにはいくつかのがあった。

先ず第一に、ヨーガを身につけていたことであった。

ハタ・ヨーガの倒立(頭による逆立ち)が、先ずわたくしの首を強きわまるものにしていた。わ たくしは二十数年間毎朝三〇分の倒立をしてきた。 これは倒立の限界である。 倒立したまま、しば しばわたくしは眠ったほどこの技に熟達している。 結核体質で幼少から首が細かったわたくしは、 倒立で、三十歳代に首の周囲が一・五インチも拡大した。 これがどれほどわたくしの発声器官を強 大にしたことか。

また、十数年にわたる寒中の滝行も、わたくしの腹筋と発声器官を強くしていた。はじめて滝に 入ったとき、二日目に声をつぶした。 滝に打たれながら、全身の力で読経し、真言をする。 一か 月間、まったく声が出なかった。 こういう経験を十数回くりかえした。いまでは、どんな大きな滝 でも、わたくしの声を消すことはできない。

しかし、 クンダリニー・ヨーガの修行をしていなかったら、おそらく、それ以上のこころみは全 メドが立たなかったろう。 クンダリニー・ヨーガのチャクラ開発は、特殊な呼吸法に秘訣がある。 それと、チャクラ周辺の筋肉のバイブレーションだが――。 先ずその呼吸法が役に立った。 ざっと説明してみよう。

音声というものは、呼吸と発声と共鳴の三つから成り立つ。そのいずれも同じ程度に重要である。 発声は そのものであり、共鳴はその振動を倍加させ、振動の力を増強するものであり、呼吸はその両者の原動力である。

ところで、クンダリニー・ヨーガの呼吸法は、「火の呼吸」とよばれるように、フイゴの如く強 く激しい。これが、発声と共鳴の原動力として、どれだけ強力に作用するか、想像以上のものである。

火の呼吸、発声、共鳴の三つの要素を完全にはたらかせるためには、からだ全体を強化しなけれ ばならないが、とりわけ、強い肋間筋と腹筋、それに頑丈な横隔膜が必要である。

わたくしは、さきに、ムラダーラと、マニピューラの二つのチャクラを完成しかけていたと述べ たが、肋間筋 腹筋 横隔膜は、実に、ムラダーラとマニピューラの両チャクラが支配しているの である。この二つのチャクラを目ざめさせたら、この三つの器官はどのようにでもはたらかせるこ とができるのである。それまでにこの二つのチャクラを完成しかけていたことは、まことにと いうべきだった。

呼吸法と発声が完成したら、つぎに独自の共鳴腔をつくりあげなければならない。

音声の共鳴は、喉腔をとりまく骨組みの付加運動のはたらきによる。つまり、頭部の中の、腔と 振動によって共鳴をつくりあげるわけである。 それは、練習によってだれにでもできるように なる。上手下手の別はもちろんあるが――。 だが、わたくしの場合はさらに特殊な工夫が必要であ った。というのは、その共鳴を、自然の法則に反して内部にとり入れなければならなかったからで ある。

生物の発声器官は、すべて、外部に向って音声を発するように出来ている。 わたくしはそれを内 部に向ってしようというのである。思いもよらぬことであるが、ついにわたくしはそれをなし得る ようになった。それを可能にしたのは、やはりチャクラの力であった。

発声させ腔内で共鳴させた真言の振動を、脳の深部に送りこむ作業は、マニピューラ、 スヴァジスターナ アナハタ、の各チャクラの力を借りなければぜったいに出来ないのである。思 いきって、わたくしの完成したこの秘密技術の一部を洩らすことにしよう。 喉腔内でつくりあげた 共鳴の振動を、そのまま脳の深部に送りこむことはできないのである。それはぜったいに出来ない。 わたくしは、何百回、何千回とくりかえしたあげく、ついに不可能とさとった。それは生体の法則 であるのだろう。ではどうすればよいのか?

最後にやってみたわたくしのこころみが成功した。 その振動を、いったん下部のマニピューラ・ チャクラに伝えこれと共鳴させるのである。そうして、チャクラのバイブレーションとしてスヴァ ジスターナ アナハタとつづくチャクラの伝達系を通じて脳のチャクラに送りこむのである。というのは、チャクラというものは個々別々に独立して存在するのではなく、すべて密接に連結してい るものだからだ。この技法を使わないかぎり、声の振動を脳の深部に送りこむことはぜったいにで きないのである。それは、音(振動)をそのまま遠くへ伝達することはできないけれども、電流の バイブレーションに変えて電線を通じれば、どんなに遠方にでも届くということに似ているといっ たらよいであろう。

求聞持脳の目ざめと異常体験

わたくしのねらいは間違っていなかったのである。この特殊な真言説の技術は、 求聞持法成就 にかくじつにつながるものだったのである。やがてわたくしはこの法を成就するのだが、成就した 瞬間にどういう現象が起きるか、それについては、さきに、『密教・超能力の秘密』に書いたので、 ここには述べない。興味あるかたはそれを読んでいただきたい。ともあれ、わたくしは求聞持法成 就の道を歩みつつあった。それはひとつの異常な感覚が目ざめつつあることでわかった。 「どんな感覚か?
環境に異常に敏感になってきたのである。

わたくしが、求聞持法を修して、自分が狂気したのではないかと疑ったのは、この時が最初で
全く落ち着いていられなくなったのである。というのは、いろいろなざわめきがからだじゅうに突き刺さってくる感じである。ことに脳になにかが浸透してくる感じであっ。 安眠できなくなっ た。 聞法成就の過程に、実に異様な夢を見る一時期があるが、これはそれともちがう。 潮騒い のような、あるいは松箱のようなざわめきが、じんじんと彼を打っておしよせてくるのである。 そ れにつれて一種のつよい「胸さわぎ」のような感じに襲われるのである。 はなはだしいときには目 いさえしてくるのであった。

目まいといえば、いちばん最初、聴覚と同時に目に異常がきた。 すべてのものが異様に揺れ動い ているのである。なにかで見た風景であった。すぐにわかった。 ゴッホの絵である。あなたもあの ゴッホ特有の動しているような線の流れを御存知であろう。あのようにすべてのものがたえまな ブルブルと小きざみに震動しているのである。空気までがいっしょに振動しているようであった。 それにつれて光線が震えていた。そのためか、ものの明暗が異常にきわ立って目にとびこんでくる のであった。しかし、これはまもなくおさまった。体調が非常によいとき、悪いときに、これはい までもときどき起きる。よいときとわるいときで、ちがいがあるのはもちろんである。 自分で体調 わるいことに気づかないでいるとき、それでわかることがある。わたくしは、死が近づいたとき にはまた特殊な振動を感ずるのだろうと思っている。これはおさまったが、音のないざわめきは消 えなかった。

場所によって強弱があった。そういうことから全く解放される時間と場所に行き会うことがあっ た。そこで転々と居場所を変えることになる。立ったり座ったり、そのへんをとめどなく歩きま わる。 気が狂ったのかと思った。あるいは、なにか物の怪か、亡霊のたたりにでもふれたのかと疑
ったりした。 やがてその理由がわかった。

要するに、環境の振動に敏感になったのである。脳の神経が異常に目ざめ、環境の振動を鋭く感 じとってしまうのである。

これが長くつづいたら、じっさいにわたくしは発狂してしまったであろう。間もなくわたくしは これを制御する方法をおぼえた。平常はこの感受力を少なものにしておき、 必要に際して拡大す るのである。このチャクラの目ざめによって、わたくしは、すべてのものがいろいろな振動をはな っていることを、実際に身を以て体験したのである。存在とはまさしく振動そのものにほかならぬ のであった。

 

上の文章を小説風して

明法の世界

尤も、密教辞典は前の文章につづいて、

密教は特に此の声を尊崇し、時処”には”是の秘密は歌 揚するが故に成仏も難からず、 況んや諸願を求めて成就す。と説きて歌 となす」

とあり、これは、わたくしが思案したこととおなじところのものに思いあたっているかのごとくに 思われるが、のちにわたくしが体得した技法とはまったく異る。どこまでもこれである。外 に向って声を発して歌うのである。わたくしの真言説はちがう。 口腔に発した真言の振動を共鳴 させながら、からだの内部、すなわち心と脳の深部に響かせてゆくのである。

さきの章にあげた「正念論」(五四頁)のところを見ていただきたい。 「次第念珠」の観想にこう

「わが誦するところの真言の字は本尊の臍(おへその穴)より入りて、本尊の心月輪に至り、右 にめぐりてつらなり住し、本尊の誦する真言の字はわが頂より入りて心月輪に至り、右にめぐりて つらなりす」

むしろ、この観想のほうが、わたくしのねらったものに近いといえるかも知れない。

ただし、わたくしの場合は、たんなる真言の字ではなく、その振動である。 ホトケのとなえる真 言の振動が、ホトケのへそからわがへそに入って咽喉にいたり、大振動を発して大脳の深部にいた 大脳の部位を動かす。わが大脳のチャクラを動かした振動はしだいにホトケの大脳にいたり、 ホトケの大脳とわが大脳と共鳴する、というように観想しつつ、実際に振動を発生させるのである。

わたくしは、昼夜の別なくトレーニングを進めているうち、しだいに、自分が、真言密教の真髄 に近づきつつあることを感じた。いまだかつて密教の指導者のだれもが気づかなかった秘密の技術 に迫りつつあることを知った。

七火の呼吸とチャクラの伝達系

わたくしはそれを完成することができた。

それにはいくつかのがあった。

先ず第一に、ヨーガを身につけていたことであった。

ハタ・ヨーガの倒立(頭による逆立ち)が、先ずわたくしの首を強きわまるものにしていた。わ たくしは二十数年間毎朝三〇分の倒立をしてきた。 これは倒立の限界である。 倒立したまま、しば しばわたくしは眠ったほどこの技に熟達している。 結核体質で幼少から首が細かったわたくしは、 倒立で、三十歳代に首の周囲が一・五インチも拡大した。 これがどれほどわたくしの発声器官を強 大にしたことか。

をべて如来を 揚をただちに成仏の緑

しんがちさん

また、十数年にわたる寒中の滝行も、わたくしの腹筋と発声器官を強くしていた。はじめて滝に 入ったとき、二日目に声をつぶした。 滝に打たれながら、全身の力で読経し、真言をする。 一か 月間、まったく声が出なかった。 こういう経験を十数回くりかえした。いまでは、どんな大きな滝 でも、わたくしの声を消すことはできない。何百メートル先きまでも、滝の音をして、わたくし

しかし、 クンダリニー・ヨーガの修行をしていなかったら、おそらく、それ以上のこころみは全 メドが立たなかったろう。 クンダリニー・ヨーガのチャクラ開発は、特殊な呼吸法に秘訣がある。 それと、チャクラ周辺の筋肉のバイブレーションだが――。 先ずその呼吸法が役に立った。 ざっと説明してみよう。

音声というものは、呼吸と発声と共鳴の三つから成り立つ。そのいずれも同じ程度に重要である。 発声は そのものであり、共鳴はその振動を倍加させ、振動の力を増強するものであり、呼

吸はその両者の原動力である。

ところで、クンダリニー・ヨーガの呼吸法は、「火の呼吸」とよばれるように、フイゴの如く強 く激しい。これが、発声と共鳴の原動力として、どれだけ強力に作用するか、想像以上のものであ

火の呼吸、発声、共鳴の三つの要素を完全にはたらかせるためには、からだ全体を強化しなけれ ばならないが、とりわけ、強い肋間筋と腹筋、それに頑丈な横隔膜が必要である。

わたくしは、さきに、ムラダーラと、マニピューラの二つのチャクラを完成しかけていたと述べ たが、肋間筋 腹筋 横隔膜は、実に、ムラダーラとマニピューラの両チャクラが支配しているの である。この二つのチャクラを目ざめさせたら、この三つの器官はどのようにでもはたらかせるこ とができるのである。それまでにこの二つのチャクラを完成しかけていたことは、まことにと いうべきだった。

呼吸法と発声が完成したら、つぎに独自の共鳴腔をつくりあげなければならない。

音声の共鳴は、喉腔をとりまく骨組みの付加運動のはたらきによる。つまり、頭部の中の、腔と 振動によって共鳴をつくりあげるわけである。 それは、練習によってだれにでもできるように なる。上手下手の別はもちろんあるが――。 だが、わたくしの場合はさらに特殊な工夫が必要であ った。というのは、その共鳴を、自然の法則に反して内部にとり入れなければならなかったからで ある。

生物の発声器官は、すべて、外部に向って音声を発するように出来ている。 わたくしはそれを内 部に向ってしようというのである。思いもよらぬことであるが、ついにわたくしはそれをなし得る ようになった。それを可能にしたのは、やはりチャクラの力であった。

発声させ腔内で共鳴させた真言の振動を、脳の深部に送りこむ作業は、マニピューラ、 スヴァジスターナ アナハタ、の各チャクラの力を借りなければぜったいに出来ないのである。思 いきって、わたくしの完成したこの秘密技術の一部を洩らすことにしよう。 喉腔内でつくりあげた 共鳴の振動を、そのまま脳の深部に送りこむことはできないのである。それはぜったいに出来ない。 わたくしは、何百回、何千回とくりかえしたあげく、ついに不可能とさとった。それは生体の法則 であるのだろう。ではどうすればよいのか?

最後にやってみたわたくしのこころみが成功した。 その振動を、いったん下部のマニピューラ・ チャクラに伝えこれと共鳴させるのである。そうして、チャクラのバイブレーションとしてスヴァ ジスターナ アナハタとつづくチャクラの伝達系を通じて脳のチャクラに送りこむのである。とい

うのは、チャクラというものは個々別々に独立して存在するのではなく、すべて密接に連結してい るものだからだ。この技法を使わないかぎり、声の振動を脳の深部に送りこむことはぜったいにで きないのである。それは、音(振動)をそのまま遠くへ伝達することはできないけれども、電流の バイブレーションに変えて電線を通じれば、どんなに遠方にでも届くということに似ているといっ たらよいであろう。

八求聞持脳の目ざめと異常体験

わたくしのねらいは間違っていなかったのである。この特殊な真言説の技術は、 求聞持法成就 にかくじつにつながるものだったのである。やがてわたくしはこの法を成就するのだが、成就した 瞬間にどういう現象が起きるか、それについては、さきに、『密教・超能力の秘密』に書いたので、 ここには述べない。興味あるかたはそれを読んでいただきたい。ともあれ、わたくしは求聞持法成 就の道を歩みつつあった。それはひとつの異常な感覚が目ざめつつあることでわかった。 「どんな感覚か?

環境に異常に敏感になってきたのである。

わたくしが、求聞持法を修して、自分が狂気したのではないかと疑ったのは、この時が最初であ

全く落ち着いていられなくなったのである。というのは、いろいろなざわめきがからだじゅうに

突き刺さってくる感じである。ことに脳になにかが浸透してくる感じであった。 安眠できなくなっ た。 聞法成就の過程に、実に異様な夢を見る一時期があるが、これはそれともちがう。 潮騒い のような、あるいは松箱のようなざわめきが、じんじんと彼を打っておしよせてくるのである。 そ れにつれて一種のつよい「胸さわぎ」のような感じに襲われるのである。 はなはだしいときには目 いさえしてくるのであった。

目まいといえば、いちばん最初、聴覚と同時に目に異常がきた。 すべてのものが異様に揺れ動い ているのである。なにかで見た風景であった。すぐにわかった。 ゴッホの絵である。あなたもあの ゴッホ特有の動しているような線の流れを御存知であろう。あのようにすべてのものがたえまな ブルブルと小きざみに震動しているのである。空気までがいっしょに振動しているようであった。 それにつれて光線が震えていた。そのためか、ものの明暗が異常にきわ立って目にとびこんでくる のであった。しかし、これはまもなくおさまった。体調が非常によいとき、悪いときに、これはい までもときどき起きる。よいときとわるいときで、ちがいがあるのはもちろんである。 自分で体調 わるいことに気づかないでいるとき、それでわかることがある。わたくしは、死が近づいたとき にはまた特殊な振動を感ずるのだろうと思っている。これはおさまったが、音のないざわめきは消 えなかった。

場所によって強弱があった。そういうことから全く解放される時間と場所に行き会うことがあっ た。そこで転々と居場所を変えることになる。立ったり座ったり、そのへんをとめどなく歩きま わる。 気が狂ったのかと思った。あるいは、なにか物の怪か、亡霊のたたりにでもふれたのかと疑

ったりした。 やがてその理由がわかった。

要するに、環境の振動に敏感になったのである。脳の神経が異常に目ざめ、環境の振動を鋭く感 じとってしまうのである。

これが長くつづいたら、じっさいにわたくしは発狂してしまったであろう。間もなくわたくしは これを制御する方法をおぼえた。平常はこの感受力を少なものにしておき、 必要に際して拡大す るのである。このチャクラの目ざめによって、わたくしは、すべてのものがいろいろな振動をはな っていることを、実際に身を以て体験したのである。存在とはまさしく振動そのものにほかならぬ のであった。

ところで、この異常な感受力を利用すれば、突発的な不幸や災難、事故などすべて、周囲の振動 変化で予知できるであろう。それは人間にたいしても同様で、非常な悪意、たとえば殺意などを いだいてこちらに近づいてくる人間など、容易に察知できるのである。が、そんなことは枝葉のこ であった。そんなことよりも、わたくしは、この経験により最大の収穫を得たのであった。 それ はなにかというと、脳によい影響をあたえる振動(数)と、わるい影響をあたえる振動(数)がは っきりわかってきたことである。よい影響をあたえるとは、脳に活力をあたえ、脳を生き生きとさ せ、脳のはたらきを増強拡大する振動であり、わるい影響とはその正反対のはたらきをする振動で ある。 これは、求聞持法修行上の画期的な発見であった。

このことについて、つぎにわかりやすく説明してみよう。

九!驚異的な超低音の力

最近、大都市において次第に問題化しつつある「低公害」について御存知であろうか? 東京では、主として環状七号線の道路ぞいに頻発して問題になっている。 眼にも見えず、耳にも 聞こえないある種の波動新聞の記事によると二〇ヘルツ前後というが、人びとに一種のス トレス症状をひき起こし、ひどい時には目まいや頭痛まで起こさせるのである。その原因は、各種 機械の作動によって発生する振動によるものである。

有名なガブロウ教授の実験がある。

ガブロウ教授は技術者であったが、最近、仕事中にいつも気分が悪くなるので、マルセイユにあ 研究所の気に入った地位をほとんどあきらめかけていた。

しかし頻発する吐き気に悩まされるのは、ビルのてっぺんにある事務室にいるときだけなのに気 がついて、職をやめるのを延期し、その原因をくわしく調べてみることにした。 先ず、彼の脳をか きみだす何かが部屋の中にあるのにちがいないと考えて、さまざまな化学物質を敏感に検知する装 や、ガイガーカウンターまでも持ち出して、それをつきとめようとした。しかし、どんなにし ても何も見つけることができないので、ある日、途方にくれて部屋の壁に背中をもたせかけ、腕を 組んで考えこんだ。すると、部屋全体が、非常に低い振動数で揺れているのを感じたのである。

そのエネルギー源は、道路をへだてたビルの屋上にある空気調整設備であることがわかった。か

れの事務室は、それと共鳴して共振を起こすのにおあつらえ向きの形であり、ちょうどよい距離で あったのだ。かれを病気にさせていたのは、毎秒七ヘルツの振動数を持ったこのリズムだったので

この現象に興味を感じたがブロウ教授は、ひとつこれととり組んで研究をしてみようと考え、 振動を発生する機械をつくる決心をした。適当なデザインをさがしまわっているうち、フラン スの憲兵が使っているエンドウ豆入りの笛が、すべての範囲の低振動数の音を生じることを発見し た。 そこで、かれはこれを拡大して、長さ六フィートの憲兵笛をつくり、 さく空気でこれを吹き 鳴らす装置をとりつけた。

この巨大な笛をはじめて試し吹きした技術者は、その瞬間、その場にぶっ倒れた。ほとんど即死 だった。検死解剖の結果、かれの内臓器官はすべて振動によってつぶれ、めちゃめちゃのジェリー になってしまっていた。

ガブロウ教授はこれにこりて、もっと慎重にその研究をすすめることにし、つぎの実験は戸外で、 その機械をコンクリートの縦に入れ、実験者から遠く隔離しておこなった。そうして、空気をゆっ

吹きこんだ。が、実験場から半マイル以内にあるあらゆる建物の窓が全部こわれてしまった。 その後、かれは、インフラサウンド発生装置の大きさをもっと効果的に調整することを学び、実 研究のため、一連のもっと小型の機械をつくることに成功した。今日までの最も興味ぶかい発見 の一つは、低振動数の波はねらいをつけることができるということである。二つの発生装置を使っ 五マイル離れた特定の目標に焦点を合わせると、共鳴を起こし、まるで大地震のような驚異的

な力で大きな建物を崩壊させることができるということである。これらの振動数七の機械は非常 に安価につくられる。その設計図は、いま、パリの特許局で三フランでだれでも買うことができる のである。

このエピソードで知れるように、聞きとれないほど低い周波数の振動は、ある特定の場所た とえば幽霊屋敷とか、たたりのある呪われた場所とかにつきまとう抑圧や恐怖の感情を説明で きるのではなかろうか? もしもガブロウ教授が科学者でなかったら、マルセイユのビルのてっぺ んにあるかれのオフィスは、なにかに呪われているか、たたられているのではないかと考えて、 げ出していたかも知れない。

十一存在とは振動である

音についてさらにもう少し述べる必要がある。

われわれをとりかこんでいる世界は音に満ちている。われわれは音の中心に住んでいるといって もよい。しかし、音は必ずしも聞こえるものばかりではなく、人間の耳に感じない音もたくさんあ るのである。

われわれがふつう音という場合、それは耳に聞こえることを前提としていっており、聞こえない 音などというものは概念上あり得ないのであるが、物理的には聞こえない音のほうがむしろ多いの である。

人間の耳が感じることのできる音は、ある一定の音域のものにかぎられており、それ以上低くて も高くても聞くことができない。

では、その高い低いという性質はどこできめられるかというと、それは振動数によって決定 される。

音とは、御承知の通り、振動である。げんみつにいうならば、空気の粒子の振動であり、それが 耳に達したときの振動をよび起こし、われわれはそれを音として聞くわけである。 しかし、あ まりに高い振動と低い振動には、鼓膜は作用しないのである。

ところで、どんな振動でも、それの基本的な特徴となっているのが、振動周期と振幅である。 音の場合、振幅は音の強さに関係があり、周期は音の高さに関係がある。 そこで、振動周期という のは一振動をおこなうに要する時間のことであるが、一秒間の振動数を「振動の周波数」とよぶ。 周波数(または振動数の単位には、一秒間に一回の振動をとり、この単位を「ヘルツ」と名づ けるのである。この周波数はわれわれが音を区別する特徴としているものの一つで、周波数が大き ければ大きいほど、われわれは高い音を耳にする。すなわち、音はより高い調子を持つわけである。 人間の耳が聞きとる音の範囲は、およそ一六~二万ヘルツとされている。それ以上、それ以下の 振動数は聞きとることができない。個人差はあるけれども、人間がもっともよく感じるのは、一〇 〇〇ヘルツから三〇〇〇ヘルツまでの周波数の音である。前節で述べた低周波というのは「超低 音」のことで、これは、約一六ヘルツ以下までの周波数のことである。

そういうと、なあんだ、わずか一六の音城かとごくかんたんに考えてしまうかも知れないが、そ

うではないのである。たいへんな広い範囲を持っているのである。というのは、振動には、一ヘル ツ、十分の一ヘルツ、百分の一ヘルツ、千分の一ヘルツ、百万分の一ヘルツまであるのである。 超低音波振動(超低空気振動)は、きわめて多様な条件のもとで発生する。 建物、樹木、電柱、 鉄製トラスなどに風が吹きつけた場合とか、人や動物が動いたり、扉が開いたり閉ったりした場合 とか、そういうときに発生するとされているのだが、わたくしはそれだけではなく、ものが存在す るとき、それはもうすでに超低音(振動)を発しているのだと考えるのである。そういう意味で、 わたくしは、さきに、存在とは振動だといったのだが、たしかに、ものは存在するだけで超低音 を発しているのである。 そう、わたくしは確信する。 なぜか?

イギリスの物理学者、J・C・マクスウェル(一八三~一八七九年)は、光が物体にあたると光 その物体に圧力をおよぼすということを予想したが、ソ連のレーベデフ(一八六六~一九一二年) は彗星の尾が常に太陽とは逆の方向に流れるということによってこれを証明した。光には重力があ るわけである。ところで、ごく最近、一九六九年に、アメリカのメリーランド大学のJ・ウェーバ 博士のグループは、「重力波」の存在を確認したと発表した。ウェーバー博士は、「アインシュタ インの一般相対性理論が予言していた “重力”の存在の確認をわれわれの手で成しとげることが できて非常にうれしい」という意味のことを記者会見で語ったが、この発見は、前世紀のおわりの、 ヘルツ(ドイツの物理学者、さきに述べた振動の単位はこの学者の名をとったもの)による電磁波の発 見に匹敵する偉大なものであるとされた。重力とは、アインシュタインの一般相対性理論の 方程式から出てくる一種の波動で、かなり昔、一九一六年にすでにアインシュタイン自身が予言し、

理論計算結果を発表していたものである。その正体は読んで字のごとく、重力が波動の形で空間を 伝播してゆくものと大雑把に考えればよい。 そこでわたくしは思うのだが、光が重力を持つという ことと、重力が波動の形で空間を伝播してゆくということとは密接な関係があり、この二つのこと により、存在するものは常にある振動を発しつづけているということが説明されると思うのである。 尤も、これは、数学や科学に全く無知である専門外のわたくしの理論(!)であるから保証のかぎ りではないのだが、前にも述べたように、求聞持脳を持つと、それが実際に体験されるのである。 あらゆるものの発する音がざわめきとして聞こえてくるのである。その体験により、わたくしはわ たくしなりにさまざまな思いをめぐらし、いま述べたような理論をもとに一つの理論構成をしたと いうわけなのだ。

ところで、いま、わたくしは、求聞持脳を持つと、すべてのものが発している音がざわめきとし 聞こえるといった。これは要するに、ふつうには聞こえない超低音を聞くということになるわけ だが、これは、一般の人でも、聞こえないからといって、全く気づかずにいるというわけではない のである。無数にある超低音をすべての人は感じとっているのである。ただし、それは、耳という 感覚器官によってではなく、肉体全体によってである。その一つの例を、われわれは前の節で、ガ ブロウ教授の上に見た。また、環状七号線の道路ぞいの住民たちは、身を以てそれを体験している わけである。 もう一つ二つ、その例を見てみよう。

一九七五年のはじめ、東京の映画館で、「大地震」というアメリカ映画が上映された。

この映画の製作者は、この映画があたえる不安感、恐怖感に、よりいっそうの効果をあげるため、 特別な装置を考えた。フィルムのサウンド・トラックに不安感と恐怖感をあたえる超低周波振動を 記録しておいて、上映中にそれをスピーカーで観客室に流し、観客室の空気を振動させることにし たのである。これは予期した通りの効果をあげた。観客は名状しがたい不安感に襲われたのである。 ただし、だからといって、この映画の製作者が得意になるわけにはいかなかったのである。

というのは、この企画はこの映画製作者の独創ではなく、二十年も前に、おなじような試みを実 した学者がいたのである。

アメリカの物理学者、ロバート・ウッド(一八六六~一九五五年)は、アメリカのある劇場に、超 低音波振動の発振器を設置して、演劇のはじまるほんの少し前に、人間におよぼす超低音波振動の 影響を研究するためのごく短時間の実験をおこなった。かれが発振器を作動したとたん、なにも知 らない観客たちは、突如、奇妙な不安感に襲われはじめたのである。これからはじまる観劇のたの しい期待が不意に消え失せ、いい知れない不安感でいっぱいになったかれらは、落ちつきのない目 たがいに見合わせ、あたりをキョロキョロ見まわしはじめたのである。そして、ある観客たちは、 座席を立って出口のほうへ出てしまった。ウッドがすぐに発振器のスイッチを切ったのは賢明だっ

求聞持法の兄弟弟子

求聞持法の兄弟弟子

 

**イントロ:**

窓の外に静寂が広がる夜、
彼の言葉が風に乗り響く。
山奥で出会ったあの日の影、
心に刻まれた記憶が揺れる。

**サビ:**

兄弟弟子よ、道を共に
求め続けた真実の声。
幾度の試練も越えて行け、
求聞持法の光を目指して。

求聞持法の兄弟弟子

空海は、いちばん最初、木の山奥で出合うた。こちらもひとり、向うもひとりであっ た。たがいにちらりと顔を見合わせたまますれちがった程度の出合いであったが、一目見て心に 好きついた。どちらも荒行の山歩きの最中で、ともまぎらう相だったが、世の つねの人ではないことが一目でわかった。あとで知己になってのはなしでは、かのお人も、その ときのおれが印象に残ったといってくれたよ。 二度目は、律師のもとで出合うた。百年の知己に 再会した思いで話しかけると、向うも喜んでくれて、その日一日かたり合うた。話し合ってみる

と、律師から求聞持法を伝授されて修行中とのことだ。おれも、律師から求聞持法を受法してい る。 いうならば、求聞持法では兄弟弟子なんだ。おれのほうが年長だが、求聞持法はかれのほう が一年はやく受けていた。三度失敗して、これから四度目の行に入るのだといっていた。おれは いっぺんでかれに魅せられてしまった。 それは、おれだけじゃない。それまでに、おれには、 木、吉野、比蘇山寺と、心のおもむくまま、行場を移して修行する仲間が十数人いた。みな、す ぐれた個性を持った、えりぬきの秀才たちであった。いままでの仏法を学び尽くし、それにあき たらず、あたらしいものを求めて林に散り、深山に籠って、血の出るような苦行をつづけて いる真の求道者ばかりであった。もしもかれらが名利を求めて世に出たなら、すぐにでも一山の 持となるべき器量才識をそなえた者たちばかりであった。それだけにことごとく わ れのみがわれを知ると、容易に人に屈せず、人に譲らず、傲然と胸を張る者のみであった。し かし、ひとたびかれに接するや、暗黙のうちにみな頭を垂れた。 おのずから兄事するようになっ た。かれの赴くところ、かれの行なうところにしたがい、かれはおれたちの中心になった。かれ は、大学で群を抜いた秀才であったが、世の虚なるを感じ、道心を発してついに名利の念を断 ち、林に籠るにいたっただけに、われわれのように仏陀の教説一途ではなく、ひろく儒教そ の他の漢籍にも造詣が深く、その上に、なんともいわれぬ人間味があった。おれたちの仲間は、 心からかれに心服した。かれは、またたくうちに、唯識、三論、華厳、天台、御舎、成実の諸経 論にしてしまった。 一を聞いて十をさとるというのがかれのだった。なにを聞いても、

求聞持法の兄弟弟子

空海は、いちばん最初、木の山奥で出合うた。こちらもひとり、向うもひとりであっ た。たがいにちらりと顔を見合わせたまますれちがった程度の出合いであったが、一目見て心に 好きついた。どちらも荒行の山歩きの最中で、ともまぎらう相だったが、世の つねの人ではないことが一目でわかった。あとで知己になってのはなしでは、かのお人も、その ときのおれが印象に残ったといってくれたよ。 二度目は、律師のもとで出合うた。百年の知己に 再会した思いで話しかけると、向うも喜んでくれて、その日一日かたり合うた。話し合ってみる

と、律師から求聞持法を伝授されて修行中とのことだ。おれも、律師から求聞持法を受法してい る。 いうならば、求聞持法では兄弟弟子なんだ。おれのほうが年長だが、求聞持法はかれのほう が一年はやく受けていた。三度失敗して、これから四度目の行に入るのだといっていた。おれは いっぺんでかれに魅せられてしまった。 それは、おれだけじゃない。それまでに、おれには、 木、吉野、比蘇山寺と、心のおもむくまま、行場を移して修行する仲間が十数人いた。みな、す ぐれた個性を持った、えりぬきの秀才たちであった。いままでの仏法を学び尽くし、それにあき たらず、あたらしいものを求めて林に散り、深山に籠って、血の出るような苦行をつづけて いる真の求道者ばかりであった。もしもかれらが名利を求めて世に出たなら、すぐにでも一山の 持となるべき器量才識をそなえた者たちばかりであった。それだけにことごとく わ れのみがわれを知ると、容易に人に屈せず、人に譲らず、傲然と胸を張る者のみであった。し かし、ひとたびかれに接するや、暗黙のうちにみな頭を垂れた。 おのずから兄事するようになっ た。かれの赴くところ、かれの行なうところにしたがい、かれはおれたちの中心になった。かれ は、大学で群を抜いた秀才であったが、世の虚なるを感じ、道心を発してついに名利の念を断 ち、林に籠るにいたっただけに、われわれのように仏陀の教説一途ではなく、ひろく儒教そ の他の漢籍にも造詣が深く、その上に、なんともいわれぬ人間味があった。おれたちの仲間は、 心からかれに心服した。かれは、またたくうちに、唯識、三論、華厳、天台、御舎、成実の諸経 論にしてしまった。 一を聞いて十をさとるというのがかれのだった。なにを聞いても、

人はどんな因縁をもつか 1

人はどんな因縁をもつか

因は種子、原因であり、縁はそれを育て進める環境であり、条件であり、果はその結果、 報はそ の結果が周囲の事物、人にあたえる影響で、この報が次の「因」となっていく。 「因縁果

因縁果報」とどこまでも続いていくわけであり、この因縁、 果 報 の展開が、 「運 命」という名でよばれるものなのである。そうして、この因縁、 果 報の展開を予測し、 予知 する技術体系が運命学とよばれるものだということになる。

それでは、この因縁、 果 報の展開は、予測することができるのかどうかというと、それはそ れをなす技法があるわけで、密教占星術はその技法を持っているのである。

いま述べたように、運命展開の最も根本的なものは、業が生み出した「因」と、この「因」と結 びつく「縁」のありかたである。 因縁の結合が最も重要なものであり、因縁が把握できれば、 その「結果」を想定することはそう困難なものではない。最も重要なことは、因縁の把握であ る。 教占星術では、この人間の因縁が「星」として割される。それを割り出す一定の公式 があり、その公式によって算出された因縁の星を見て、その人の運命を計測し、予測するという 作業をするわけである。

そういう因縁の星は数十種類あり、表に算出された因縁の星をたどっていくと、おのずから そこにひとりの人間の運命の道がありありとえがき出されていく。

それは、レーダーにうつし出された飛行

人はどんな因縁をもつか

因縁の結びつきが人生をかたちづくる。

人生とは因縁のあらわれである。 運命とは因縁のえがくだ。

人間を動かす代表的な因縁の星をあげてみよう。(カッコ内は密教占星術によって算出される星 名称である

の因縁(佐理加量)

この因縁は、家運、つまり家の運気が次第に衰えてきている家系に生まれている人が持つ因縁で ある。こういう人は、父、あるいは祖父の代までは、かなりの生活をした家に生まれている。祖父 父の代あたりから、次第に家運が傾いてきている。そうして、自分の代になってからは、なお一 層はっきりと運が悪くなっている。相当の力量、才能、手腕があるのだが、それを発揮する場を持 つことができない。そういうチャンスを持つことができない。そうして、みすみす自分より劣った 者が自分を追い越していくのを、歯ぎしりしながら見おくることになる。たまにチャンスがまわっ て来そうになると、人の妨害、邪魔に逢ったり、あるいは自分の思わぬミスや病気などで、せっか という そのためにいうが、それは、この人の経営

この人が行った会社がみなダメになるというのではないのである。(手腕とい

くのチャンスを失ってしまう。

要するにひと言でいうと運が悪いのである。 実力がありながら、妙にまわり合わせが悪く、ウダ ツがあがらぬのである。

この因縁から出てくるのが、次にあげる中の因縁である。

この因縁を持つ人は、なにをやっても、一応七、八分どおりまでは順調に進むが、あともう一、 二分というところで必ずダメになる。 決して実らないのである。

この因縁を一名、 「花の星」というのは、山吹の花と同様、花咲けども実らず、すべてムダ 花であるというところからきているのである。よそ目には華やかに見えて、実は空しいのであ

しゅうかく

苦労したあげく、最後の収穫はごっそりと人に持っていかれてしまうのである。

この因縁を持つ人は、わりあい運気(生命力の強い人が多く、中途で挫折しては、また立ち上 って仕事をし、また七、八分どおりで挫折して、そのままになるかと思うとまた立ち上がって、 また挫折するというように、七転八起の起伏はげしい人生を送る人が多い。そうして、結局は、 挫折したままで終わる。

だいたい、因縁のあらわれかたには二とおりあるのであって、その因縁が、そのままその人の性 格にあらわれている場合と、性格には全然あらわれない場合がある。

この中途挫折の因縁の場合も、この因縁がそのまま性格にあらわれて、非常に気の弱い意志 弱の型と、逆に、非常に気の強い意志強固の型がある。意志薄弱のタイプは、なにをやってもすぐ にあきてしまって、長続きしない。 気うつりがはげしい。学業職、すべてがそうで、転々とす る。文字どおりの中途挫折、志弱の型である。

もう一つのほうは、これと全く反対で、性格も強く、意志も強固で、努力家でもある。しかる に、かえってその強さが人と相容れられず、上の者といおうとしたり、同僚と円満に協調できな かったりして、失敗し、挫折する。 あるいは、ここ一番という大事なところで、決まってつまらぬ ミスをしたり、人の誤解をうけたり、妨害をうけたりする。 また、病気や怪我などで手違いが生ず というように、必ずなにかしら障害が発生して、チャンスをつぶすのである。

先日来た人に、そういう人があった。四十七、八歳の会社員で、立派な人物であったが、この人 この因縁があった。聞いてみると、いままでに八回も会社を変っているという。意志強固の努

力家型だが、と思って聞くと、この人は、一流の財閥会社に勤めているのだが、系列の子会社に出 向させられると、その会社は、決まって、他に合併したり、業績不良で閉鎖させられてしまうので ある。 本社にもどると、同期の社員で本社にいたままの者は相当上のほうに進んでおり、処遇に困 るので、また傍系の会社に出向重役として出される。するとまたその会社がおかしくなる、という ので、いままでがそのくり返しだったというのである。念のためにいうが、それは、この人の経営 腕が悪いために、この人が行った会社がみなダメになるというのではないのである。手腕とい

う点からいったら、この人は、むしろ人並以上の手腕を持っている人である) この人が行っても行 かなくても、その会社はダメになるのである。そういう会社に、この人は行かねばならぬようなま わり合わせになってしまうのだ。 今度の会社もおかしくなってきているので、相談に来たのです、 というのだが、典型的な中途挫折の因縁のあらわれかたである。 薄弱行タイプの場合は、すぐに あきたり、気うつりしたりして自分から会社を転々とするが、意志強タイプの場合は、自分では 一心に努力をして会社を変るつもりはさらさらないのだが、他動的に転々と変らざるを得ないよう になってしまうのである。その人の意志、思考、心構えなどに関係なく、結果は結局同じことにな ってしまうのである。それが、因縁というものの、こわいところである。 精神一到何事か成らざら んや、と気ばってみたところで、この因縁を持っていては、しょせん、ダメである。外的条件が許 さないのである。

昔から、よく、「人間にはだれでも、一生に三度はチャンスがある」といわれているが、運のな い者でも三度はチャンスがあるかわり、運のある者でも、三度以上そう何回もあるものではない。 人生ここ一番というチャンスを二、三度この因縁でつぶされてしまったら、もうその人間は一生 芽が出ないものと思わねばなるまい。そうして、この因縁のこわいところは、この因縁は必ずその 子に遺伝し、その場合、決まって親よりその子のほうが一段と因縁を深めていくのである。 この中途挫折の因縁が、そのようにして一段と強くなった場合、次の、

3 運気不定浮沈の因縁(阿

という因縁になる。

これは、運気に根が生じないで、 そのため、浮沈変転してとどまらないのである。いわば、根な 草の人生である、住居、職業が定まらず、転々とする。 一時的に幸運を得ることがあっても、 しない。一生、ドヤ街の住人か、浮浪者である。

女性の場合、ちゃんとした結婚生活を続けることができない。再婚、三姫、あるいは妾となる。 はなはだしい場合は娼婦となる悲惨な因縁である。

4 肉親血縁相剋の因縁 (布哩

のあらわれである。

これも、根本は、家運衰退の因縁から出てきているものである。

この因縁は、肉親の者同士、血縁者同士が、たがいに運気 (生命力)をね合い、傷つけ合 って、分散していくのである。 毛利元就の「三本の矢」の教訓を逆にいって、おたがいに助け合い 協力し合っていくべき肉親血縁の者が、離散し、孤立して、次第に没落していく。まさに家運衰退

この因縁があると、親子、兄弟等、血縁の者が同居していると年中不和で争いが絶えないのであ る。これは、血縁者同士でおたがいの運気 (生命力)を害ね合い、傷つけ合っているので、無意

識のうちに反発し合って争うのである。この場合、運気を傷つけ合うといっても、必ずしも表面立

って争いをするとはかぎらない。ただ同じ屋根の下に住んでいるというだけで、 相手の運気(生命 力をねるのである。 それは、ちょうどなにか目に見えない光線のようなものを放射し合って相 手の生命力を傷つけるように思われる。人間の生命というものは、自分を守るという自衛本能を持 っているからその本能が働いて、無意識のうちに生命力を結集して相手に反発する。その結果とし 相手のなんでもないような動作や一言一句が非常に気にさわる神経がたっているので)。 そこ で争いがはじまるのである。 肉親同士で異常に仲が悪いのはこのためである。それに加えて財産な どの利害関係がからむと、非常に深刻な争いに進展していく。

この因縁のある家庭で、もし、同居の肉親同士が不和でなければ、家族の中にだれか一人、年中 病弱で苦しむ者か、極端に不運で運の開かぬ不遇の者が必ず出る。

相当の才能、手腕がありながら、 常にチャンスを逸したり、チャンスに恵まれない不遇の人、 あ るいは長年弱の人は、前記の「中途挫折の因縁」か、または、この「肉親血縁相剋の因縁」によ って運気(生命力)を害されているのではないかを疑ってみるべきである。どちらかの因縁があ ったら、これを断ち切らぬかぎり、いくら努力しても一生空転するばかりである。

5 わが子の運気剋する因縁(

これは、肉親血縁相剋の因縁の変型で、親がわが子の生命力を害するのである。そのため、子ど

中病弱となる。あるいは不具者として生まれたり、不具者となったりする。 たいてい十歳ぐ らいまでに死亡するものである。

もし、その子が非常に生命力が強ければ、素行が乱れるようになって、若年、家を飛び出す。 こ れは、親のそばにいると生命力を削られて危険なので、親のもとを飛び出すようになるのである。 (もちろん、本人はそのことを知らないが)

最近少年少女の非行問題についていろいろと対策が練られようとしているが、世の親は、こう いう因縁のあることに気がついて欲しいのである。因縁なんて迷信じゃないかなどとバカげたこと いっていないで、自分自身にそういうものがないかどうか、よくよく考えてもらいたい。 父親に しても母親にしても、この因縁があると、子どもが必ず異常に反抗するのである。もちろん子どもの 成長期間中に反抗期という一時期があることは事実だが、この因縁による反抗は異常なのである。 これは、前記の肉親血縁相剋の因縁の場合と同じように、自分の生命力を侵害してくるものに対し 自衛本能が働き、わが生命力を結集して反撃しようとするゆえに一言一句ことごとく反抗反発す るのである。かわいそうな姿なのである。私は、いつも、この因縁を持つ親と子を見ると、その子 に、毛をさか立てキバをむき出して敵にかみつこうと必死になっている仔犬の姿を思い出す。

成功者の家庭に素行不良の子が多いのも、他にも原因はあるけれども、運気の強い親はえてし その運気の強さが同時に子を剋する因縁をも伴いやすいため、そういう結果を生じやすいのであ

運命と因果律

運命学は帝王の学

それは、その生命論があまりにすばらしいからである。 人の運命がすべてわかるというそのことは、運命学が解明した生命理論の正しいという証明のため になされているのであって、 主役は生命論であり、運命がわかるということは傍役なのではないか という感じである。

私も最初のうちは、ほとんどの運命学研究家がそうであるように、 運命学とは人の運命がわか るというそれだけのものだと思っていたのである。

ところが、本当の運命学にふれるにおよんで、それは全くの間違いで、人間生命の解明こそが運 命学の第一義なのだということがわかってきたのである。

考えてみれば、それはしごく当然のことであって、人間生命の本質・原理さえ把握すれば、ある 人間を一つの時点でとらえて、そこから、過去でも未来でも、自由自在にキャッチすることができ るのである。 数学者は、あたえられた一定のデータの数字をもとに答えを出す。 それは、彼が、数 学の原理や公式を知っているからで、その原理や公式は、数の事実を解明することにより得られた ものである。 それと同じことで、人間の生命を成立させているところの原理をつかめば、ある一つ でもでも自在に答えを出すことができる。これを逆にいえ とづいて人の運命を解析し、ピタリと適中したら、その原理が正しいということになるのではない か。そのために、運命学は人の運命をみるのであって、いわば生命理論の検算をしているのじゃな いか、と思われるくらいなのである。

むかし、東洋では、運命学を「帝王学」 とよんで、君主たるものの必ず修めねばならぬ学間と されていた。それは、多くの人を統率したり、敵国と戦って勝利を得たりする上に、自他の運命を 知って対処することが最も有利であるという功利的な面からだけでなく、運命学を学ぶことが、人 間をよく知る最もよい方法だったからだと私は思うのだ。

むかし、孔子であったか、よい政治をするにはどんなことが大事かと聞かれて、 「よく人を知る にあり」と答えている。

政治に限らず、人間というものの本質を知り、理解するということは、学問といわず、科学とい わず、あらゆるものの根本であり、基礎であり、すべてここから出発し、ここにもどってくると思う のである。その、よく人を知るということにおいて、運命学より以上のものは他にない。なぜなら ば、先に申したとおり、運命学は人間生命の本質と原理をしっかり把握しているからである。

運命学を学んでその堂に入り、自由自在に人の運命がわかるところまでいかなくとも(それはた しかに難事だが)、この生命論を学ぶことにより、人間の本質を知ることがどんなに有益なことかそれは、どういうことかというと、運命学を学ぶ人びとは、ほとんど全部、人の運命がめる

真の運命学は生命論である

むしろ、場合によっては、人の運命がわかるということよりもすばらしいのではないかと思う。

Fate and the Law of Causality

Fateology is the study of the emperor

That is because its theory of life is so wonderful. The fact that one’s fate can be known is done to prove that the theory of life elucidated by fateology is correct, and it feels like the main role is the theory of life, and knowing one’s fate is a supporting role.

At first, like most fateology researchers, I thought that fateology was just about knowing one’s fate.

However, when I came into contact with real fateology, I realized that this was completely wrong, and that the elucidation of human life is the primary purpose of fateology.

If you think about it, this is quite natural, and if you can grasp the essence and principles of human life, you can capture a person at a certain point in time, and from there, you can freely capture the past or future. A mathematician gives an answer based on the numbers of a certain amount of data given to him. This is because he knows the principles and formulas of mathematics, which are obtained by elucidating the facts of numbers. In the same way, if you can grasp the principles that make up human life, you can freely answer any question. Conversely, if you analyze a person’s fate based on the above and it hits the mark, doesn’t that mean that the principles are correct? For that reason, the study of fate is to see a person’s fate, and it is almost thought that it is a test of the theory of life.

In the past, in the East, the study of fate was called “the study of kings” and was considered a study that a monarch must master. This was not only because of the utilitarian aspect that it is most advantageous to know and deal with one’s own and others’ destinies in order to lead many people and fight and win against enemy countries, but also because I think that studying the study of fate was the best way to know people well.

Long ago, when Confucius was asked what was important for good government, he answered, “It lies in knowing people well.”

Not only in politics, but knowing and understanding the essence of human beings is the root and foundation of everything, not just academics or science, and I think everything starts from here and returns to here. When it comes to knowing people well, there is nothing better than the study of fate. This is because, as I said before, the study of fate firmly grasps the essence and principles of human life.

Even if you don’t study the study of fate and enter its hall and reach the point where you can freely know people’s fate (which is certainly difficult), how beneficial it is to know the essence of human beings by studying this theory of life. What I mean is that almost all people who study the study of fate think that they can know people’s fate.

True study of fate is a theory of life.

Rather, in some cases, I think it is even more wonderful than knowing people’s fate.

運命と因果律 運命学は帝王の学

運命と因果律

運命学は帝王の学

実に

じゃないかという感じがしてくるのである。それは、その生命論があまりにすばらしいからである。 人の運命がすべてわかるというそのことは、運命学が解明した生命理論の正しいという証明のため になされているのであって、 主役は生命論であり、運命がわかるということは傍役なのではないか という感じである。

私も最初のうちは、ほとんどの運命学研究家がそうであるように、 運命学とは人の運命がわか るというそれだけのものだと思っていたのである。あなたもそうではないだろうか?

ところが、本当の運命学にふれるにおよんで、それは全くの間違いで、人間生命の解明こそが運 命学の第一義なのだということがわかってきたのである。

考えてみれば、それはしごく当然のことであって、人間生命の本質・原理さえ把握すれば、ある 人間を一つの時点でとらえて、そこから、過去でも未来でも、自由自在にキャッチすることができ るのである。 数学者は、あたえられた一定のデータの数字をもとに答えを出す。 それは、彼が、数 学の原理や公式を知っているからで、その原理や公式は、数の事実を解明することにより得られた ものである。 それと同じことで、人間の生命を成立させているところの原理をつかめば、ある一つ でもでも自在に答えを出すことができる。これを逆にいえ とづいて人の運命を解析し、ピタリと適中したら、その原理が正しいということになるのではない か。そのために、運命学は人の運命をみるのであって、いわば生命理論の検算をしているのじゃな いか、と思われるくらいなのである。

むかし、東洋では、運命学を「帝王学」 とよんで、君主たるものの必ず修めねばならぬ学間と されていた。それは、多くの人を統率したり、敵国と戦って勝利を得たりする上に、自他の運命を 知って対処することが最も有利であるという功利的な面からだけでなく、運命学を学ぶことが、人 間をよく知る最もよい方法だったからだと私は思うのだ。

むかし、孔子であったか、よい政治をするにはどんなことが大事かと聞かれて、 「よく人を知る にあり」と答えている。

政治に限らず、人間というものの本質を知り、理解するということは、学問といわず、科学とい わず、あらゆるものの根本であり、基礎であり、すべてここから出発し、ここにもどってくると思う のである。その、よく人を知るということにおいて、運命学より以上のものは他にない。なぜなら ば、先に申したとおり、運命学は人間生命の本質と原理をしっかり把握しているからである。

運命学を学んでその堂に入り、自由自在に人の運命がわかるところまでいかなくとも(それはた しかに難事だが)、この生命論を学ぶことにより、人間の本質を知ることがどんなに有益なことか

が他の人びとと違っていたため、その間違いをすぐトも

それは、どういうことかというと、運命学を学ぶ人びとは、ほとんど全部、人の運命がめる

真の運命学は生命論である

むしろ、場合によっては、人の運命がわかるということよりもすばらしいのではないかと思う。

いまの皇太子さまのことは存ぜぬが、今上陛下までは、代々皇室必修の学問として、すぐれた運 命学の一つであり、人間学でもある「易経」を学ばれたはずで、それも、以上述べたところに由来 しているものであろう。 また、皇室には、古代から極秘に伝えられてきた運命学の一種、明学が あり、現在もなお宮中には陰明師という運命学者のグループがいるといわれている。

運命学は、また、そのほかにも「宰相の学」とか、「聖賢の学」ともよばれ、尊ばれてきたので

ところが、「運命学」というと、たいていの人は、いわゆる「あたるもハッケ、あたらぬもハッ ケ」というあの占いを思い浮かべるようである。あなたもそうではないだろうか?

だが、違うのである。 占いは運命学ではないのである。 運命学の一部に占いはあるけれども、占 い、すなわち運命学ではないのである。「学」には体系と普遍妥当性がなくてはならない。 占いに は体系もなければ普遍妥当性もなく、方法だけがあるので、ゆえに「術」とよばれ、「術」とい う。占術は運命学の体系の中に組み入れられて、 運命学の一部になっている。だから、占ってもの ごとを予知するということは、運命学のごく一部であって、すべてではないのである。

そういうと、あなたは意外なことに思われるかもしれない。さらに、前の項で述べたように、運 命学は東洋においてすべての学問の上に置かれてきたなどと聞くと、びっくりすることと思う。 実 ほとんどの人は、運命学は占いの一種か、占いそのもののように考えて、それが学問であるな どとはとうてい想像もつかないことであろう。 迷信のようにさえ考える人も少なくないのである。 しかし、それは、本当の運命学を知らないからなのである。それには、いままでの運命学者にそ の責任があると私は思う。いや、運命学者というより「運命判断家」というべきかもしれない。

運命学者と運命判断家とは、同じようでいて、全く違うのである。どこが違うかというと、運命 学者は運命学そのものを体系立てて研究し、学ぶ。 運命判断家は運命の予知、運命の分析、判断の 方法だけを習得する。 というのは、この人たちは運命学とは人の運命を判断予知するもので、それ 以外のなにものでもないと考えている。 本当の運命学では、人の運命の予知や判断は運命学の一部 であってすべてではない、ということを彼らは知らないのである。誤解しないでいただきたい。い うまでもなく運命学は人の運命を予知し判断するために生まれたものであるから、運命学で人の運 命を予知し判断すること自体、悪いことでもなければ、間違ったことでもなく、ただ、運命学がそ

れだけのものだと思ってしまうことが間違いだと私はいうのである。

実は、私も最初そういう間違いをおかしていたのである。幸い、私の場合、運命学にふれる動機 が他の人びとと違っていたため、その間違いをすぐに悟ることができたのである。

それは、どういうことかというと、運命学を学ぶ人びとは、ほとんど全部、人の運命がわかるよ

うになりたいと考えて運命学に入る。(あたりまえじゃないか)

ところが、私の場合はたいへん違っていたのである。 先の項でちょっとふれたように、私は、仏 教の因縁論、生命論を確かめる方法を求めて運命学に入った。 私は、自分を救ってくれる宗教は仏 教以外にないと確信して仏門に帰依したわけであるが、その仏教の根幹となるものは、三世にわた 因縁の理論である。 因縁と宿命とと、この三つが仏教理論の根本である。 これを学びつつ、私 考えたのである。

なるほど、仏教学を学べば、理論としてうなずけるけれども、はたして実際にそうなのかど うか、それに絶対間違いがないか、人間の生命に前世が本当にあるのか、というものの本質は何 にか、理論ではなく、本当に自分自身でなるほどとつかみとってみたい。つかみとらねば待でき ぬ。それにはどのような方法があるだろうか?

必死に考えて、これと思われるあらゆる方法をこころみた。その中の一つに運命学があったので

一つのことを追求しはじめると徹底しなければ承知できぬ私は、あらゆる運命学を研究した。 姓名判断 数理学、 トランプ占い 水晶占い、砂占い 測定法 九星術 干支術などから、トレ ミーなどの西洋占星術、八門遁甲、 奇門遁甲 紫微斗数、 六壬天文学、 海子平におよんでその 極に達し、もうこれ以上、深い運命学は無いだろうと思うに至った。よく百発百中というけれど も、私は、これら高度の運命学になると、百発百二十中だとよく冗談をいうのである。というの

は、時に、本人自身の知らぬことまでわかってしまうからである。

だが、私は、百発百二十中でも満足できなかったのである。

私の場合、ただ人の運命がよくわかり、よく当たるというだけではダメなのである。私は、そう いうことを求めて運命学に入っていったのではない。 ヨーガや真言の荒行をした結果、私は、当時、 かなりの霊感力を得ていて、霊感だけで人の運命がわかるようになっていたから、運命がわかると いうだけならば、なにも苦労をして運命学を研究することはなかったのである。

なぜそれらの高度の運命学の方式を用いたら人の運命がわかるのかその理由、その原理が知りた かったのである。その原理が私の求めているそのものか、または、それを得る鍵になるのではない か、と考えていたのである。

数学がそうですね。問題を出されて、答えだけをポツンと書いて出しても、なぜその答えが出た のかという計算の過程を明らかに書かなければ、その数字がいくら合っていても、試験官は及第点 をつけてくれない。 答えよりも、その数字が出された過程、方法、原理が必要なのである。 それと 同じことで、私の求めていたのは、運命がわかる、判断が適中したという答えよりも、なぜわかる

のかということ、つまり原理を知りたかったのである。