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Buddhism

桐山靖雄 ヒトを天才にする求聞持聡明法

ヒトを天才にする求聞持聡明法

ヒトを天才にする求聞持聡明法
求間持聡明法は、ヒトを聡明にし、天才にするという真言密教に伝わる秘法である。
弘法大師空海が、若くしてこれを修し、大天才となったということで、夙に知られてい
る。また、新義真言宗の開祖、興教大師覚鏝(一〇九五1一一四二)が、七度、この法を
修して成功せず、八度目に悉地を成じ、成功したと伝えられる。覚鏝上人ののこされた業
績をみれば、上人もまた天才でめったことは疑いない。ただ残念なことに、四十八歳で亡
くりれている。
真言密教の求聞持聡明法には、三種の法がある。
虚空蔵求聞持
観音求聞持
如意輪求聞持
であるが、ふつう、求間持法といえば、空海が修して有名な虚空蔵求間持をさす。この
つぶさ    ぶつせつこくうぞうほさつのうまんしよがんさいしようしんだら・にぐもんじほう
法を、具には「仏説虚空蔵菩薩能満諸願最勝心陀羅尼求聞持法」という。
しかし、わたくしがこのたびこの本で発表する求聞持聡明法は、これらのいずれでもない。わたくしが独白に創成した求聞持法で、わたくしはこれに、だとによい
駄都如意求聞持聡明法と名づけた。
この駄都如意求聞持聡明法は、真言密教につたわる求聞持法とはまったくちがうものである。
二つの特徴がある。
それは、
一、クンダリニー・ヨーガのチャクラを覚醒して、超人的千不ルギーを発生させる。
二、その超人的干1 ルギーを、中国・道教につたわる導引・気功の持つ生気ルートに
のせて、体の各要所、要部にめぐらせ、行きわたらせる。殊に、大脳の中枢である間脳・視床下部に送りこむ。
この二つの方法を、独特の方法で完成したのである。これは、前人未踏の領域であるといってよいであろう。わたくしは、半生を、というより、一生をこの法の完成に注いだ。いまから約二〇年前に発行した『変身の原理』以来、わたくしの著書はこの本で四〇冊になるが、それらの著書のすべてが、この法の完成に至る道のりをあらわしたものであるといってよい。
わたくしは、この本で、わたくしの得たほとんどのものを、出来るかぎり、明らかにした。クンダリュー・ヨーガも、道教の導引・気功も、いずれも超人的能力を獲得するための
最高の法である。この世界にこれ以上の超能力開発法ぱない。この二つの法の欠陥を補正して融合させ、さらにあらたな創案をくわえて完成したこの駄都如意求聞持聡明法は、ヒ
トにおける究極の超能力開発法であると自負するのである。
もちろん、。後世おそる、べし”という諺の通り、今後、これ以上の超能力開発法も出るかも知れないが、しかし、それも、クンダリュー・ヨーガと導引・気功を融合させたこの駄
都如意求間持聡明法のライン以外のものではないであろうと確信している。
この法を、指導通りに修行するならば、確実に、ヒトの知能は二倍に、体力は三倍に飛躍強化されるであろうことを断言する。

天才は不老長寿でなければならない

求聞持聡明法は、たしかにヒトを天才にする。
しかし、いくら天才になっても、そのために、病弱になったり、若死にしたりしたのでは、なんにもならない。天才は、いつまでも若々しく、健康で、世のため、人のため、その才能を発揮するもの
でなくてはならない。(寝たっきりの天才など、まっぴらである)
求聞持聡明法修得をこころざしたわたくしは、つねに、四十八歳という惜しむべき短命に終わった興教大師党員上人が念頭にあった。上人は、おそらく、過酷な求間持法修行のため、法は成就したものの、体を痛め、寿命を損じたのにちがいなかった。
このことは、年少、結核を病んで何年も病床に伏した苦しい経験を持つわたくしにとり、その恐れの念が特に深刻であった。
しかし、この憂慮は、幸いにして杷憂におわった。
道教の導引・気功の秘法をとり入れたことが、この心配を吹きとばしてくれたのである。
すなわち、道教の導引・気功は、仙道の流れを汲むものである。そして仙道の理想は、不老長寿、生きながら神仙に化することを目標とする。
駄都如意求聞持聡明法は、特に不老長寿を目ざすものではなかったのだが、結果はそうなってしまったのである。
期せずして、仙道の理想が実現されることになったのだ。
神仙に化することだけはちょっとむずかしいが、不老長寿はかならず達成される。 わたくしぱ断言してよい。仙選の秘法がとり入れられているこの駄都如意求聞持聡明法
は、二十歳代の人ならば、三歳から五歳、中年以上の人ならば、十歳から十五歳、若返ることができるであろう。

あなたが高年者として修行に入り、年齢のために天才になれなかったとしても、いつまでも若々しい肉体と、そして決してボヶることのない求聞持脳だけは獲得できるであろう。
『求聞持聡明法秘伝』平河出版社刊。まえがき”より

「等価変換展開理論」

そんなことがほんとうにできるのか? いったいどうやってそんなことができるのだ、と。
それもたしかにもっともなことで、私自身、身をもってこの密教の秘密に挑戦し、自分でこの
技術を解明するまでは、ぜったいに信ずることができなかった。私は単身、五〇〇〇年の間秘密
のヴェールにつっまれてきたこの不思議な技術にいどみ、その秘密を解いた。それは、信ずるこ
とのできないほど精緻微妙な生化学に立脚したおどろくべき技術の応用であった。
たとえば、
さきにもちょっとふれたが、市川亀久弥博士は、最近の著作のなかマ(≒柚計器)お得意の
「等価変換展開理論」にもとづき、イモ虫からサナギヘの変化を例にして未来社会への脱皮を説
いておられる。この理論はまことにみごとで、まさにほれぼれするほどあざやかである。こと
に、イモ虫がサナギに変身する理論的うらづけは、近来しきりに輩出する未来論のなかで、まさ
に出 色のものであるというべきである。
ただ、まことに残念なことに、それは理論と説明と期待にとどまり、それをいかにヒトに応用
して実現させるかという方法を示していない。それは、もちろん、氏自身、同書のはしがきのな
かで、これは、″単に人類のあるべき未来社会に関するソフトーウェアの主張の範囲にとどまる
ものである”とことわり、この。ソフトーウェアに対するハードーウェアの具体的な提唱″は
″旺い将七に公長する~定である″ということであるから、われわれはまさに刮目してそれを待、ぐに、その″ソフトーウにアに対するハード・
ウェアの具体的な技術″を持っているのである。密教は、その持つ技術のひとつに、この市川理
論の「イモ虫からサナギヘの脱皮」技術を持っていて、数千年も前から、それをヒトの変身技術
に応用、実践していたのである。
密教は、現代の創造理論の大家が提唱する未来に関する花形理論を、とうに実践していたので
ある。五〇〇〇年も前にI。
地を這いまわることしか知らぬ生物であるイモ虫が、サナギになり、そして、空を舞う生物に
変身することは、二次元の世界に生きる生物が三次元生物に変化したことを意味するものだ。密
教がおなじ技術をもってヒトを変身させることは、三次元生物であるヒトをそれより上の次元に
飛躍させることを意味する。密教の変身技術はそれなのである。その生物の次元を変えてしまう
のだ。
しかも、それは、今までいわれてきたように、ただ神秘的、神がかり的なアイマイな方法でな
く、適確な生化学の技術をもっておこなうのだ。そうしてそれは密教の持ついくつかの技術のな
かのひとつに過ぎない。
いったい、どんな智恵がそれをなしとげていたというのであろうか? 密教の技術を神秘とい
うのなら、その点をこそ神秘というべきだろう。しかし、それは、それこそまさに数千年生え出
現した超・ヒトが、孤独にたえつつ、その持つ人類最高の智恵「照明智」を駆使してつくり上げ
た未来人のためのカリキュラムにほかならぬのだというよりはかないであろう。

さて、それでは、密教の技術に関係のある市川理論「等価変換展開理論」とはどんな理論か?
それがどのように密教の技術と関連があるのか?
それを説くまえに、もう少し知っておいていただかねばならぬことがある。
ここで、私は、密教とヨーガという二つのことばについて述べておかねばならぬと思うのだ。
拙著「変身の原理」で、私は、密教についてっぎのように述べた。少し長いが引用してみる。
『真言宗という宗派仏教と、密教すなわち秘密仏教とは、ふかいつながりかおる。だが、それは
どこまでもふかいつながりという関係であって、普通考えられているように、密教即真言宗、真
言宗即密教というものではないのである。
真言宗とは、インドにおいて発生し、大成した密教を、ああいう独白の形に体系化し、組織化
したものであって、密教そのものではないのである。密教のひとつの体系ではあるけれども、密
教そのものではない。
それは、それまでにほぼ完成していたけれども、分派し、多様化していたインド密教を日本密
教の開祖空海が、独自の見識と叡智によって、ひとつの体系につくりあげたということである。
おなじように、天台宗においても、天台密教というひとつの密教体系を組織完成しており、こ
れもまた、密教のひとつの流れということである。
そういうわけで、密教というものを正しく理解するためには、どうしても、]度、密教の原点
に立ちもどって考えてみなければならないのである。
密教は、最初、ひとつの手法(技術)であった。
けっして、最初から密教というひとつの宗教があったわけではない。
ゴータマーブッダがあらわれて、仏教というあたらしい教えを説きはじめるはるか以前、バラ
モンの時代から、インドには、入に超能力をあたえるひとつの手法があった。そういう手法が完
成されて、一部の人たちの間につたえられていた。それは、精神と肉体のきびしい錬磨から得ら
れる神秘的な力で、彼らは、それを、ひとつの技術にまでっくりあげていた。
われわれは、その流れのひとつを、現在、ヨーガのなかに見ることができる。(ただしそれは、
いまの日本で行なわれているアクロバティックな体操のヨーガではない。ヒマラヤの奥地の聖者
たちの間に伝承されている正統ヨーガである)
ヨーガは、その手法のひとつの流れである。この超能力を開発する技術は、仏教があらわれる
以前においてはバラモンにとり入れられ、仏教があらわれると、仏教もまたこれをとり入れた。
ゴータマーブッダは、かれ自身、この手法をまなんで、これにより超能力を持ったが、弟子た
ちにはこれを学ぶことを禁じた。なぜかというと、この技法によって多少の力がつくと、かれら
はすぐにそれがブッダのいう「ホトケ」という境地に達したものと考えてしまい、修行のさまた

げになるからであった。
ただし一部の、素質のきわめてすぐれた弟子たちには、ひそかにこれを許した。
ゴータマーブッダは、普通、神秘的な力を信じたり、修行者がそういう力を持つことを願った
りするのを全く禁じたというように、仏教学者や仏教者は信じているようであるが、それは間違
いで、ブッダ自身、神足({乱石の教理、すなわち、仏道を完全に成就するためには超自然的な
力が必要であるとし、超人間的な能力開発の訓練法を説いているのである。これは、パーリ文献
によって容易に証明することができるのである。(略)
それによると、それは、″四神足“または、″四如意足″ともいわれる超能力開発法である。
ブッダは、菩提を成就するためには、単に、知性や理性をみがくだけでは不十分であると考
え、知性や理性の限界をうち破る力が必要であると考えた。
そのために、彼は、そういう力を開発するための行法をつくりあげた。それは、彼が学んだ超
能力開発法を加えて編成したものと見てよいであろう。
それは、三十七種の技法から成り立つもので、四神足というのは、その中心になる技術であ
る。神通、如意を得るための定を、四種類の手法に分けて説明している。
欲神足(願望、理想、創造のためのアプローチ)
勤神足(体と心のトレーニング法)
心神足(潜在意識のトレーニング法)
観神足(深層意識のトレーニング法)
きづまりを打破するために、大乗仏教のなかにとり入れられて体系化され、密教と呼ばれになったのである。いうわけで、密教は二つの面を持っている。
一つは、超能力の開発技術
一つは、大乗仏教の教義
この二つである。
この二つのものがむすばれることにより、大乗仏教よりさらに高度の教義が完成されて、「金
剛大乗」と呼ばれる新しい仏教が誕生した。これが密教である』
-との引用の文章でわかるように、「変身の原理Lにおいて語られている「密教」というコ
トバは、「秘密仏教」という意味での「密教」である。仏教のなかにとり入れられた、いわゆる
真言密教、あるいは真言宗密教の密教である。
しかし、本書において私がいう「密教」は、それらの密教、「変身の原理」のなかで使われて
いる密教とは全くちがうものであることを、読者はご承知ありたいのである。

本書における「密教」とは、真言密教以前、いうならば仏教にとり入れられる以前の、いや、
バラモンにさえもとり入れられる以前の、引用文でいえば4  R教は最初、ひとつの手法(技術)であった。ゴータマーブッダがあらわれて、仏教というあたらしい教えを説きはじめるはる
か以前、バラモン時代から、インドには、入に超能力をあたえるひとつの手法があった。そういう手法が完成されて、一部の人たちの間につたえられていた。それは、精神と肉体のきびしい錬磨から得られる神秘的な力で、彼らは、それを、ひとつの技術にまでっくりあげていた。と
あるその「技術」、つまり、いうならば、″古代マーガ″と″真言密教″と、この二つを結合したものであると承知していただきたいのである。即ち本書でいう密教とは、ヨーガと真言密教と、
この二つをむすびつけて生まれた新しい技術であるということである。
なぜ、そういうことをしなければならなかったのか、というその理由を語ることはそのまま、密教の法を解説することにもなるので、読者はここのところをよく知っておいていただきたいのである。
引用文のなかにしるされているごとく、行きづまった大乗仏教は、ヨーガの技術にその打開の道を求めた。さきの頃で述べたごとく、精神の高度の飛躍は、その前提に、感覚器官の高度の増幅がなければならぬ。しかし、大乗仏教には教えだけあって、なんの技術もない。大乗仏教という教えであり、教えをあきらかにするだけのもので、技術というべきものはなんにもない。つい
に行きづまることは当然であり、やがてヨーガの技術に救いをもとめるのはさらに当然というべ
きことであった。
かくして、金剛大乗、真言密教が生まれた。ヨーガには、さきにあげた通り、ジョルジューオリヴィエ教授の表現を借りていえば、五つの能力開発技術がある。それは、①第四次元の理解、合複雑な全体をとっさに把握する能力、③第六感の獲得、④無限に発展した道徳意識、⑤とくに
われわれの悟性には不可解な精神的特質、というものであるが、これらの能力開発の技術は、それがそのまま大乗仏教にとり入れられたわけではない。おのずから、ひとつの偏向傾斜があった。
それは当然のことで、大乗仏教の指導者たちは、この技術を彼らの信奉する仏教教義とその目的に沿って取り入れた。一般的でないと思われる技術は捨てられ、あるいはごく一部の指導者にだけつたえられ、あるいは変形された。こうして秘密仏教というあたらしい教義と体系が完成した。しかし、多くのすぐれた開発技術は、この仏教教義を完成させるための補助的技術に変容さ
せられてしまった。あるいは形骸だけがとどめられた。これが、秘密仏教の「行法」であった。
これを究極的に完成したのは、日本密教、すなわち真言宗の開祖空海であった。秘密仏教がインドから中国につたえられ、そのころ中国にわたった空海がそれに接した時点において、秘密仏教はまだ完全にはできあかっていなかった。その混沌たる素材を取捨選択して、これをいま見る
真言宗というかたちにまとめ上げ、整然たる宗教にしたのは空海であった。それはまさに大天才のみがなしとげることのできる偉業であったが、同時に、秘密仏教はあまりにも整然と様式化された日本的なものになってしまった。それまでかなり残っていた密教的な部分はほとんどかげにかくれ、一-法」は、様式化された宗教儀式になってしまった。
しかし、それは、当時の目本の国情や、文化水準を背景にしたとき、やむを得ないことであったのである。というよりもむしろ当然であったというべきだろう。そうしなければ宗教として存
立することができなかったのである。
だが、そのために、いまいった通り「法」はその力を失った。宗教的に様式化され、儀式化されてしまった「法」では、真の能力開発は困難である。というよりもそれは絶望に近い しかし、それはそれでいいのだ。真言密教というものが、宗教であって能力関発の技術ではな
く、仏教という信仰のワクのなかで教えを説き礼拝をつづけているだけでよいなら、それはそれでいいだろう。それに、ほとんど儀式化された「法」であっても、天分のある才能が懸命の努力を集中するなら、「法」の成就も不可能ではない。やってやれないことはないのである。けれども、それは何世紀にひとりというような稀有の才能を必要とするのではないのか。そういうすぐれた頭脳によれば、様式化された法のあとをたどって、ついにその源泉に到達し、そのなかに秘められた法の技術を発見し、体得することもできよう。あるいはまた、頭脳ではなく、熱烈な信仰が、そこへ導いていってくれることもあるかも知れぬ。だが、それは、万人に期待できることではない。
要するに、真言密教成立の当時と全く時代が変ってしまった現在、真言密教が、他の宗教と根本的にちがうその本来の任務をほんとうに果たそうと思うならば、真言密教は大吝く変わらねばならぬ。真言密教はナみやかにその原点に立ちもどり、「法」を技術としてシステム化しなければならぬ。そうして、だれでもが平易にまなべる体系を編成ナることである。
それは決して「法」を解体し、「法」を壊滅してしまうことではない。むしろ、そうすることによって法が生きるのである。また、それは決して宗教の解体ではない。
法によって高い知的能力を得たならば、人はおのずから高い道徳意識、倫理観を持つものである。

人が宗教的教えを必要とナるのは、知的能力が低いからである。要するに、愚かだからである。人の道徳意識が低いのは、知能、精神能力が低いからだ。ほんとうに知能が高くなれば、人は、いま人類の持っている程度の宗教意識などけるかに超えたもっと高い倫理観を持つ。オリヴイエ教授のいう「無限に発展した道徳意識の保有」である。
教え(宗教)による人類の道徳意識の開発は、すでに限界に達してしまっている。
見よ。

地上にあまねくくりひろげられている人類のこの大愚行を。殺し合い、奪い合い、罵り合い。
どこに「知恵あるヒト」のおもかげがあるか? 「大愚人類」そのものではないか?
要するに、バカにいくら結構な教えを説いてもだめなのだということだ。
もっと忌憚なくいわしてもらうならば、(これは私がいうのではない。みんな密教の神サマが
おっしやるのであります)ちっとましなバカが、しょうのないバカに一心に教えを説いているというのが、いまの宗教のすがたというものではないのか?
宗教だけではない。科学と技術だってそうではないか。見さかいなくいい気になっていろんなものをつくり出し、あとで公害だ有害物質だと困っている。こういうおろかなことは、もう少し人類の知能が高くなったら、そんなバカなことはたのまれなくともしなくなる。要するに知能が低いからだ。
政治も、経済、思想も、みんなそうだと、あなたは真実思わないか?
要するに、すべて、″ヒトの知能が低い″ことに原因があるのである。
この世界を住みよく、たのしいものにするのには、革命ごっこよりもなによりもまず、ヒトの知能を高めることだ。そう、あなたは思わないか?
さて、話をもとにもどそう。
教えの限界とはヒトの知能の限界だ。
密教はその限界をうち破るのである。
技術によって超能力をあたえ、いっきょにヒトを改造して、宗教などという低い次元をいっぺんに飛び越し、想像を絶する叡智を持った、高い倫理的生物をつくり出そうというのだ。
それが、密教だ。
求闘持法《明星》の秘密

私はこのことを念力の護摩の修得に際してさとった。
先年、私は、念力の護摩法の伝授を受け、悉地成就の修行に入った。けれども、その行法の次
第を、何十ぺん何百。へんくり返しても、念力の火は出なかった。煙さえたちのぼる気配はなかっ
た。私かそのままその法の次第を忠実にくりかえしていたら、永久に念力の火は出なかったであ
ろう。出るはずがないのである。念力の護摩法の次第を、いくらくりかえしたって火は出ない。
そんなことで出るのだったら、今日までに、何百人、何千人の阿闇梨が念力の護摩を焚いていた
だろう。真言密教の念力の護摩法だけでは、ぜったいに火は出ない、それは、密教の技術によっ
て、サマーナ気を克服したとき(274頁参照)、はじめて肉体から火焔を発することができ、念力の
護摩は完成するのである。絶望した私は真言密教をはなれ、身を転じて古代インドの秘密経典に
むかった。
私はそこでインドの聖典、バガヴァットーギータを続み、そこに念力の護摩の秘法がかたられ
ていることを知った(口絵写真参照)。そこから、ギータと不二の関係にあるヨーガに入った。ヨ
ーガに本当の念力の護摩があることを知った。ヨーガにおける私のいのちがけの修行がはじまっ
た。ヨーガの技術でなければ念力の火は出ないことがわかったからである。真言密教の念力の護摩法次第は、ほんの心おぼえ程度のものに過ぎず、これでは、だれがどうしたって火の出るはずがなかった。いや、この肉体が火となるための「法」としては心おぼえ程度のものですらなく、むしろ、バガヴァツトーギータの聖句のほうが、はるかに示唆に富んでいるといえた。ヨーガの念力の護摩は、ただ単なる観想の羅列ではなく、どの生理器官をどのように統御しどのように動かすという現実的具体的な「技術」があった。この技術によってトレーニングすれば、多少なりと素質のある者だったら、必死の修行によって念力の火を出すことは不可能ではない。真言密教の念力護摩法次第だけでは、大天才といえども不可能にちかい難事である。この秘密を知らずして、古来、いく人の密教修行者が、念力の護摩の次第と秘伝を前に、血と汗の絶望をくりかえしたことであったろう。思えばツミな″次第″である。
これと全くおなじことが、真言密教につたえる「求聞持聡明法」についてもいうことができる。求闘持とは、古書に、『見聞覚知のことを憶持して長く忘れず、師なくして天地の感応を待つ、これを″求″といい、教なくして真如妙理を覚る。これを″聞″といい、一度覚るとながく忘れない、
これを″持″という』とあるように、求闘持法とは、ヒトの大脳を強化して、博覧強
卸、比類なき記憶力と聡明さをあたえる秘法であるが、これをなん十。へんなん百ぺん行法の次第通りに修行したところで、その結果は、おそらく念力の護摩とたいしてかわらない結果におわるであろう。生命を賭して修法すれば、多少の効果はあろうが、宗祖が体験を以て示したような霊験を得ることはまず難い。なぜならば、真言密教の「虚空蔵菩薩求聞持法」には印信観想による
精神集中の「法」はあるけれども、現実に生理器官である大脳皮質そのものを動かす「技術」を持っていないのである。ヨーガの「聡明法」は、どの器官をどう使ってどのように大脳皮質を動かすかという「技術」がある。また、それだけではない。根本的にちがうものがあるのである。
’それは、まったく根本的にちがう。
拙著「変身の原理」で求闘持聡明法についてかたって以来、私は、十指を越える真言僧侶、阿閉梨がたから、手紙あるいは直接、この法の修行について相談をうけた。そのほとんどは、自分も一度ないし数度にわたって求聞持法を修したが、いっさい効験がみられなかった。修法の行じかた、あるいは心構えに越法のところがあったのであろうかというのであった。また、何度か修してみて、あの行法にそんな神秘的な力がひそんでいようとは思われぬというものがあった。なかにはお気の毒にも健康を害してしまって、再起不能になったと訴えてきた阿閉梨もおられた。
お気の毒であるが、当然なのである。
真言密教の阿開梨がたが、いくら求闘持法をくりかえしても、成就できないのは当然なのである。もちろん、絶対に、とはいわない。万人に秀いでる天才、英才であったら、その極に達することができるかも知れぬ。しかしまず、不可能にちかいというべきだろう。
私か発見した密教の「求闘持法」でなければ、まず不可能にちかいといってよいであろう。こ
の法については章をあらためてくわしく書くが、ここで、求聞持法の秘密の一端を明かそう。まず、最初、真言密教の求聞持法を述べてみる。
『比の法を修するには、東南西三方の晴れたるところを最上とする。東方のみでも悪くはない。

道場の東壁に小窓をつくる。これは虚空蔵の似沢である明星の光を道場にさし入れるためである。また、朝日夕月の光を本尊にあてる意もあり、あるいは小窓に絹を張り、黄色の種字の字を書いて、そこから、明星の光をとおして本尊にあてるためでもある』
とまず場所を制定し、つぎに、さだめられた本尊の印明を百万べん、五十目あるいは百日に読誦するのであるが、日蝕または月蝕の時に結願するよう開白(はじめること)しなければならぬとある。
けれども、密教の求聞持法では、べつに場所はえらばぬのである。静かな場所でありさえすればよい。また、いつはじめてもよいのである。明星を拝するのも、行のはじめに際して、あるひととき、星と月に対すればよいのである。
また、これこそが密教のもっとも奥義とするところなのだが、弘法大師空海は、求聞持法の成就の体験を、
『―阿国大滝の岳にのぼりよじ、土州室戸の崎に勤念ナ。谷響を惜しまず、明星来影す。
言々』
と語っている。すなわち、阿波の大滝にのぼり、土佐の室戸岬でこの法の修行にはげんだところ、谷はこだまし、明星があらわれるなど、法にいわれている通り現証があり、法が成就した、
というのであるが、これは、空海のひとつの表現であって、これをそのまま鵜呑みにしてしまうからいけないのである。これはどこまでもひとつの表現なのだ。
伝にいわく、
『明星来影す、とは、結願のときに、香に火を置き、明星を拝するに、四方が暗く明星が見えねば悉地就成ではない。暗くても星が現ずれば下品の成就であり、四方が少々晴れて星が現ずれば中品、天に暗なく、ことごとく晴れて星現ずれば成就、四方が晴れても星現ぜざれば悉地成せざるなり』
とあるが、これがちがうのである。まるっきりちがう。
こういう口伝や奥伝をたよりにいくら修行しても、気の毒だが、求聞持法は成就しない。
明星とは現実の明星ではないのである。
大脳のある部分をある方法で刺激すると、目の前に光が見えるのである。
その光は、かたちも色も大きさも、いろいろに見えるが、意識を記憶の座に向けて沈静させる
と、つめたい、やや黄色みを帯びた白銀色になって、しずかに目のなかでまたたく。それはちょうど明星そっくりに見えるのである。
これが明星なのだ!
268頁をもう一度、読みかえしていただこう。
″頭のかかの光明に日を向けるならば″
とある。これがそれなのである。
ある特殊なトレーニングにより、この部位(大脳の視床下部のあたり)の刺激が、目のなかに光を浮かばせるのである。目をある角度に向けると、目を開けていても閉じていても、ポッカリと光が浮かんで見える。
この光が見えるようになると、記憶の座が自由にあやっれるようになるばかりでなく、さまざまな、奇蹟としか思えぬような力がついてくる。
これが、「求聞持法」の明星の秘密である。大空を百年ながめて空中の明星を見つめていても、ムダだ。明星はわが大脳のなかにあるのだからI。
このことは、密教五〇〇〇年の歴史に、私がはじめてっかんだ秘密である。私以外にこれを知る者はついになかった。求闘持法の秘密を私はついにつかんだ。私はそれを誇りに思う。
これをもとにして、私は、私の「求闘持聡明法」を編成した。これは、今までの「法」などというアイマイなものではない。生化学と生理学をもとにした「技術」である。正しい指導のもとに訓練を積めば、必ず、だれでもできるようになる技術である。
本来ならば、こういうことは私の、「太極秘伝」として、ごくかぎられた者だけにひそかにつたえてゆくべきものなのだろう。だが、私はこれをひろく公開する。なぜならば、私は、世界中の人びとがこの法によって知能を高め、いっさいの愚行-殺し合い、奪い合い、罵り合い、にくみ合いから遠ざかってほしいのである。
求聞持聡明法は、人の知能を三倍にナる。
しかし、その半分でもよい。人類の知能が今の水準より平均一・五倍飛躍したら、この世
から、犯罪も戦争もいっさいなくなる。そういうものがあるのは、人間が愚かだからだ。求闘持法によって知能指数が倍加したら、そういうものがいかに愚かで馬鹿々々しいことか、大人が子
供のヶンカが馬鹿々々しくて見ていられないように、いっさい、しなくなる。
私や、私の周囲のごく一部の者が、この法によっていくら賢くなろうとも、それがなにになろう。世界の大勢にどれはどの影響があろう。よしんば、私か、この法によって、古今無比の大聖者と仰がれるほどの力を持とうとも、世界のどこかで、権力を握っている馬鹿が、核バクダンのボタンをひとつ押したら、それっきりなのである。世界中はふっ飛んでしまう、古今無比の大聖
者もいっしよに!
まあ、古今無比の大聖者ともなれば、事前にそれくらい察知して、安全な所に待避してしまうであろうが、世界中が壊滅して、助かった者も核の灰に汚染されて半死半生ばかりという世のなかに、自分とごく少数の一族だけが生き残ってなにになろう。ノアの方舟の時とは状況が全くちがうのである。
このままでゆけば、核戦争がはじまるのはぜったい確実である。私にははっきりそれがわかる。この大愚行だけはやめさせなければならぬ。
革命よりも、階級闘争よりも、人種闘争よりも、なによりも、いま、人類に必要なのはこれだ。これが根本的に人類を救う道だ、とそう私は思う。ヒトの知能が二倍になったら、いま、人類がかかえているあらゆる問題はすべて解決してしまう。そう、あなたも思わないか?
私か、この求聞持法を惜しげもなく公開し、ひとりでも多く、一目でも早く、修得してほしいとねがうのは、そのためなのだ。
さて、はなしが少々よこにそれたが、この大脳の部位のことは、インドのヨーガの指導者も知っており、ヨーガのほうでは、この部位のことを、
「頭のなかの光座の座」
とか、
「梵の座、梵の裂け目」(brahma randhro
とか、
「サハスララーチャクラ」
と名づけ、頭の中の光明がかがやいている部分であると考えている。しかし、これも解釈がちがっている。
頭のなかに光明がかがやいているのではない。私の発見した求闘持法とおなじ原理である。大脳のある部位を、あるエネルギーで刺激すると、あるひとつの物質が分泌され、それが脳の神経組織を刺激して、目に光を感じさせる。                  『- それが、頭と目の微妙な角度のちがい、刺激の相違で、目のなか、目の前、および、頭のなか、というように、光の浮かぶ場所がちがうのである。
求聞特法の湯合は、目の前の、やや上方、ニメートルから三メートルくらいのところに浮かんでみえる。目の角度と、瞳孔の絞りかたによっては、はるか遠くの空に小さくかがやくように
(ちょうど明星のように)見えないこともない。もし、人里はなれた山のなかであったら、明けの明星のように見えることもできるだろう。私の経験では、目のななめ上方一メートル内外のところに見えるようにするのが、一番、″上品″のようである。
目を閉じて、目の奥の上方、つまり、ヨーガでいう”梵の座”のあたりに、光明を感じさせる
技術は、頭の角度と、脳の刺激する揚所が、求聞特法と少しちがう。したがって、これは、求聞持法ではなく、ちがう力を発現する。また別な法である。この法については、またあとで別に章をもうけて説明しよう。

(サマーナ気統御の技術》と《護摩法》の合体
おなじような例がいくっもある。
たとえば″五相成身観”である。
これは、真言宗徒がかならずおさめねばならぬ金剛界法という法のなかにあり、密教門でもと
くに重要な観法とされる行法である。
凡夫がホトヶという超能力者になるまでの過程を五つに分け、修行者は、ひとつひとつその境界を体験してゆくのであるが、これが、いずれも密教の重要な修行課目になっており、あきらか
に密教から出たものであることがわかる。
しかも、真言密教では、印と観想の二つからなる”観法″であるが、密教においては、観法だ
けではなく、特殊な技術による鍛 練によって生理的器官を動かし、実際に五つの境界に対応す
る力をつける訓練となっている。
また、真言密教においてもっとも重要とされる金剛界九会マンダラもそうである。金剛界九会
マンダラは、凡夫がホトケになる九つの段階と、ホトケというものの力、ホトケのはたらきを図
像にえがきあらわしたものであるが、要するに、ホトケの説明である。
もっとも、真言密教は、このマンダラにもとづいて、前記した金剛界法という行法を編成し、
。観法″によってこれを修行者に体得させようとする。これは、一般仏教、顕教が、その修行方
法として、ただ、経典の読誦と、念仏、唱名題目しか持だないのに対し、一段と進歩したすぐれ
た修行方法であるというべきだが、しかし、これも、真言密教が″観法”だけであるのに対し、
密教は、九会マンダラにあらわされた九つの力を実際に体得させる訓練技術を持っている。
例をあげれば、微細会マンダラがそうである。これは九会マンダラのなかの東南方に位するマ
ンダラで、ホトケの微妙幽玄にして不可思議なる智恵の力とはたらきをあらわすものである。
密教には、実際にこの力を生ぜしめる訓練がある。
真言密教では、ただ、。観想″による″観法″しかない。現実にそういう″力″を持たせると
ころの″技術″がない。
276頁を見ていただこう。
。あきらかに、微細会マンダラは、ヨーガのこの訓練から出ている。ナくなくとも、この訓練に
よって得られる力を背景にしたものであることは間違いない。
これは、密教の技術で、胸の部分の或る部位に力を集中することによって得られる力である。
-こうしてみてくると、真言密教がとるべき道は、おのずから明らかであるといわねばなるまい。真言密教の行法は、密教の技法をとり入れることにより、本当の力が生ずるのではないのか?
そういうと、密教がそんなにすぐれたものであるというなら、密教は真言密教をはなれて、密教独自の道を歩んだらよいではないかという意見が出るかも知れない。その通りである。それでもよいのだ。そういう道もあると私も思う。
しかし、それにもかかわらず、私か真言密教にある価値を見出すのは、その表現様式である。おもしろいことだと思う。
様式だけになってしまっている(と私が思う)真言密教の、その様式が、なかなか貴重なのだ。
私が体得した密教の秘奥の技術を、さて、どのように表現しようかと、その様式を考えてゆくと、結局、真言密教の様式がいちばん便利なのである。たとえば、私の体得創案した「求聞持法」は、ヨーガの技術から発見したもので、真言密教の「求聞持法」とは全然ちがう。そのことは、前の項でおわかりになったことと思う。

 What is the mission of Buddhism now?  いま、仏教の果たすべき使命はなにか? 

Authentic Buddha Shari

I was amazed when I studied the Buddhist method. It ’s because of the power of Sung Buddha

It is completely different. Nika month, it will be completely lifted by two repairs. At that moment

I took it.

】 Why did Shinsho Buddha come to Ai Mune?

What is the mission of Buddhism now?

This is the spiritual purification of this world.

Revival of human spirituality.

This is it.

To that end, wipe out the imperfect Buddhist spirits that cover the Japanese archipelago, the mausoleum of each family that exists at a ratio of one to three

We need to start from here to eliminate obstacles.

The only thing that can do this is Shakyamuni’s “Seibutsu method”.

There are two ways of Buddhist Buddhist law.

First of all, the seventy-seven seventy-seven items of my personality

So when we think about it, now in Buddhism, this Buddha ’s philosophy is carried out as it is.

There is only my Ago sect.

In Thailand, Burma, Sri Lanka, and in Japan, there are authentic Buddhist temples.

However, frankly, there may be a cult that is educated based on the Buddha’s philosophy.

Uka. If any, it is rare.

This time, the genuine Buddhist shrine donation from Sri Lanka is the one requested by our Ago Sou

There is no. From the Sri Lankan side of the mysterious round,

The gift has been overtaken because it is the only Buddhist cult in Japan that I have.

た I was sincerely pleased and received this as “the heart of the Buddha”.

But it was exactly “Buddhist”.

Even though it is a true Buddhist temple, the law is corrected by the law, and its virtue and law are widespread.

Unless people are saved and saved, there is nothing but a treasure.

The Buddha wanted the true Buddhist shrine to be enshrined by the Aobu Buddhist law. And then.

It was a genuine Buddhist shrine from Sri Lanka. Now is the time to see this authentic Buddhist temple

Therefore, we must embark on the spiritual purification of this world and the spiritual resurrection of mankind.

It ’s the will.

Yes, I took it.

含 The motto of Aou Sect is

From the religious movement to the social movement.

The activity in the excitement of the religious movement cannot save the world anymore. Social movement

This is the motto of Aou Mune.

Now, the Ago sect is a sentinel in the social cleanup movement with the Buddha as the main shrine.

I am trying to find out.

真正仏舎利 

成仏法を修したとき、わたくしは驚嘆したのである。それは、成仏力がこれまでと

まったくちがうのである。ニカ月、二回の修法で完全解脱してしまうのだ。その瞬間、わ

たくしはさとったのである。

 なぜ、真正仏舎利が阿合宗へ来たのかを。

 いま、仏教の果たすべき使命はなにか?

 この世界の霊的浄化である。

 人間の霊性復活。

 これである。

 それには、日本列島を覆う不成仏霊の一掃、三軒に一軒の割合いで存在する各家庭の霊

障のホトヶの解消、ここからはじめなければならない。

 それをなし得るのは、釈迦の「成仏法」しかないのである。

釈迦の成仏法には2通りある。

一つば、自分 道品 の 七十三十七道品

 そこで考えてみると、いま、仏教国の中で、この釈尊の理念をそのまま世におこなって

いるのは、わが阿含宗しかないのである。

 タイにも、ビルマにも、スリランカにも、そしてわが日本にも、真正仏舎利はある。

 しかし、率直にいって、釈尊の理念にもとづいて教化活動をしている教団があるであろ

うか。あるとしても、稀れである。

 このたびの、スリランカよりの真正仏舎利贈与は、わが阿含宗からお願いしたものでは

ないのである。ふしぎな廻り合わせにより、スリランカ側から、「釈尊直説の阿含経を奉

持している日本で唯一の仏教教団」ということで、贈与のことが申し越されてきたのであ

 

 

 わたくしは、これを、「仏さまのおこころ」として、心からよろこび、拝受したのであ

るが、それはまさしく「仏意」だったのである。

 真正仏舎利といえども、正法によって法が修され、その 徳・法徳がひろく世につたえ

られて、ひとびとが救われるのでなければ、宝の持ちぐされというよりほかない。

 法を持つ阿含宗に、真正仏舎利が祀られることを、仏さまは望まれたのだ。そして。

 リランカからの真正仏舎利渡来となったのである。いまこそ、この真正仏舎利と成仏法を

以て、この世界の霊的浄化、人類の霊性復活に乗り出さねばならぬ、これが、仏さまの御

意志なのだ。

 そう、わたくしはさとったのである。

 阿含宗のモットーは、

  宗教運動から社会運動へ である。

 宗教運動というワクの中での活動では、もうこの世の中は救えないのである。社会運動

へと拡大せよ、これが阿含宗のモットーーである。

 いま、阿含宗は、仏勅をかかげて、真正仏舎利を本尊とする社会浄化運動に、大きく歩

み出そうとしているのである。

続きを読む

Suppression, conflict and scars in the unconscious conscious  無意識の意識層における抑圧や葛藤・傷痕

 

The professor ’s text is that only a specific group of people are disabled or sick.

It is not that there is. That is what most people in modern society say.

The Most of the autonomic disorders and cardiac dysfunctions listed here are suppressed in the unconscious conscious layer.

It came from pressure and conflict. In the future, this trend may increase, but the possibility that it will decrease

rare.

If the suppression, conflicts and scars in this unconscious layer are not eliminated or released, the correct

In addition to not being able to enter into thinking, even the training of “Kai L” in the previous stage cannot be done sufficiently.

Before extinguishing “annoyance” or “anxiety L” in the unconscious consciousness layer,

It must be released. Otherwise, these repressions, conflicts and scars will be bothersome

I can’t help living a very healthy mental life,

The fear of becoming will come out. It can cause various illnesses physically and the worst

In some cases, sudden abnormal behavior or impulsive and morbid behaviors may occur. Very training

It is not.

On the other hand, what kind of training methods will Aragama and Abidalma impose? Try it

Practice methods as seen in Avidaluma

修 Practice in Avidalma

5th place 75 law

There is a training method named “Daizenchi Law”.

”Systematic compilation of what was explained in Argama by Abidharma in the“ Fifth Seventy-Fifth Law ”

Made.

“The Seventy-Fifth Seventy-five Law” is an analysis of seventy-five types of entities that seem to have established this world.

This is the Avidalma taxonomy that divides this into five categories.

The annoyances mentioned above are also classified in the fifth place of the 75th Law. Basic body in Avidalma

Since it is a system, I will keep it next.

The fifth place is

1 Color method = material thing.

2. Mind method = The subject of the heart’s work, also known as Shin-Oh.

3. The “ownership method” is abbreviated as “heart” and refers to the function of the heart. This can be divided into the following six types.

Also, among the basic annoyances, dividends are given to the three evils of niece, sleep and niece as follows.

貪-覆 ・ 覆 ・ who ・ lyrics ・ 僑 ・ dissipation

Meditation-Samurai, Samurai, Trouble, Samurai, Harm, Escape

Scar-Overturn, testimony, lyrics, escape, forgetfulness, injustice

In other words, the three of the cloak, the proof, and the fan will be the two of the niece and niece, and the escape will be the three of the niece, esteem and coffin. Six major

Of the root annoyances, the eyelids, eyes, and scars are considered to have the strongest influence on the anxiety.

The name of the three bad roads L is also from here.

As for the classification of elementary, middle, and large, what is the standard is that 10 such as firewood etc. occur separately.

2 is a minor annoyance, and 2 such as worthless is only moderately unfavorable.

Because it is biased to the heart, it is said that it is very troublesome. This is a reasoned reasoning.

How to stop the above troubles? The training method for that is the same as the heart method

It is the great good land law of Aoi. Let’s explain each heart of the Great Zenji Law.

Daizenchi Law

Shin

The freshness of the heart. It is a heart that respects faith and enjoys good deeds.

, And the four truths preached in Buddhism, namely, “Science of the Four Lords” and “Sanpo L, ie, Buddha and its teaching,

The relationship between the monk, the work, and the reward, causality,

Say.

Work (dedication)

Diligent, courageous to do and do good.

Discard

”It means a heart that is free from personal feelings and calm.

E

心 A heart that feels remorse and is ashamed.

】 I am relieved and shy about teaching and other good people that I am imperfect and immoral.

The It is also an awe-inspiring heart for teaching and teachers.

A social position, being aware of yourself as one of the group, and acting in a manner that is not embarrassing

The

Gradual is a heart that is ashamed of yourself against others, and 愧 is a heart that is ashamed of yourself against others.

MUJI

There should be no waste. Don’t be obsessed with position, power, or material.

infinite

Good patience. There is no hatred or anger, but not only that, but it is a heart that actively cares for others.

Harmless

非 It is non-violent and does not harm others, but it is not only that, but it has serious compassion.

Minan

It ’s just a matter of soul and spirit.

適 応 To have good adaptability, always to keep the body light and safe, to accumulate virtue and to follow training

Try to be able to do it.

Persistent

Don’t be lazy, don’t flow freely, and train yourself and study.

As mentioned above, the heart of this Great Zenji Law will be paid as follows for the heart of trouble.

It is.

Authenticity-Mistrust / Unauthorized Knowledge

1 innocence / cover / proof

貪-貪 ・ 貪

Infinity-limited / 忿 / 恨

Employees with one eye failure / forgetfulness

Minan-Gonsen / Tan

Non-dissipation-dissipation / scattering

捨 Discarding- 棹 棹 / 嫉

Harmless-harm

In other words, the practitioner is always paying attention to his / her heart, and when the anxiety is about to move,

Immediately I will counter this with the heart of these great good law and control the heart of annoyance.

The By repeating this, we will finally end up avoiding the anxiety.

Isn’t it really a good idea?

But will it work?

The Mahayana Buddhism that appeared later subsided all these troubles into the Six Daikonhon troubles.

“Rokunami honey” (sixth row) was paid as a control dividend. It is as follows.

貪-Cloth enforcement

Limited-insulting

Scar–Tomoyuki (Haruka)

Pride-Obedience

Suspicious progress

Kami-Zen Juku

However, later on, the “cloth enforcement” became one. However, emphasizing “belief”

Thus, it became a double-set of devotion and Fuse. It is the most simplified.

Primitive Buddhism is not as easy as it is.

How simple is this?

Let me answer.

Both have major flaws.

Something?

It is a problem of unconsciousness mentioned in the previous chapter.

Both lack this point.

As expected, in primitive Buddhism, trying to deal with unconscious consciousness by entering a soft meditation assumption Yes

However, this is the same as that of people at the time waiting for unconscious people without strong oppression and conflict like modern people.

Moreover, it is possible only because it is a conscientious position as a practitioner.

Because of the wisteria, it is impossible to enter a soft meditation. Even before trying to get in, before reaching the border

Suppression and conflict came out, and it appeared as a ghost phenomenon

It ends up. No, before that, I could endure the “Kai” training course (although it is a mental and physical adjustment)

It ’s not easy.

In addition, in order to analyze my heart in too detailed detail and severely regulate my mind and behavior,

This is a new repression that causes conflict and complexity in the unconscious class of trainees.

Loit stated that “culture and morality, education and religion are the source of various human complexes.”

B, “Observations and conflicts in our unconscious layers of consciousness, most of the trauma are due to it L and fingers

Although this practice method is exactly what this practice method is, if it is applied one step further, it will be a hit for modern people

Isn’t it safe to say that?

This is also true for Mahayana Buddhism. Mahayana Buddhism, a popular religion, succeeded in simplifying the most.

Nevertheless, the biggest mistake of Mahayana Buddhism is that “annoyance” is captured only by surface consciousness.

However, by introducing the “Shin”, it is possible to achieve various types of suppression and compression in the unconscious conscious layer.

″ While trying to deal with kusu, as I said before, suppression and conflict in the unconscious conscious layer,

The mind resulting from the trauma is an unusual mind that is hurt and distorted. “I don’t believe in kami, hotoke, truth, or justice.

It is heart L. Persuading this in various ways, or surrendering, the “religious

By trying to squeeze “to try to stir up faith,

Therefore, the wound of mental trauma will be enlarged. Exactly what Freud says, “social sanctions are always religious

It is combined with the lions and blames them so that they can never recover again.

  

教授のこの文章は、特定の一部のひとびとだけが障害を起こしたり、病気になって

いるというのではないのである。現代社会に生きるほとんどのひとびとがそうだといっているのであ

る。ここにあげられている自律神経障害や、心臓機能疾患のほとんどは、無意識の意識層における抑

圧や葛藤から生じたものである。今後、この傾向は増大することがあっても減少するという可能性は

ほとんどない。

 この、無意識の意識層における抑圧や葛藤・傷痕を消滅あるいは解放しなければ、正しい定(瞑

想)に入れないだけではなく、その前段階の「戒Lの修行すら十分になすことができないのである。

無意識の意識層にある「煩悩」や「随煩悩Lを消滅する前に、まず抑圧・葛藤・傷痕を消滅あるいは

解放しなければならぬのである。そうしなければ、これらの抑圧や葛藤・傷痕は、煩悩・随煩悩とむ

すびついて、歪んだ病的な精神状態をひき起こし、とても健全な精神生活などいとなむことができな

くなる恐れが出てくるのである。それは肉体的にもさまざまな病気をひき起こす原因になり、最悪の

場合には、突発的な異常行動や、衝動的で病的な行動をとるようになったりする。とても修行どころ

ではないのである。

 これに対して、アーガマおよびアビダルマはどのような修行法を課すのであろうか。それをみてみ

アビダルマにみる修行法

 

 アビダルマにみる修行法

   五位七十五法

 「大善地法」と名づける修行法がある。

 アーガマにおいて説かれたものを、アビダルマが「五位七十五法」のなかにとり入れ、体系的に編

成したものである。

 「五位七十五法」というのは、この世の中を成立させていると思われる実体を七十五種に分析して、

これを五大別したアビダルマの分類法である。

 さきにあげた随煩悩もこの五位七十五法のなかに分類されている。アビダルマにおける基本的な体

系なので、つぎにかかげておく。

 五位というのは、

 1 色法=物質的なもの。

 2 心法=心のはたらきの主体で、心王ともいう。

 3 心所有法=心所と略称し、心のはたらきをいう。これは、つぎの六種に分けられる。

 

 また、根本煩悩のうち、三悪道の、貪・眠・鰯に、つぎのように配当されている。

 貪-覆・樫・誰・詞・僑・放逸

 瞑-忿・恨・悩・嫉・害・放逸

 痕-覆・証・詞・放逸・失念・不正知

 つまり、覆・証・扇の三は貪・裔の二者に、放逸は貪・賦・凝の三に通ずるとするのである。六大

根本煩悩のうち貪・眼・痕の三は、随煩悩に対して最も強い影響力を持っていると見るわけで、「根

本三悪道Lという名もここから出ているわけである。

 小中大の類別はなにを基準にしたものであるかについては、忿等の10はおのおの別に起こるがゆえ

に小随煩悩と名づけ、無価等の2は、不善にのみ偏するがゆえに中随煩悩と名づけ、諒挙等の8は、

染心に偏するがゆえに大随煩悩と名づけるのだとある。まことに緻密に推論したものである。

 以上の随煩悩をいかにして止滅させるか? そのための修行法が、おなじく心所法のなかにあげら

れている㈲の大善地法なのである。大善地法の各心所について解説してみよう。

  大善地法

 信

心のきよらかさ。信義を重んじ、善行を楽しむ心である。

 それと、仏教で説く四つの真理、すなわち「四諦の理」と、「三宝Lすなわち、仏と、その教えと、

その僧団、および、業と、その報いとのあいだの因縁・因果性、以上の三つにたいするふかい確信を

いう。

  勤(精進)

 勤勉であり、なすべきことや、善行にたいして勇敢なことである。

  捨

 私心をはなれ、平静でかたよりのない心をいう。

  衛

 つよく反省し恥ずる心。

 教えや、他のすぐれた人に対して、自分が不完全であり、不徳であることを反省し、恥ずる心であ

る。それはまた、教えや師友にたいしてふかい恭敬の心となる。

  愧

 社会的な立場、グループの一人としての自分を自覚し、恥ずかしくないように行動することであ

る。

 漸は他に対して自分を恥ずる心、愧は自分自身に対して自分を恥ずる心である。

  無貪

むさぼりのないこと。地位・権力・物質などに執着したりとらわれたりしない。

  無限

 つよい忍耐力。憎しみや怒りのないことであるが、それだけでなく、積極的に他を愛憐する心でる。

  不害

 非暴力であり、他を害さないことであるが、それだけではなく、篤い同情心を持つことである。

  軽安

 すなおで身心明朗であることである。

 よき適応性を持つことであり、つねに身心を軽快安適にたもち、徳を積み、修行にしたがうことが

できるように心がけることである。

  不放逸

 なまけず、放縦に流れないで、修行や勉学にはげむこと。

 以上であるが、この大善地法の心所は、随煩悩の心所にたいして、つぎのように対照配当されるの

である。

  信―不信・不正知

1無愧・覆・証

無貪-貪・樫

  無限-限・忿・恨

  勤1眼怠・失念

  軽安―悟沈・悩

  不放逸-放逸・散乱

  捨-棹挙・嫉

  不害-害

 つまり、修行者は、つねに自分のこころに注意をはらっていて、煩悩の心所が動こうとするとき、

ただちにこれら大善地法の心所を以てこれに対抗し、煩悩の心所を制圧してしまおうというのであ

る。これをくりかえすことにより、ついには煩悩の心所が起こらぬようにしてしまおうというわける。

 なるほど実によく考えたものではないか。

 しかしそううまくいくであろうか?

 のちにあらわれた大乗仏教は、これらの随煩悩をすべて六大根本煩悩におさめてしまって、これに

「六波羅蜜」(六度の行)を対照配当した。つぎの通りである。

  貪―布施行

  限忍辱行

  痕―-智慧行(般若)

  慢-持戒行

  疑―精進行

  悪見-禅定行

 しかし、さらにのちにいたって、「布施行」ひとつにしぽるようになった。ただし、「信」を強調し

て、信心と布施との二本立てになったのである。最も簡便化されたわけである。

 原始仏教の修行の一挙一動二言一句もゆるがせにしない息のつまるような修行法にくらべて、ま

ったく単純化されたわけであるが、これはどうであろうか?

お答えしよう。

 どちらにも大きな欠陥があるのである。

なにか?

 さきの章で述べた無意識の意識の問題である。

 どちらもこの点が欠けている。

 さすがに原始仏教では、ふかい瞑想定に入ることによって無意識の意識の処理をしようとしてはい

る・しかし、これは、現代人のようなつよい抑圧や葛藤のない無意識層を待った当時の人びとの、し

かも出家修行者というめぐまれた立場であるからこそ可能なのであって、現代人はその持つ抑圧や葛

藤のために、ふかい瞑想定に入ることができないのである。入ろうとしても、ふかい境地に達する前

にヽ抑圧や葛藤が飛び出してきて、憑霊現象や、「キッネ憑き」的現象となってあらわれ、挫折して

しまうのである。いや、それ以前に、「戒」の修行課程(それは心身と環境の調整であるが)に耐えられ

ず、落伍していってしまうのだ。

 それにまた、あまりにも緻密詳細にこころを分析してきびしく自分の心と行動を規制するため、そ

れがあたらしい抑圧となって、修行者の無意識層に葛藤やコンプレ″クスを生ぜしめるのである。フ

ロイトは、「文化と道徳・教育・宗教が人間のさまざまなコンプレックスの源泉となっている」と述

べ、「われわれが無意識の意識層に持つ抑圧と葛藤、精神的外傷のほとんどはそれによるものだLと指

摘しているが、まさにこの修行法こそ、適用を一歩あやまると、現代人にとってそれにあたるものに

なるといってよいのではないか。

 それは大乗仏教についてもいえることで、大衆宗教である大乗仏教は、最も簡略化することに成功

はしたけれども、大乗仏教の最大のあやまりは、「煩悩」を表面意識のみでとらえていることである。

もっとも、ふかい「信」に入らせることにより、無意識の意識層におけるさまざまな抑圧やコンプレ

″クスを処理しようと考えるのであろうが、前に述べた通り、無意識の意識層における抑圧や葛藤、

精神外傷から生じたこころは、傷つき歪んだ異常なこころで「カミもホトケも真理も公正も信じない

こころLなのである。これを、さまざまに説得し、あるいは折伏など、フロイトのいう「宗教的おど

しをかけることによって「信心をふかめようとすることは、ますますそのコンプレ″クスをふか

め、精神的外傷の傷を拡大することになる。まさにフロイトのいう「社会的制裁はつねに宗教的おど

しと組み合わさっており、人間を二度とふたたび立ち直れないほど責めさいなむ。

 

 

Saptakoṭibuddhamātṛ 准胝観音

梵名サプタコーティ・ブッダマートリ(सप्तकोटिबुद्धमातृ [Saptakoṭibuddhamātṛ])とも呼ばれる。密号は最勝金剛、降伏金剛

「オン・シャレイ・シュレイ・ジュンテイ・ソワカ」(Oṃ cale cule cunde svāhā [21] [14][注釈 3]などがよく知られている

ボ、bu)

もし、在家の善男善女らが『准胝真言』を唱え、これを日々に保つことがあれば、その人の家には災難や事故、病気等による苦しみが無く、あらゆる行いには行き違いや望みが果たせないということも無く、その人の言葉は皆が信用して、よく聞いてくれるようになる。また、幸福に恵まれず、才能にも恵まれない人があって、密教の才覚もなく、僧侶の修行である『七科三十七道品』[注釈 22]という釈迦の教えに廻りあうことができない人がいたとしても、この准胝観音の『陀羅尼法』の伝授を受けることができたならば、速やかに無上の覚りを得ることができる。更には、『准胝真言』を常に記憶にとどめ、よくこの真言を唱えて善行となる戒律を守ることができれば、あらゆる願いも成就する」と説かれている。[43]

本文読み下し

準提功徳衆、寂静にして心常に誦すれば、一切諸々の大難、よくこの人を犯すこと無し。天上及び人間、福を受くること仏の如く等し、この如意珠に遇はば、定んで無等等を得ん。もし我、誓願大悲のうち、二世の願を成ぜずんば、我、虚妄罪過のうちに堕して、本覚に帰らず大悲を捨てん。

本文和訳

準提尊とその功徳がある(曼荼羅の)聖衆を、心を鎮めて一心に、毎日(常々)念じたならば、あらゆる災難や大事故に遇ったとしても、その人は大難を逃れることができる。何故なら準提尊の誓願に「人天を救う」というのがあり、天神と人間は仏と同等の福を受け、この如意宝珠にも等しい仏を本尊とすれば、必ずや仏の覚りの無上正等覚を得るからである。もし私(龍樹)の「衆生が今世と来世に解脱を得るように」との大悲の願いが成就しないなら、私(龍樹)は衆生を欺いた罪によって地獄に落ち、覚りも得られず、大悲の誓願も捨てることになる。

准胝十八大願』 印相や持物によるそれらの意味は以下のようになる[44]。

説法印・・・・・一切法(全ての仏法)を説くことを表す。

妙寶幢・・・・・よく最勝の大寶幢(旗印)を建立し、正しい教えを広める。

施無畏印・・・・一切衆生を速やかに苦しみや、恐怖から離れせしめる。

妙蓮華・・・・・穢れの泥沼から蓮華の如く抜け出させ、衆生の六根を清浄とする。

智慧剣・・・・・貪瞋痴の三毒に代表される煩悩の結縛を断ち切る。

灌澡瓶・・・・・甘露を流出して衆生を潤し、更には密教の灌頂を与える。

妙寶鬘・・・・・その願いに応じて、妙法との結びつきを確かなものとする。

金剛索・・・・・一切衆生を仏法へと導き、相応の法を獲得せしめる。

天妙果・・・・・菩提の果を表示し、広く修行の善果を完成させる。

八輻輪・・・・・常に大法輪を転じ、その威光により三界を照らす。

大鉞斧・・・・・堅固な不善の教えを破壊し、人我(にんが)の山を切り崩す。

大法螺・・・・・一切の清浄な教えを説き、三千世界を振動させる。

金剛鉤・・・・・その人に善となる一切の物事(人・物・金)を、よく引き寄せる。

如意瓶・・・・・この世の宝と経典類を流出し、それらを意の如く受用させる。

金剛杵・・・・・天龍八部を帰属させ、ならびに難伏の者たちを調伏する。

般若経・・・・・自然(じねん)の覚りをもたらし、仏法の「甚深微妙」の意味を理解させる。

摩尼珠[注釈 25]・・・心地(しんじ)を活発にし、智慧の光明を円満にして翳りを無くする。

両手説法印・・無上の密法を明らかにする。(法身説法)

सप्तकोटिबुद्धमातृ [Saptakoṭibuddhamātṛ

Oṃ cale cule cunde svāhā

If the good men and women who live in the house chant “Kanen Shingon” and keep it on a daily basis, there will be no suffering from disasters, accidents, illness, etc. in their homes, and every conduct will be misplaced and hoped There is no such thing as being unable to fulfill, and everyone’s words will be trusted and will be heard well. In addition, there were people who were not blessed with happiness and were not blessed with talent. Even so, if you can receive this mandala kannon’s “Mandara method”, you will be able to quickly get a sense of innocence. Furthermore, if you can always remember the “British Shingon” and remember the precepts of good deeds by chanting this truth, all your wishes will be fulfilled. ”

Thirty-seven department seven items   三十七科七道品    

 

 三十七科七道品とはつぎのようなものである。

四念処法-‐-身念処法 受念処法 心念処法 法念処法

四正断法--断断法 律儀断法 随護断法 修断法

四神足法--‐欲神足法 勤神足法 心神足法 観神足法

五根法--信根法 精進根法 念根法 定根法 慧根法

五力法-信力法 精進力法 念力法 定力法 慧力法

七竟支法-択法覚支法 精進覚支法 喜覚支法 軽安覚支法 捨竟支法 定覚支法 念竟

 支法

八正道法-正見法 正思惟法 正語法 正業法 正命法 正精進法 正念法 正定法

以上である。

 

この七科目、三十七種のカリキュラムは、

 1、瞑想

 2、実践

 3、lapas(練行)

に分類できる。

 四念処法・五根法は、瞑想である。

 四正断法・五力法・七覚支法・八正道法は、実践と瞑想である。

 四神足法は、特殊なtapasである。

 神足とは、神通力(超能力)のことで、この四神足法は、超自然の神通力を得るための四種の

修行法である。前に述べたわたくしの{召aはこれに属するものである。

 この七つの科目のうち、tapasを中心に、瞑想と実践の科目をとり入れて修行するのであ

る。どの科目をどうとり入れて、どのように訓練するかは、聖師が決定する。

219——-一霊性完成の方法と体系

Thirty-seven departments and seven-way items are as follows.

Four-minded method — Thought method, Accepted method, Mind method,

Four straight cutting methods–cutting method ritual cutting method escort cutting method cutting method

Four Gods Act — Gyokushimpo

Gone method-Shine method, Shinjin method

Five power method-power method, spiritual power method, mind power method, constant power method, repulsion method

Nanakuma support method-choice method support method, sensation support method, Kisaku support method, light safety support method, abandonment support method, fixed support method

Supporting law

Eight Masamichi method-Masami method Masamiko method

That’s it.

These seven subjects, 37 kinds of curriculum,

1. Meditation bowl

2. Practical practice

3. Lapas

Can be classified.

The Shimonen method and the Gone method are meditations.

The four straight cutting methods, the five power methods, the seven senses method, and the eight Masamichi methods are practice and meditation.

The Shigami foot method is a special tapas.

Kamikashi is a mythical power (super power), and this four-god foot method has four kinds of spears for supernatural power.

It is a practice method. My {call-a belongs to this.

の う ち Of these seven subjects, focusing on tapas, training is carried out by incorporating subjects of meditation and practice.

The The saint decides which courses to take and how to train.

219 ——- Method and system for completing spirituality 続きを読む

百光遍照王観図

この梵字は百光遍照観、百光遍照王観と称され、大日如来を中心にその周囲を五重の梵字が取り囲み、行者は頂きにアン(暗・闇・am)字を置いて、百光を発すると瞑想する梵字マンダラです。

mini_120830_1234「百光遍照王観図」
「百光遍照王観図」”

梵字「アン字」

「アン字」を中心におき、一重目は、梵字で「摩多・マタ」と呼ばれる母音の12文字が、円形に配列しています(アン字と12の母音で「13」の聖なる数でマンダラが構成されています)

「梵字を構成する母音と子音とは」
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Ohgai/8070/bon/setumei.html

二重目には、梵字の体文と呼ばれる子音の25文字が配されています。

三重目には、子音にの発心点(ι)が

四重目は、子音の梵字に修行点(◆)が

五重目には、子音の涅槃点(◆◆)が付きます。

発心⇒修行⇒涅槃と中心から外へ向けて聖者への段階を表現していると考えられます。

「アン字」を百字真言い、大日経に「百光を発する」と説かれているので「百光遍照王真言」とも呼びます。

子音の25文字×4重=100文字の梵字を、ひとつひとつ光を観想するので、百字真言と呼ばれています。

また、別名として、一切真言の自在者、真言王、一切真言の尊主、大威光者、大日常住者などとも呼びます。

ファイルan字
梵字「アン字」

「アン字観法」について
「密教誕生」平河出版社(P408~413)より抜粋

「心内に於ける八葉のかがやく白蓮華の上に満月の月輪あり、その上にアン(am)字たる真言導師すなわち真言救世尊があり、金色の光を発する。
この観を法によって習熟すれば、行者自身が正覚身、すなわち仏身と等同なることを証するにいたるべし。
口に真言をとなえ、身に大日の印を組む。そうして、第七マナ識、第八アーラヤの一切の妄想を止滅し、心奥にある如来蔵識を呼び起こして、そこに大日世尊の三密を観じ出す。
これが成就したとき、我が身もまた大日世尊と変ずる。」

空中無色無受想行識 と 集合的無意識

観自在菩薩深般若波羅蜜多時照見五蘊度一切苦厄舎利子不異空空不異色色即是空空即是色受想行識亦復如是舎利子是諸法空相不生不滅不垢不浄不増不減是故

 

空中無色無受想行識

 

三科(さんか)とは部派仏教における、世界を在らしめる『一切』を分類した三範疇、五蘊(五陰)・十二処十八界をいう。蘊・処・界、または陰・界・入と略すこともある[2]。また、六根六境六識の三範疇をいうこともある。

五蘊・十二処・十八界[1]

五蘊(五陰)・十二処・十八界編集

全てのは、下記の五蘊の一つの蘊、十二処の一つの処、十八界の一つの界とにおさまる[3]。およそはそれぞれの自性を保持するものであるから、あるがそれと別個な自性をもつ他の法の中におさまるということは決して無い[3]。諸を五蘊、十二処、十八界と説くのは、衆生(有情)の愚かさ、あるいは資質、あるいは希求するところに3通りがあるから、それらの各々に応ずるためとされる[3]。また、原始仏典においては、我々の全経験領域をさしてこれらを一切(sabbam、我々の全経験領域)と呼ぶものの、「がある」とは明言されず、しかもそのどれもが無常であり、であり、非我であり、それらを厭離し離欲すれば解脱して悟るといわれる[4]

五蘊編集

五蘊(ごうん、pañca-skandha) – 五陰(ごおん、旧訳)とも。人間の肉体と精神を五つの集まりに分けて示したもの。

  • (しき、rūpa) – すべての物質。
  • (じゅ、vedanā) – 感受作用。
  • (そう、saṃjñā) – 表象作用。
  • (ぎょう、saṃskāra) – 意志作用。
  • (しき、vijñāna) – 認識作用。

十二処編集

十二処(じゅうにしょ)または十二入(「」はāyatana) – 12の知覚を生じる場。六根六境[5]。 後に「処」の字をつけて呼ぶこともある。「処」とは、阿毘達磨倶舎論においては、と心作用(心所)の生じてくる門(生門(しょうもん))のこと[3]

  • 六根(ろっこん、ṣaḍ-indriya) – 主観の側の六種の器官[6]、感官[7]のこと。六内入処(ろくないにゅうしょ)とも。
  • (げん、cakṣus) – 視覚能力もしくは視覚器官
  • (に、śrotra) – 聴覚能力もしくは聴覚器官
  • (び、ghrāṇa) – 嗅覚能力もしくは嗅覚器官
  • (ぜつ、jihvā) – 味覚能力もしくは味覚器官
  • (しん、kāya) – 触覚能力もしくは触覚器官
  • (い、manas) – 知覚能力もしくは知覚器官[8][9]
眼・耳・鼻・舌・身の5つを「五根」といい[10]、人間の感覚能力[8] すなわち五感であり、意は認識するはたらきの拠り所となる感官である[11]
  • 六境(ろっきょう、ṣaḍ-viṣaya) – 客観の側の六種の対象[6]、感官の対象[7]のこと。六外入処(ろくげにゅうしょ)とも。
  • (しき、rūpa) – 眼根によって見られる色彩と形象[8][9]
  • 顕色けんじき[12](いろ)と形色ぎょうしき[12](かたち)の2種類に分たれ、また、青、黄、赤、白、長、短、方、円、高(凸形)、下(凹形)、正(規則的な形)、不正(不規則な形)、雲、煙、塵、霧、影、光、明、闇の20種に分たれる[13]
  • (しょう、śabda) – 聴覚の対象[6] [9]
  • 苦楽の感覚を発する有情身の発する音とそうでない音、意味を伝える音とそうでない音、および快い音とそうでない音との別により8種に分たれる[13]
  • (こう、gandha) – 嗅覚の対象[6] [9]
  • 良い香りと悪い香り、適度な香りとそうでない香りの別により4種に分たれる[13]
  • 甘さ、酸っぱさ、しおからさ、辛さ、苦さ、渋さの6種に分たれる[13]
  • (そく、sparśa) – 身根によって感じられる堅さ、熱さ、重さなど[8][9]
  • 滑らかさ、粗さ、重さ、軽さ、冷たさ、ひもじさ、渇きの7種、およびの4種(四大もしくは四大種という)の合計11種に分たれる[14]
  • (ほう、manas) – 意根によって知覚される概念を含むすべての存在[8][9]
また、五根に対応する境の部分(色・声・香・味・触)を五境、そこに生じる欲を五欲(五塵)と表現したりもする[15]。五根と五境をあわせて十色界という[16]

 

眼耳鼻舌身意

 

色声香味触法

眼界乃至無意識界

無明亦無無明尽乃

至無老死亦無老死尽無

苦集滅道

無智亦無得以無所得故菩提薩埵

 

 

 

フロイトは、ヒステリー(現在の解離性障害や身体表現性障害)の治療に当たる中で、人は意識することが苦痛であるような欲望を無意識に抑圧することがあり、それが形を変え神経症の症状などの形で表出されると考えた。そのため、無意識領域に抑圧された葛藤などの内容を自覚し、表面化させて、本人が意識することによって、症状が解消しうるという治療仮説を立てた

ユング心理学(分析心理学)は個人の意識、無意識の分析をする点ではフロイトの精神分析学と共通しているが、個人的な無意識にとどまらず、個人を超え人類に共通しているとされる集合的無意識(普遍的無意識)の分析も含まれる。ユング心理学による心理療法では能動的想像法も取り入れられている。能動的想像法とは、無意識からのイメージが意識に表れるのを待つ心理療法的手法である。また、ユング心理学は、他派よりも心理臨床において夢分析を重視している。夢は集合的無意識としての「元型イメージが日常的に表出している現象」でもあり、また個人的無意識の発露でもあるとされる

シャドウとは

上記でも説明したように、自分では認めたくない自分の事を「シャドウ」と呼びますが、そもそもシャドウとは何なのかについて説明していきます。

シャドウとは誰もが持つ「影」の事で、人はそれぞれ自分では認めたくない自分を持ちます。
認めたくない気持ちが強いほど影は濃くなりその影響力は強くなります。

また、西洋と東洋それぞれに伝わる神話や伝説には
共通したテーマを扱った物も多いことから、
洋の別を問わず人類の心の奥深くには
共通した「集合的無意識」が存在すると考えたのです。

図のように、意識や個人的無意識よりもさらに深いところにある層で、
民族や国家、人種を問わず普遍的に存在しています。

レオポルド・ソンデ

ハンガリー出身の心理学者レオポルド・ソンディ(Leopold Szondi,1893-1986)は、運命分析学という深層心理学の学派を創設したり、『ソンディ・テスト』という人物写真を利用した投影法の心理テストを開発したことで知られる。日本語での名前表記は、レオポルド・ソンディ以外にも、英語読みで『リポート・ソンディ』という風に表記されることも多い

集合的無意識(Kollektives Unbewusstes)」

とは、偉大な心理学者カール・ユング(Carl Gustav Jung)によって提唱された。
人間の意識の奥には、個人的無意識が存在し、さらにその奥には集合的無意識が存在するという概念だ。
集合的無意識は、個人のみならず集団や民族、人類全体、さらには時空を超えて森羅万象、宇宙の意識ともつながっている。
集合的無意識に共通する基本的形を「元型(Archetyp )」と呼び、この元型から集合的無意識が生じ、原始心像が意識化され、元型そのものが意識化されることは決してない。



ソンディ・テストで知られる精神医学者のレオポルド・ソンディ(Léopold Szondi)は

、フロイトの説いた個人的無意識とユングの説いた集合的無意識の中間に位置する家族的無意識という概念を提唱した。
ソンディは、精神医学の世界で「運命分析学」という未だに学問的価値を認められてない分野にメスを入れた稀有な存在であった。
「家族的無意識」とは、先祖の抑圧された意識が子孫の運命に重大な影響を与えるといった考えで、運命が子孫に遺伝していくことを意味する。「

親の因果が子に報い」と呼ばれる病気や負債の運命は「強制運命」と呼ばれ、個人の自由意志から生まれる「自由運命」と常に拮抗している。



しかし、強制運命の支配下に置かれた不幸な人生も先祖のせいだけではない。
そのような先祖の子孫として生まれてくることにより、過去世でのカルマを解消させられているのだから、よく理解し受け入れた上で、人生を自由運命に傾くよう舵取りをしなければならない。
カルマの解消には、自分を第三者的に観る行法を身に付けるのが一番である。

 

ソンディは子孫が祖先から先祖代々継承している意識(衝動)のことを『

衝動感情(衝動意識)』と呼び、『人間の運命とは選択である』といった。人間は祖先から受け継いだ衝動感情(衝動意識)をベースにして、『結婚選択・職業選択・疾患の選択・死亡形式の選択』という4つの人生の分野で重大な選択をしていくというのがソンディの理論である。



L.ソンディの運命観には『自分が主体的に選択する要素』と『祖先からの意識・感情によって決定されるという要素』の2つがあり、人間が自分の運命を選択する(選択させられる)要因になる遺伝子には以下の8つの種類があるとした。『運命分析法』という心理テストでは、この8種類の遺伝子の働きの趨勢(強さ)とバランスを知ることができるとされている。

Sch(自我衝動)……p(存在遺伝子),k(所有遺伝子)

C(接触衝動)……m(依存遺伝子),d(獲得遺伝子)

P(感情衝動)……hy(道徳遺伝子),e(倫理遺伝子)

S(性衝動)……s(攻撃遺伝子),h(情愛遺伝子)

レオポルド・ソンディの想定した祖先から受け継ぐという無意識は『家族的無意識』と呼ばれており、ジークムント・フロイトの『個人的無意識』よりは広く、C.G.ユングの『普遍的無意識(集合無意識)』よりはその範囲が狭いと考えられている。ソンディの運命分析学を前面に出した深層心理学の究極の目的は、『個人的無意識と家族的無意識と普遍的無意識の経験的・理論的な統合』であった。

Psychoanalysis is based on the basic hypothesis that humans have an unconscious process and that human behavior depends on the unconscious. Freud, in the treatment of hysteria (currently dissociative and somatic symptom disorders), can unknowingly suppress desires that are painful for humans to change shape and neurosis. I thought that it would be expressed in the form of symptoms such as. Therefore, we made a treatment hypothesis that the symptoms can be resolved by being aware of the content of the conflict suppressed in the unconscious area, exposing it to the surface, and being aware of it.

Carl Gustav Jung

Jung’s psychology (analytical psychology) is similar to Freud’s psychoanalysis in that it analyzes the individual’s consciousness and unconsciousness, but it is not limited to the individual unconsciousness, but is common to all humankind beyond the individual. It also includes an analysis of the collective unconscious (universal unconscious). Psychotherapy by Jung Psychology also incorporates the Active Imagination. The active imagination is a psychotherapeutic method that waits for the image from the unconscious to appear in the consciousness. In addition, Jung Psychology emphasizes dream analysis in clinical psychology more than other groups. Dreams are said to be a “phenomenon in which the archetype image is expressed on a daily basis” as a collective unconscious, and also a manifestation of the personal unconscious.

What is a shadow?

As I explained above, I call myself a “shadow” that I don’t want to admit, but I will explain what a shadow is in the first place.

A shadow is a “shadow” that everyone has, and each person has a self that he or she does not want to admit.
The stronger the feeling of not wanting to admit, the darker the shadow and the stronger its influence.

Also, in the myths and legends of the West and the East,
Since there are many things that deal with common themes,
Deep in the hearts of mankind, regardless of the ocean
I thought that there was a common “collective unconscious”.

As shown in the figure, in a layer deeper than consciousness or personal unconsciousness,
It exists universally regardless of ethnicity, nation, or race.

Leopold Szondi

Hungarian psychologist Leopold Szondi (1893-1986) founded a school of deep psychology called fate analysis and developed a projection psychological test using portraits called the Szondi test. Known for doing. In addition to Leopold Szondi, the name notation in Japanese is often written in English as “Report Sondy”.

“The Collective Unconscious (Kollektives Unbewusstes)” was advocated by the great psychologist Carl Gustav Jung.
The concept is that there is a personal unconscious in the depths of human consciousness, and there is a collective unconscious in the depths.
The collective unconscious is connected not only to the individual but also to the group, the people, the entire human race, and even the consciousness of the universe and the universe beyond time and space.
The basic form common to the collective unconscious is called the “archetyp”, and the collective unconscious arises from this archetype, the primitive image is conscious, and the archetype itself is never conscious.

Léopold Szondi, a psychiatrist known for the Szondi test, proposed the concept of a family unconscious, which lies between Freud’s personal unconscious and Jung’s collective unconscious.
Sondy was a rare figure in the world of psychiatry, putting a scalpel into the field of “fate analysis,” which has not yet been recognized for its academic value.
“Family unconscious” means that the fate is inherited by the offspring, with the idea that the suppressed consciousness of the ancestors has a significant impact on the fate of the offspring. The fate of illness and debt, which is called “the cause and effect of the parent rewards the child,” is called “forced fate,” and is always in conflict with the “free fate,” which is born from the free will of the individual.

But the unfortunate life under the control of forced fate is not just due to ancestors.
By being born as a descendant of such an ancestor, the karma of the past life has been eliminated, so we must understand and accept it well and steer our lives toward free destiny.
The best way to eliminate karma is to learn how to look at yourself as a third party.

Sondy calls the consciousness (impulse) that offspring inherit from their ancestors from generation to generation, “impulsive emotion (impulsive consciousness),” and says that “human destiny is a choice.” Based on the impulsive emotions (impulsive consciousness) inherited from our ancestors, human beings make important choices in the four fields of life: marriage choice, occupation choice, disease choice, and death form choice. Sondy’s theory.

L. Sondy’s view of fate has two elements: “elements that he chooses independently” and “elements that are determined by the consciousness and emotions of his ancestors.” ) The following eight types of genes are considered to be factors. A psychological test called “fate analysis method” is said to be able to know the trend (strength) and balance of the functions of these eight types of genes.

Sch (ego impulse) …… p (existing gene), k (owned gene)

C (contact impulse) …… m (dependent gene), d (acquired gene)

P (emotional impulse) …… hy (moral gene), e (ethical gene)

S (sexual drive) …… s (attack gene), h (love gene)

The unconsciousness inherited from Leopold Szondi’s envisioned ancestors is called the “family unconscious”, wider than Sigmund Freud’s “personal unconscious” and more than CG Jung’s “universal unconscious (collective unconscious)” The range is believed to be narrow. The ultimate purpose of deep psychology, which brought Sondy’s fate analysis to the fore, was “the empirical and theoretical integration of the personal unconscious, the family unconscious, and the universal unconscious.”

阿含  2600年前の真実

 

阿合仏教を分析すると、それは二つの部分から成り立つ。

 

1 教えとして「縁起の教理」
2 修行法として「七科三十七道品」(三十七菩提分法”とも呼ぶ)
である。
これを、後世の分類法で呼ぶと、「縁起の教理」は「顕教」である。
解脱にいたる四つの階梯
「解脱にいたる四つの階梯」
だれでも、解脱にいたるためには、この四つの段階を経なければならない。
そしてこの四つの階梯を、すぐれたる聖師にしたがって歩んで行くならば、だ
れごも解脱に到達できるのである。もちろん、あなたにしてもその通りだ。
四つの階梯とは、
一、シュダオン(須陀垣)
二 シダゴン(斯陀含)
三、アナゴン(阿那含)
四、アルハット(阿羅漢)
である。
説明すると、
シュダオン  けがれをすべてとり除いた聖者
シダゴン   められた聖者
アナゴン   (次元を)飛躍した聖者
アルハット   仏陀
大次元を)超越し、完成した聖者、「ブッダ」ともいう。
は、この四つの階梯を、修行者はどのようにして歩んでゆくのだろうか。
霊性完成の方法と体系
シャカが残した霊性完成の修行法がそれである。これを、「成仏法」とよんでいる。成仏とは霊性を完成したことをいい、それを成就したヒトを「ブッダ」とよぶ。だから、わたくしはその方法を、「成仏法」とよぶのである。
それは七つのシステムと三十七種のカリキュラムから或る成仏のための方法
と体系である。の仏教用語である。

シャカがじっさい説かれたのは阿合経だけであるという、歴史的な事実のほ
かに、阿含経以外には、この「成仏法」がないから、わたくしはそう言うので
ある。「成仏法」のない経典など、わたくしは真実の仏教経典とみとめること
はできないのである。もちろん、それなりの存在意義なり存在価値はあろう
が、本流ではない。傍流というべきである。
七科三十七道品とはつぎのようなものである。
四念処法-‐―身念処法 受念処法 心念処法 法念処法
四正断法--断断法
律儀断法
四神足法一-―‐―欲神足法 勤神足法
随護断法
心神足法
修断法
観神足法
五根法ー一信根法 精進根法 念根法 定根法 慧根法
五力法l‐信力法 精進力法 念力法 定力法 慧力法
七覚支法-‐‐‐択法覚支法 精進覚支法 喜覚支法 軽安覚支法
定覚支法 念覚支法
捨覚支法
情賄法
正念法
正定法
以上である。
この七科目、三十七種のカリキュラムは、
―、瞑想
2、実践
3、tapas(練行)
に分類できる。
四念処法・五根法は、瞑想である。
四正断法・五力法・七覚支法・八正道は、実践と瞑想である。
四神足法は、特種なtapasである。
神足とは、神通力(超能力)のことで、この四神足法は、超自然的な神通力
を得るための四種の修行法である。前に述べたわたくしのtapasはこれに属
するものである。
この七つの科目のうち、taPasを中心に、瞑想と実践の科目をとり入れて修
行するのである。
どの科目をどうとり入れて、どのように訓練するかは、聖師が決定する。修
行者それぞれ、みな素質と因縁がちがうので、それをみて、グルがきめるので
ある。
この修行において、グルの果たす役目は大きい。グルについて、少しのべよ
霊性の洗礼
まちがいなく霊性を開顕したグルを見つけて、そのグルに受け入れて
にしへ、力修け八分通り成功したといっていいくらいである。それくらい重要なことであり、かつ、むずかしいということ
である。
グルなくして、ただしい霊性開顕の仏道修行は不可能である。ふつうの仏教
信心とはちがうのである。信心のしかたや、信仰のしかた、経典の講義や解釈
を教わるという程度のものならばとにかく、霊性開顕の仏道修行は、強力な霊
的能力を持つ聖師のたすけなくしては、ぜったいといっていいほど、できない
のである。
たとえば、インド近代の聖者ラーマナーマハリシが、入門者にたいして、
「凝視の方法」で受け入れの儀式を行なったとき、かれの両眼の輝きと力が相
手の心をつらぬいて、その雑念の流れを断ち切ってしまったといわれる。時と
しては、まるで電流が身の内に流れこんだように相手は感じたともいわれる。
こういう霊的体験によって、弟子はまず心をきよめられ、霊的なものにたい
するあこがれ、霊的向上心をいだくようになるのである。

多くの人は人生の目的を知らないで生きている

多くの人は人生の目的を知らないで生きている

私たちは子供の頃から、何も知らされずに生きてきました。

 

“何も知らされずに”とはどういうことかと言うと「自分は何のために生きているのか?」「自分が生きている目的は何なのか?」という生きている理由のことです。

 

多くの人は、子供の頃から「何のために生きているのか?」という理由を知らされず、ただ毎日を漠然(ばくぜん)と生きてきました。

 

朝起きてご飯を食べて、学校へ行き、友達と遊んだり勉強をしたり、部活をして家に帰ってご飯を食べて、テレビを見て風呂に入って、夜になると寝ます。

 

大人になってもそのような生活は変わらず、会社に行って仕事をして、家に帰ってテレビを見て、晩ごはんを食べて寝るという生活を繰り返しています。

 

すべての人が全くそのような生活をしているとは言いませんが、おそらく大半の人が、そのような漠然とした生活をしているのではないでしょうか?

 

そこには「何のために生きているのか?」「生きている目的は何なのか?」という人生の意義を理解した生活というものがありません。

 

ほとんどの人は「自分が何のために生きているのか?」という明確な目的や目標を持たずに生きています。

 

そのため多くの人が人生に疲れ、困難や苦難に直面した時、それを乗り越えられずに挫折していくのです。

 

人生の目標や目的を持たずに生きているということは、出口の見えない迷路を歩いていることと同じであり、暗闇の中で不安な人生を生きているということです。

 

人間はある目的を持ってこの世に生まれている

大半の人は、ただ毎日を「楽しく暮らせばそれでいい」「病気をせずに元気で暮らせばいい」「人に迷惑を掛けずに暮らせばそれでいい」というようなことを考えて生きています。

 

それはそれで間違ってはいないのですが、それよりももっと本質的で明確な理由が存在するのです。

 

実は人間がこの世に生まれて生きているということは、ある目的を持って生まれてきたということを、多くの人は知りません。

 

そのある目的とは“人間は進歩向上するために生まれてきた”ということです。

 

人間がこの世に生まれて、生きている目的を一言でいえば“進歩向上するため”ということであり、人間は進歩向上するために生きているのです。

 

人は、今日よりも明日、明日よりも明後日というように、年をとるごとに進歩向上していかなければならないのです。

 

それは自分のためでもあり、周りの人のためでもあります。しかし、最終的には自分の行いは自分に返ってくるので、進歩向上は自分のためになるということです。

 

また、進歩向上するということはどういう事かというと、無知な自分から抜け出し、正しい知識を身につけるということです。

 

つまり、善と悪の正しい判断基準を身に付け、自分の思考と行動を善なる方向へ導くということです。

 

自分の思考が善なる方向へ進んでいくと、自分の身の回りから悪というものが、しだいに消えていくことになります。

 

そして、自分の精神的レベルが上がり、人格が向上していくことになります。

 

また、人間の生きている目的が“進歩向上するため”という確かな証拠は、今までの地球の歴史を見ても明らかです。

 

地球の歴史は昔に比べて現在は明らかに進歩向上しており、人間の精神レベルも、悪(無知)から善へと少しずつ進化しています。

 

しかし、中には「人間は死んだら終わりなのに、進歩向上してもムダではないか?」と反論される方もおられると思います。

 

そのような疑問をお持ちの方は、第九章「人間の死について」をお読みいただき、人間は死んでも、それで終わりではないということを理解していただきたいと思います。

 

人間は死ぬとどうなるのか?

人間は死ぬとどうなるのか?


 

仏教では、人間は、色〈しき〉(物質)・受〈じゅ〉(感覚)・想〈そう〉(表象)・行〈ぎょう〉(意志)・識〈しき〉(意識)の五つの要素からできていると考えます。この五つの要素を「五蘊(ごうん)」と呼び、この五蘊が仮に寄り集まって人間(自我・霊魂)ができあがっているのです。
では、人間が死んだらどうなるのでしょうか?
日本の仏教者の大半は、釈尊が「霊魂」の存在を否定してしまったと考えています。つまり、死んだらすべてが消滅すると考えているのですが、これはまちがいです。
死んだらすべてが消滅してしまうという考え方は仏教ではありません。釈尊直説の経典である『阿含経』を学び修行していないから、このような誤った見解を抱いているのです。
釈尊は決して、霊魂の存在を否定しておられません。むしろ肯定しておられます。ただし、「霊魂」という名称ではなく、「異蘊(いうん)」という表現を用いておられます。

凡夫が死んで「五蘊」が滅しても我執(タンハー)のエネルギーによって「異蘊」(異なる構成要素)を生じて存在をつづけます。

 雑阿含経の中の「仙尼経」において、釈尊は次のように説かれております。
慢〈まん〉(我執〈がしゅう〉)断(だん)ぜざるがゆえに、この蘊〈うん〉を捨て已(おわ〉りて(死んで) 異蘊〈いうん〉相続して生ず。
つまり、異蘊とは生きている人間の構成要素(五蘊=色・受・想・行・識)とは異なった構成要素(蘊=集積)という意味で、現代風にいえば「異次元の薀(存在)」ということです。
また、雑阿含経「身命経」においても、「意生身(いしょうしん)」ということばで、死後の存在を説かれております。意生身とは意識(心)だけで出来た身体をいいます。
このように釈尊は、人間は死んでも、我執煩悩(タンハー)が残るかぎり「なにか(異蘊・意生身)」が存在をつづけると説かれております。この死後の存在こそが霊魂なのです。
そして我執(タンハー)が残った霊魂は、死後の世界を経て再生し、現世で成仏法の縁に逢わなければ、果てしなく輪廻転生を続けます。
また、この我執が非常に強い場合は、不成仏霊や霊障のホトケとなって迷い、その怨念のバイブレーションが子孫の心に強く悪影響をおよぼします。

 


サールナートの仏陀像
 釈尊は、古代インドのバラモンが説いた「永遠に変化することも滅することもない自我(アートマン)(霊魂)」という考えは否定しておられますが、
縁によって生じ、縁によって滅するという「縁起の法」の上での「死後の存在」は認められております。
つまり、「永劫不変の自我(アートマン)」というものは存在しませんが、「無常(変化)の中や縁起において成立する自己(アートマン)」はあるのです。
修行によって向上し、涅槃(ニルヴァーナ)に入る「自我(霊魂)」は存在するのです。
「不変」ではなく縁によって「変化」するために、死んで(その霊魂・霊体が)異蘊となる縁に逢えば、異蘊となって輪廻転生し、成仏法の縁に逢えば、解脱して仏界に生ずるのです。
死んだからといってまったく「無」になって消滅してしまうというのは、仏陀の説かれた縁起の法則に反するものです。
仏陀の成仏法により、霊体は悪因縁、悪業、悪念から解放されます。
完全に解放された霊体は、涅槃(ニルヴァーナ)に入ります。
これを成仏というのです。
しかし、成仏といっても、生者と死者によって、それぞれちがいます。
生者の場合は、自分自身で成仏法・七科三十七道品(しちかさんじゅうしちどうぼん)を修行することができます。
修行によって霊体(生者)は、清められ、高められ、しだいに悪因、悪業から解脱してゆきます。
「シュダオン」「シダゴン」「アナゴン」という聖者の段階を経て、究極の大聖者「アラハン」(仏陀)に到達します。
この世において、仏陀に到達できない場合は、つぎの世においても、ひきつづき成仏法の修行を続け、究極的にはかならず仏陀になるのです。
死者の場合は、自分で修行することはできませんから、成仏法を成就した聖者に、成仏法をもって供養していただきます。
つよい怨念や執念によって不成仏霊となり霊障を発し、迷っているホトケは、聖者の発する悟りのバイブレーションを受けて解脱し成仏します。
ただし、この場合の成仏とは、完全に因縁・業煩悩といったものを解脱したという意味ではありません。
成仏法を成就した聖者( 有余依涅槃(うよえねはん)の聖者)の霊的テレパシー(霊力)によって、聖者の悟りをそのまま受け止めて、迷い執念などを離れて、冥界(死者のほんとうの世界=安らぎの場)へ向かうということです。
これが、仏陀釈尊の教えられた「仏法」です。

死者たちの怨念が、すべての人の深層意識を動かす

いま、この世界が壊滅の危機に瀕しているのは、この世界に充ち満ちている死者の怨念、悪念のバイブレーションが、すべての人の深層意識を動かしているためです。
その結果、人類はますます衝動的、闘争的、反道徳的になり、結果的に自分自身を虐殺しようとしつつあります。
まず、家庭が崩壊しはじめています。
これらの苦しみに満ちた死者の霊魂に全き安らぎを与えないかぎり、生きている人間に全き安らぎは訪れません。
仏陀釈尊の成仏法は、これらの苦しみを持ったまま死後生存している存在(霊魂)に安らぎをあたえ救済する力を持っているのです

 

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