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Buddha's word

十六法とはどういうものか What is the Sixteen Laws?

解説

マハーナーマよ、このように優婆塞の十六法を成就する者は、世間に得難い存在なのです」

マハーナーマはこの仏さまの説法を拝聴して大いに喜び、また仏の教法を讃歎したのちに座を 立って礼を行い、その場を去りました。

お釈迦さまのお答えを聞いた後で、 マハーナーマは「世尊よ、 優婆塞は幾の法を成就し自ら安 他を安んずるや」と質問をしました。

ここに、安んじという言葉が出てまいりますが、これは、単に心が安らかになる、ということ ではなく、成仏するという意味です。なぜならば、すべての因縁を解脱しなければ、完全に安ら かになることはできないからです。 因縁を切って初めて、本当の安心が得られるわけです。

たとえば、瞑想や坐禅によって安心が得られるという方がおりますが、瞑想や坐禅をやってい る時は迷いが消えても、因縁がそのままになっているならば、瞑想の定が解けた時にまた苦しみ が襲ってきます。ですから、真に安らかな状態というのは、すべての因縁を解脱し、成仏した状 態なのです。

そのように考えていきますと、「優婆塞は幾の法を成就し自ら安じ他を安んずるや」とは、 「優婆塞はいくつの法を成就すれば、自分を成仏させ、他の者を成仏させることができるのでし ょうか?」

という意味になります。

その質問に対して仏さまは、「若し優婆塞十六法を成就する者は、是れ優婆塞自ら安んじ他を

「安んずと名づく」とお答えになられました。 これは、

「優婆塞は十六法を成就すると、 自分を成仏させ、他人を成仏させることができるのだ」

という意味です。

 

 

それでは十六法とはどういうものか、箇条書きにしてみましょう。

1自ら正信を持つ

2他の者にも正信を持たせる

3自ら浄戒を保つ

4他の者にも浄戒を保たせる

5自ら布施の行をする

6他の者に布施の行を教える

7自ら塔寺に参詣し、もろもろの沙門から教えを聞く

他の者に塔寺に参詣してもろもろの沙門から教えを聞くことを教える

沙門から聞いた教法を自ら受持する

他の者に、沙門から聞いた教法を受持するように教える

自ら教法の深義を観察する

他の者に教法の深義を観察することを教える

自ら法に近づく

他の者に、法に近づくことを教える 自ら法を追及する

他の者に法を追及することを教えるとなります。

要するに、八法を自らが実践すると共に、他の者にも八法を勧めることが十六法であり、この 十六法を実践することによって、自分も他人も成仏させることができる、と説かれているわけで す。そして、それが優婆塞の本道だというわけです。

したがって、「一切事経』のこの部分は、

「阿含経は自分だけの悟りを考える小乗経典ではない」

ということを証明しています。

正信を広める

もし、お釈迦さまが優婆塞の八法だけを説いていたならば、やはり「阿含経」は小乗経典とい わざるを得ません。 なぜならば、八法とは自分だけの修行だからです。 八法で他人のことを考え ているのは施ぐらいのもので、他は自分の悟りのことだけを考えています。

その施にしても、自分が布施をして自分が徳を得るのですから、他の人に布施を勧め、その人 が徳を得るようにしてあげるのと比較すれば、やはり、利他の行というよりは自利の行に近くな

だからこそ、お釈迦さまは八法だけではなく十六法を説かれました。他を利益し、成仏に向か わせることを強調されたのです。このことから、お釈迦さまの教法もそれをまとめた「阿含経」 も小乗ではなく、むしろ自らを大乗といっている人たち以上に大乗である、とわたくしは考えて

わたくしは、「阿含経」の中で、お釈迦さまがこの十六法をお説きになっていらっしゃるから こそ、阿含宗立宗を決意しました。 もしも八法しか説かれていなければ、阿含宗という教団は 立宗できません。自分だけ悟ればいい、自分だけ成仏すればいい、という仏教を立ててもしかた がないからです。

ところが、お釈迦さまは自他共に成仏させる十六法を説いていらっしゃいます。だからこそ、 わたくしは困難な道ではありますが、阿含宗立宗に踏み切りました。 これは、大切なことですか ら、しっかりと覚えておいていただきたい。

お釈迦さまは十六法において、

「摩訶男よ、若し優婆塞、 正信を具足し、他人を建立し」

とおっしゃっておりますが、 この中の「正信」は非常に大切な意味を持っております。 この、 「正信を具足して」というのは、ただ単に仏教に対する信仰を持て、 ということではありません。 正しい信でなければいけないよ、と念を押されておられるわけです。さり気ない言葉ですが、そ の意味するところはとても深いといえます。

 

 

 

Commentary

Mahanama, a person who fulfills the 16 laws of Yubasai in this way is a rare existence in the world.”

The Mahanama was greatly pleased when he heard the Buddha’s sermon, and after praising the Buddha’s teachings, he rose from his seat, bowed, and left the place.

After listening to the Buddha’s answer, the Mahanama asked, “World Honored One, has Yuva Sai attained several Dharma and made peace with himself?”

The word annji is used here, but it does not simply mean that one’s heart becomes at peace, but it means that one attains Buddhahood. This is because you cannot attain complete peace unless you are liberated from all karma. It is only when you cut off the ties that lead to true peace of mind.

For example, there are people who say that meditation and zazen give them peace of mind. Suffering comes. Therefore, a truly peaceful state is a state of liberation from all karma and enlightenment.

If you think about it in this way, “How many Dharma are fulfilled by Yubasa, and how many dharmas will you be able to calm down yourself and others?” , is he capable of making others attain Buddhahood?”

It means that · · ·

In response to this question, the Buddha replied, “If you are able to fulfill the 16 Laws of Yubasai, then you should rest in peace with yourself.

He answered, “I will name you Anzu.” this is,

“When Yubasai fulfills the Sixteen Dharma, he can bring himself to Buddhahood and bring others to Buddhahood.”

is what it means.

 

 

 

So, let’s itemize what the Sixteen Laws are.

1 have one’s own truthfulness

2 Make Others Honest

3 Keep oneself clean

4Let Others Keep Pure Precepts

5Personally donate

6 Teach others the practice of giving

7 Pilgrimage to pagodas and hear teachings from various sammons

Teach others to visit the pagodas and hear the teachings from the various Shamons.

Accepting the Dharma learned from the Shamon

Teach others to uphold the Dharma heard from the Shamon

Observing the deep meaning of the Dharma for oneself

Teach others to observe the depth of the Dharma

approach the law

Teach others to approach the law Pursue the law yourself

It teaches others to follow the law.

In short, the 16 Laws are to practice the 8 Laws oneself and to recommend them to others. He is And that is the main path of Yubasa.

Therefore, this part of the Issai Jing is

“The Agon Sutra is not a Hinayana Sutra that considers one’s own enlightenment.”

That’s what I’m proving.

spread the truth

If Shakyamuni Buddha only preached the Eight Laws of Yubasai, he would have to say that the Agon Sutra is the Hinayana Sutra. This is because the Eight Laws are your own practice. In the Eight Dharma, he thinks about others, and he only cares about charity, and the others only think about his own enlightenment.

As for charity, since one gains virtue by giving charity, if one compares it with recommending charity to others and helping them gain virtue, it is still called the act of altruism. It’s closer to the line of self-interest than

That is why the Buddha preached not only the Eight Dharma, but also the Sixteen Dharma. Emphasis was placed on benefiting others and leading them toward enlightenment. From this, I believe that neither the Buddha’s teachings nor the Agon Sutra, which summarizes them, are Hinayana, but rather, they are more Mahayana than those who call themselves Mahayana.

I decided to establish the Agon sect because the Buddha preached these 16 laws in the Agon Sutra. If only the Eight Dharma were preached, the sect of Agon sect would not be able to establish itself. This is because there is no point in establishing Buddhism that only one person should be enlightened and only one person should attain Buddhahood.

However, Shakyamuni Buddha has preached the 16 ways to help oneself and others attain Buddhahood. That is why, although it was a difficult path, I decided to follow the Agon sect. Is this important?

In the sixteen laws, the Buddha

“Makao, if you’re a good man, build Masanobu and build someone else.”

As you say, “Masanobu” in this has a very important meaning. This “with full faith” does not simply mean having faith in Buddhism. It must be the correct faith. It’s a casual word, but it has a very deep meaning.

精児童と老人の知能アップ 求聞持法 Intelligent children and the elderly

こういう混乱期に抑圧意識が突出してきて、行者を思いがけない分裂行動 や、反社会的行動に追いこむのである。だから、旅行の過程において抑意識をとり去り、純一無 雑な人格をつくり上げるように指導してゆかねばならない。にもかかわらず、古来の求聞持法の修 行法には、このことが全く欠落してしまっている。

 

昔から、 求聞持法を修行してやり損なうと精神 病者になるといわれ、また実際に分裂病患者が少なからず出ているのはこのためなのである。修行 指導者ともに心せねばならぬ所以である。

 

 

精児童と老人の知能アップ

成仏を果たす大天才をつくるために用いられた。

いままで、求聞持法は密教の大天才をつくるためにあった。 普通人以上の知能を持つエリートを集めて特殊訓練し、即身

わたくしはその反対のことをこころみたのである。普通人の知能以下のひとたちをこの法で訓練 して、普通人の知能にまでひき上げようと考えたのである。その結果は非常に有望なものであった。 わたくしは思ったのである。

生まれつき高い知能を持つ秀才を天才に仕上げ、すぐれたエリートをつくり出すことも必要であ ろうが、低い知能に生まれついた不幸な子供たちの知能を高めて、普通人の水準にひき上げてやる ことも、それに劣らぬ社会的意義を持つことではないだろうか、と。

そうしてわたくし Kiramama      はそのこころみにいどんだのである。結果は有望なものであった。相当重症の 精薄児童でないかぎり、かなりな知能の回復・向上が見られたのである。密教はこのこころみを発 させなければならぬのではなかろうか。

また、即身成仏を果たす宗教的大天才をつくり出すことも大切であろうが、ひとにぎりの大天才 をつくり出すことよりも、たとえ大天才にははるかに及ばずとも、大多数の真の良識を持った 「賢いひと」をつくり出すことのほうが、いま、はるかに必要なのではなかろうか。いや、それを なすことこそが、ひとにぎりの大天才をつくり出す目的なのではないのか。それは人類社会全体の 知的レベルをひき上げることである。この世の中をほんとうにしあわせなものにするためには、ひ とにぎりの大天才をつくるよりも、人類全体の知能を少しでもアップさせることのほうが有効であ るとわたくしは思うのだ。

わたくしは、人類の不幸はすべて人間が愚かなところに原因があると思っている。人間が愚かで あるがゆえに、殺し合い、傷つけ合い、奪い合う惨事が止まないのである。釈迦、キリストをはじ 過去に幾人かの大天才があらわれたが、ことごとく人間の愚かさの中に埋没してしまった。い まだに人間同士の愚劣な争いは止まない。それどころかエスカレートするばかりである。戦争、闘 略奪経済による環境汚染と自然破壊、すべて人類の愚かさが原因である。 わたくしはこの法を 人類社会全体の知的レベルの向上に用いたいのである。人間の愚かさは、教育だけでは解決つかな いものである。 それを解決するためには、特殊な方法が必要である。

 

 

 

人間はその奥深いところに未発達の部分を持っている。そうしてその未発達の部分が、人間や、 人間社会をしばしば強く動かすのである。これが不幸の原因である。人間は、自分では気がつかな くても、自分のからだや心の奥底に、自分の知らない非常に遠い過去からのものをそのまま受けつ いで残している。 人間に進化するまでの過程において必要であった人間以前の非人間的なものを、

そのまま心の奥かく秘めている。人間にまで進化した現在ではもはや不要であったり、あるいは かえって有害となるものを残している。人間の愚かな行動はそれに起因しているのである。 求聞持 法はそれをとり除いて、人間を賢くさせる方法を持つ。

 

 

教育や、また、「教え」を主にした一般の宗教では、人間の奥かくにひそむこの暗黒部分をと のぞくことが出来ない。なぜならば、その暗黒部分は究極のところで「教え」を拒否してしまう からである。

必要なのは、「教え」ではなく「方法」である。 求聞持法はその「方法」を持つ。 い や、その「方法」が求聞持法なのだ。 わたくしは、この法を、一部のエリートたち(あるいはエリー トを志す人たちだけでなく、人類全体に適用したいのだ。人類の知能はそれにより間違いなくレベ ルアップするだろう。

ところで、人間の知能について考えるとき、老人の知能低下の問題をそのままにしておくわけに はいかない。

専門家の調査によると、現在、全国に完全恍惚の老人が、およそ三十数万人いるという。いわゆ

「見当識」を失って、記憶のほとんどを忘失してしまった気の毒なひとたちである。 しかし、気 の毒なのは本人たちだけではない。 その家族たちも同様に気の毒である。中には、人間関係を荒廃 させ、あるいは経済的に破綻しようとしている悲惨な家庭がいくつもある。仔細に見てゆくとき、 これはもうひとつの社会問題であると思わざるを得ない。高齢化社会がすすみつつある現在、これ は今後よりいっそう深刻化してゆくであろう。 これはひとごとではない。おたがい切実な問題であ る。生きているかぎり、だれでも老人になるのだ。 そうして多少の個人差はあっても、老人になっ

たらだれでも知能の低下は防げない。

では、人間の知能を飛躍的にアップさせる求聞持法はどうなのか。

すぐれた効果をあげることができるのである。 かなりの高年者でも、この法によって訓練するこ とにより、確実に脳の老化を防ぐことが出来る。もちろん、若ものたちのようなわけにはいかない けれども、うまくゆくと、その老人の過去のどの時代よりも若々しく冴えた頭のはたらきを見せる という皮肉な現象も起こり得るのだ。

老人は長い社会生活による豊富な経験と知識を持つ。 ながい間の経験による知恵も持っている。 この経験と知識と知恵を恍惚のかなたに消滅させてしまうことは、本人はもとより、社会にとっ ても損失である。

持法の訓練により、老人は、脳の活力と柔軟性をとりもどす。 それは老人の経済的自立も意 味するだろう。

以上の二つのことは可能なのである。

もちろん、この二つを完全に果たすためには、今までとちがったあたらしい求聞持法が必要であ る。なぜならば、古来の求聞持法は、エリート集団の特殊訓練法であった。エリート中のエリート えりすぐって修行させることにより、はじめてその効果をあげることができるものであった。そ れをそのままこれらのひとたちに適用することは出来ない。ではどうしたらよいのか? そのこと についてはまたあとで述べよう。

 

 

During this period of confusion, a sense of oppression comes to the fore, driving the practitioner into unexpected schisms and anti-social behavior. Therefore, in the process of travel, we must guide them to get rid of their feelings of depression and build up a pure and unsophisticated personality. Nevertheless, this is completely absent from the ancient Gumonjiho practice.

 

Since ancient times, it has been said that if one fails to practice the Gumonjiho, one becomes a psychopath, and this is the reason why many schizophrenic patients actually appear. This is the reason why both training leaders must keep this in mind.

 

 

 

Intelligent children and the elderly

It was used to create a great genius who would attain Buddhahood.

Until now, the Gumonjiho was to create a great genius of esoteric Buddhism. Gather elites with higher intelligence than ordinary people, special train them, and

I tried to do the opposite. The idea was to use this method to train people whose intelligence was below that of an ordinary person, and to bring them up to the level of an ordinary person’s intelligence. The results were very promising. I thought.

It may be necessary to turn talented people who are born with high intelligence into geniuses and create an excellent elite, but he will raise the intelligence of unfortunate children who were born with low intelligence and raise them to the level of ordinary people. I wondered if this also has social significance equal to that.

That’s how I and him, Kiramama, went against that plan. The results were promising. Unless the children were severely thin children, a considerable recovery and improvement of intelligence was observed. Shouldn’t esoteric Buddhism have to make this intention come out?

It is also important to create religious great geniuses who can attain Buddhahood in their own lives. Isn’t it far more necessary now to create “smart people”? No, isn’t it the very purpose of him to create a handful of great geniuses? It is to raise the intellectual level of the entire human society. In order to make this world truly happy, I believe that it is more effective to raise the intelligence of the entire human race, even if only a little, rather than creating a great genius of his own.

I believe that human stupidity is the cause of all human misfortune. Human beings are foolish and they exist, so the tragedy of killing, hurting, and competing for each other never stops. Buddha, Christ, and many other great geniuses have appeared in the past, but they have all been buried in human stupidity. His silly fights between humans still don’t stop. On the contrary, it only escalates. Wars, struggles, environmental pollution and natural destruction caused by the predatory economy, are all caused by the stupidity of mankind. I would like to use this law to improve the intellectual level of the entire human society. Human stupidity cannot be solved by education alone. A special method is needed to solve it.

Human beings have an underdeveloped part deep inside them. And it is this underdeveloped part that often drives humans and human societies strongly. This is the cause of unhappiness. Even if we don’t realize it ourselves, we carry things from the very distant past that we don’t know about in the depths of our bodies and minds. The pre-human inhuman things that were necessary in the process of evolving into humans,

Kentoshiki

It’s hidden deep inside his heart. Now that he has evolved into a human being, he leaves things that are no longer necessary or even harmful. Human stupidity is due to it. Inquisitiveness has a way of getting rid of it and making people smarter.

He cannot look into this dark side that lies deep within human beings through education and general religions that focus on “teachings.” This is because the dark side of him ultimately rejects the “teachings.” What is needed is a “method,” not a “teaching.” Q&A has its “method”. No, that “method” is the Qinghuiho. I want to apply this law not only to some elites (or those who aspire to be elites), but to the entire human race.

By the way, when thinking about human intelligence, he cannot leave the problem of declining intelligence in the elderly as it is.

According to a survey by experts, there are currently about 300,000 elderly people in total ecstasy all over the country. so-called

threshold

These are the poor people who have lost most of their memories due to their disorientation. But they are not the only ones to feel sorry for them. I feel sorry for their families as well. Among them are a number of miserable families that have ruined relationships or are on the brink of financial bankruptcy. When you look closely, you can’t help but think that this is another social problem. With the aging society progressing, this will become even more serious in the future. This is not one. Both are serious issues. As long as one lives, one becomes old. In this way, even if there are some individual differences,

No one can prevent intellectual decline.

Then, what about the Qinghui method that dramatically improves human intelligence?

It can give excellent results. Even a very old person can certainly prevent aging of the brain by training according to this method. Of course, he can’t be like the young ones, but if things go well, the ironic phenomenon of him showing a younger and clearer head than any other age in the old man’s past can also occur. .

Elderly people have a wealth of experience and knowledge due to their long social life. He also has wisdom from long experience. Losing this experience, knowledge, and wisdom beyond ecstasy is a loss not only for the individual, but also for society.

Through the training of Hoho, the elderly regain the vitality and flexibility of the brain. It would also mean financial independence for the elderly.

These two things are possible.

Of course, in order to achieve these two goals completely, we need a new method of inquiry and hearing that is different from what has been done up until now. This is because the ancient Gumonjiho was a special training method for elite groups. An elite among elites, he was able to achieve its effect only by carefully selecting and training him. You can’t just apply it to these people. So what should we do? More on that later.

ホモ・エクセレンスとは   What is Homo Excellence?

あたらしい人類だ。

ホモ・サピエンスとは、ほかならぬわれわれ自身のことであるが、ホモ・エクセレンスとは、 どういうヒトか?

ホモ・エクセレンスとは、ホモ・サピエンスが持たない特別な能力を身につけた「優秀なると 「ト」という意味である。ある人たちは、この未来人に、ホモ・インテリゲンス ( 聡明なるヒト)と いう名をつけている。

では、この優秀なる未来人、ホモ・エクセレンスは、どういう特殊な能力を持っているのか? 彼の持ついくつかの特長をあげてみよう。

「未来の種属、超ヒトは、おそらく、三・九という脳発達度係数を持つだろう」

世界的に著名人類学者、パリ大学のジョルジュ・オリヴィエ教授は、その著 「ヒトと進 過去現在そして未来」のなかでこう語りはじめる。

(こういうきわめてすぐれた生物の能力を、それよりはるかに劣ったわれわれが、あれこれい うことはできないが) とにかく、この超・ヒトの知的能力は、辛うじて想像することができる。 それは、たとえば、

1 第四次元の理解。

2 複雑な全体をとっさに把握する能力。

3 第六感の獲得。

などである。

と述べている。

4 無限に発展した道徳意識の保有。

5 とくにわれわれの悟性には不可解な精神的な特質。

わたしは、脳発達度係数三・九をもつ生き物の体のかたちや、すばらしい知能や、われわれに はとうてい理解できない行動がどんなものであるかは、想像力のゆたかな人達にまかせることに

あとつぎ

する。われわれがメクラであるのに対して、われわれの後継者たちは千里眼の持ち主なのだろう から」(芦沢玖美訳・みすず書房刊)

オリヴィエ教授は、出版社の紹介文によるとパリ大学理学部人類学教授であり、人類学、解 剖学のかず多い論文のほかにいくつかの著書を持ち、 そのなかでも「人類学的解剖学」はフラン 学士院賞を受けた。自己の専門分野の研究に多くの業績をあげているばかりでなく、若い研究 者の育成にも心をそそぎ、 フランス人類学の名実ともにすぐれた指導者である”と記されてい

まさに、当代一流の科学者であるといわねばならない。

その科学者が未来人ホモ・エクセレンスの出現を、このように予告しているのである。著者

が、なんの根拠ももたず、ただいたずらに鬼面ひとをおどろかす筆をとっているのではないの だ。それはかならずやってくる。 では、そのホモ・エクセレンスは、いったい、どこから、

ホモ・エクセレンスの到来は、歴史の必然であるとオリヴィエ教授はいう。

では人類の歴史をたどってみよう。

まずあらわれたのは、オレオピテクス、ラマピテクスから進化してきたオーストラロピテクス (人)であった。が、しばらくして、 ピテカントロプス・エレクトス(原人)がこれにとって かわった。しかし、まもなく、ネアンデルタール人(旧人)がやってきて、そのあとを継ぎ、 彼 らの時代はおよそ一〇万年ちかくつづく。

けれども、今から四、五万年ほど前、かなり進んだ知能を持つクロマニョン人(新人)が出現 すると、彼らは急速に姿を消して絶滅してしまった。しかしそのクロマニョン人も、今から一万 年ほどまえに、オーストラロイド(ジャワ)、モンゴロイド(中国)、ネグロイド (アフリカ)、コーカ ソイド(ヨーロッパ)というあたらしい現世人類の種のなかにあわただしく消滅してしまった。こ れは、歴史のごく表面にあらわれているだけの事実で、このほかにも、いくつかの知られざる ト、あるいはその分枝が、無数にあらわれ、歴史をつくる間もなく消滅していったと考える 学者はかず多い。

ある著名な科学者は、ひとつの種の寿命は一〇〇万年だと語り、ホモ・サピエンスは出現以 来、間もなくこの年令に達するはずだという。そうして、オリヴィエ教授もまた「いま、われ われが、われわれの後継者であるつぎの人類のことを考えるのは、まったく筋みちの立ったこと

である」といっているのだ。

だが、

いったいその新しいヒトは、いつあらわれるのか?

一万年さきか? 二万年?

とんでもない!

だいたい、ホモ・サピエンスのつぎの人類なんて、それはちょうどあの太陽がいつか燃えつき てしまうぞ、というのと同じことで、空想ではないにしても、おそらくそれは天文学的数字のは るか未来の出来事にちがいなく、そんな心配をしているほどわれわれはヒマ人ではない、とあな はいうかも知れない。

そんなことをいっていたら、それこそあなたは、間抜けになってしまうぞ。

オリヴィエ教授は、生物学の進化の法則の上に立ってこう予言するのだ。

「……未来のヒトは間もなく不意に来ることになる」

というのは、

え?そんなに早く? とあなたはびっくりするだろう。だが、あなたはここでさらにもっと びっくりしなければならないのだ。

この新しいヒト、ホモ・エクセレンスは、間もなく不意に来るのではなく、それはもうすぐる。

 

 

It’s a new human being.

Homo sapiens is none other than ourselves, but what kind of person is Homo excellence?

Homo Excellence means “excellent” to have acquired special abilities that Homo sapiens do not have. Some have given this futuristic man the name Homo Intelligents.

So what kind of special abilities does this brilliant futurist, Homo Excellence, have?

“Future species, superhumans, will probably have a brain development coefficient of 3.9.”

Professor Georges Olivier of the University of Paris, a world-famous anthropologist, begins by saying the following in his book Human and Progress: Past, Present and Future.

(Though we, who are far inferior to him, cannot do anything about the abilities of such an extremely superior creature.) At any rate, the intellectual abilities of this super-human can only be imagined. For example,

1 Understanding the Fourth Dimension.

2 Ability to quickly grasp a complex whole.

3 Acquisition of the sixth sense.

and so on.

It has said.

4 Possession of infinitely developed moral consciousness.

5 Mental qualities especially incomprehensible to our intellect.

I leave it up to people with a lot of imagination to figure out what the body shape of a creature with a brain development coefficient of 3.9 is, what kind of intelligence it has, and what kind of behavior it is that we can’t quite understand.

next

do. While we are blind, our successors will probably have clairvoyance.” (translated by Kumi Ashizawa, published by Misuzu Shobo)

According to the introduction of the publisher, Professor Olivier is a professor of anthropology at the Faculty of Science, University of Paris. received the Fran Academy Prize. Not only has he produced many achievements in his own field of research, but he has also devoted himself to the training of young researchers, and is an outstanding leader of French anthropology both in name and reality.”

Indeed, I must say that he is the leading scientist of our time.

The scientist foretells the emergence of future man Homo Excellence in this way. author

But he doesn’t just pick up the brush to startle the devil without any basis. It will come. Then, where did that homo excellence come from?

According to Professor Olivier, the arrival of Homo Excellence is a historical necessity.

Let’s take a look at human history.

The first to appear was Australopithecus (man), which evolved from Oreopithecus and Ramapithecus. After a while, however, Pithecanthropus erectus replaced him. Soon, however, the Neanderthals (old humans) arrived and succeeded them, and their era continued for about 100,000 years.

However, about 40,000 to 50,000 years ago, when the Cro-Magnon (newcomers) with considerably advanced intelligence appeared, they rapidly disappeared and became extinct. However, about 10,000 years ago, the Cro-Magnon people suddenly disappeared among the new modern human species: Australoids (Java), Mongoloids (China), Negroids (Africa), and Caucasoids (Europe). rice field. This is a fact that only appears on the very surface of history, and I think that there are countless other unknown trouts or branches of them that have appeared and disappeared before they could make history. There are many scholars.

One eminent scientist has said that one species lives for a million years, and that Homo sapiens should reach this age soon after its appearance. Professor Olivier also said, “Now, I think it makes perfect sense to think about the next human being, our successor.

It is.”

But

When will this new human appear?

10,000 years ago? 20,000 years ago?

no way!

In general, the next human race after Homo sapiens is just like that sun will burn out someday, and if not a fantasy, it must be an event in the astronomical future. You might say that we are not Hima people enough to worry about it.

If you say such a thing, you will be an idiot.

Professor Olivier makes this prediction based on the laws of evolution in biology.

“…Future humans will soon come unexpectedly.”

I mean,

Huh? So soon? You’d be surprised. But you have to surprise him even more here.

This new human being, Homo Excellence, is not coming suddenly, it is coming soon.

瞑想 瞑想の修行は、二つの領域から成り立つ 「意識的瞑想」と「無意識的瞑想」 Meditation The practice of meditation consists of two areas: “conscious meditation” and “unconscious meditation”.

 

瞑想とは、精神を静めて心を落ち着かせ、内面に向き合うことで、心身のリラックスやストレスの軽減などの効果があるとされています。無意識の瞑想とは、自分自身が瞑想していることに気付かずに、無意識のうちに瞑想状態に入っていることを指します。

無意識の瞑想に入るには、以下のような方法があります。

  1. 深呼吸をする:深く呼吸をすることで、身体と心をリラックスさせ、無意識の瞑想に入りやすくなります。
  2. 環境を整える:瞑想に適した静かな場所を選び、照明を落としたり、アロマキャンドルや音楽などを使って、リラックスした雰囲気を作り出すことができます。
  3. 瞑想に慣れる:瞑想に慣れることで、無意識の瞑想に入りやすくなります。まずは毎日短時間の瞑想から始め、少しずつ時間を延ばしていくと良いでしょう。
  4. マインドフルネス:今この瞬間に集中することで、無意識の瞑想に入りやすくなります。マインドフルネス瞑想という方法がありますので、試してみると良いでしょう。

以上が無意識の瞑想についての簡単な説明となります。瞑想は、心身の健康に良い影響を与えることが知られており、積極的に取り入れることをおすすめします。

 

Meditation is said to be effective in relaxing the mind and body and reducing stress by calming the mind, calming the mind, and facing the inside. Unconscious meditation is when you enter a meditative state unconsciously without being aware that you are meditating.

There are several ways to enter unconscious meditation.

Take deep breaths: Deep breaths help relax the body and mind and facilitate unconscious meditation.
Set the environment: Choose a quiet place to meditate and create a relaxing atmosphere by dimming the lights, using scented candles and music.
Familiarize yourself with meditation: Familiarizing yourself with meditation can help you enter unconscious meditation. Start by meditating for a short time each day and gradually increase the time.
Mindfulness: Focusing on the present moment makes it easier to enter into unconscious meditation. There is a method called mindfulness meditation, so you should try it.

The above is a brief explanation of unconscious meditation. Meditation is known to have a positive effect on mental and physical health, and it is recommended that you actively incorporate it.

 

 

集中(止)と瞑想(観)

 

 

 

 では瞑想に入ろう。

 坐は半珈鉄坐。坐蒲をもちいる。瞑想の手印を組もう。これが初歩的瞑想の

基本姿勢である。(図5参照。ただし、この図では法界定印であるが、後出のアーカー

シャームドラーをもちいる場合もある。瞑想の基本姿勢については『輪廻転生瞑想法

H』に、くわしく解説しているので、かならず読んでいただきたい)

 瞑想の修行は、二つの領域から成り立つ。

 ひとつは精神集中法、ひとつは瞑想法である。

心を集中するとは

 これについて少し解説しよう。まず、シャマタ(止)である。

、禅における公案、また、祈りを捧げるとか、経

文を読む、真言を唱えるなども、精神集中法のひとつである。要はひとつのこと

に心を集中し、そこに〃止”まり、動かないことである。

これは、ひとっのことに心を集中するのである。

数息観がそ‘の代表であるが、、とで’‐ ことてことに意識を集申し、他のものに心

を向けない、これを積極的に意識的におこなうのであるひこれは修行のはじめの

過程として、だれでも通るものである。

この精神集中の状態は二つに分けることができる。

ひとつはこ息識的精神集中」で、ひとつのことにw

 つぎの段階が、「無意識的精神集中しの状態である。これは、高度のもので、

意識的精神集中をつづけているうちに、習練によって条件づけられ、ついに、と

くに意識しないでもひとつのことに心を集中することができるようになる。

 これによって無意識の意識層をコットロ’Iルし、2 つうでは絶対に統御でき

ない無意識の意識を、ある特定の対象に向けることができるようになるのである。

心の流れにまかせるとは

 つぎに、ビパシャナ(観)である。

 これは、ひとつのことに注意をとどめない。心の動きのひとつひとつに心を

向けていくが、ひとつのことにとどまっていない。心の流れにまかせるのであ

る。

 これにも、「意識的瞑想」と「無意識的瞑想」がある。

 「意識的瞑想」は、表面意識が心の流れを観ている。

 「無意識的瞑想」は、深層意識の心の流れそのものになっている。

 では、その深層意識の流れを観ているものはなにか? だれが深層意識の流

れを観ているのか? それは「無意識的精神集中」の心である。

 だから、「止」と「観」は密接な関係があるのである。いまおこなわれている

瞑想のほとんどは、「止」か「観」か、どちらかにかたよっている。禅は「止」

にウェイトがかかり、瞑想(としてやっているもの)は、「観」が主である。しか

し、「止」を完成した「観」でなければほんとうの瞑想ではなく、「止」でとど

まって「観」に入らない定は、これまたほんとうの瞑想ではないのである。

 「止」と「観」はおなじように修せられなければならない。そうして、非常に

高度の瞑想(観)をするためには、おなじように非常に高度の巣中(止)が体得

されていなければ不可能なのである。

 では「意識的瞑想」と「無意識的瞑想」とはどうちがうのか?

 ひと口でいうならば、

 意識的瞑想は「個の世界」を観、

 無意識的瞑想は「全の世界」を観る。 ・

 といったらよいであろう。

 意識的瞑想は「自分だけの世界の流れ」を観るのである。

 無意識的瞑想は「人類そのものの(世界の)流れ」を観るのである。いや、

もっと拡大した世界だ。「宇宙そのものの流れを観る」といったらよいであろう。

無意識の意識層には、原初からの人類の記憶がすべておさめられている。い

 

や、人類以前からの記憶がすべて秘められている。

 わたくしは、『輪廻転生瞑想法I』で、このことについてのべている。「個体発

生」と「系統発生」の意識と記憶について語った第二章を、もう一度読み返して

みていただきたい。

 

 

Concentration (stop) and meditation (view)

Let’s get into meditation.

The seat is a half-iron seat. Use zafu. Let’s set up a meditation sign. This is rudimentary meditation

This is the basic posture. (See Fig. 5. However, although it is a legal seal in this figure, the later-mentioned Aker

In some cases, a shahmdler is used. For the basic posture of meditation, see “Reincarnation Meditation Method”.

Please be sure to read it because it is explained in detail in “H”)

Meditation practice consists of two areas.

One is the mental concentration method (・ o9 ~ Holy memorial, one is the meditation method (Yo’and ~).

To concentrate on

Let’s explain this a little. First is Shamata (stop).

, Koan in Zen, prayer, sutra

Reading sentences and chanting mantras are also one of the methods of concentration. The point is one thing

Focus on, stay there, and don’t move.

This focuses on one thing.

The view of a few breaths is the representative of that, but at the same time, I focused on that and focused on other things.

Do not turn to, do this positively and consciously. This is the beginning of training.

As a process, anyone goes through.

This state of mental concentration can be divided into two.

One is “concentration of breath”, and one thing is w

The next stage is “a state of unconscious mental concentration. This is an advanced one.

As I continued to concentrate my consciousness, I was conditioned by practice, and finally

You will be able to concentrate on one thing without being conscious of it.

By doing this, the unconscious consciousness layer can be controlled by Cottro’I, and 2 can be absolutely controlled.

It becomes possible to direct the unconscious consciousness to a specific object.

To leave it to the flow of the heart

Next is Bipashana (view).

This does not pay attention to one thing. Put your heart into each movement of your heart

I’m going, but it’s not just one thing. Leave it to the flow of your heart

To.

There are also “conscious meditation” and “unconscious meditation”.

In “conscious meditation”, surface consciousness is watching the flow of the mind.

“Unconscious meditation” is the flow of the mind of deep consciousness itself.

Then, what is watching the flow of deep consciousness? Who is the flow of deep consciousness

Are you watching this? It is the mind of “unconscious concentration”.

Therefore, “stop” and “view” are closely related. Now being done

Most meditations depend on either “stop” or “view.” Zen is “stop”

The weight is applied to, and meditation (what you are doing as) is mainly “view”. Shika

However, if it is not a “view” that completes the “stop”, it is not a true meditation, but a “stop”.

The fact that it doesn’t fit into the “view” is not really meditation either.

“Stop” and “view” must be mastered in the same way. And very

In order to perform advanced meditation (viewing), you must acquire a very advanced nest (stop) in the same way.

It is impossible if it is not done.

Then, what is the difference between “conscious meditation” and “unconscious meditation”?

In a nutshell,

Conscious meditation sees the “individual world”,

Unconscious meditation sees the “whole world”.・ ・

It would be nice to say.

Conscious meditation sees “the flow of your own world”.

Unconscious meditation sees the “flow of mankind itself (in the world)”. Disagreeable,

It’s a more expanded world. It would be nice to say, “Watch the flow of the universe itself.”

The unconscious conscious layer contains all the memories of humankind from the beginning. I

And all the memories from before humankind are hidden.

I mentioned this in “Reincarnation Meditation I”. “Individual departure

Reread Chapter 2, which talks about the consciousness and memory of “life” and “phylogenetics”

I want you to see it.

三密加持の手法 2

解説しよう。

先ず結りするのは意密であると同時に、わが誦する真言の字は語

で本尊の輪より入るは身で、心 月輪にするは意密であるということになる。つまり、臍 心月輪に至るという 頂より入って、 ことは、わが身と本尊の一致、すなわち入我我入で、調する音声、 これは本尊の真言のとなる声 との一致、すなわち語の一致で、 心月輪に真言の字が布列して、たがいに流れ合う、これは意密 の一致にほかならない。 そこで、真言宗のある派では、この一行に三密のすべてをふくむとして非 常に重くみるのである。この正念の行ひとつで即身成仏が成就するとまでいう派がある。

<五相成身観即身成仏・五つの過程─>

五相成身観は、凡夫が仏になるまでの過程を五種類に分類したものである。

密教の即身成仏の技法は、さきに述べた通り、三密加が中心であるが、その三行の中で最も 中心となるものは、いうまでもなく、意の行である。この意密の行(観法または観想)にはいく つかあるが、その最も主なものは、この五相成身観と阿字観(本不生観ともいう)である。このうち 阿字観は「大日経系統」すなわち「胎蔵法」に属する法で、五相成身観は「金剛頂系統」すなわち 「金剛界」に属する観法である。

五相成身とは、弘法大師空海の 『菩提心論』によると、

「一にはこれ通達心、二にはこれ菩提心、三にはこれ金剛心、四にはこれ金剛身、五にはこれ無 菩提をして金剛堅固の身を得るなり」とある。

これは、しずかな呼吸とともに、一から七までをかぞえ、も して、数息観に入る。 どって七から一までをかぞえる。無識身三摩地といって、心を空虚に、なにごとも心にとめない、 無心、無我の心を得るためである。 無識身三摩地に入ったら、つづいて「空観」に入る。観想中の 空想上の城 火輪は、棒に火をつけてくるくるまわすと火の輪のように見える。しか その火の輪は実在しない。 だからともに架空の存在で、われわれが実在と見ているものすべてそ のように架空の存在に過ぎないと観ずる。 すなわち「空」の定に入るわけである。この空の定に入 ることにより、智を表示する蓮華部の仏の加持を得て、その加持力により、つぎの通菩提心の三 味に入ることができるのである。

<通達菩提心〉

これは、われわれはすべて生まれながらに、即身成仏するところの根本心である浄菩提心を持っ ているということを如実に知る修行で、霧の中にある月輪のごとしと観ずるのである。

すなわち、数息観から空定に入って清められた心は諸仏に通じ、その加持によって清浄無垢なる 満月のようになった。しかしまだそのさとりは十分でなく、すみきった満月に軽い霧がかかったよ うな状態である。この軽い霧をはらい、真如の、すみきった月輪にしなければならない。 そこでさ らに真言をとなえ、仏の三摩耶形(象徴する物という意味で、仏 す がその本を表示する所持物 なわち、弓・・・・印など)を、わが満月輪の心の上に観じて、われと仏と同一の親をするの である。

 

 

<修菩提心〉

前の通菩提心によって、わが心は金剛界大日の加持を得、心の中に一点のくもりもない真月輪 得得たのである。ゆえに、わが心は妄想からはなれて、根本であるアーラヤ識を転じ てすべてのものの実相を鏡のごとく写しとる大円鏡智となると観ずるのである。 大円鏡智浄菩提 心を如実にわがものとする行である。

<成金剛心〉

大円鏡智は即浄菩提心であり、菩提心の銀行によって獲得したこの大円鏡の浄菩提心を、よ りいっそう深め、具体的に本尊の三摩耶行と同一不二のものとする観法である。すなわち、わが浄 心の満月輪の中に、 八葉の蓮華を観じ、それに五仏五智の三形を映するのである。 先ず、 満月輪の上に蓮華があり、その上に金剛界五仏の三摩耶 中央に大日の塔前に阿の五股、 右に宝生の宝珠、後に弥陀の蓮華、左に不空成就の羯摩を置いて、わが心に五仏の五智を表示する のである。

<広金剛〉

つづいて、この親想はつぎの広金剛観、金剛観の二つの観法に入る。

この広金剛とつぎの金剛は、前の観想をそのまま拡大し、あるいは飲めて、自分と法界(宇宙)

との無二一体観を確立するのである。すなわち、わが満月輪の八葉の上に映じ出した金剛界五 仏五智の三摩形をしだいに拡大伸長し、ついに宇宙大にまで至るのである。つまり、宇宙法界を わが心月輪の中の三摩耶形に統合入し、われ即宇宙なりの観に入るである。

<飲金剛〉

心月輪と五仏五智の

形が拡大されて宇宙とひとしくなったのを、今度はしだいに飲め

めて、わが心月輪の上に置くのである。これにより、修行者は、宇宙すなわち大千世界をわが心 の中に飲めるのである。

<証金剛身〉

自分の心が宇宙の一切をおさめ、仏の三摩耶形と同一不二であるということは、わが肉身がその まま本尊の三形と同体であるということである。ここで、この観を確立し、完全に把握する。 <仏身円満〉

前の親において本尊の三形が自身であるとの観を成就したとき、それは即ち修行者自身、相 好具足した本尊の身(活動するためにあらわれた仏身そのものにほかならない。ここにおいて、

わが肉身がそのまま大日如来のあらわれであることが証得され、仏身円満、即身成仏が完成するの である。

じめいくつかの菩薩行を行ぜよと説き、『観無量寿経』をひもといて十六観法 その他の浄行に はげむべしといっても、それは全く縁なき衆生というべきだろう。

つまり、平安密教、平安仏教はプロの宗教だったのである。それは、幼少の頃からその道に入っ 基本を学び、練磨してはじめてその技芸知識を身につけることができる高度の職業だったのであ る。それは宗教ではあったが信仰ではなかった。 それを信仰とするためには、極度に平俗化しなけ ればならなかった。しかし、それは、平安末期から鎌倉初頭という時代に生まれた法然、親鸞、日 であるがゆえにゆるされたことであろう。

たとえば、専心念仏によって成仏を説く法然、親鸞の宗が依経とする『観無量寿経』を見てみよ そこでは、阿弥陀仏の浄土に生まれるための十六の観法が詳細に説かれている。 決して唱名念 仏だけで成仏するとは書いてないのである。

1日没を観て西方極楽を想う日想観

水と氷の美しさを観じて極楽の大地を想う水想観

6想観を完成して極楽の大地を思想観

極楽の宝樹を想う樹想観 (宝樹観)

6極楽の池を想う八功徳水想観

6極楽の宝を想う想

阿弥陀仏

の台座を想う華座想観

仏像をみて阿弥陀仏のすがたを想像想観

阿弥陀仏の真のすがたを想うことによって一切諸仏のすがたを見ることができる一切色 身想観(真身観)

阿弥陀仏の脇侍である観音を想う観音観

おなじく勢至を想う勢至観

一切の浄土の仏・菩薩などを想う観想観

回以上~隣の観想のできないものが、大身・小身の阿弥陀仏などを観ずる雑想観

そして最後にそれぞれの能力・素質に応じた修行によって極楽に生まれるさまを想うの上輩観、 隣の中

の下輩観である。

以上の十六観法は、極楽浄土に往生成仏するための修行法を説くものとして、『観無量寿経』の 中でも最も重要なものである。この修行法を法然、親鸞は切り捨てて、唱名念仏一本にしぼったの である。

では、その切り捨てられた十六親法の行とはどのようなものか、ひとつ見てみよう。たとえば、 第八の像想観 第九の真身観はつぎのようなものである。

「……仏 阿難および提希に告げたわく、ここの事を見おわりなば、つぎにまさに仏を想う べし。ゆえはいかに。 諸仏如来はれ法界身なり。一切衆生の心想の中に入り給う。この故に汝ら

心に仏を想うとき、 是の心すなわち是三十二相八十随形好なり。是のこころ仏を作る。 是のここ ろれ仏なり。諸仏正編知海は心想より生ず。 是のゆえにまさに一心にいけて、らかに彼

仏の多陀伽度阿羅

三藐三仏陀を観ずべく、彼の仏を想わむ者は先ず当さに像を想うべし。

を閉じ目を開くにも一つの宝像の浮檀の色のごとくにして、彼の華の上に座し給えるを見よ。 像の座したまえるを見おわりなば、心眼ひらくことを得て、了了分明に極楽国の七宝の荘厳宝地

行列、天の宝その上に弥し、宝の羅、虚空の中に満つるを見る。 かくのごと

き事を見極めて明了なること掌中を観るごとくならしめよ。 この事を見おわりなば、まさに 一つの大蓮華を作して、仏の左辺にくべし。 さきの蓮華のごとく等しくして異なることあること

なし。また一つの大蓮華を作して仏の右辺に在け。一の観世音菩薩の像の左の華座に座るを想え、 また光を放つこと前のごとくにして異なることなし。一の大勢至菩薩の像の右の華座に座せるを 想え、この相成するとき、仏菩薩の像みな光明を放つ。その光り金色にしてもろもろの宝樹を照ら す。 一一の樹下にまた三蓮華あり、もろもろの蓮華の上におのおの一仏二菩薩の像ありて、彼の国 に編満す。 この想成するとき、行者まさに水流光明およびもろもろの宝樹、鴛鴦みな妙法を説 くを聞くべし。 出定入定につねに妙法を聞かむ。 行者の所聞出定のとき持して捨てず、 多羅と 合せしめよ。もし合せざらむをば名づけて妄想とす。 もし合することあらむをば名づけて、想を 極楽世界を見るとす。 これを像想とし、第八の親と名づく。この観を作さむ者は無量劫の生 死の罪を除き、現身の中において念仏三昧を得む」

…..無量寿仏に八万四千の相あり。 一一の相におのおの八万四千の形あり、一一の好にま 八万四千の光明あり、一一の光明あまねく十方世界を照らして2念仏の衆生を摂取して捨てた

わず。 その光明相好および化仏つぶさに説くべからず。ただまさに憶想して心眼をして見せしむべ この事を見る者は、即ち十方一切の諸仏を見たてまつる。 諸仏を見たてまつるを以てのゆえに、 6念仏三昧と名づく。この観を作すをば、一切の仏身を観ずと名づく。 仏身を観るを以てのゆえに また仏心を見る。仏心とはこれ大慈悲なり。無縁のを以てもろもろの衆生を摂しまう。 この観 作者は、身を世に捨てて諸仏の前に生じて無生忍を得む。是故に智者まさに心に繋けて かに無量寿仏を観ずべし。 無量寿仏を観む者は一の相好より入れ。ただ眉間の白を観じて極

めて明了ならしめよ。 眉間の白を見たてまつる者には八万四千の相好自然にまさに現ずべし。無 量寿仏を見たてまつる者は即ち十方無量の諸仏を見たてまつる。無量の諸仏を見ることを得るがゆ 諸仏現前に授記したまう。是れをねく一切の色身を観ずる想とし、第九の観と名づく。こ 観を作をば名づけて正観とし、もし他観せむをば名づけて邪観とす」

これは十六親法中のごく一部にすぎないけれども、これだけの中にいくつかの興味あるものが見 いだされる。

たとえば文中の「正編知海は心想より生ず、このゆえにまさに一心に思いを繋けて、誰かに彼 仏陀伽度 詞三三仏陀を観ずべし」というところである。正論知とは等正覚といってあ まねく一切法を知る仏の智慧をさす。 多陀御度阿羅三三仏陀は、 Tathāgata-arhan-samyak. sambuddha で、如来広供等正覚の意、すなわち仏の絶対の智を示すもので、このところは、真言密 教の観法の、五仏五智(の三摩耶形)をわが心月輪の上におけ、というのと同じ構想の上に立つもの

 

三密加持の手法

まざまなものごとを象徴する。 これを「身」という。

「語密」という。

編成されている。

観想とは、心の中で、定められたものごとをつよく観念することである。「意」という。

真言とは、仏の真実の言葉とされる梵語で成り立った一定の章句を口にとなえることである。

この三つの所作が連続して一つの法を成立させるのである。

この三密加持の手法をもとに、「金剛界の法」と「胎蔵界の法」と、二つの即身成仏法の体系が

この二つの法の、最も中心となる部分を見てみよう。

 

 

先ず金剛界の法である。

前のほうの導入部分ともいうべきところは略して、中心に入ろう。

 

 

 

三金剛界の法

(前段略)

 

次仏 両合掌して、二頭指各々中指の上の節の背につけ、二小指の 開く。二大指もまたなり。これ如来五眼のなり。胸の前に当てて真言七返 加持せよ。真言にいわく、黄、緑、烏瑟沙、増蘇入緋羅、

あい生えて中間をして、身の四処 叱悉多魯舎 しったしったろ しゃに

観ぜよ。此の印をむすび真言をして加持するに出るが故に、諸魔夜迦その便りを得ず。 初 行のときより、乃至成就の時までの 数、この尊に奉献すれば、たとえ三業を誤失し三昧耶破すれども、所有の成就して虚しからずして地を獲得す。あるいは悪人あって留難をな さばかの人、瑜伽者の足下にありと想うて、真言二十一返を誦すれば、所有の留難をなす者、 み ことごとく消散して、心を以てあい向うて障礙すること能わず。

 

○次 入我我入観端身正座して、弥陀定印をむすんで観ぜよ。 我れ今、大日如来の身となる。 身相白肉色にして宝蓮華台満月輪の上に処して、面も せり。首に五智の宝冠を著て、頂背円光って大智拳印に任せり。 一身四面なり。四仏四波羅蜜 十六大菩薩 八供四等の諸 尊聖衆眷属せり。ここに更にまた壇上の日成の如来と、自性眷属の三十七尊と、ともに住してと相対し給う。本尊我身に入り、我れもまた本尊の御身の中に入る。かくのごとく融通入す ることたとえば帝のごとし。また鏡と影像との相通無礙なり。本尊我身の中に入りて我を加持し、 本尊の御身の中に入って本尊に帰依し奉る。即ち本尊と我れと一体にして無二平等なり。

○次 字輪観字義ならびに無分別観 身正座して、弥陀定印をむすんで法界体性三昧観に入れ。 わが心満月輪の上に 右に従ってす。 面も順逆に五字をし、さらにまた の五字あり。 空点を加えて順逆に之を通す。 次に字義を順逆に観じ廻す。 即ち諸法本不生、 自性離言説、 清浄無本生観と

因業不可得等空不可得、等空不可得、因業不可得、清浄無垢染、自性離言説、諸法転相接して 字諸法本生なるが故に、字自性離言説なり、字自 逆に観じす、 性離言説なるが故に、字清浄無垢染なり。字清浄無垢染なるが故に、字因業不可得なり。 字因業不可得なるが故に、字等空不可得なり、字等空不可得なるが故に、字諸法本不生なり つづいてこの逆を観のごとく順逆に観じ廻して、遂に月輪をして現前せしむ。くびく大にして小千界、 中千 界大千界乃至法界に遍満す。 そのときに上み仏界より下も衆生界に至るまで一切の諸法みなわが 心月輪に現ず。然してのち漸く飲まり、く小さくしてもとのごとく一にして還りてわが身中に 入る。なお定心に住して布字観をなせ。 即ち、前の五字を移してわが身の五処に置く。その五処と 腰下、 心中、眉間、頂上なり、腰下に字を置く黄色方形なり、是れ地大本不生の理な 輪に字を置く白色円形なり、是れ水大離言説の理なり、心中に字を置く赤色三角形なり、 無 理なり、眉間に字を置く黒色半月形なり、是れ風大因業不可得意なり、頂上 に字を置く青色団形なり、 これ空大等空不可得の理なり、いますでに五大所成の身となりてよく 過を離る、即ち順逆にこれを観ぜよ、我れ即地大本不生なり、我れ即木大離言説なり、我れ即火 大清浄無垢染なり、我れ即風大因業不可得なり、我れ即空大等空不可得なり つづいてこの逆観 おわってついに字本不生の理に住して、言慮絶するを無分別と名づく。 この親に住し、

 

○次 五相成身観

 

観察

真言にいわく、

三摩地

頭 総理。行者、金剛店に入らんとおもわ

先ず観察智に住して、まさに結支節を動揺せずしてまさに印を結ぶべ 趺座すべし。し。羽金剛して、仰げて臍の下におき、身を正しくして動揺することなかれ。

舌を上にえて、息を止めて微細ならしむ。 この定に住して即ち如来の不動智を得。真言にいわく、庵、三摩地、頭迷哩。誰かに観ぜよ、諸法の性はみな自心に由る、随煩悩、臨界 諸入等はみな幻と焰との加し、乾婆城のごとし、また火のごとし、また空谷郷のごとし、是 の如く誰かに観じおわって身心を見ずして、 寂滅平等究真実の智にして、即ち観ぜよ。 「空中 において諸仏胡麻のごとくして虚空界に満したまえり、身に十地を試し如実際にせりと想え 空中のもろもろの如来、 男子汝の所の処は是れ一道清浄なれども、 指し驚覚して告げて言う。 金剛三昧および若智尚し未だ証知すること能わず、此を以て足んぬとる事切れ、広さに普満足してさに最正覚を成ずべし」

 

○次 通菩提心

行者覚を聞いて定中に諸仏を礼し奉る。(ゆえに)礼の真言をす ただ願くば、諸の如来われに所行の処を示したまえ、諸仏同音に言わく、「汝まさに自心を観ずべ 教のごとく自心を観ずれども自心の相を見ず、また普礼の真言をして仏に白して言さく、

のたま

「われ自心を見ずこの心をば何の相とかさん」、諸仏成く告げて言わく「心相は

おそ

あんしつ はちべいとうまゆう

し難し、心

月輪の霧の中に在るが如し」 真言にいわく、阿賀、質多鉢羅吠登迦哈弾。 次菩提心「識は本来にあらず、清浄にして、 なし、福智を具するに由るが故に自 心満月の如しなんじ浄月輪を観じて菩提心をすることを得。真言にいわく、地質多、 甲成金心想え「諸仏また告げて言わく、菩提を堅固ならしめんがために、また心真授く、金剛蓮華を観ぜよ。即ち心月輪の上に八葉の蓮華ありと観ぜよ」

真言にいわく、蛇、日置

次 広金剛想え「心月輪の上の八葉の蓮華、くび漸く大にして、三千界乃至法界に 満して、一切有情をし利益すと想え」

 

真言にいわく 〇次 金剛

「この心蓮華小にして、還って収まること故の如し」

真言にいわく、 次

僧賀神羅。心 応当に知るべし。自身は金剛界なり。 想え 「法界の諸仏自身の蓮華に

入り給うこと、鏡の万像を現するが如し」

真言にいわく、博日羅鉢

諸仏また告げて言わく、「身を観じて本尊と為せ」、この真言を授けていわく、

仏身円

野他薩縛他多

薩他含。

次 諸仏加

え。「われ既に本尊の身となる。故に、諸の如来加持して、金剛界の諸尊み

なわれ続し給う」

もしまた

真言にいわく、

縛怛他多、三冒地理茶縛日羅陀。

以上であなたは即身成仏したのである。

仏眼〉

え?さっぱり仏になったような気がしない?

困るなあ、そんなことでは、尤も、大分むずかしい文句がならんでいるからな。 よく呑みこ めないのも無理はない。 それでは少し解説してみよう。

この印明をむすぶがゆえに、自他一切の障害を排除して法が成就するという。

印は、ふつうに合掌して、両手の人さし指(これを頭という)をそれぞれ中指の上部の節の背に つけ、両方の親指(大指という)と両方の小指はそれぞれ先端をつけ合って、中間の部分をひらく のである。そうすると、おのおのの指のすき間が五か所できる。 これがすなわち五つの眼である。 五つの眼とは、仏眼法眼 恵 天眼、肉眼である。この五眼を印に配置すると、二小指の間は 仏眼 左頭指と中指との間は法眼、右頭指と中指との間は恵、二中指の間は天眼、二大指の間は 肉眼 これを、「印の五眼」という。五眼にはもう一つ、「面の五眼」というのがあり、 それは、右

こたち

目肉眼、左目天眼、右肩恵 左眉法 眉間仏眼に配置する。 これは、それぞれ、 大円鏡智、平 等性智、観察智、 成所作智、 法界体性の五智に配される。 この五眼五智の印をむすんでわが眼 にあてて真言五反となえ、つぎに二反となえて右に三反転じまわすこと)面上を加持する。 はじ 五眼加持五反はこれによって金剛界五智のをひらき、つぎに真言三反となえて面を三転する のは胎蔵界三部の仏の眼をひらく心である。すなわち、これであなたは仏の五智の眼をひらき、い よいよこれから即身成仏を獲得する法の所作に入るというわけである。

我我入観〉

これは、文字の通り、対象とするものが自分の中に入り、自分もまた対象の中に入るということ であるが、「入る」ということは、「合体一致」するということである。したがって、これが完全に なされたら、当然、対象そのものになってしまうことになる。私は、この入我我こそが密教の真 髄であり密教を成り立たせる根本原理であると思っている。即身成仏とはその入我我入の対象を 「仏」に置いたわけで、この技法を体得したら、 対象次第でなんにでも変身できるわけである。私 がさきに「変身の原理」という題名で密教の本を書いたのはここに由来するわけで、ここでは対象 「大日如来」とするが、 入我我入は大日如来だけとはかぎらないのだ。 密教では法の種類によ って、どんな仏にでも変身するのである。ここに、不動明王の入我我入について、故長岡慶信大僧 正が非常にわかりやすく書かれた文章があるから、それを御紹介しよう。

「十八道立の供養法でも、金剛界や胎蔵界の大法立の供養法でも、先ず、道場観”といって、

我々の眼前に本尊の浄土を思い浮かべ、そして、そこへ浄土におられる本尊を迎えて、これを合致 せめ、これに供養してから、入我我入観”という、本尊と自分と無二一体であるという観想を こらすのだ。 いま、不動明王を本尊とした道場観を書いてみる。

しっしっ

もろもろ ようちばんかい

心(むね)の前に字あり。 変じて七宝の宮殿楼閣となる。垂れ、宝柱行列せり。 (以上浄土の宮殿) 壇の上に字あり、変じて、瑟々の不動のおられる台) となる。座の上に 字(不動の種字)あり、変じて智剣(不動の三摩郡形)と成る。 剣変じて不動明王となる。 (以下不動明王のすがた) 身色青黒にして、童子肥満の形なり、頂に七結の髪 (七つむすんで垂れた 髪の毛)あり、七覚分(仏になるべき覚えの七つの方法)をあらわし、左に一つの髪を垂れたり。 一 子(仏の一人子として)の慈悲を賑わす。 右の手に剣をとり三毒の惑障(痴の迷いを断ず。 左の 手に とり、調の者(仏教に従わぬ者)を繋縛す。身(からだじゅう)に楼羅炎(か ふらという能を食うという鳥の形の炎)を現じ、煩悩の悪 宝山に を龍にたとえる)を食す。 座し給う。 浄菩提心の動きことをあらわす。(以上が不動の身体観、以下はその眷属を明らかにす

左右に二の童子あり、右をば迦と名づけ、

小心の者なり。左をば多と名づけ、共語 悪性のものなり、 乃至四大明王、十二大天無量の眷属前にせり。

以上で不動明王を眼前に想い浮かぶべきであるが、われわれにはなかなか難しいことなので、不 動明王の尊形、あるいは画像などを前に置き、この観法の助けとするのである。

さて、この観想の上に立って、その本尊と無二一体であると観念をこらすのが入我我入観である。

最初、不動の印をむすび、不動の真言を萌え、不動の心を心とし、 我が三葉が、 仏の三密と一致す

<字輪観〉

本尊加持の作法を修し、不動と自己と無二一体であって、本尊我れに入り、我れ本尊に入る、一 切衆生もまた本尊に入る、本尊と我れと一切衆生と無二であるとの観想をこらすことが、入我我入 観、即ち身密の一致を示したものである」

以上で、入我我入観がどういうものか、大体その意味するところがおわかりであろう。右の文章 の中で「我が三葉と仏の三密」という言葉が出てきたが、この意味は、この章の冒頭で、私は、 三密加持とは仏の心のはたらきと、あなたの心のはたらきをひとつにし、仏のことばのはたらき と、あなたのことばのはたらきをひとつにし、仏のからだのはたらきと、あなたのからだのはたら きをひとつにする、以上である。といった。仏の心のはたらきを「意密」(または心)といい、 仏のことばのはたらきを 」(または口)といい、仏のからだのはたらきを「身」というの

である。そうして、以上の三つを「三密」という。 これにたいしわれわれ凡夫のそれを「三葉」と いう。 とは、はたらきという意味であり、われわれ凡夫の心、ことば、身体のはたらきは、凡夫 同士、人間同士、わからないということはないが、仏の身、語、 意のはたらきは凡夫には到底理解 しがたい深遠なものがある。ゆえにこれを「密」といい、三密というわけである。 三加持とは、 凡夫の三業を仏の三密と合致させるという意味であり、入我我入はそのもっとも中心とするところ 手法であるということなのだ。

久我我入観は、三密加持のうちの身の成就である。ここでまちがってはならぬのは、入我 我入と入我我入観とはちがうということである。入我我入は三密成就して即身成仏を完成した状態 であるが、入我我入観は身だけの一密成就法である。 そこで、まだ “と”意密”の 二つが成就する法を修さなければならない。字輪観は、そのうちの “” 成就法である。つま 仏の心のはたらきを観ずるわけであるから、その意味深であり、説明することも容易ではな く理解することもまたきわめてむずかしい。 当然のことであろう。 この字輪観の説明だけで、一 冊、あるいは数冊の書物ができるほどのものであるから、くわしい説明はまた別の機会にゆずり、 ここではその大意を述べておこう。

真言密教では、本尊の種字の字義を観ずるのは浅略であるといい、その真言を観ずるのは深秘で あるとし、その梵号の一々の字を観ずるのを最深秘とし、秘中の秘であるとする。 では、その梵号 一々の字を観ずるとはどういうことかというと、ふつうには、ア、バラ、カ、キャの五字を観 ずることになっている。それはなぜかというと、この五字は即ち「五大」の種字だからである。 五 大とは、地・水・火・風・空の五大要素で、森羅万象、 宇宙のあらゆるものはこの五大要素から成 り立つ。したがって、われわれの肉身はこの五大から成り立ち、仏の肉体もまたこの五大によって 成る。ゆえにこの五大において我れと仏とは無二一体であるわけだ(これで身密も成り立つ)。また、 この五大に五智がふくまれている。このア・バラ・カ・キャの五字は、同時に五智の種字真言で もあるから、五智獲得に通じ、これを観ずることはすなわち“意密”の行になるとするのである。

 

 

<正念誦>

るのである。

前のお次第のほうでは略しておいたが、じつは、字輪観の前に修する法として、この正念誦があ

我我入観によって身が完成された。つぎに語密が完成されねばならぬ。 これは正念誦によっ 果たされるとされる。

その作法を述べてみよう。

それは、加持念珠と正念誦の二つにわけられる。

ねんじふ

先ず、左手で左の机の上の念珠をとって、右の手にうつし、左の頭指以下の四指に巻いて三匝 にする。 それを右の掌にのせて、焼香に三度薫じて左右の手に三度移しかえ、右の掌を上にして左

おんべいろ しきのうまみそわA

右を重ねた上にのせ、覧娑婆訶と三反となえて加持し、今度はそれを左右の掌を合せた中に入れ 念珠を浄める浄珠の明、味噌遮那摩娑賀を三反誦する。 それから念珠を高く頭にあげた

五大願念ずる。

五大願とは、

衆生無辺誓願

福智無辺警集

そのために世のあらゆる福と智恵とを集めようという誓。

すべての人を済度しようという誓。

法門無辺学仏のあらゆる教えを学びとろうという誓。

如来無辺誓願事ありとあらゆる仏菩薩の仕事の手伝いをするという。

無上証無菩提を必ず証するという誓。

あんずんぐ

この五大をとなえ、いま修行している自分の願いをはっきり述べる。 以上が加持念珠である。 つぎの念は、二つの所作から成る。最初が引越念 あとが次第念である。 引越念 とは、転の真言日野をとなえつつ、左の拳(蔵の中を通して、右の大頭中の 三指で、母珠を持って引き上げる。つぎに、波三摩曳ととなえながら右の胎の中を通して、 左の大頭中の三指で留をもって引き下げる。これを三度くりかえすのである。この意味は、 秘密の念の境地において煩悩をうちくだくということをあらわす。

いろん

つぎに次第念は、右の頭大二指で母珠をとり、左の頭大の二指で三寸ほどはなれた念珠の 外の珠をとり、左右とも他の三指をのべ開き光明のごとくして本尊の真言をとなえつつ数をとりな がら百八反う。 踊えおわったら、ふたたび念珠を三にして中に納めて、修習念珠法以此 福田一切諸有情、成尊(本尊名)をとなえて左の手で左の机にかえして置く。この念珠のとき の観想は、

しんがもりん

「わが誦する真言の字は本尊の輪(おへその穴)より入りて、本尊の心月輪に至り、右にめぐ りてつらなり住し、本尊の通する真言の字はわが頂より入りて心月輪に至り右にめぐりてつらなり 「す」

この行は、真言をすることが中心であるから、いうまでもなく語密である。しかし、よく観察 すると、本尊の口から出るのは語であり、行者の頂より入るは身密で、わが心月輪に至りつらな

gohoto

 

 

【開祖訓話】

「入行者教典」より抜粋

なによりもまず、 自分をがんじがらめに縛っている因縁の糸をゆるめることである。

千座行に入ったからといって、ただちに、因縁 の糸が切れてしまうわけではない。 これから、千 日かかって、一日、一日、切ってゆくわけである。 あなたも、 入行早々、いろいろと相談したいこ ともあり、指導してほしいこともあるであろう。 しかし、実際のところ、今すぐあなたの相談に乗 指導してあげても、あまり効果は望めないの である。

なぜならば、今のあなたの悩みやトラブルは、 すべてあなた自身が今持っている因縁から出てい るものであり、その因縁の糸を少しでもゆるめな い限り、 なにを指導しても、どうしようもないこ とが多いのである。

まず、とにかく、少しでも、あなたを縛ってい 因縁の糸をゆるめなさい。そうすれば自然に変 わってくるのだ。どう変わってくるのか? これ までどうにもならなかったさまざまなことが、自

然にほどけてくるのである。 二重にも三重にも固く結 んだ結びコブのように、手のつけられなかったことが、 自然にほどけるようになってくるのである。 人間関係、 仕事の問題、健康上の悩み、身辺のさまざまなトラブ それらの、どうにも結び目が固くてほどけなか

った、諸問題が自然にほどけて、これまで自分を悩ま していたことが、自然に消滅してゆくのである。

因縁の糸がほどけるにつれて、自分を悩まし苦しめ ていた物事が、自然にほどけて消えてゆく。 必ず、そ うなるのである。

そうなるために

あなたは、とにかく、我を出さず、理屈を言わず、グチ・ 不平不満を言わず、 「タテの因縁」切りのための毎日 の先祖供養 「ヨコの因縁切りのための行を、 一心 不乱にやりなさい。

わたくしは、少なくとも、三人の法友の導きをする という、第一の行課程を卒えぬ千座行者は、一人前 の千座行者とは認めぬのです。

あなたが第一の行課程を卒え、因縁の糸がゆるみ 始めた時、わたくしは、あなたの切らねばならぬ最悪 の因縁を記した「霊視書」を授与しよう。

これをもとにあなたは、一人前の千座行者として本格 的な修行に入るのである。

一日も早く、あなたが一人前の千座行者に育ち、立 派なお釈迦さまの直弟子になることを、わたくしは心 から願い、祈り、期待しています。

ほとけとはなにほどくらむわが心

むすべるしこり解きほどくなり 靖雄

仏教における瞑想   Meditation in Buddhism

仏教における瞑想

瞑想は仏教の実践の重要な側面であり、悟りを達成するための手段と考えられています。仏教では、瞑想は心を落ち着かせ、現実の性質を洞察し、最終的に苦しみを終わらせる手段と見なされています。

仏教には、マインドフルネス瞑想、慈悲の瞑想、視覚化の実践など、さまざまな種類の瞑想の実践があります。マインドフルネス瞑想は仏教の中心的な実践であり、自分の思考、感情、感覚の性質への洞察を得るために、判断せずに現在の瞬間に注意を集中させることを含みます.

メッタ瞑想としても知られる慈悲の瞑想には、自分自身や他の人に対する愛、思いやり、優しさの感情を育むことが含まれます。この実践は、より前向きで思いやりのある考え方を育み、怒り、憎しみ、恨みの感情を軽減するのに役立つと考えられています.

仏教における視覚化の実践には、平和、知恵、思いやりなどの肯定的な資質を養うために、平和で悟りを開いた存在の存在など、特定のシナリオを想像することが含まれます。

これらの実践に加えて、仏教の瞑想には、倫理的および道徳的な内省、および四つの聖なる真理と八正道の理解も含まれることがよくあります。これらは仏教の中心的な教えであり、高潔な生活を送り、苦しみを終わらせるための指針を提供します。

全体として、瞑想は仏教の実践に不可欠な側面と見なされており、定期的な瞑想セッション、リトリート、その他の精神修行を通じて日常生活に取り入れられることがよくあります。

Meditation in Buddhism

 

 

 

Meditation is an important aspect of Buddhist practice and is considered a means to achieve enlightenment. In Buddhism, meditation is seen as a means of calming the mind, gaining insight into the nature of reality, and ultimately ending suffering.

There are many different types of meditation practices in Buddhism, such as mindfulness meditation, compassion meditation, and visualization practices. Mindfulness meditation is a central practice of Buddhism and involves nonjudgmentally focusing attention on the present moment in order to gain insight into the nature of one’s thoughts, feelings and sensations.

Loving Kindness Meditation, also known as Metta Meditation, involves developing feelings of love, compassion and kindness towards yourself and others. This practice is believed to foster a more positive and compassionate mindset and help reduce feelings of anger, hatred, and resentment.

The practice of visualization in Buddhism involves imagining specific scenarios, such as the presence of a peaceful and enlightened being, in order to cultivate positive qualities such as peace, wisdom and compassion.

In addition to these practices, Buddhist meditation often also includes ethical and moral reflection, and an understanding of the Four Sacred Truths and the Noble Eightfold Path. These are the central teachings of Buddhism and provide guidelines for leading a virtuous life and ending suffering.

Overall, meditation is seen as an integral aspect of Buddhist practice and is often incorporated into daily life through regular meditation sessions, retreats, and other spiritual practices.

阿含宗  星まつり  Agon Buddhism Star Festival

阿含宗は。2023年2月12日   午前9:30より

 

星まつりを開催する。

 

 

Agon sect. February 12, 2023, from 9:30 am

 

Hold a star festival.

 

 

 

https://www.agon.org/hoshimatsuri/livestreaming2023.html

https://www.agon.org/hoshimats

 

 

2023    2   12

午前中  9:30より

 

霊性とはなにか?  what is spirituality?

霊性とはなにか

 

霊性(れいせい、れいしょう[1])は、非常にすぐれた性質や超人的な力能をもつ不思議な性質[1]、天賦の聡明さ[2]といった意味の漢語であり、肉体に対する[1][注釈 1]の意味でも用いられる。また、英語: spiritualityスピリチュアリティラテン語: spiritualitas の訳語でもあり[3]スピリチュアリティとも訳され、宗教心のあり方、特にカトリック教会などでの敬虔信仰などの内実やその伝統を指す[4]。カトリック神学用語としての霊性の起源は5世紀に遡るが[3]、神学用語として積極的に用いられるようになったのは20世紀初めのことである[5]。その後、キリスト教用語の枠を越えて広く宗教用語や一般文化用語として用いられている[3]

わたくしは、人間は霊的存在だと考えている。

なぜならば、人間が、特殊な生命形態を持っているからである。

特殊な生命形態とはどういうものか?

 

釈尊の「成仏法」を修行すると、それがよくわかるようになるのであるが、ここは、瞑想によって悟を完成し、仏陀になられた大霊覚者ゴータマ・ブッダ、釈尊の語るところによって、 それを知っていただこう。

中阿含経という釈尊直説の経典で、釈尊はこう語るのである。

中阿含経「黄蘆園経」

しょうじょう

 

我已に是の如き定心を得、清浄にして穢無く煩無く柔軟にして書く

 

不動心を得、宿命 智通を覚りて作証しぬ。我行 有り相貌 有り、本

 

無量の経歴せる所を憶うに、謂く一生・二生・百生・千生・成劫・

 

・無量の成敗劫なり。 彼の衆生某と名づけ、彼昔更に歴ぬ。我曾て彼に

 

生じ、是の如き姓、 是の如き字にして、 是の如く生じ是の如く飲食し、 是の

 

如く苦楽を受け、是の如く長寿し是の如く久しく住し是の如く寿り、此に死して彼に生じ、彼に死して此に生じ、 我生じて此に在り、 是の如き姓、 是の如き字にして是の如く生じ是の如く飲食し、 是の如く苦楽を受け、 是の 如く長寿しの如く久しく住し是の如く寿りぬと。これを我その時初夜に

この第一明達を得と謂い、本放逸無きを以て遠離に楽住し、修行し精懃

謂く無智滅しても智生じ、闇壊れて而も明成り、無明滅して而も明生

じ謂く宿命 智を作証明達しぬ。 また次に梵志、我巳に是の如き定

心を得、清浄にして穢無く煩無く、柔軟にして善く住し不動心を得、 生死智

通を学び作証し、我清浄の天眼の人〔眼」を出過せるを以て、この衆生の

死時生時、 好色悪色、妙と不妙と、善処及び不善処に往来するを見、この衆 ぜんしょ

生の所作業に随いてその如真を見、若しこの衆生身悪 [行)、口・意悪行を

成就し聖人を誹謗し、邪見にして邪見業を成就すれば、彼これに因命終りて必ず悪処に至り地獄の中に生ぜん。 若しこの衆生身妙行、

意妙行を成就し、聖人を誹謗せず、正見にして正見業を成就すれば、 彼 これに因縁して身壊れ、命終りて必ず善処に昇り天中に上生せんと見 る]。 これを我その時中夜にこの第二明達を得と謂い、本放逸無きを以て遠 離に楽し修行精動し、謂く無智滅して而も智生じ、闇壊れて面も明成り、 無明滅して而も明生じ、謂く生死智を作証し明達しぬ。 また次に梵志、 我巳 にの如き心を得、清浄にして穢無く煩無く、柔軟にして善く住し不動心 を得、漏尽智通を学び作証し、我この苦の如真を知り、この苦の習を知り、 この苦滅を知り、この苦滅道の如真を知り、この漏の如真を知り、この漏 習を知り、この滅を知り、この滅道の如真を知り、 我是の如く知 是の如く見、欲漏心解脱し、有漏・無明漏心解脱し、解脱し巳りてすな わち解脱を知り、生巳に尽き梵行巳に立ち所作巳に弁じ、更に有を受けずと 真を知る。これを我その時後夜にこの第三明達を得と謂い、本放逸無きを 以て遠離に住し修行精勤し、謂く無智滅しても智生じ、闇壊れて而も明成り、無明滅して而も明生じ、謂く漏尽智を作証し明達しぬ。

(読下しは「国訳一切経」を参照させていただいた)

わたし(釈尊は、つねに努力精進し、その想いは確立してすこしもみだ れず、体は安楽で動揺せず、心は禅定に入って静かである。 そのわたしがあ るとき、瞑想に入ってしだいに禅定が深まってきた。 第一禅定から第二、第 三、第四禅定まで深まるにつれて、心に想い浮かぶなにものもなくなり、喜 びや楽しみだけとなり、そして遂にはそれもなくなって、ただ清浄な想いだ けとなった。

そのとき、わたしの心は、一点のけがれもなく、清く明るく、絶対不動で あった。そしてわたしの心の眼はおのずから前世の光景に向けられていっ た。それは一生だけではなく、二生、三生、十生、二十生、そして無限の生 生きかわり死にかわりした光景が展開してきた。これが第一の智慧で ある。

 

what is spirituality

 

 

 

Spirituality (reisei, reisho [1]) is a Chinese word meaning such as a mysterious disposition [1] that has a very good nature or superhuman strength, or a natural intelligence [2]. Also used in the sense of spirit[1][note 1]. It is also translated from English: spirituality and Latin: spiritualitas [3], and is also translated as spirituality, which refers to the state of religious mind, especially the reality and tradition of piety and faith in the Catholic Church [3]. Four]. The origin of spirituality as a Catholic theological term dates back to the 5th century[3], but it began to be actively used as a theological term in the early 20th century[5]. Since then, it has been widely used as a religious term and a general cultural term beyond the framework of Christian terminology [3].

I believe that humans are spiritual beings.

This is because humans have a special life form.

What are special life forms?

 

If you practice Shakyamuni’s “Buddha Dharma”, you will come to understand it well, but here is the great enlightened person Gautama Buddha, who achieved enlightenment through meditation and became a Buddha, according to the words of Shakyamuni. I want you to know that.

This is what Shakyamuni says in the Chuagami Sutra, a sutra directly written by Shakyamuni.

Middle Agon Sutra “Orange Garden Sutra”

Shojo

 

I have the determination to write like this, clean and free from pollution and flexibility.

 

Acquire a sense of steadfastness, wake up to your destiny and wisdom, and write a work. There is a book

 

As I remember my countless careers, there are so-called lifetimes, two lives, a hundred lives, a thousand lives, a secular life, and so on.

 

・There are countless successes and failures. Named his sentient beings, he has a long history. to him

 

Born, surname like this, letters like this, birth like this, eating and drinking like this,

 

Like this, I received joys and sorrows, lived like this, lived like this, lived like this, lived like this, lived like this, died like this and was born to him, died to him and was born here, I was born and am here, like this. The family name is written like this, and it is born like this, eats and drinks like this, suffers joys and sorrows like this, lives like this for a long time, and lives like this. I made this on the first night

It is said that this is the first attainment of mastery.

Even if Ignorance disappears, wisdom arises

The so-called destiny wisdom has not been achieved. Next, Bonshi and I have this kind of determination.

Acquire the heart, clean and free from impurities, flexible and well-living, acquire a steadfast heart, and the wisdom of life and death.

By learning the arts and making testimony, I can pass through the eyes of the clairvoyant of purity, so that this sentient being

In death and in life, lecherous and lewd, strange and strange, going back and forth between good and bad, all of this people.

Follow the work of life and see the reality, and if this sentient beings are bad [deeds], mouth / bad deeds

If one succeeds in slandering a sage, blaspheming a sage, and accomplishing a wicked act, he will surely end up in a bad place and be reborn in hell. Young sentient beings perform miracles,

If one achieves a miracle, does not slander a sage, and sees the right view and achieves the right view, one will be broken due to this, and after one’s life ends, one will surely rise to a good place and rise to the heavens]. This is what I call this second enlightenment in the middle of the night. It flickers and then the light arises, and the so-called wisdom of life and death cannot be proved and attained. Next, I will acquire a heart like Bonshi and I, clean and free from impurities, flexible and well-living, gaining an immovable mind, learning the flow of wisdom and writing, and I will know the truth of this suffering. Know this practice of suffering, know this suffering, know this reality of suffering, know this reality of leakage, know this reality of leakage, know this destruction, know this reality of destruction. To know, to know as I am, to see as I am, to be liberated from greed and ignorance, to be liberated from ignorance and ignorance, to be liberated, in other words, to know liberation, to be exhausted in life, and to stand in the spirit of the gods. To speak to the snake, and to know the truth without receiving existence. This is what I call this 3rd Awakening at that time and at night. There is no flicker and then the light arises, and the so-called leaked wisdom cannot be proved and clarified.

(I referred to “Kokuyaku Issaikyo” for reading down)

I (Shakyamuni) is always striving and diligent, his thoughts are firmly established and not disturbed, his body is comfortable and unshakable, and his mind is calm and tranquil. From the first meditation to the second, third, and fourth meditations, the mind ceased to have any thoughts, only joy and pleasure, and finally it ceased to exist. It was nothing but pure thoughts.

At that time, my heart was pure, bright, and absolutely unmoving. And my mind’s eye naturally turned to the scene of my previous life. It was not just one life, but two, three, ten, twenty, and infinite lives, and a scene of life and death unfolded. This is the first wisdom he has.

 

 

 

それからわたしの心は、あらゆる衆生の相に向けられてきた。わたしは超人的な眼力でその相を見た。そこには貴いもの、賤しいもの、美しいもの、醜いもの、幸福なもの、不幸なものの、それぞれの宿業が渦巻いてい た。 これが第二の智慧である。

それからわたしは、苦集滅道の四(四つの真理)をありのままに 知り、わたしの心は、あらゆる存在の相から、全く解放され、ふたたびそれ に執着することはなくなった。これが第三の智慧である。

釈尊は瞑想によって、自分の前生の、二生、 三生、 十生、 二十生、さらには無 限の生涯の生き変わり死に変わりしてきた光景を見ているのである。 それは自 分だけではなく、あらゆる人間の前生と、さらに後有(このつぎの人生)を見て いるのである。

釈尊はここで、決しておとぎ話や、たとえ話寓話をのべているのではない。 釈尊の成仏法を修行すれば、その真実であることがすぐわかる。 その修行により、わたくし自身、人の三、四世代前、そしてつぎの世代における存在までは透 視できるようになっているのである。

人間の生命は、多くの人たちが考えているように、決してひとつの生涯だけで 終わるものではないのである。 ある生涯が終わったら、またひきつづき、つぎの 生命形態に移っていくのである。

多くの人たちはその認識がなく、ひとつの生涯のみで、人の生命は終わるもの と思っている。ここに、決定的な、そして致命的な生命観の欠陥があるのであ

 

霊性とはじつにそれを知る性なのだ。

人の依って来たるところを知り、去るところ、往くところを知る能力である。

 

いわゆる来所を知り、住所を知る智慧である。 これを得れば、人はおのずから、 なにをなすべきか、なにをなさざるべきかがわかってくる、そこから人間の真の 進歩発展がスタートするのである。それがないから、人間は、霊的に少しも進 歩せず、発展せず、いつまでも低いところを輪廻して、無限にさまよい歩いてい

るのである。いや、それだけではない。その果てに、人間は、自分の住む大切な

世界を、自らの手で壊滅させてしまうことになるのである。

この無知を、釈尊は、 「無明」 (avidya) と名づけたのである。

ショウジョウバエの論理

 

「この「無明」という言葉には、二つの意味がある。

まったくの無知と、完全な闇である。

「明」には明知(智慧)と、光明の二つの意味がある。

真実を悟る智慧を持たず、真っ暗闇の中を、手さぐりで歩いている状態であ る。まことに人間はそのとおりではないか。 来たるところを知らず、往くところ を知らず、ただ現在(現生)あるのみである。その現在を、ひたすら目先の利益 追求に狂奔する。その結果、いかなるところに往くのか、いかなる世界に、いか 生命形態として存在することになるのか、まったくお先真っ暗である。 「第三の目」は、このお先真っ暗な闇の世界を見通すのである。「第三の目」に闇はない。 真昼のごとく明らかに見ることができるのである。

奇妙なことに思われるかもしれないが、わたくしは、釈尊の十生、二十生を見 通す力を思うごとに、ショウジョウバエを想い起こすのである。

ショウジョウバエは、その世代が極端に短い。 ふつう、一世代がわずかに約1カ月である。だから、何十世代もの変遷を短時間で見ることができる。

そこで、生物学者や、遺伝学者は、ショウジョウバエを使って、その変化を実 験する。ひとつの遺伝子の変化が、何十世代のうちに、どういう結果を生ずる 目のあたりに知ることができるのである。

釈尊の叡智もそれである。

にょじつ

彼のように、何十世代もの人間の移り変わりを如実に見ることのできる力をそ なえていれば、ひとつの原因が、どのような経過を経て、どのような結果をもた らしたか、つぶさに知ることができる。 彼がじっさいに語っているように、その 人間がなんという名前で、いつ、どこに生まれて、どういう人生を送ったか、ま その人生を終わって、つぎにまたどういう人生を迎えたか、ある生涯のどんな

られている。

行為が、つぎの生涯にどんな結果としてあらわれたか、すべての人間にわたって

知ることができる。これがほんとうのなのである。

仏陀の瞑想から輪廻転生瞑想法へ

さきほどの中阿含経 「黄蘆園経」では、釈尊の瞑想の深まり、生き生きと語瞑想のすべてがここに表現されているといってよい。

二十一世紀という時空のへだたりを飛び越えて、読者よ、じつに、瞑想とはかくのごときものなのだ。ここには瞑想のすべてがある。

この釈尊の体験を、もう少し掘り下げてみよう。

釈尊の瞑想体験には五つの段階がある

ここには、瞑想の深まりとその結果が、じつにあざやかに語られている。

第一の段階

1、つねに一つの目的にむかって精進をつづけることができ、想念が確立してみだれず、

3 からだは安楽で動揺しない。

第二の段階

4、心はいつも定に入って静かである。

第一禅定から第二、第三、第四禅定までしだいに深まっていって、

1、心に想い浮かぶなにものもなくなり、

2、喜びや楽しみだけとなり、

第三の段階

3、ついにはただ清浄な想いだけにみたされ、

4、一点のけがれもなく、清く明るく、絶対不動となった。

つづいて心の眼がひらかれ、

1、自分の前世における光景が展開しはじめる。

第四の段階

2、 それは一生だけでなく、二生、三生、十生、二十生とかぎりなくさか

のぼり、無限の生涯の、生き変わり死に変わりした光景が展開する。

そきゆう

それは生命の根源への遡及であり、第一の智慧の獲得であった。

心の眼はさらに広く深くひろがり、ひとの持つ能力の限界を越えて、過去、現

そして未来へと流れていくあらゆるひとびとのすがたが透視される。

カルマ

それは、存在を規制する宿業の実体の把握であった。

これが第二の智慧の獲得である。

第五の段階

つづいてわたしは、

カルマ

げだっ

1、宿業から解脱する四つの真理を如実に知り、

2、あらゆる存在からの解説と超越を完成した。

それは第三の智慧の獲得であり、「解脱の瞑想」 であった。

いかがであろうか? すばらしい体験だとあなたは思わないだろうか? れが仏陀の瞑想なのである。そうしてだれでも、仏陀の瞑想をすればこういう境 地に達することができるのだ。

だが、そういうと、あなたはいうかもしれない。釈尊のような大天才と、凡人 であるわれわれと、どうしていっしょになるものか、釈尊がそういうすばらしい 体験をしたからといって、それがそのままわれわれに通ずるとはかぎらないの だ。むしろ、鶏のまねをするカラスで、けっきょく、骨折り損のくたびれもうけ ということになるのではないか、と。

そうではないのである。

釈尊とおなじ瞑想をすることにより、われわれもまた彼とおなじ結果に到達す ることが可能なのである。 最初の道を切り開くものは天才でなければならぬ。 し かし、すでに天才の開いた道は、だれでも歩むことができるのである。

 

 

 

 

Since then, My heart has been directed to all aspects of sentient beings. I saw that face with superhuman eyesight. There swirled the karma of the noble, the humble, the beautiful, the ugly, the happy, and the miserable. This is the second wisdom.

degree

After that, I came to know the Four Paths of Suffering and Destruction (Four Truths) as they were, and my mind was completely freed from all aspects of existence, and I never clung to them again. This is the third wisdom.

Through his meditations, the Buddha sees the scenes of his previous lives, which have been transformed into the rebirths and deaths of his second, third, ten, twenty, and even infinite lives. He sees not only himself, but all human beings in their previous and subsequent lives.

The Buddha is not telling fairy tales or parables here. If you practice Shakyamuni Buddha’s Dharma, you will soon find out its truth. Through his training, I have become able to see myself, three or four generations before and even the next generation.

Human life, as many people think, does not end with just one lifetime. After one life is over, one moves on to the next life form.

Many people are unaware of this and believe that human life is over in only one lifetime. Here lies a crucial and fatal flaw in the view of life.

 

Spirituality is the nature of knowing it.

It is the ability to know where people come from, where they leave, and where they are going.

 

It is the wisdom to know the so-called arrival and address. Once people have this, they will naturally understand what they should do and what they should not do, and that is where true progress and development of human beings will begin. Without it, human beings do not make any progress or develop spiritually, and continue to wander endlessly in circles in the low places.

It is. No, that’s not all. As a result, human beings

He will destroy the world with his own hands.

This ignorance is what the Buddha called ignorance (avidya).

Drosophila Logic

 

“The word ‘ignorance’ has two meanings.

Total ignorance and total darkness.

“Ming” has two meanings: wisdom and light.

Lacking the wisdom to perceive the truth, he walks fumbling in pitch darkness. Is it not so with humans? He does not know where he is coming, he does not know where he is going, he is only present. In the present, he is frantically pursuing immediate profit. As a result, where he will go, what kind of world he will exist in, and what kind of life form he will exist in, the future is completely dark. The “third eye” sees through the dark world ahead. There is no darkness in the “third eye”. You can see it as clearly as it is at noon.

Strange as it may seem, every time I think of Buddha’s ability to see through his ten or twenty lives, I think of fruit flies.

Drosophila have an extremely short generation. Usually, one generation is only about one month. So you can see the transition of dozens of generations in a short time.

So biologists and geneticists use fruit flies to experiment with the changes. It is possible to see with one’s own eyes what kind of results a change in one gene will produce in dozens of generations.

So is the wisdom of the Buddha.

Nyojitsu

Like him, if you have the power to see the transitions of dozens of generations of human beings, you will be able to understand how a single cause has led to what kind of process and what kind of result. You can know in detail. As he actually says, what was the name of that person, when and where was he born, what kind of life did he lead, and what kind of life did he end his life, and what kind of life did he face again, a certain life What kind of

It is

Across all human beings, what the result of the action was in the next lifetime

can know. This is the real deal.

From Buddha Meditation to Reincarnation Meditation

It can be said that the deepening of Shakyamuni’s meditation and the lively speech meditation are all expressed here in the Middle Agon Sutra “Huang Roen Sutra” that I mentioned earlier.

Jumping over the 21st-century gap in time and space, dear readers, this is what meditation really is. This is where meditation is all about.

Let us delve a little deeper into this experience of Buddha.

Buddha’s meditation experience has five stages

Here, the depth of meditation and its results are vividly told.

first stage

1. To be able to continue devoting oneself to one purpose at all times, to be able to consolidate one’s thoughts,

3 His body is easy and restless.

second stage

4. The mind is always calm and quiet.

From the first meditation to the second, third, and fourth meditation, it gradually deepens,

1. Nothing comes to mind,

2, only joy and pleasure,

third stage

3. At last filled with nothing but pure thoughts,

4. Not a single point of blemish, clean and bright, absolutely immovable.

Then the eyes of my heart opened,

1. The scene in my previous life begins to unfold.

fourth stage

2. It is not only a lifetime

Ascending, the spectacle of an infinite life, transformed into rebirth and death, unfolds.

sokiyuu

It was a retrospective to the root of life and the acquisition of the first wisdom.

The mind’s eye expands further and further, transcending the limits of one’s ability to see the past and the present.

And all the people flowing into the future are seen through.

karma

It was a grasp of the substance of the lodging that regulates existence.

This is the acquisition of the second wisdom.

fifth stage

I then

karma

Geda

1. Clearly know the four truths that will free you from karma,

2. Completed commentary and transcendence from all beings.

It was the acquisition of the third wisdom, “meditation of liberation”.

What do you think? Isn’t it a wonderful experience for you? This is Buddha’s meditation. So anyone can reach this state by meditating on the Buddha.

But then you might say, How can a great genius like Buddha and ordinary people like us get together? Or rather, a crow imitating a rooster, and in the end he would end up getting tired of his unsuccessful efforts.

It is not so.

By doing the same meditation as the Buddha, we can also reach the same results as he did. A genius must be the one who paves the first path. However, anyone can follow a path that has already been opened by a genius.