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大黒天(摩利支天と同一種子)
梵名をマハーカーラといい、「大いなる暗黒」との意味があります。
わが国では七福神の一つに数えられ、頭巾をかぶり、大きな袋を背負い、右手に打出の小槌を待った姿で親しまれています。
しかし、本来は、シヴア神の化身とされ、戦闘をつかさどるほか、冥府の神ともされています。
仏教では施福の神として寺院の台所にまつられ、僧侶たちが食べ物の心配をしないで修行に励かことができるように、必要なものが手にはいるように寺院を守護します。
大黒天を食厨の柱にまつったところから、家をささえる最も太い柱や一家のあるじを「大黒柱」というようになりました。一般には福徳の神として、商売繁昌などを祈念します
おん ま ら か きや や そわ か
His Sanskrit name is Mahakala, which means “great darkness”.
In Japan, it is counted as one of the Seven Lucky Gods, and is familiar with the appearance of wearing a hood, carrying a large bag, and holding a mallet in its right hand.
However, he was originally an incarnation of the god Shiva, and in addition to being in charge of battle, he was also the god of the underworld.
In Buddhism, it is enshrined in the kitchen of the temple as a god of good fortune, and it protects the temple so that the monks can do their training without worrying about food and that they have the things they need.
Since Daikokuten was enshrined on the pillar of the food kitchen, the thickest pillar that supports the house and the head of the family came to be called the ‘daikokubashira.’ Generally, as a god of good fortune, we pray for business prosperity.
Onmaraka Kiyaya Sowaka

梵名はアールヤアチャラナータビジャヤラージブヤ』どどといい、正式には聖不動威怒明王と呼びます。
諸仏は、つねにさ圭ざまな手段をとって、わたしたち衆生をさとりの道へ歩ませようとします。
しかし、なかには、やさしさだけの慈悲では心を変えない、強情な衆生もいます。
こうした尋常な方法ではとうてい救済できないかたくなな衆生に対して、大日如来は叱りつけるという慈悲のかたちをとって教え導きます。’』、大日如来は不動明王に変化し、忿怒の相をもってあらわれます。
忿怒は実は慈悲のきわみなのです。
酉年生まれの守り本尊とされています。
His Sanskrit name is Arya Acharanatha Vijayarajivya, and his official name is Holy Fudo Iwudyou Myoo.
The Buddhas always use various means to make us, sentient beings, walk the path of enlightenment.
However, there are some sentient beings who are stubborn and will not change their minds with just kindness and mercy.
Dainichi Nyorai teaches and guides the stubborn sentient beings who cannot be relieved by such ordinary methods in the form of mercy by scolding them. ’”, Dainichi Nyorai transforms into Fudo Myoo and appears with an angry face.
Anger is actually the height of mercy.
He is considered to be a guardian deity born in the year of the rooster.
福徳宝 生 の徳と因縁解脱の徳、この二つを仏舎利尊さまはご利 益として、わたくしたちにくださる。それはインドの昔から、数限 りない体験談によって証明されています。ですから「功徳のほどを 伝うべし」とあるのです。
像法の時代から末法の時代へ
ま
「そもそも祀る宝塔は 仏の慈悲のかぎりなく
方便止まずして 末世の衆生救わんと 舎利をとどめ置き給う」
これは、お釈迦さまのご慈悲は実に限りないものであり、涅 槃 に入られたのちもなお、末世の衆生を救うために、この世に仏舎利 をとどめ置かれたのである、という意味です。つまり、仏舎利こそ が仏教の本尊であることを示したものです。ことに末法の世の本尊 は、仏舎利しかありません。
仏舎利の功徳に末法の世界の人間を救う、というのがあります。 昔から仏教では、正法の時代、像法の時代、末法の時代、この三 つがあると説かれております。正法というのは、お釈迦さまのお説 きになった教法が、そのまま、まちがいなく行なわれている時代で す。お釈迦さまがおなくなりになって五百年は、この正法の時代で ある、とされております。
それが過ぎますと、像法の時代です。像というのは、鏡に写る影 像のことですから、そのように真実ではない形ばかりの影像の時代 が、像法の時代です。実物ではないわけです。像法の時代は、お釈 迦さまの教えや法が行なわれているように見えるけれども、その内 容はまったく違ったものというわけです。
わたくしは、いまの世は、像法の時代から末法の時代に入ってき ていると思います。たとえばこれまでの日本の仏教が像法の仏教で したね。仏教といってはいますが、お釈迦さまがお說きになった真 実の仏法・七科三十七道品は影も形もない。またそれが説かれた『阿 含経』は、まったくかえりみられない。そうして、そういうものが 仏教という名前で説かれているのですから、まさに像法です。 この像法の千年が経つと、末法に入ります。末法の時代というのは、もう像法でさえ行なわれない時代ということです。仏舎利尊は、 この末法の世界の人たちを救う本尊なのです。末法時代の人という ものは、仏の教えなど真剣に聞こうとしませんから、とにかく、理 くつ抜きに救いの手に掬い上げてやらなければいけない。ですから まず、信じさえすれば必ずそれだけの力をスト レートにくださる、 という仏舎利尊でなければ末法の世は救われないのです。
現形された法爾無作の仏
The virtue of good fortune and the virtue of liberation from karma, these two are given to us by Buddha Sharison as a blessing. It has been proven by countless testimonials from ancient times in India. That’s why it says, “You should pass on your merits.”
From the age of the image law to the age of the end of the law
devil
“In the first place, the treasure pagoda enshrined is the limitless mercy of the Buddha.
In order to save the lives of people in the last world without stopping, please keep the reliquary.”
This means that Buddha’s mercy is truly limitless, and even after he entered Nirvana, he kept the Buddha’s ashes in this world in order to save sentient beings in the latter age. In other words, it shows that Buddha’s ashes are the principal image of Buddhism. In particular, the Buddha’s reliquary is the only principal object of worship in the world of the Latter Day of Law.
One of the merits of Buddha’s ashes is that they save people in the world of the Latter Day of Law. In Buddhism, it has been preached since ancient times that there are three eras: the age of the true law, the age of the image law, and the age of the final law. The right way is the age when the teachings taught by the Buddha are practiced without a doubt. It is said that the 500 years since Shakyamuni passed away is in this age of the true law.
After that, it will be the age of the Image Law. An image is an image reflected in a mirror, so the age of imagery that is not true and only a form of image is the age of image law. It’s not real. In the age of the image law, it seems that the Buddha’s teachings and laws were being practiced, but the content was completely different.
I believe that the present world is moving from the age of the image law to the age of the end of the law. For example, the Buddhism in Japan up to now is the Buddhism of the image law, and he did it. Although it is called Buddhism, there is no trace of the true Buddhism taught by the Buddha, the Thirty-seven Dharma of Seven Courses. Moreover, the Agon Sutra, in which it is preached, is completely irrelevant. And since this kind of thing is preached under the name of Buddhism, it is truly an image law. After the 1000 years of this Image Dharma, we will enter the end of the Dharma. The Age of the Dharma’s End means that even the Image Dharma will no longer be practiced. Butsusharison is the principal image that saves people in this world of the Latter Law. People in the age of the end of the law don’t listen to the Buddha’s teachings seriously, so anyway, I have to scoop them up in the hands of salvation without reason. Therefore, first of all, if he believes, he will surely give that much power to his rate.
Realized Buddha of Hōni

犀の角
あらゆる生きものに対して暴力を加えることなく、あらゆる生きもののいずれをも悩(なや)ますことなく、また子を欲するなかれ。況(いわ)んや朋友(ほうゆう)をや。犀(さい)の角(つの)のようにただ独(ひと)り歩(あゆ)め。
交(まじ)わりをしたならば愛情が生ずる。愛情にしたがってこの苦しみが起る。愛情から禍(わざわ)いの生ずることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
朋友・親友に憐(あわ)れみをかけ、心がほだされると、おのが利を失う。親しみにはこの恐れのあることを観察して、犀の角のようにただ独り歩め。
子や妻に対する愛著(あいじゃく)は、たしかに枝の広く茂った竹が互いに相絡(あいから)むようなものである。筍(たけのこ)が他のものにまつわりつくことのないように、犀の角のようにただ独り歩め。
林の中で、縛られていない鹿が食物を求めて欲するところに赴(おもむ)くように、聡明な人は独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。
仲間の中におれば、休むにも、立つにも、行くにも、旅するにも、つねにひとに呼びかけられる。他人に従属しない独立自由をめざして、犀の角のようにただ独り歩め。
仲間の中におれば、遊戯と歓楽(かんらく)とがある。また子らに対する情愛は甚だ大である。愛しき者と別れることを厭(いと)いながらも、犀の角のようにただ独り歩め。
四方のどこにでも赴き、害心あることなく、何でも得たもので満足し、諸々(もろもろ)の苦難に堪(た)えて、恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。
出家者(しゅっけしゃ)でありながらなお不満の念をいだいている人々がいる。また家に住まう在家者(ざいけしゃ)でも同様である。だから他人の子女にかかわること少く、犀の角のようにただ独り歩め。
葉の落ちたコーヴィラーラ樹のように、在家者のしるしを棄て去って、在家の束縛(そくばく)を断(た)ち切って、健(たけ)き人はただ独り歩め。
もしも汝(なんじ)が、〈賢明で協同し行儀(ぎょうぎ)正しい明敏(めいびん)な同伴者〉を得たならば、あらゆる危難にうち勝ち、こころ喜び、気をおちつかせて、かれとともに歩め。
しかしもしも汝が、〈賢明で協同し行儀正しい明敏な同伴者〉を得ないならば、譬えば王が征服した国を捨て去るようにして、犀の角のようにただ独り歩め。
われらは実に朋友を得る幸(しあわせ)を讃(ほ)め称(たた)える。自分よりも勝(すぐ)れあるいは等(ひと)しい朋友には、親しみ近づくべきである。このような朋友を得ることができなければ、罪過(つみとが)のない生活を楽しんで、犀の角のようにただ独り歩め。
金の細工人がみごとに仕上げた二つの輝く黄金(おうごん)の腕輪(うでわ)を、一つの腕にはめれば、ぶつかり合う。それを見て、犀の角のようにただ独り歩め。
このように二人でいるならば、われに饒舌(じょうぜつ)といさかいとが起るであろう。未来にこの恐れのあることを察して、犀の角のようにただ独り歩め。
実に欲望は色とりどりで甘美(かんび)であり、心に楽しく、種々のかたちで、心を攪乱(かくらん)する。欲望の対象(たいしょう)にはこの患(うれ)いのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。
これはわたくしにとって災害であり、腫物(はれもの)であり、禍(わざわい)であり、病(やまい)であり、矢であり、恐怖である。諸々の欲望の対象にはこの恐ろしさのあることを見て、犀の角のようにただ独り歩め。
寒さと暑さと、飢(う)えと渇(かつ)えと、風と太陽の熱と、虻(あぶ)と蛇と、―これらすべてのものにうち勝って、犀の角のようにただ独り歩め。
肩がしっかりと発育し蓮華のようにみごとな巨大な象は、その群(むれ)を離れて、欲するがままに森の中を遊歩する。そのように、犀の角のようにただ独り歩め。
集会を楽しむ人には、暫時の解脱(げだつ)に至るべきことわりもない。太陽の末裔(まつえい)(ブッダ)のことばをこころがけて、犀の角のようにただ独り歩め。
相争(あいあらそ)う哲学的見解を超え、(さとりに至る)決定に達し、道を得ている人は、「われは智慧が生じた。もはや他の人に指導される要がない」と知って、犀の角のようにただ独り歩め。
貪(むさぼ)ることなく、詐(いつわ)ることなく、渇(かつ)望することなく、(見せかけで)覆(おお)うことなく、濁(にご)りと迷妄(めいもう)とを除(のぞ)き去り、全世界において妄執のないものとなって、犀の角のようにただ独り歩め。
義ならざるものを見て邪曲にとらわれている悪い朋友を避けよ。貪りに耽(ふけ)り怠っている人に、みずから親しむな。犀の角のようにただ独り歩め。
学識ゆたかで真理をわきまえ、高邁(こうまい)・明敏(めいびん)な友と交(まじ)われ。いろいろと為になることがらを知り、疑惑を除き去って、犀の角のようにただ独り歩め。
世の中の遊戯や娯楽(ごらく)や快楽に、満足を感ずることなく、心ひかれることなく、身の装飾を離れて、真実を語り、犀の角のようにただ独り歩め。
妻子も、父母も、財宝も穀物(こくもつ)も、親族やそのほかあらゆる欲望までも、すべて捨てて、犀の角のようにただ独り歩め。
「これは執著(しゅうじゃく)である。ここには楽しみは少く、快い味わいも少くて、苦しみが多い。これは魚を釣る釣り針である」と知って、賢者は、犀の角のようにただ独り歩め。
水の中の魚が網(あみ)を破るように、また火がすでに焼いたところに戻ってこないように、諸々の(煩悩(ぼんのう)の)結び目を破り去って、犀の角のようにただ独り歩め。
俯(ふ)して視(み)、とめどなくうろつくことなく、諸々の感官を防いで守り、こころを護(まも)り(慎しみ)、(煩悩の)流れ出ることなく、(煩悩の火に)焼かれることもなく、犀の角のようにただ独り歩め。
葉の落ちたパーリチャッタ樹のように、在家者の諸々のしるしを除(のぞ)き去って、出家して袈裟(けさ)の衣をまとい、犀の角のようにただ独り歩め。
諸々の味を貪(むさぼ)ることなく、えり好みすることなく、他人を養うことなく、戸ごとに食を乞(こ)い、家々に心をつなぐことなく、犀の角のようにただ独り歩め。
こころの五つの覆(おお)いを断(た)ち切って、すべて付随して起る悪しき悩み(随煩悩(ずいぼんのう))を除き去り、なにものかにたよることなく、愛念の過(あやま)ちを絶(た)ち切って、犀の角のようにただ独り歩め。
以前に経験した楽しみと苦しみとを擲(なげう)ち、また快(こころよ)さと憂(うれ)いとを擲って、清らかな平静と安(やす)らいとを得て、犀の角のようにただ独り歩め。
最高の目的を達成するために努力策励(さくれい)し、こころが怯(ひる)むことなく、行いに怠(おこた)ることなく、堅固な活動をなし、体力と智力とを具(そな)え、犀の角のようにただ独り歩め。
独坐(どくざ)と禅定(ぜんじょう)を捨てることなく、諸々のことがらについて常に理法に従って行い、諸々の生存には患(うれ)いのあることを確かに知って、犀の角のようにただ独り歩め。
妄執の消滅を求めて、怠らず、明敏であって、学ぶこと深く、こころをとどめ、理法を明らかに知り、自制し、努力して、犀の角のようにただ独り歩め。
音声に驚かない獅子(しし)のように、網にとらえられない風のように、水に汚(けが)されない蓮(はす)のように、犀の角のようにただ独り歩め。
歯牙(しが)強く獣どもの王である獅子が他の獣にうち勝ち制圧してふるまうように、辺地の坐臥(ざが)に親しめ。犀の角のようにただ独り歩め。
慈(いつく)しみと平静とあわれみと解脱(げだつ)と喜びとを時に応じて修め、世間すべてに背(そむ)くことなく、犀の角のようにただ独り歩め。
貪欲(とんよく)と嫌悪(けんお)と迷妄(めいもう)とを捨て、結(むす)び目を破り、命(いのち)を失うのを恐れることなく、犀の角のようにただ独り歩め。
今のひとびとは自分の利益のために交(まじ)わりを結び、また他人に奉仕する。今日、利益をめざさない友は、得がたい。自分の利益のみを知る人間は、きたならしい。犀の角のようにただ独り歩め

聖者は誠実であれ。傲慢でなく、詐りなく、悪口を言わず、怒ることなく、邪まな貪りと慳みとを超えよ。
安らぎを心がける人は、眠りとものぐさとふさぎこむ心とにうち勝て。怠惰を宿らせてはならぬ。高慢な態度をとるな
虚言をつくように誘き込まれるな。美しいすがたに愛著を起すな。また慢心を知りつくしてなくすようにせよ。粗暴になることなく、ふるまえ。
古いものを喜んではならない。また新しいものに魅惑されてはならない。滅びゆくものを悲しんではならない。牽引する者(妄執)にとらわれてはならない。
世間における諸々の欲望を超え、また克服しがたい執著を超えた人は、流されず、束縛さけず、悲しむことなく、思いこがれることもない。
過去にあったもの(煩悩)を涸渇せしめよ。未来には汝に何ものも有らぬようにせよ。中間においても汝が何ものをも執しないならば、汝は「安らかな人」としてふるまうことであろう。
名称と形態について、<わがものという思い>の全く存在しない人、また(何ものかが)ないからといって悲しむことのない人、──かれは実に世の中にあっても老いることがない
これはわがものである」また「これは他人のものである」というような思いが何も存在しない人、──かれは(このような)<わがものという観念>が存しないから、「われになし」といって悲しむことがない。
A saint must be honest. Let him not be arrogant, not deceitful, not slanderous, not angry, but transcend wicked greed and jealousy.
Those who seek peace, overcome sleep, laziness, and depressed minds. Let him not dwell in idleness. he is not arrogant
Don’t let him be lured into lying. Don’t make a favorite book in a beautiful form. Also, try to get rid of your complacency. Behave without being violent.
Do not rejoice in the old. Nor should you be seduced by new things. Do not grieve over what is perishing. Don’t be caught by the towing person (delusion).
A man who has surpassed the desires of the world, and surpassed the insurmountable attachments, is not swept away, not bound, not sorrowed, not longed for.
Dry up what was in the past (worldly desires). May the future have you nothing. If you hold nothing in between, you will behave as a “peaceful man.”
A man who has no sense of ‘own’ in terms of names and forms, and a man who is not saddened by the lack of (something)–He truly does not grow old in the world.
A man who has no thoughts such as “This is mine” or “This is someone else’s”–he has no (such) ‘idea of mine’, so “I There is no need to mourn.