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桐山精雄  阿含仏教・超能力の秘密

「等価変換展開理論」

 

 そんなことがほんとうにできるのか? いったいどうやってそんなことができるのだ、と。

 それもたしかにもっともなことで、私自身、身をもってこの密教の秘密に挑戦し、自分でこの

技術を解明するまでは、ぜったいに信ずることができなかった。私は単身、五〇〇〇年の間秘密

のヴェールにつっまれてきたこの不思議な技術にいどみ、その秘密を解いた。それは、信ずるこ

とのできないほど精緻微妙な生化学に立脚したおどろくべき技術の応用であった。

 たとえば、

 さきにもちょっとふれたが、市川亀久弥博士は、最近の著作のなかマ(≒柚計器)お得意の

「等価変換展開理論」にもとづき、イモ虫からサナギヘの変化を例にして未来社会への脱皮を説

いておられる。この理論はまことにみごとで、まさにほれぼれするほどあざやかである。こと

に、イモ虫がサナギに変身する理論的うらづけは、近来しきりに輩出する未来論のなかで、まさ

に出 色のものであるというべきである。

 ただ、まことに残念なことに、それは理論と説明と期待にとどまり、それをいかにヒトに応用

して実現させるかという方法を示していない。それは、もちろん、氏自身、同書のはしがきのな

かで、これは、″単に人類のあるべき未来社会に関するソフトーウェアの主張の範囲にとどまる

ものである”とことわり、この。ソフトーウェアに対するハードーウェアの具体的な提唱″は

″旺い将七に公長する~定である″ということであるから、われわれはまさに刮目してそれを待、ぐに、その″ソフトーウにアに対するハード・

ウェアの具体的な技術″を持っているのである。密教は、その持つ技術のひとつに、この市川理

論の「イモ虫からサナギヘの脱皮」技術を持っていて、数千年も前から、それをヒトの変身技術

に応用、実践していたのである。

 密教は、現代の創造理論の大家が提唱する未来に関する花形理論を、とうに実践していたので

ある。五〇〇〇年も前にI。

 地を這いまわることしか知らぬ生物であるイモ虫が、サナギになり、そして、空を舞う生物に

変身することは、二次元の世界に生きる生物が三次元生物に変化したことを意味するものだ。密

教がおなじ技術をもってヒトを変身させることは、三次元生物であるヒトをそれより上の次元に

飛躍させることを意味する。密教の変身技術はそれなのである。その生物の次元を変えてしまう

のだ。

 しかも、それは、今までいわれてきたように、ただ神秘的、神がかり的なアイマイな方法でな

く、適確な生化学の技術をもっておこなうのだ。そうしてそれは密教の持ついくつかの技術のな

かのひとつに過ぎない。

 いったい、どんな智恵がそれをなしとげていたというのであろうか? 密教の技術を神秘とい

うのなら、その点をこそ神秘というべきだろう。しかし、それは、それこそまさに数千年生え出

現した超・ヒトが、孤独にたえつつ、その持つ人類最高の智恵「照明智」を駆使してつくり上げ

た未来人のためのカリキュラムにほかならぬのだというよりはかないであろう。

 

 さて、それでは、密教の技術に関係のある市川理論「等価変換展開理論」とはどんな理論か?

それがどのように密教の技術と関連があるのか?

 それを説くまえに、もう少し知っておいていただかねばならぬことがある。

 ここで、私は、密教とヨーガという二つのことばについて述べておかねばならぬと思うのだ。

 拙著「変身の原理」で、私は、密教についてっぎのように述べた。少し長いが引用してみる。

 『真言宗という宗派仏教と、密教すなわち秘密仏教とは、ふかいつながりかおる。だが、それは

どこまでもふかいつながりという関係であって、普通考えられているように、密教即真言宗、真

言宗即密教というものではないのである。

 真言宗とは、インドにおいて発生し、大成した密教を、ああいう独白の形に体系化し、組織化

したものであって、密教そのものではないのである。密教のひとつの体系ではあるけれども、密

教そのものではない。

 それは、それまでにほぼ完成していたけれども、分派し、多様化していたインド密教を日本密

教の開祖空海が、独自の見識と叡智によって、ひとつの体系につくりあげたということである。

 おなじように、天台宗においても、天台密教というひとつの密教体系を組織完成しており、こ

れもまた、密教のひとつの流れということである。

 そういうわけで、密教というものを正しく理解するためには、どうしても、]度、密教の原点

に立ちもどって考えてみなければならないのである。

 密教は、最初、ひとつの手法(技術)であった。

 けっして、最初から密教というひとつの宗教があったわけではない。

 ゴータマーブッダがあらわれて、仏教というあたらしい教えを説きはじめるはるか以前、バラ

モンの時代から、インドには、入に超能力をあたえるひとつの手法があった。そういう手法が完

成されて、一部の人たちの間につたえられていた。それは、精神と肉体のきびしい錬磨から得ら

れる神秘的な力で、彼らは、それを、ひとつの技術にまでっくりあげていた。

 われわれは、その流れのひとつを、現在、ヨーガのなかに見ることができる。(ただしそれは、

いまの日本で行なわれているアクロバティックな体操のヨーガではない。ヒマラヤの奥地の聖者

たちの間に伝承されている正統ヨーガである)

 ヨーガは、その手法のひとつの流れである。この超能力を開発する技術は、仏教があらわれる

以前においてはバラモンにとり入れられ、仏教があらわれると、仏教もまたこれをとり入れた。

 ゴータマーブッダは、かれ自身、この手法をまなんで、これにより超能力を持ったが、弟子た

ちにはこれを学ぶことを禁じた。なぜかというと、この技法によって多少の力がつくと、かれら

はすぐにそれがブッダのいう「ホトケ」という境地に達したものと考えてしまい、修行のさまた

 

 

 

 

      

げになるからであった。

 ただし一部の、素質のきわめてすぐれた弟子たちには、ひそかにこれを許した。

 ゴータマーブッダは、普通、神秘的な力を信じたり、修行者がそういう力を持つことを願った

りするのを全く禁じたというように、仏教学者や仏教者は信じているようであるが、それは間違

いで、ブッダ自身、神足({乱石の教理、すなわち、仏道を完全に成就するためには超自然的な

力が必要であるとし、超人間的な能力開発の訓練法を説いているのである。これは、パーリ文献

によって容易に証明することができるのである。(略)

 それによると、それは、″四神足“または、″四如意足″ともいわれる超能力開発法である。

 ブッダは、菩提を成就するためには、単に、知性や理性をみがくだけでは不十分であると考

え、知性や理性の限界をうち破る力が必要であると考えた。

 そのために、彼は、そういう力を開発するための行法をつくりあげた。それは、彼が学んだ超

能力開発法を加えて編成したものと見てよいであろう。

 それは、三十七種の技法から成り立つもので、四神足というのは、その中心になる技術であ

る。神通、如意を得るための定を、四種類の手法に分けて説明している。

  欲神足(願望、理想、創造のためのアプローチ)

  勤神足(体と心のトレーニング法)

  心神足(潜在意識のトレーニング法)

   観神足(深層意識のトレーニング法)

  きづまりを打破するために、大乗仏教のなかにとり入れられて体系化され、密教と呼ばれになったのである。いうわけで、密教は二つの面を持っている。

  一つは、超能力の開発技術

  一つは、大乗仏教の教義

 この二つである。

 この二つのものがむすばれることにより、大乗仏教よりさらに高度の教義が完成されて、「金

剛大乗」と呼ばれる新しい仏教が誕生した。これが密教である』

 -との引用の文章でわかるように、「変身の原理Lにおいて語られている「密教」というコ

トバは、「秘密仏教」という意味での「密教」である。仏教のなかにとり入れられた、いわゆる

真言密教、あるいは真言宗密教の密教である。

 しかし、本書において私がいう「密教」は、それらの密教、「変身の原理」のなかで使われて

いる密教とは全くちがうものであることを、読者はご承知ありたいのである。

 

 本書における「密教」とは、真言密教以前、いうならば仏教にとり入れられる以前の、いや、

バラモンにさえもとり入れられる以前の、引用文でいえば4  R教は最初、ひとつの手法(技術)であった。ゴータマーブッダがあらわれて、仏教というあたらしい教えを説きはじめるはる

か以前、バラモン時代から、インドには、入に超能力をあたえるひとつの手法があった。そういう手法が完成されて、一部の人たちの間につたえられていた。それは、精神と肉体のきびしい錬磨から得られる神秘的な力で、彼らは、それを、ひとつの技術にまでっくりあげていた。と

あるその「技術」、つまり、いうならば、″古代マーガ″と″真言密教″と、この二つを結合したものであると承知していただきたいのである。即ち本書でいう密教とは、ヨーガと真言密教と、

この二つをむすびつけて生まれた新しい技術であるということである。

 なぜ、そういうことをしなければならなかったのか、というその理由を語ることはそのまま、密教の法を解説することにもなるので、読者はここのところをよく知っておいていただきたいのである。

 引用文のなかにしるされているごとく、行きづまった大乗仏教は、ヨーガの技術にその打開の道を求めた。さきの頃で述べたごとく、精神の高度の飛躍は、その前提に、感覚器官の高度の増幅がなければならぬ。しかし、大乗仏教には教えだけあって、なんの技術もない。大乗仏教という教えであり、教えをあきらかにするだけのもので、技術というべきものはなんにもない。つい

に行きづまることは当然であり、やがてヨーガの技術に救いをもとめるのはさらに当然というべ

きことであった。

 かくして、金剛大乗、真言密教が生まれた。ヨーガには、さきにあげた通り、ジョルジューオリヴィエ教授の表現を借りていえば、五つの能力開発技術がある。それは、①第四次元の理解、合複雑な全体をとっさに把握する能力、③第六感の獲得、④無限に発展した道徳意識、⑤とくに

われわれの悟性には不可解な精神的特質、というものであるが、これらの能力開発の技術は、それがそのまま大乗仏教にとり入れられたわけではない。おのずから、ひとつの偏向傾斜があった。

 それは当然のことで、大乗仏教の指導者たちは、この技術を彼らの信奉する仏教教義とその目的に沿って取り入れた。一般的でないと思われる技術は捨てられ、あるいはごく一部の指導者にだけつたえられ、あるいは変形された。こうして秘密仏教というあたらしい教義と体系が完成した。しかし、多くのすぐれた開発技術は、この仏教教義を完成させるための補助的技術に変容さ

せられてしまった。あるいは形骸だけがとどめられた。これが、秘密仏教の「行法」であった。

 これを究極的に完成したのは、日本密教、すなわち真言宗の開祖空海であった。秘密仏教がインドから中国につたえられ、そのころ中国にわたった空海がそれに接した時点において、秘密仏教はまだ完全にはできあかっていなかった。その混沌たる素材を取捨選択して、これをいま見る

真言宗というかたちにまとめ上げ、整然たる宗教にしたのは空海であった。それはまさに大天才のみがなしとげることのできる偉業であったが、同時に、秘密仏教はあまりにも整然と様式化された日本的なものになってしまった。それまでかなり残っていた密教的な部分はほとんどかげにかくれ、一-法」は、様式化された宗教儀式になってしまった。

 しかし、それは、当時の目本の国情や、文化水準を背景にしたとき、やむを得ないことであったのである。というよりもむしろ当然であったというべきだろう。そうしなければ宗教として存

立することができなかったのである。

 だが、そのために、いまいった通り「法」はその力を失った。宗教的に様式化され、儀式化されてしまった「法」では、真の能力開発は困難である。というよりもそれは絶望に近い しかし、それはそれでいいのだ。真言密教というものが、宗教であって能力関発の技術ではな

く、仏教という信仰のワクのなかで教えを説き礼拝をつづけているだけでよいなら、それはそれでいいだろう。それに、ほとんど儀式化された「法」であっても、天分のある才能が懸命の努力を集中するなら、「法」の成就も不可能ではない。やってやれないことはないのである。けれども、それは何世紀にひとりというような稀有の才能を必要とするのではないのか。そういうすぐれた頭脳によれば、様式化された法のあとをたどって、ついにその源泉に到達し、そのなかに秘められた法の技術を発見し、体得することもできよう。あるいはまた、頭脳ではなく、熱烈な信仰が、そこへ導いていってくれることもあるかも知れぬ。だが、それは、万人に期待できることではない。

 要するに、真言密教成立の当時と全く時代が変ってしまった現在、真言密教が、他の宗教と根本的にちがうその本来の任務をほんとうに果たそうと思うならば、真言密教は大吝く変わらねばならぬ。真言密教はナみやかにその原点に立ちもどり、「法」を技術としてシステム化しなければならぬ。そうして、だれでもが平易にまなべる体系を編成ナることである。

 それは決して「法」を解体し、「法」を壊滅してしまうことではない。むしろ、そうすることによって法が生きるのである。また、それは決して宗教の解体ではない。

 法によって高い知的能力を得たならば、人はおのずから高い道徳意識、倫理観を持つものである。

 

 人が宗教的教えを必要とナるのは、知的能力が低いからである。要するに、愚かだからである。人の道徳意識が低いのは、知能、精神能力が低いからだ。ほんとうに知能が高くなれば、人は、いま人類の持っている程度の宗教意識などけるかに超えたもっと高い倫理観を持つ。オリヴイエ教授のいう「無限に発展した道徳意識の保有」である。

 教え(宗教)による人類の道徳意識の開発は、すでに限界に達してしまっている。

 見よ。

 

 地上にあまねくくりひろげられている人類のこの大愚行を。殺し合い、奪い合い、罵り合い。

 どこに「知恵あるヒト」のおもかげがあるか? 「大愚人類」そのものではないか?

 要するに、バカにいくら結構な教えを説いてもだめなのだということだ。

 もっと忌憚なくいわしてもらうならば、(これは私がいうのではない。みんな密教の神サマが

おっしやるのであります)ちっとましなバカが、しょうのないバカに一心に教えを説いているというのが、いまの宗教のすがたというものではないのか?

 宗教だけではない。科学と技術だってそうではないか。見さかいなくいい気になっていろんなものをつくり出し、あとで公害だ有害物質だと困っている。こういうおろかなことは、もう少し人類の知能が高くなったら、そんなバカなことはたのまれなくともしなくなる。要するに知能が低いからだ。

 政治も、経済、思想も、みんなそうだと、あなたは真実思わないか?

 要するに、すべて、″ヒトの知能が低い″ことに原因があるのである。

 この世界を住みよく、たのしいものにするのには、革命ごっこよりもなによりもまず、ヒトの知能を高めることだ。そう、あなたは思わないか?

 さて、話をもとにもどそう。

 教えの限界とはヒトの知能の限界だ。

 密教はその限界をうち破るのである。

 技術によって超能力をあたえ、いっきょにヒトを改造して、宗教などという低い次元をいっぺんに飛び越し、想像を絶する叡智を持った、高い倫理的生物をつくり出そうというのだ。

 それが、密教だ。

求闘持法《明星》の秘密

 

 私はこのことを念力の護摩の修得に際してさとった。

 先年、私は、念力の護摩法の伝授を受け、悉地成就の修行に入った。けれども、その行法の次

第を、何十ぺん何百。へんくり返しても、念力の火は出なかった。煙さえたちのぼる気配はなかっ

た。私かそのままその法の次第を忠実にくりかえしていたら、永久に念力の火は出なかったであ

ろう。出るはずがないのである。念力の護摩法の次第を、いくらくりかえしたって火は出ない。

そんなことで出るのだったら、今日までに、何百人、何千人の阿闇梨が念力の護摩を焚いていた

だろう。真言密教の念力の護摩法だけでは、ぜったいに火は出ない、それは、密教の技術によっ

て、サマーナ気を克服したとき(274頁参照)、はじめて肉体から火焔を発することができ、念力の

護摩は完成するのである。絶望した私は真言密教をはなれ、身を転じて古代インドの秘密経典に

むかった。

 私はそこでインドの聖典、バガヴァットーギータを続み、そこに念力の護摩の秘法がかたられ

ていることを知った(口絵写真参照)。そこから、ギータと不二の関係にあるヨーガに入った。ヨ

ーガに本当の念力の護摩があることを知った。ヨーガにおける私のいのちがけの修行がはじまっ

た。ヨーガの技術でなければ念力の火は出ないことがわかったからである。真言密教の念力の護摩法次第は、ほんの心おぼえ程度のものに過ぎず、これでは、だれがどうしたって火の出るはずがなかった。いや、この肉体が火となるための「法」としては心おぼえ程度のものですらなく、むしろ、バガヴァツトーギータの聖句のほうが、はるかに示唆に富んでいるといえた。ヨーガの念力の護摩は、ただ単なる観想の羅列ではなく、どの生理器官をどのように統御しどのように動かすという現実的具体的な「技術」があった。この技術によってトレーニングすれば、多少なりと素質のある者だったら、必死の修行によって念力の火を出すことは不可能ではない。真言密教の念力護摩法次第だけでは、大天才といえども不可能にちかい難事である。この秘密を知らずして、古来、いく人の密教修行者が、念力の護摩の次第と秘伝を前に、血と汗の絶望をくりかえしたことであったろう。思えばツミな″次第″である。

 これと全くおなじことが、真言密教につたえる「求聞持聡明法」についてもいうことができる。求闘持とは、古書に、『見聞覚知のことを憶持して長く忘れず、師なくして天地の感応を待つ、これを″求″といい、教なくして真如妙理を覚る。これを″聞″といい、一度覚るとながく忘れない、

これを″持″という』とあるように、求闘持法とは、ヒトの大脳を強化して、博覧強

卸、比類なき記憶力と聡明さをあたえる秘法であるが、これをなん十。へんなん百ぺん行法の次第通りに修行したところで、その結果は、おそらく念力の護摩とたいしてかわらない結果におわるであろう。生命を賭して修法すれば、多少の効果はあろうが、宗祖が体験を以て示したような霊験を得ることはまず難い。なぜならば、真言密教の「虚空蔵菩薩求聞持法」には印信観想による

精神集中の「法」はあるけれども、現実に生理器官である大脳皮質そのものを動かす「技術」を持っていないのである。ヨーガの「聡明法」は、どの器官をどう使ってどのように大脳皮質を動かすかという「技術」がある。また、それだけではない。根本的にちがうものがあるのである。

 ’それは、まったく根本的にちがう。

 拙著「変身の原理」で求闘持聡明法についてかたって以来、私は、十指を越える真言僧侶、阿閉梨がたから、手紙あるいは直接、この法の修行について相談をうけた。そのほとんどは、自分も一度ないし数度にわたって求聞持法を修したが、いっさい効験がみられなかった。修法の行じかた、あるいは心構えに越法のところがあったのであろうかというのであった。また、何度か修してみて、あの行法にそんな神秘的な力がひそんでいようとは思われぬというものがあった。なかにはお気の毒にも健康を害してしまって、再起不能になったと訴えてきた阿閉梨もおられた。

 お気の毒であるが、当然なのである。

 真言密教の阿開梨がたが、いくら求闘持法をくりかえしても、成就できないのは当然なのである。もちろん、絶対に、とはいわない。万人に秀いでる天才、英才であったら、その極に達することができるかも知れぬ。しかしまず、不可能にちかいというべきだろう。

 私か発見した密教の「求闘持法」でなければ、まず不可能にちかいといってよいであろう。こ

の法については章をあらためてくわしく書くが、ここで、求聞持法の秘密の一端を明かそう。まず、最初、真言密教の求聞持法を述べてみる。

『比の法を修するには、東南西三方の晴れたるところを最上とする。東方のみでも悪くはない。

 

道場の東壁に小窓をつくる。これは虚空蔵の似沢である明星の光を道場にさし入れるためである。また、朝日夕月の光を本尊にあてる意もあり、あるいは小窓に絹を張り、黄色の種字の字を書いて、そこから、明星の光をとおして本尊にあてるためでもある』

 とまず場所を制定し、つぎに、さだめられた本尊の印明を百万べん、五十目あるいは百日に読誦するのであるが、日蝕または月蝕の時に結願するよう開白(はじめること)しなければならぬとある。

 けれども、密教の求聞持法では、べつに場所はえらばぬのである。静かな場所でありさえすればよい。また、いつはじめてもよいのである。明星を拝するのも、行のはじめに際して、あるひととき、星と月に対すればよいのである。

 また、これこそが密教のもっとも奥義とするところなのだが、弘法大師空海は、求聞持法の成就の体験を、

 『―阿国大滝の岳にのぼりよじ、土州室戸の崎に勤念ナ。谷響を惜しまず、明星来影す。

 言々』

 と語っている。すなわち、阿波の大滝にのぼり、土佐の室戸岬でこの法の修行にはげんだところ、谷はこだまし、明星があらわれるなど、法にいわれている通り現証があり、法が成就した、

というのであるが、これは、空海のひとつの表現であって、これをそのまま鵜呑みにしてしまうからいけないのである。これはどこまでもひとつの表現なのだ。

 伝にいわく、

 『明星来影す、とは、結願のときに、香に火を置き、明星を拝するに、四方が暗く明星が見えねば悉地就成ではない。暗くても星が現ずれば下品の成就であり、四方が少々晴れて星が現ずれば中品、天に暗なく、ことごとく晴れて星現ずれば成就、四方が晴れても星現ぜざれば悉地成せざるなり』

 とあるが、これがちがうのである。まるっきりちがう。

 こういう口伝や奥伝をたよりにいくら修行しても、気の毒だが、求聞持法は成就しない。

 明星とは現実の明星ではないのである。

 大脳のある部分をある方法で刺激すると、目の前に光が見えるのである。

 その光は、かたちも色も大きさも、いろいろに見えるが、意識を記憶の座に向けて沈静させる

と、つめたい、やや黄色みを帯びた白銀色になって、しずかに目のなかでまたたく。それはちょうど明星そっくりに見えるのである。

 これが明星なのだ!

 268頁をもう一度、読みかえしていただこう。

  ″頭のかかの光明に日を向けるならば″

 とある。これがそれなのである。

 ある特殊なトレーニングにより、この部位(大脳の視床下部のあたり)の刺激が、目のなかに光を浮かばせるのである。目をある角度に向けると、目を開けていても閉じていても、ポッカリと光が浮かんで見える。

 この光が見えるようになると、記憶の座が自由にあやっれるようになるばかりでなく、さまざまな、奇蹟としか思えぬような力がついてくる。

 これが、「求聞持法」の明星の秘密である。大空を百年ながめて空中の明星を見つめていても、ムダだ。明星はわが大脳のなかにあるのだからI。

 このことは、密教五〇〇〇年の歴史に、私がはじめてっかんだ秘密である。私以外にこれを知る者はついになかった。求闘持法の秘密を私はついにつかんだ。私はそれを誇りに思う。

 これをもとにして、私は、私の「求闘持聡明法」を編成した。これは、今までの「法」などというアイマイなものではない。生化学と生理学をもとにした「技術」である。正しい指導のもとに訓練を積めば、必ず、だれでもできるようになる技術である。

 本来ならば、こういうことは私の、「太極秘伝」として、ごくかぎられた者だけにひそかにつたえてゆくべきものなのだろう。だが、私はこれをひろく公開する。なぜならば、私は、世界中の人びとがこの法によって知能を高め、いっさいの愚行-殺し合い、奪い合い、罵り合い、にくみ合いから遠ざかってほしいのである。

 求聞持聡明法は、人の知能を三倍にナる。

 しかし、その半分でもよい。人類の知能が今の水準より平均一・五倍飛躍したら、この世

から、犯罪も戦争もいっさいなくなる。そういうものがあるのは、人間が愚かだからだ。求闘持法によって知能指数が倍加したら、そういうものがいかに愚かで馬鹿々々しいことか、大人が子

供のヶンカが馬鹿々々しくて見ていられないように、いっさい、しなくなる。

 私や、私の周囲のごく一部の者が、この法によっていくら賢くなろうとも、それがなにになろう。世界の大勢にどれはどの影響があろう。よしんば、私か、この法によって、古今無比の大聖者と仰がれるほどの力を持とうとも、世界のどこかで、権力を握っている馬鹿が、核バクダンのボタンをひとつ押したら、それっきりなのである。世界中はふっ飛んでしまう、古今無比の大聖

者もいっしよに!

 まあ、古今無比の大聖者ともなれば、事前にそれくらい察知して、安全な所に待避してしまうであろうが、世界中が壊滅して、助かった者も核の灰に汚染されて半死半生ばかりという世のなかに、自分とごく少数の一族だけが生き残ってなにになろう。ノアの方舟の時とは状況が全くちがうのである。

 このままでゆけば、核戦争がはじまるのはぜったい確実である。私にははっきりそれがわかる。この大愚行だけはやめさせなければならぬ。

 革命よりも、階級闘争よりも、人種闘争よりも、なによりも、いま、人類に必要なのはこれだ。これが根本的に人類を救う道だ、とそう私は思う。ヒトの知能が二倍になったら、いま、人類がかかえているあらゆる問題はすべて解決してしまう。そう、あなたも思わないか?

 私か、この求聞持法を惜しげもなく公開し、ひとりでも多く、一目でも早く、修得してほしいとねがうのは、そのためなのだ。

 さて、はなしが少々よこにそれたが、この大脳の部位のことは、インドのヨーガの指導者も知っており、ヨーガのほうでは、この部位のことを、

 「頭のなかの光座の座」

 とか、

 「梵の座、梵の裂け目」(brahma randhro

 とか、

 「サハスララーチャクラ」

 と名づけ、頭の中の光明がかがやいている部分であると考えている。しかし、これも解釈がちがっている。

 頭のなかに光明がかがやいているのではない。私の発見した求闘持法とおなじ原理である。大脳のある部位を、あるエネルギーで刺激すると、あるひとつの物質が分泌され、それが脳の神経組織を刺激して、目に光を感じさせる。                  『- それが、頭と目の微妙な角度のちがい、刺激の相違で、目のなか、目の前、および、頭のなか、というように、光の浮かぶ場所がちがうのである。

 求聞特法の湯合は、目の前の、やや上方、ニメートルから三メートルくらいのところに浮かんでみえる。目の角度と、瞳孔の絞りかたによっては、はるか遠くの空に小さくかがやくように

(ちょうど明星のように)見えないこともない。もし、人里はなれた山のなかであったら、明けの明星のように見えることもできるだろう。私の経験では、目のななめ上方一メートル内外のところに見えるようにするのが、一番、″上品″のようである。

 目を閉じて、目の奥の上方、つまり、ヨーガでいう”梵の座”のあたりに、光明を感じさせる

技術は、頭の角度と、脳の刺激する揚所が、求聞特法と少しちがう。したがって、これは、求聞持法ではなく、ちがう力を発現する。また別な法である。この法については、またあとで別に章をもうけて説明しよう。

 

(サマーナ気統御の技術》と《護摩法》の合体

 おなじような例がいくっもある。

 たとえば″五相成身観”である。

 これは、真言宗徒がかならずおさめねばならぬ金剛界法という法のなかにあり、密教門でもと

くに重要な観法とされる行法である。

 凡夫がホトヶという超能力者になるまでの過程を五つに分け、修行者は、ひとつひとつその境界を体験してゆくのであるが、これが、いずれも密教の重要な修行課目になっており、あきらか

に密教から出たものであることがわかる。

 しかも、真言密教では、印と観想の二つからなる”観法″であるが、密教においては、観法だ

けではなく、特殊な技術による鍛 練によって生理的器官を動かし、実際に五つの境界に対応す

る力をつける訓練となっている。

 また、真言密教においてもっとも重要とされる金剛界九会マンダラもそうである。金剛界九会

マンダラは、凡夫がホトケになる九つの段階と、ホトケというものの力、ホトケのはたらきを図

像にえがきあらわしたものであるが、要するに、ホトケの説明である。

 もっとも、真言密教は、このマンダラにもとづいて、前記した金剛界法という行法を編成し、

。観法″によってこれを修行者に体得させようとする。これは、一般仏教、顕教が、その修行方

法として、ただ、経典の読誦と、念仏、唱名題目しか持だないのに対し、一段と進歩したすぐれ

た修行方法であるというべきだが、しかし、これも、真言密教が″観法”だけであるのに対し、

密教は、九会マンダラにあらわされた九つの力を実際に体得させる訓練技術を持っている。

 例をあげれば、微細会マンダラがそうである。これは九会マンダラのなかの東南方に位するマ

ンダラで、ホトケの微妙幽玄にして不可思議なる智恵の力とはたらきをあらわすものである。

 密教には、実際にこの力を生ぜしめる訓練がある。

 真言密教では、ただ、。観想″による″観法″しかない。現実にそういう″力″を持たせると

ころの″技術″がない。

 276頁を見ていただこう。

。あきらかに、微細会マンダラは、ヨーガのこの訓練から出ている。ナくなくとも、この訓練に

よって得られる力を背景にしたものであることは間違いない。

 これは、密教の技術で、胸の部分の或る部位に力を集中することによって得られる力である。

 -こうしてみてくると、真言密教がとるべき道は、おのずから明らかであるといわねばなるまい。真言密教の行法は、密教の技法をとり入れることにより、本当の力が生ずるのではないのか?

 そういうと、密教がそんなにすぐれたものであるというなら、密教は真言密教をはなれて、密教独自の道を歩んだらよいではないかという意見が出るかも知れない。その通りである。それでもよいのだ。そういう道もあると私も思う。

 しかし、それにもかかわらず、私か真言密教にある価値を見出すのは、その表現様式である。おもしろいことだと思う。

 様式だけになってしまっている(と私が思う)真言密教の、その様式が、なかなか貴重なのだ。

 私が体得した密教の秘奥の技術を、さて、どのように表現しようかと、その様式を考えてゆくと、結局、真言密教の様式がいちばん便利なのである。たとえば、私の体得創案した「求聞持法」は、ヨーガの技術から発見したもので、真言密教の「求聞持法」とは全然ちがう。そのことは、前の項でおわかりになったことと思う。

 しかし、私の求闘持法を、人に教える場合、真言密教の求闘持法の様式、形式をある程度とり入れて、カリキュラムを組むと、教わるほうもおぼえやすい形式ができる。

 たとえば、真言密教の求聞持法は、九種類の印明から成り立っている。九種類の印明と観想である。しかし、それだけではダメなことは、前の項で述べた通りである。

 私の求闘持法は、生理器官を動かしてゆく。大脳のある部位を刺激ナるために、八ヵ所の、体の器官を動かす。この八ヵ所の器官と、最後の大脳の器官と、合計九ヵ所の力を動かすのに、真言密教の九種類の印明をあてはめて、動かす技術を教えてゆくと、たいへん便利なのである。教わるほうもおぼえやすい。

 念力の護摩もそうである。

 念力の火を実際に出すのは密教の技法によるよりほかない。真言密教の念力の護摩法ではぜったいに出ない。

 けれども、この密教の念力の技法、サマーナの気を日させさせて、大のエネルギーを体内から放射させる技術を、どういう表現形式をとって、「法」として展開させたらよいか、というと、真言密教の護摩法という形式を以て構成するのが最もよいのである。これ以上、よい表現形式はないし、また、サマーナの気を節日させる精神集中にもっとも適している。やりよいのだ。力の発現が容易になる。後進の指導にあたって、念力発生のトレーニングにもすぐれた効果をあらわす。

 そういうわけで、私は、ヨーガの″サマーナ気統御の技術″と、真言密教の″護摩法″とを合わせて、独自の「念力護摩法」を編成したのである。

 この方式を適用してゆくと、真言密教の行法のなかにもすぐれた法がいくっもあるし、ヨーガの秘奥の技術もつぎっぎと現代に生かされてくる。両 々あいまって、ここにこそ、超・ヒト、ホモーエクセレンス誕生の技術かおる、と私は信ずるのだ。宗祖、弘法大師空海が、いま、生きておられたら、やはり必ずこうされる、そう信じて、私はひとりこの道をゆくのである。だれがなんといおうとも。

 

 

 

 

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密教・超能力の秘密

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ラスト オブ アス リマスターおすすめゲーム

ラスト オブ アス リマスタード(The Last of Us Remastered)

The Last of Us 日本プレミア版トレーラー

本作は「アンチャーテッド」シリーズのノーティードッグが開発を手掛けた3人称視点(TPS)のアクション。謎の寄生菌のパンデミック により荒廃した世界が舞台。
主人公のジョエルとエリーを待ち受けるのは凶暴な感染者や、略奪者たちとの戦いだ。

ラスト オブ アス リマスタード(The Last of Us Remastered)の画像

ゲームは基本的にジョエルを操作しながら進めていく。道中で入手できるショットガンや拳銃などの他、火炎瓶や爆弾などのアイテムを使って戦況を有利に進めていこう。
また、拾った素材を組み合わせることで治療キットなどを作ることができるぞ。

おすすめポイント

  • 様々な映画やドラマから影響を受けた作品だけあり、ストーリーがとにかく面白いです。冒頭10分でのめりこめるはず。
  • 壁の向こうの敵の位置が把握できる“聞き耳”システムなど、パワーで突き進むというより隠れながら攻略していくスタイルが面白い。潜入ミッションが好きな方にオススメ

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変身の原理 桐山靖雄著The principle of transformation by Syuyu Kiriyama

桐山靖雄

『変身の原理』と密教ブーム
 この『変身の原理』が出たあと、密教ブームが起こった。桐山は密教ブームに乗ったと いまになっていう人がいるが、事実はそうではなくて、この本が出る以前は、一般大衆は 密教という言葉さえ知らなかったくらいであった。この本が出てはじめて密教という言葉を知った人が多かった。と同時に、超能力という言葉も一般に使われるようになった。
 「この頃、密教、密教としきりに聞くが、密教って、真言宗のことだってね」と言った真言宗のお坊さんもあったとか、とにかくこの本によって、密教ブームが起こった。
 コリンーウィルソンの『オカルト』(新潮社)を翻訳された中村保男さんは、同書の「あ とがき」で、この『オカルト』と、わたくしの『変身の原理』および『密教―超能力の秘
密』とが、符節を合するように、同時期に刊行され、英語と日本語という本のちがいはあ書かれたものはなかった。たとえあっても、ほとんど人目につかなかった。洋の東西で、同時期にそういった内容のものが、発表されたということ
はまことに興味深い。あながち偶然とはいえないような気がする。

 と同時に、これはわたくしにとって、単なる本ではなく、わたくしの世間に対する一つの宣言であったのである。
 すなわち、わたくしは、この本の中で、密教というのはマンーパワー開発の最高の方法 であり、超能力を人に与える方法をもっているのだ、といっているだけではなく、わたくし自身がすでにそれを身につけているということをはっきりと断言しているわけである。
 それは何かというと、わたくしは、この本の中で、密教の修行によって五つの超人的能力をもつことができると断言している。
 その五つの超人的能力とは、
   一 物事の明確な認識と予知および正確な選択力
   二 すぐれた高度の創造力
   三 自分を変え、他人を動かし、自分の思うままに環境をつくり変える    力
   四 強靭な体力と卓抜な精神力
   五 すさまじい爆発的な念力による願望達成力
     である。
 そして、密教の指導者としてこの本を書いた著者は、その五つの力を身につけているの だと断言しているのである。断言したからには、それを実証してみせる義務があろう。それが実証できないのなら、断言すべきではないのである。だから、断言したということは、実証してみせる自信があるからで、それはもはや単なる断言ではなく、宣言というべきも
のであろう。筆を執ったその時点において、どういうかたちでそれを実証するかというはっきりしたものはなかったが、それは、心の奥深く、徐々に動きはじめていたのである。
何か、心の奥深く、鳴っているものがあったのである。それが、この本を書かせたのであ。

Tatsuo Kiriyama

The principle of transformation and the esoteric boom
After this “transformation principle” came out, a esoteric boom occurred. Some people say that Kiriyama has been on the esoteric boom, but the fact is not so, and before the book came out, the general public didn’t even know the word esoteric. Many people knew the word esoteric for the first time after this book came out. At the same time, the term superpower was also commonly used.
“There was a priest of the Shingon sect that said,“ At this time, it was esoteric and esoteric, but it was about Shingon Buddhism. ”Anyway, this book caused a esoteric boom.
Mr. Yasuo Nakamura, who translated Korin-Wilson’s “Occult” (Shinchosha), wrote “Occult”, “My Principles of Transformation” and “Secret of Esoteric Powers”
The book “Mitsu” was published at the same time as the punctuation mark, and the difference between English and Japanese was never written. Even if there was, it was hardly noticeable. That the contents were announced at the same time in the east and west of the ocean
Very interesting. I feel like it’s not a coincidence.

At the same time, this was not just a book for me, but a declaration for my world.
In other words, in this book, I am not saying that esotericism is the best way to develop man-power and that it has a way to give people super power. It is clearly asserting that it is attached to.
As for what it is, in my book, I declare that I can have five superhuman abilities by esoteric practice.
The five superhuman abilities are

Clear recognition and prediction of things and accurate selection
Two excellent creativity
Change yourself, move others, and create the environment as you wish
Four strong physical strength and outstanding mental power
5 Achieving desires with tremendous explosive power
It is.
And the author who wrote this book as a esoteric leader asserts that he has the five powers. After affirming, there will be an obligation to prove it. If it cannot be proven, it should not be asserted. So, because I am confident that I have asserted, it is no longer just an assertion, but a declaration
It will be. At the time of writing, there was no clear way of demonstrating it, but it was beginning to move deeply in the heart.
There was something deeply screaming in my heart. That made me write this book

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出版社
平河出版社
発売日
2002/12/1
言語
日本語
梱包サイズ
19 x 13.8 x 3.8 cm
発送重量
880 g
本の長さ
560
ISBN-10
4892033200
ISBN-13
978-4892033209

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変身の原理―密教の神秘

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Seiyu Kiriyama    Relinquishdo reed

 

 

Geniuses who created “the logic of destruction”

In the modern society, under a single view of the world that should be called “superstition”, it is possible to die of destruction and catastrophe.

I, I ” ‘m struggling with tremendous prewar energy

What is the wrong view of the world?

It is a way of thinking that “the world always advances to a worthy state by knowledge and technology”. .

This is no longer a “thought” for the people of today’s developed countries.

“Because I am”, “I have become even hope L”.

This worldview is based on the idea that machines and technology are all-purpose, which in turn

It is a basic concept to configure. Let’s look at the life of a modern person that has come out of it.

Play is to play around the machine-electronic game created by electronic technology, entertainment is

It is a television and electronic music. The job is to adjust the monitor and the fine adjustment machine, and even the mouth

It is becoming ideal to have them act as substitutes for the boat. The daily activities are defined by the watch, the communication means is the telephone, and the housework is the cooker, the washing machine and other operations by electronic technology. , Calculator, co

With the help of computer and television, the word processor has made it unnecessary to write letters.

Travel is all machine-embraced life, as cars and jets compete for speed.

It is.

The basic idea is that as machines and technology progress, our lives are improved, improved and

It is said to flourish. And it will rise endlessly by improving human knowledge and technology

It is considered to be one that will continue.

The author of “The Law of Entropy”, J. Rifkin, created and decided on this view of the world:

As a human thinker, it is written as follows.

“Each view of the world has its builder. Three people have built a mechanical worldview skin

Between, namely Francis Bacon, René Des Cartes and Isaac Newton

Ru. Moreover, we, about 40 years after that, are still based on their thinking.

I live ”

Until then, it was the fugitive that ruled out the principles for mechanical systems, excluding the view of the ancient Greek world.

In Lansis Bacon, he says, “Human life is not always full of new discoveries and potentials.

It must not be. Now the true goal of learning is nothing more than the standardization of the method. ”

The new method is “scientific methodology”. It is a bud of science universalism.

Subsequently, the mathematician René Des Cartes extended his universality theory of science and science by mathematical methodology.

The Then, Isa ′ ′ Kunewton constructed the world of physical mechanical systems by mathematical methods.

The Here, the theory of machine and science has become complete and inexorable.

It is the philosopher and political scientist of the United Kingdom who introduced this view of the mechanical world into sociology and economics.

John Locke (1632) and Adam Smith, a British economist

It was Su (one hundred seventy-one).

John Locke said, “It is the self-interest as L that personal wealth is social rich

Pursuing pure pursuit is the one and only way to form a better nation. People are,

Naturally, there is no problem as long as material greed is born strong or if we only increase the wealth of society

If so, society will be harmonized and improved, and there will be a society where people do not have to fight each other

He asserts that “Because nature is so blessed enough that it has enough power to be developed

I presume that it is from L leaving. Therefore,

It was about giving the people the freedom to produce wealth by the power of nature (science and technology).

It was

He tried to establish an economic theory in such a way as to reflect the general concept of the Newton system.

The Smith is the same as the astronomical object that moves according to the law of nature in the “National Wealth”, and the economy is

They also indicate similar behavior, and thus the most efficient way for economic organizations is to

It is arbitrariness, leaving the phenomenon as it is, so as not to disturb human behavior.

I suppose. Ro

I believed that I was satisfied. And, as it is natural, criticize personal desires or personal interests

Creating social barriers that impedes pursuit is considered to cause harm to society.

In other words, the desire to satisfy oneself as it is will eventually bring about the benefits of society.

Should not discourage efficient activities resulting from their desires, but rather the best economy

In principle, he argued that individuals should act in a selfish manner in order to overcome shortages

It is

“Everyone always finds the best possible employment for any capital that he can control

We are working hard to This is the very benefit of the individual, the benefit of the society to which the individual belongs

There is no. However, it is natural or rather inevitable to pursue the interests of oneself.

It will lead to the creation of the most profitable employment for society. “(Adam Smith” The Wealth of Nations “)

This view of the world represented by Adam Smith is still accepted as it is, and it

In the first place, it consists of two bases.

As John Locke said, “Nature is rich enough and we have to make sure that we have enough capacity to be developed.

“I think that I have left”. No, I believe that modern people have left jJ

Isn’t it? Because I believe so, applying the scientific principles of mechanics to machines and technology

As long as it is developed, this world is considered to be infinitely improved and improved, and to thrive. That

The driving force is, as Roet and Smith preached, the human material selfishness of humanity

It is the idea that it is developed to the limit.

Pursuing and realizing more material richness 2 is progress, and it is human ideal world

-. Thought is the world, science and technology can realize it completely. I am convinced.

It is these two.

You too may not have the same idea as this idea, or something close to it

However, this idea was completely “superstition” and “aspiration.”

This world view, which should bring humanity to the world of progress and prosperity, will actually push humanity to destruction and catastrophe

It was “thought of hell”.

It was “the law of entropy” that made it clear.

Entropy law

“The law of entropy” is the “law of thermodynamics”, but in this law of thermodynamics, “the first law”

There are “law” and “second law”.

The first law states that “the sum of matter and pre-energy in the universe is constant, and it is never created or disappears.

There is no such thing as In addition, the substance changes only in its form, the essence does not change. ”

That is the famous “Senseless Conservation Law”.

And the second law of thermodynamics, that is, the “law of entropy”, is expressed as

Be done. ‘

“Mass and energy change in one direction only, ie from usable to unusable

To or from available to unavailable or otherwise ordered

Change to a disordered thing.

About this “law of entropy”, Albert-Einsteich “entropy,

It is the first law for all sciences. Of all scientific laws, absolute law

It is considered as this, but it is this “law of entropy”.

Entropy is a type of measurement by which available pre-energy can be used

It can measure the degree of conversion to the impossible form. Therefore, increase entropy

The big means an increase in useless prewar energy. Two critical points indicated by this law

There is a One is that pre-engineering that has been used twice will no longer be usable. ”

One is that if an orderly thing is created somewhere on earth or in the universe,

That’s what is said to be a big disorder.

In the light of this law of entropy, the view of the world so far is completely superstitious

It became clear that it was an error.

First of all, natural resources in the world are limited, and science and technology

If you continue to use it, there are no resources to use on this planet

The

Any science and technology, using energy over and over again without exhausting energy

It is impossible to have a law. For example, burn coal. Although energy can be obtained, sulfur dioxide

Yellow and other gases are generated and diffuse into the air. Energy is lost in the process

However, once burned coal can not be burned again, and it is possible to gain much the same amount of work.

I can not do such a thing.

J. Lifkin explains this in “The Law of Entropy” as follows.

Above: “We have been able to develop just about the right technology for almost everything we use

For example, I think that it is possible to completely reproduce and use it first. But this is a mistake. Future-3

For this world to survive economically, promote cycling more efficiently.

It is essential to move forward and, needless to say, 100% reprocessing

It is also a fact that there is no way to do it.

For example, if you look at most of the used metals, as if you would like to make more money if you think about the soft drink

The average recycling efficiency is currently at 308 I cent. Further recycling

Energy, such as collection, transport, and processing of used materials.

The result is an increase in the overall entropy of the environment. Therefore, to recycle something new

Cost of energy that can be used by

Well,

“Even once used, it is possible to recycle, but it changes and changes every time

It must be prepared for “falling down” to go

Energy and substances are consumed, so in the end, there is nothing as a whole.

“For example, let’s assume that you take metal from the ground and then make some tools.

While this tool is present, metal molecules fly away constantly due to friction, fatigue, scratches, etc.

In addition, these liberated metal molecules never disappear, and eventually they dance in the soil.

I will return.

However, even if it returns to the soil, it will be scattered in the soil this time, so the original gold

It is no longer capable of doing useful work like lumps of metal ore. . Also, ‘y

A method to recycle all metal molecules scattered in the soil will be discovered in the future

It may also be said that in this whole process it is also

Always with increasing entropy in another dimension

However, the modern society blindly believes that science and technology can create unlimited tools for their convenience and prosperity.

NY Agon,s kiriyama S

It is so nice to be back in New York again. It’s been exactly one year since I was last here.

This is the second year in a row that I have been able to achieve my long-standing desire to perform a goma fire ceremony in New York City. Today’s service would not have been possible without the close cooperation of the management and staff of the Riverside Church and the efforts of many people who have been working behind the scenes. I would like to offer my sincere gratitude to all those people, and to you, who are participating by your attendance. Thank you very much.

Before I proceed, let me first take this opportunity to express my profound sorrow and sympathy on the recent, tragic terrorist attacks against the United States.

I am deeply impressed by the determination and heroic courage that the American people, led by President Bush, have shown in the face of this sad and painful crisis. In particular I’d like to pay my sincere respects to the fire fighters, policemen, and emergency workers who have been doing such a wonderful job.

I watched the coverage of the memorial service held at Yankee Stadium on September 23. This, too, was truly soul wrenching.

Mayor Giuliani made a speech during the service. I’m sure you all remember his words, but they are worth repeating here. Mayor Giuliani declared: “To those who say our city will never be the same, I say, you are right. It will be better.”

These words, more than anything, show that

 

 

2222

 

Water ceaselessly changes form. So does the human mind. It changes form from moment to moment, instant by instant. As I said in the video: “People experience grief, sadness, and joy. However, this does not mean that people have fixed feelings of grief, sadness, and joy in their minds.”

That’s right. When we look at water, we see that it constantly changes form in response to conditions. Now look at the ever-changing mind with the same eye that views the water. Accept the functioning of the mind for what it is. Don’t get caught up in the constant transformations. Cut the attachment between the observer and what is observed and free your mind from bondage. Entrust to the flow and watch the arising and extinguishing of all phenomena as though you were watching a passing stream.

I imagine that right now many of you are still deep in sorrow, having lost relatives, friends, colleagues, and fellow citizens to this demonic

Water ceaselessly changes form. So does the human mind. It changes form from moment to moment, instant by instant. As I said in the video: “People experience grief, sadness, and joy. However, this does not mean that people have fixed feelings of grief, sadness, and joy in their minds.”

That’s right. When we look at water, we see that it constantly changes form in response to conditions. Now look at the ever-changing mind with the same eye that views the water. Accept the functioning of the mind for what it is. Don’t get caught up in the constant transformations. Cut the attachment between the observer and what is observed and free your mind from bondage. Entrust to the flow and watch the arising and extinguishing of all phenomena as though you were watching a passing stream.

I imagine that right now many of you are still deep in sorrow, having lost relatives, friends, colleagues, and fellow citizens to this demonic

 

梵字   1-1

y∧
梵字仏

 迷いを断ち、真理を体得する修行の魅力
 モノ偏重の文明が生んださまざ主な社会のひずみのなかで、人間としてのぱんとうの生き方を
求めようとすれば、自己中心的な意識を捨て、森羅万象を支配する大自然の理法への順応を説く
仏教の教えが見直されるのは、ごく自然の’』とと思われます。
 仏教は、大自然の法則をしっかりと見極め、その法則にしたがうヴ]とf」そ、人間のぱんとうの
生き方であると教えています。では、どうしたら、この理法を体得できるのでしょうか。仏教は、
そのための実践的な修行の方法を詳細に説いております。
 わたくしたちの身近なとf』ろで、さまざ主な形でこの修行が行なわれています。たとえば、写
経、写仏、坐禅、瞑想などは、そのなかでも最も一般的なものといえ主しょう。このぱかにも念
仏、唱題、読経、水行、滝行など、実にさまざまな修行があります。
 これらの修行は、もちろん、お釈迦さまがさとられた「真理」に  歩でも近づきたいとの願い
から行なわれてきました。自分を見失いがちな現代人によって、ゞ」の仏教の修行が、すぐれた精
神修養法としても注目され、ひろく一般に普及しているのは、たいへん喜ばしいf]とです。
 脚光をあびる梵字仏書写修行
 ところで、近年、すぐれた実践行の一つとして、脚光を浴びるようになったのが、梵字仏の書
写です。梵字は、世界でもっとも美しい文字といわれ、仏教経典の原典の記述に使用され、その
聖典、聖句を伝えた神聖な文字とされています。その梵字の種子は、一字で諸仏諸尊をあらわす
象徴とされ、その一宇、二子には深い哲学的な意義がこめられているところから、古来、信仰の
対象となってきました。それは種子の中に、仏さまのお姿を示す「形相」、仏さまの「さとり」、
それに「三昧耶」といわれる仏さまの本誓(仏が衆生を救済しようとする誓い)など、一尊のも
つすべてが包蔵されているからなのです。
 つまり、梵字の種子は、無量無辺の功徳が包蔵されている真に霊験あらたかな仏であるという
ヴ]とができます。種子は、ヴ」れを拝するだけでも大きな功徳があるといわれているのは、そのた
めです。わたくしたちは、この神聖な梵字仏を書写するI-―すなわち、その種子によってあらわ
されるご本尊さまを書写造顕するIのですから、さらに大きな功徳が得られるといえましょう。
真の幸福をよびこむ修行
梵字仏書写は、たいへん次元の高い修行法であり、霊格の高い仏さまをおつくりす

ることになります。これから始められる読者のみなさんは、このことをよくご理解いただき、筆
を持つ指先に精神を集中させ、真心を’』めて、一心に書写を繰り返されることが大切です。やが
て、心が統一され、おのずと仏さまと一体の境地にはいることができるでしょう。
 梵字仏の書写造顕は、ときにいっさいの災いを消滅させ、病苦を除き、迷いを断じて、道をひ
らき、わたくしたちをさとりへと導いてくださるといわれています。この浄行によって、あなた
は、心の中の浄菩提心を目ざめさせ、ぼんとうの自分の姿を見つめ、人間としての真の生き方を
見いだすことができるでしょう。
 このことは、梵字の仏さまに手をとっていただき、仏と一体となり、仏のご加護がいただける
ということです。一人でも多くのかたが、この梵字仏書写をお始めになられることをおすすめ致
します。

人はどんな因縁を持つか 

人はどんな因縁を持つか

 これから、人の持つ因縁について解説するが、それでは、そういう因縁というものが、

どうして人間にあるのか、ここでは、あるからある、というよりほかない。強いて聞かれ

るならば、それならあなたはどうしてそういう顔をしているのであるかと聞かれた場合、

あなたは何と答えるか? こういう顔をして生れてきたのだから、こういう顔をしている

のである、とでも答えるはかないではないか。原因はともあれ、人間は、それぞれ様々な

因縁を持って生れて来、様々な因縁を持って生きているのである。その因縁という現象を

分析、解説してみよう。理屈は抜きにして、一読するならば、必ず、思いあたることがあ

ろう。卵が先に生じたのか、鶏が先に生じたのか、それを知らなくても、卵を食べ、鶏肉

を賞味するにはこと欠かぬのである。詳しくはあとの方で説明する。ここでは、まず、人

間が誰でも持っている「因縁」の種類についてのべよう。

      かうんすいたい

0  家運衰退の因縁

 この因縁は、家運、つまり家の運気が次第におとろえてきている家系に生まれている人

が持つ因縁である。

 こういう人は、父、あるいは祖父の代までは、かなりの生活をした家に生れている人が

多い。祖父か父の代あたりから、次第に家運が傾いてきている。そうして、自分の代にな

ってからぱ、なお一層はっきりと運が悪くなっている。相当の力量、才能、手腕があるの

だが、それを発揮する場を持つことが出来ない。そういうチャンスを持つことが出来ない。

そうして、自分よりも劣った者が追い越してゆくのを、みすみす歯ぎしりしながら見送る

ことになる。

 たまにチャンスがめぐって来そうになると、人の妨害、邪魔に遭ったり、或いは自分の

思わぬミスや病気などで、せっかくのチャンスを失ってしまう。要するに、一言でいうと

運が悪いのである。実力がありながら、妙にめぐり合わせが悪く、ウダツがあがらない。

年をとるほど運気がおとろえ、生活が悪くなっていく。

 

の因縁から出てくるのが、次に掲げる

     ちゅうと ざせつ

@   中途挫折の因縁

 という因縁である。

 この因縁を持つ人は、何をやっても、一応、七、八分通りまでは順調に進むが、あとも

うI、二分というところで必ずダメになる。決して実らないのである。この因縁を、一

名、「虚花の命」というのは、「七重八重、花は咲けども山吹の、実のひとつだになきぞ悲

しき」という古歌の山吹の花と同様、花咲けども実らず、すべてムダ花であるというとこ

ろからきているのである。よそ目には華やかに見えて、内実は空しいのである。苦労した

あげく、さいごの収穫はごっそりと人に持ってゆかれてしまう。

 この因縁を持つ人は、わりあい運気(生命力)の強い人が多く、中途で挫折しては、ま

た立ち上って仕事をし、また七、八分通りで挫折して、そのままになるかと思うとまた立

ち上って、また挫折する、というように、七転八起の起伏のはげしい人生を送る人が多い。

そうして、結局は、挫折したままで終るのである。

 大体、因縁のあらわれ方には二通りあるのであって、その囚縁が、そのままその人の恍

格にあらわれている場合と、性格には全然あらわれない場合とがある。

 この中途挫折の因縁の場合も、この因縁がそのまま性格にあらわれて、非常に気の弱い

意志薄弱の型と、逆に、非常に気のつよい意志強固の型がある。

 意志薄弱のタイプは、何をやってもすぐにあきてしまって、ながつづきしない。気うつ

りがぱげしい。学業、職業、すべてがそうで、転々とする。文字通りの中途挫折、薄志弱

行の型である。

 もう一つのほうは、これと全く反対で、性格もつよく、意志も強固で、努力家でもある。

然るに、かえってその強さが人と相容れず、上の者と衝突したり、同僚と円満に協調出来

なかったりして、失敗し、挫折する。あるいは、ここ一番という大事なところで、きまっ

てつまらぬミスをしたり、人の誤解をうけたり、妨害をうけたりする。また、病気や怪我

などで手違いが生ずる、というように、必ずなにかしら障害が発生して、チャンスをつぶ

すのである。

 先日、わたくしを訪ねて来た人に、そういう人がめった。

 四十七、八歳の会社員で、立派な人物であったが、この人に、この因縁があったのであ

 

る。聞いてみると、今までに八回も勤め先を変えているという。意志強固の努力家型だが、

と思って聞いてみると、この人は、一流の財閥会社に勤めているのだが、系列の子会社に

出向させられると、その会社は、きまって、他に合併したり、業績不振で閉鎖させられて

しまうのである。本社にもどると、同期の社員で本社に居たままの者はかなり上の方に進

んでおり、処遇に困るので、また傍系の会社に出向重役として出される。するとまた、そ

の会社がおかしくなる、というわけで、今までがその繰り返しだったというのだ。

 念のためにいうが、それは、この人の経営の腕が悪いために、この人が行った会社がみ

んなダメになるというのではないのである(手腕という点からいえば、むしろ人並み以上

の手腕を持っているのである)。この人が行っても行かなくても、その会社はダメになるの

である。そういう会社に、この人は行かねばならぬような廻り合わせになってしまうのだ。

今度の会社もおかしくなってきているので、相談に来たのです、というのだが、典型的な

中途挫折の因縁のあらわれかたであった。

 薄志弱行タイプの場合は、すぐにあきたり、気移りしたりして白分から会社を転々とす

るが、意志強固タイプの場合は、自分でぱ一心に努力をして会社を変わるつもりはさらさ

らないのだが、他動的に転々と変わらざるを得ないようになってしまうのである。その人

のか字心、思劣、心構えなどに関係なく、結果は結尚おなじことになが、

因縁というものの、こわいところである。精神一到何小か成さざ‘ら人や、と気胆劣てみた

ところで、この因縁を持っていては、所詮、ダメなのだ。外的条件が許さないのである。

つねに転々として挫折する。

 昔から、よく、「人間には誰でも一生に三度はチャンスがある」といわれているが、運のないでも三度はチャンスがあるかわり、運のある者でも、三度以上そう何回もあるもの

ではない。人生ここ一番というチャンスを二、三度この因縁でつぶされてしまったら、も

うその人間は一生芽が出ないものと思わねばなるまい。そうして、この因縁のこわいとこ

ろは、この因縁は必ずその子に遺伝し、その場合、きまって親よりその子のほうが一段と

因縁の度を深めて悪くなってゆくことにあるのだ。

 この中途挫折の因縁が、そのようにして一段と強くなった場合、

 

 

運気不定・浮沈の因縁

という因縁になる。

 これは、運気に根が生じないので、そのため、浮沈変転してとどまらないのである。

 いわば、根無し草の人生である。居住、職業が定まらず、転々とする。一時的に幸運を

得ることがあっても、永続しない。一生、ホームレスか、それに近い境界となる。

 女性の場合、ちゃんとした結婚生活をつづけることが出来ない。再婚、三婚し、しかし

いくら結婚を繰り返しても、決して安定した夫婦生活を持つことは出来ない。

 「色情の因縁」のある場合は、不倫の関係に陥ったり、あるいは売春をする悲惨な因縁で

ある。

 

o  肉親血縁相剋の因縁

 これも、根本は、家運衰退の因縁から出てきているものである。

 この因縁は、肉親の者同士、血縁の者同士が、たがいに運気生命力を損ねあい、傷つけ

あって分散してゆくのである。

 毛利元就の「三本の矢」の教訓を逆にいって、おたがいに助けあい、協力しあってゆく

べき肉親血縁の者が、離散し、孤立して、次第に没落してゆく。

 まさに、家運衰退のあらわれである。

この因縁があると、同居している親子、兄弟など、血縁の噺が、年中不和で詐が絶えな

い。これは、血縁の者同士でお互いの運気(生命力)を損ねあい、傷つけあっているので、

無意識のうちに反発しあって争うのである。この場合、運気を傷つけあうといっても、必

ずしも表面立って争いをするとは限らない。ただ同じ屋根の下に住んでいるというだけで、

相手の運気(生命力)を損ねるのである。それはちょうど、何か目に見えない光線のよう

なものを放射しあって、相手の生命力を傷つけるように思われる。人間の生命というもの

は、自分を守るという自衛本能を持っているから、その本能がはたらいて、無意識のうち

に生命力を結集して相手に反発する。その結果として、相手の何でもないような動作や一

言一句が非常に気にさわる(神経が立っているので)。そこで静が始まるのである。肉親同

士で異常に仲が悪いのぱこのためである。それに加えて財産などの利害関係がからむと、

非常に深刻な争いに進展してゆく。

 この因縁のある家庭で、もし、同居の肉親同士が不和でなければ、家族の中に誰か一人、年中病気で苦しむ者か、極端に不運で運の開かぬ不遇の者が必ず出る。

 相当の才能、手腕がありながら、常にチャンスを逸したり、チャンスに恵まれない不遇

の人、あるいは長年病弱の人は、前記の「中途挫折の因縁」か、または、この「肉親血縁

相剋の因縁」によって運気(生命力)を剋害されているのではないかを疑ってみるべきで

ある。どちらかの因縁があったら、それを断ち切らぬ限り、いくら努力しても一生空転す

るばかりなのだ。

 この因縁を持つ人、(あるいはこの因縁のある家系)には、必ず、といっていいほど、霊

的な障害がある。つまり、三代か四代前に、その家(またぱ人)を強く恨んで亡くなった

怨念のホトヶがいるのである。

 また、横変死した人の霊障を受けている場食がほとんどである。

 前に述べた「家運衰退の因縁」、「中途挫折の因縁」、「運気不定・浮沈の因縁」は、いず

れも霊障のホトヶより生じていることが多い。

 この霊障を解かぬかぎり、この因縁は、何代でもつづく。

 成仏法によって、霊障のホトヶを解脱成仏させる以外に方法がないのである。

随眠という名の無意識層 

随眠という名の無意識層

第三章

欲求不満と危惧に対してはげしい怒りを発する心である。

 瞑は、わが心に背く事あれば(それが)善事にても必ず怒る心なり。(唯識大意)

 三、無明上凝ともいう。

 無智のこと。愚迷。もろもろの道理に迷う愚癈の心作用。ものの道理のわからぬこと。われわれの

存在の根底にある根本的な無智。すべての煩悩の生ずる根源とされる。

 境を照らす明なしというところから無明と名づけ、事物の道理を決断する智なしというところから

無智と名づけ、事物の道理を彰了する顕なしというところから無顕とも名づける。

 三、慢

 自分に傲って他を軽蔑する心。

 慢というは、わが身を侍んで人を役り、少しも謙下(へりくだる)なき心なり。(唯識大意)

 なお、慢には、七慢・八慢・九慢などの分類がある。つぎに七慢をあげておく。

 ’七慢

 1 慢=自分より劣った者に対してすぐれていると自負し、同等な者には同等であると高ぶる。

 2 過慢=同等の者に対してはすぐれていると慢じ、すぐれた者には同等であると慢ずる。

 3 慢過慢=自分よりすぐれた者に対し、逆に自分がすぐれているとする。

 4 我慢=自分の身心を永遠不変の我であるとたのむ。

 5 増上慢=さとりを得ないのに得たとする。学問・知識などその奥に達していないのに達したと

随眠という名の無意識層

第三章

欲求不満と危惧に対してはげしい怒りを発する心である。

 瞑は、わが心に背く事あれば(それが)善事にても必ず怒る心なり。(唯識大意)

 三、無明上凝ともいう。

 無智のこと。愚迷。もろもろの道理に迷う愚癈の心作用。ものの道理のわからぬこと。われわれの

存在の根底にある根本的な無智。すべての煩悩の生ずる根源とされる。

 境を照らす明なしというところから無明と名づけ、事物の道理を決断する智なしというところから

無智と名づけ、事物の道理を彰了する顕なしというところから無顕とも名づける。

 三、慢

 自分に傲って他を軽蔑する心。

 慢というは、わが身を侍んで人を役り、少しも謙下(へりくだる)なき心なり。(唯識大意)

 なお、慢には、七慢・八慢・九慢などの分類がある。つぎに七慢をあげておく。

 ’七慢

 1 慢=自分より劣った者に対してすぐれていると自負し、同等な者には同等であると高ぶる。

 2 過慢=同等の者に対してはすぐれていると慢じ、すぐれた者には同等であると慢ずる。

 3 慢過慢=自分よりすぐれた者に対し、逆に自分がすぐれているとする。

 4 我慢=自分の身心を永遠不変の我であるとたのむ。

 5 増上慢=さとりを得ないのに得たとする。学問・知識などその奥に達していないのに達したと

幻さて、いま、根本誌眠(根本煩悩)について解説した。

 日常生活の上に、日夜たえまなく生起するわれわれのこころの動きについて、じつに詳細かつ精緻に

観察していることにおどろきを感じるのは、わたくしだけではなく、おそらくあなたも同感であろう。

 しかし、古代仏教における人間のこころの観察分析は、この程度のものではないのである。

 根本煩悩に附随してつぎつぎと起きるこころを「随煩悩」という名でとらえて、さらに精密に論ず

るのである。

 さきで、「煩悩の十事L(十の性質)が説かれている。すなわち、一、根本を堅くすること。二、相

続を立すること。三、自田を治めること。四、等流を引くこと。五、自具を摂すること。六、識流を

導くこと。すべて、(根本)煩悩がひとたび目ざめて動きはじめると、つぎつぎといくつかの煩悩が連

鎖反応を起こす性質のあることを示している。この連鎖的に起動する煩悩を「随煩悩Lといい、論の

 

 

 

  随 煩 悩

 

第四章、随煩悩でこう説き明かす。

   『随眠は、既に説きつ。随煩悩は云何。

   頌にいわく、

    随煩悩は、此の余の、染の心所の行羅なり。                       

   論じていわく、この諸の煩悩を、亦た随煩悩と名く。皆、心に随って、悩乱の事を為すを以ての故なり。

 復た、此の根本煩悩の外に、余の

ヽ諸の根本煩悩に異なる染汗の心所の、行蔭に摂するものあ タ

  り。根本煩悩に随って起るが故に、亦随煩悩と名け、煩悩とは名けず。根本に非ざるが故なり。』

 その随煩悩をあげてみよう。

 ただし、随煩悩の種類のあげかたはいくつかあって、一概にはさだめがたい。ここでは、倶舎の「五

位七十五法Lによるものと、後世の唯識大乗によるものとの二つをあげて、解説したい。

 倶舎では十九種類である。

 大煩悩地法として、

 放逸・服怠・不信・悟沈・棹挙の五、

 大不善地法として、

 むざん む考ヽ                         ’

 無噺・無情の二、

 小煩悩地法として、

 ふん ぷく けん しっ のう がい こん てん おう きよう

 忿・覆・樫・嫉・悩・害・恨・諮・匝・僑の十、

 不定地法として、

 睡眠・悪作の二、

以上である。

 唯識においては、

随眠という名の無意識層

第三章

 忿・恨・悩・覆・脱・諮・僑・害・嫉・樫の十を「小随惑」とよび、

 無晰・無愧の二を「中随惑L、

 不信・爾怠・放逸・悟沈・棹挙・失念・不正知・散乱の八をI「大随惑」とよび、この三種二十の惑

を、随煩悩と名づけるのである。

 わたくしは、倶舎の不定地法による睡眠と悪作を除いて、唯識の失念・不正知・散乱を入れて、

「二十随煩悩Lとする。なぜかというと、不定地法は、かならずしも煩悩とはいわれないからである。

睡眠は善・不善・無記の三性に共通するものであるし、悪作も善・不善の二性に共通して善性のもの

もあるからである。もちろん、倶舎が随煩悩にとりあげている睡眠と悪作は、睡眠の不善・有覆性

と、悪作の不善性の、煩悩といわれ得るものをとりあげているのであるが、わたくしは、考えるとこ

ろあって右のようにするのである。

 では、随煩悩を解説しよう。

  随煩悩解説

1 忿

いかり。

自分の心にかなわぬ対象に対して怒りの情をいだき、刀杖等をとるにいたる、いわゆる短気の心作

 

 

用をいう。このこころは、根本煩悩の「賦」の等流(つづいてのちにあらわれ出た同類のもの)、つ

まり瞑にしたがって出てくるこころなので、眠は先払いのごとく、忿は後押しの如し、といわれる。 タ

 忿というは腹を立てて杖をとって人を打たんと思うほど怒る心なり 0(唯識大意)

 2 恨

 うらみ。

 敵意がひき続くこと。

 先に忿怒したことに恨みをむすんでいつまでも解けず忘れぬ心作用をいう。

 恨というは、人を恨むる心なり。恨みを結ぶ人の、残念口惜しとて押さえ忍ぶこと能わずして心の

内つねに悩むなり。(唯識大意)

 3 諮

 へっらう。

 自分の意志をまげてこびへつらい、人にとり入ったり、あるいは理屈をつけて他をおとしいれたり

する。

 諮曲といって、心を曲げて実の心をあらわさず、他を籍絡せんがため・に表面柔順をよそお、うなどす

の心を取り、あるいはわか

り。(唯識大意)

           だま                          かた

諮というは、人を隔くらかし迷わさんために、時に随い事にふれて奸ましく方便をめぐらし、人

               あやまち

をかくす心なり。世の中に詔曲の者というは、この心の増せる人な

 4嫉

 ねたみ。嫉妬。

 他人の幸福や成功を喜ばず、妬忌して憤酒する心。

 嫉というは我身の名利を求むるが故に人の栄えたるを見問して深くねたましきことに思うて喜ばざ

る心なり。(唯識大意)

 5 悩

 なやむ。

 憤憑や怨恨や憂悶にとらわれて使悩する。

 また、自分の考えを固執して捨てず、他人の忠告や諌めを入れぬ頑迷な心をいう。原語呂ぼ回

を、真諦は「不捨Lと訳しているが、これは、自分勝手なせまい見解を固執して捨てず、そのために

いろいろと悩みの生ずることをいうのであろう。                         タ

 悩というは腹を立て人を恨むに依って僻み戻り、心の中つねに安からず、ものを言うにその言かまびすくして険しくいやしく腹ぐろく毒毒しき心なり。(唯識大意)

 6 覆

 責任のがれ。

 自分のおかした罪やあやまちをおおいかくして偽陥する心。

 自分の地位や名誉、あるいは体面を失うことを恐れて、自分の非を隠蔽する心。

 覆というは名利を失わんことをおそれて、わが罪あやまちを覆いかくす心なり。隠す人は必ず後に

悔み悩みあるいは悲しむことあり。(唯識大意)

7 樫

ものおしみ。むさぽり。樫惜。樫貪。吝嗇。

ものや知識、技術などすべて自分の持っているものに執着して、他に頒つことを吝しか心。

樫というは財宝に敗着して人に施す心なく、いよいよ貯えんとのみ思う心なり。(唯識大意)

8 唐

欺隔。他人をあざむきたぶらかすこと。

無徳なのに有徳のように、下劣のものを優秀なもののように装って、他人を惑わす詐偽の心作用を

いう。裏切り、設計の能力。徳がないのに敬われようと欲する人。

 斑というは、名利を得んがために、心に異なる謀をめぐらして、矯ましく徳ありと現わす偽りの

心なり。世の中に証惑者というはこの心の増せる人なり。(唯識大意)

 たぶらかす、不実の語をいうなり。(『無門紗』)

 9 僑

 おごり高ぶり。自らおごり高ぶること。自己満足。

 自分の財産・地位・才能・学力・容姿などをほこり高ぶる心。

 僑も幔もともにおごり高ぶる心であるが、僑は自分の性質(美貌や若さや才能や血統、学識など)

をすぐれたものと考えて、自己に執着する心のおごりであるのに対し、幔は、自分は他人よりもすぐ

れていると妄想して、他人に対して誇りたがる心のおごりである。要するに、慢は他人を意識して起

こすが、僑は他人を意識せずに起こすものである。

 僑というは、わが身をいみじく盛なる者に思うておごり高ぶる心なり。(唯識大意)

 ただ自分のよきことのみをおもい人を見くらべず、なにごともおのれがよいとはこるが僑なり。

(『香月』)

1 害

 

 

 

 傷害。害意。人をきずつける心。

 生けるものに危害をくわえることを快しとする心作用。

 同情心に欠け、人の行動や生活をきずつけ妨害する。

 害というは、人を哀れむ心なく情なき心なり。世の中に慈悲性もなき者というは、この心の増せる

人なり。(唯識大意)

1

 

 反省心のないこと。はじらいのないこと。自分自身にたいして、罪を罪として恥じないこと。さか

うらみ。

 自分自身に対し罪や過失や不徳を恥ずる心のないこと。(自ら省みて恥じるのを噺・他に対して恥

じるのを愧という。無晰・無愧はその反対である)

 無噺というは、身にも法にも恥じずして、善根を軽しめ諸の罪をつくる心なり。(唯識大息)

12 無愧

恥じ入る心のないこと。破廉恥なこと。他人に対して恥じないこと。・

無愧というは、世間の見聞にも恥じずして、諸の罪を崇むる心なり。(唯識大意)

 13 棹挙

 軽噪。がるはずみ。とりとめのない心。心が浮動して静まりのないこと。心が寂静でないこと。軽

挙妄動してつねに落ちつかず燥泄の生活を送る。

 棹挙というは、動きやすくさわかしき心にて物にのりやすくおだてられやすい心なり。(唯識大意)

 

 14 悟沈

 沈唇。心のめいること。ふさぎこむこと。

 不活発な気質、心の不活動性。心を暗く沈ませる心作用をいう。気分が陰唇で善事をなすにたえら

れない性である。人をして憎惰、怠慢ならしめる。要するに気分が重く暗くてやる気がおこらない。

ことをおこなうにあたって、心が巧みでない。適応性がないのである。

 悟沈というは、重く沈み溺れたる心なり。9 重として目のくらむようになるなり。(唯識大意)

 無明と悟沈と相似てわきまえ難し。無明は閤く迷えり。重く沈み溺れたるにあらず、悟沈はただ闇

く迷えるにあらずして重く沈み溺れたるなり。(唯識大意)

15 不信

信のないこと。

実有・有徳・有能であることに対するヤ儲ず。

心が乱れさだまらず集中できない。知能がはたらかない。

心乱というは、心を散らし乱す心なり。この故に散乱と名づく。(唯識大意)

 

 心がきよらかでなく、よいことや正しいことを見聞しても、邪推したり歪曲してとって、信解しな

い。したが’つて悪行や邪行を楽しむ。

 不信というは、貴き目出たき事を見聞しても忍び願う心なくして、稿れ濁れる心なり。かかる人は

多く御怠なり。(唯識大意)

 16 謝怠

 怠惰。怠り。なまけて励まないこと。やる気を起こさない心性。

 仏道を修行するのに力を尽くして励まないこと。台心って教えを奉じないこと。釈尊の臨終のことば

は「つつしんで御怠することなかれLであった。

 世間のなぐさみ、囲碁将棋などして、善事をおこたるはみな謝怠なり。すべて善事をおこたるを脚

怠という。(『香月』)

 俗怠は諸の善事の中に解り嘲き心なり。かかる人は又多く不信なり。(唯識大意)

17 放逸

わがまま。放縦。なおざり。気ままに遊ぶこと

責任感に欠け、勝手気ままに行動する。

不注意で軽率、心が散役である。

放逸というは、罪を防ぎ善を修する心なくして、ほしいままに罪を遣る心なり。(唯識大意)

 18 失念

 飲酒などのためにぼうっとして自制心を失うこと。

 飲酒だけに限らず、趣味・道楽・かけごと・異性などのために心を散乱させて自制心を失ったり、

対境をはっきり記憶できなくなるのは、みなこの心である。

 失念というは、取りはずし物を忘るる心なり。かかる人は多く散乱なり。(唯識大意)

19 不正知

正しい認識ができない心。不完全な認識。

不完全な自覚―-なすべきこと、あるいはなすべからざることをわきまえない。

対象を正しく把握・理解せず、歪曲したり誤解しながら、それが正しいと思っている。

不正知というは、知るべきことをあやまって解す。かかる人は事を毀ち犯すなり。(唯識大意)

20 散乱

心の拡散。心が乱れ定まらないこと。

凡夫の心がつぎつぎと絶えまなくその対象に移し流され、一刹那もとどまらないこと。

 

 

 

 どうであろうか?

 まことにくわしく分析し尽くしたものではないか。

 わたくしは、むかし、はじめてこれを目にしたとき、一読、思わず、心から赤面したことをおぼえ

ている。ここにあげられているこころがすべて自分のなかにあり、しかもそのうちのいくつかは現に

動いていて、自分がそれに動かされつつあることをはっきり自覚したからであった。それを自覚した

刹那、そのこころのままに動かされて行動したとき、その結果がどういうかたちになってあらわれる

かが直感され、わたくしはそのこころをなんとかおししずめ、他のべつな方向に向けるべく努力し

た。それがわたくしの人生の一つの転機をなした。以来、わたくしはこの随煩悩の一覧表を作製して

所持し、時にふれ、目にすることにした。とくに自分の持つ因縁と相応してつよくあらわれやすいこ

ころは赤字でしるした。不徳のわたくしはこれにより少しでも自分を改造しようと決心したのである

(根絶する修行をはじめたのはもっとあとのことである)。

 しかしいまでもわたくしはこの一覧表を目にするとき、内心憤死たることしばしばである。

 あなたはどうであろうか?

 これらのこころがわれわれを形成しているのである。

 これらのこころにみたされ、これらのこころの動くままに行動したとき、その結果がどのようなか

たちであらわれてくるか、どう考えても、それは決して「このましくよきものLであるとは考えられ

まい。自分にとっても周囲にとってもそれはけっしてこのましくよきものを形成しはしない。しかし

われわれはこのこころに日夜動かされつつあるのである。大なり小なりこれらのこころがわれわれを

動かし、それの累積がわれわれの人生となり、われわれの環境をかたちづくっているのである。それ

はだれしも否めない事実ではないか。それを仏陀は「業」とよぶのである。

 根本煩悩に十、随煩悩に二十、じつに精緻に分析したものである。

 しかしこれは決して単なる心理論や心理学ではないのである。それはわれわれの存在の構造を示す

ものなのだ。この構造をどう改革するか? それが仏陀の教法である。この構造を改革し、さらには

この構造を大きく飛越しようとするのが仏陀の教法なのである。だから精緻きわまる心理分析も単な

る心理論ではないのである。そこでI-、重大な一つの論争がなされている。

 それは、煩悩と随眠との関係についてである。

 ひとロにいうと、煩悩はすべて意識的であるのか、それとも、習気(習慣的余力)としての無意識的

煩悩もあるのかという問題である。専門用語でいうと、随眠はこころと相応するのか、しないのか、

という問題である。

 

 それはアビダルマ教学史上に有名なヴァスバンドウ(世親)とサンガバドラ(衆賢)との論争で、

世親のあらわした『阿毘達磨倶舎諭』に対し、衆賢は『阿毘達磨順正理論』を以て世親の説を論破し

ようとしたのである。

 世親の立場は、随眠は心と相応するのでもなく、不相応でもない。煩悩の眠る状況、すなわち無意識

的状態が随眠であり、それが覚曜して意識的状況にあるとき、貳とよばれるのだとする(前出の通り)。

 これに対し、衆賢は、随眠と煩悩とはおなじであるとする。たとえば、貪随眠を貪即随眠と考え、

貪なる煩悩と離れて存在する貪の随眠とは考えないのである。その論拠は煩項になるからここには挙

げないけれども、要するに、衆賢は随眠を以てどこまでも意識的であるとみるわけである。それは、

われわれの生活活動をもっぱら意識的活動とみることになる。これにたいし、煩悩を、意識的活動と

しての纒と、無意識状態としての随眠とに分けて考える世親の立場は、人間の無意識的心理活動に大

きな意味をみとめようとするものであり、この両者には決定的な相違があるわけである。

 それはまさに決定的な相違であった。

 そんなことくらいどっちにしてもたいしたことはないじゃないかと思われるかも知れないけれど

も、そうではないのだ。この相違はまさに決定的な相違であったのだ。

 というのは、この論争の結論は、ただちに、仏教における実践法1-つまり修行法にかかわってく

ることになるものだったからである。

 たしかにこの両者では修行法がまったくちがってくる。だからそれはまさに決定的な相違であった

のだ。事実、仏教はここから大きく分かれて、べつべつの道を歩むことになるのである(世親のこの

立場はやがて種子論となり、つづいてアーラヤ識を生み出し、最後に唯識大乗をうち立てることにな

る。一方、衆賢の立場は、ついに、小乗といわれる「薩婆多部L〔一切有部〕のワクから一歩も出る

ことなくおわるのである)。だから、この、世親と衆賢のそれぞれの立場は、仏教の二つの立場をそ

のまま代表することになるわけである。と、そういうと、あなたはここで首をひねるかも知れない。

 それはおかしい、二人の意見の相違は相違として、いったい仏陀ご自身のご意見はどうなのか?

仏陀はどう教示されているのか?

 それほど重大な問題にたいして、仏陀はなにも教示されておられぬのか? と。

 それはたしかにその通りだ。はっきりした仏陀の御教示があれば、世親も衆賢も論争して意見が二

つに分かれたままということはないはずである。では、仏陀は明確な教示をなされていなかったのか?

 ひと口でそれに答えることはむずかしい。教示されていたともいえるし、教示されていなかったと

もいえるのである。

 そういうと、あなたはまたいうであろう。

 仏陀の教法、仏陀の教法、というが、それでは、仏陀の教法とはいったいなにをよりどころにした

ものなのか? と。われわれはなにを以て仏陀の教法とすればよいのか、と。

 たしかにそれはこの上なく重大なことである。それを明確にしないかぎり、仏陀の教法などと口に

することはできまい。では、根本に立ちもどって、それをはっきりしようではないか。