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人はどんな因縁を持つか 

人はどんな因縁を持つか

 これから、人の持つ因縁について解説するが、それでは、そういう因縁というものが、

どうして人間にあるのか、ここでは、あるからある、というよりほかない。強いて聞かれ

るならば、それならあなたはどうしてそういう顔をしているのであるかと聞かれた場合、

あなたは何と答えるか? こういう顔をして生れてきたのだから、こういう顔をしている

のである、とでも答えるはかないではないか。原因はともあれ、人間は、それぞれ様々な

因縁を持って生れて来、様々な因縁を持って生きているのである。その因縁という現象を

分析、解説してみよう。理屈は抜きにして、一読するならば、必ず、思いあたることがあ

ろう。卵が先に生じたのか、鶏が先に生じたのか、それを知らなくても、卵を食べ、鶏肉

を賞味するにはこと欠かぬのである。詳しくはあとの方で説明する。ここでは、まず、人

間が誰でも持っている「因縁」の種類についてのべよう。

      かうんすいたい

0  家運衰退の因縁

 この因縁は、家運、つまり家の運気が次第におとろえてきている家系に生まれている人

が持つ因縁である。

 こういう人は、父、あるいは祖父の代までは、かなりの生活をした家に生れている人が

多い。祖父か父の代あたりから、次第に家運が傾いてきている。そうして、自分の代にな

ってからぱ、なお一層はっきりと運が悪くなっている。相当の力量、才能、手腕があるの

だが、それを発揮する場を持つことが出来ない。そういうチャンスを持つことが出来ない。

そうして、自分よりも劣った者が追い越してゆくのを、みすみす歯ぎしりしながら見送る

ことになる。

 たまにチャンスがめぐって来そうになると、人の妨害、邪魔に遭ったり、或いは自分の

思わぬミスや病気などで、せっかくのチャンスを失ってしまう。要するに、一言でいうと

運が悪いのである。実力がありながら、妙にめぐり合わせが悪く、ウダツがあがらない。

年をとるほど運気がおとろえ、生活が悪くなっていく。

 

の因縁から出てくるのが、次に掲げる

     ちゅうと ざせつ

@   中途挫折の因縁

 という因縁である。

 この因縁を持つ人は、何をやっても、一応、七、八分通りまでは順調に進むが、あとも

うI、二分というところで必ずダメになる。決して実らないのである。この因縁を、一

名、「虚花の命」というのは、「七重八重、花は咲けども山吹の、実のひとつだになきぞ悲

しき」という古歌の山吹の花と同様、花咲けども実らず、すべてムダ花であるというとこ

ろからきているのである。よそ目には華やかに見えて、内実は空しいのである。苦労した

あげく、さいごの収穫はごっそりと人に持ってゆかれてしまう。

 この因縁を持つ人は、わりあい運気(生命力)の強い人が多く、中途で挫折しては、ま

た立ち上って仕事をし、また七、八分通りで挫折して、そのままになるかと思うとまた立

ち上って、また挫折する、というように、七転八起の起伏のはげしい人生を送る人が多い。

そうして、結局は、挫折したままで終るのである。

 大体、因縁のあらわれ方には二通りあるのであって、その囚縁が、そのままその人の恍

格にあらわれている場合と、性格には全然あらわれない場合とがある。

 この中途挫折の因縁の場合も、この因縁がそのまま性格にあらわれて、非常に気の弱い

意志薄弱の型と、逆に、非常に気のつよい意志強固の型がある。

 意志薄弱のタイプは、何をやってもすぐにあきてしまって、ながつづきしない。気うつ

りがぱげしい。学業、職業、すべてがそうで、転々とする。文字通りの中途挫折、薄志弱

行の型である。

 もう一つのほうは、これと全く反対で、性格もつよく、意志も強固で、努力家でもある。

然るに、かえってその強さが人と相容れず、上の者と衝突したり、同僚と円満に協調出来

なかったりして、失敗し、挫折する。あるいは、ここ一番という大事なところで、きまっ

てつまらぬミスをしたり、人の誤解をうけたり、妨害をうけたりする。また、病気や怪我

などで手違いが生ずる、というように、必ずなにかしら障害が発生して、チャンスをつぶ

すのである。

 先日、わたくしを訪ねて来た人に、そういう人がめった。

 四十七、八歳の会社員で、立派な人物であったが、この人に、この因縁があったのであ

 

る。聞いてみると、今までに八回も勤め先を変えているという。意志強固の努力家型だが、

と思って聞いてみると、この人は、一流の財閥会社に勤めているのだが、系列の子会社に

出向させられると、その会社は、きまって、他に合併したり、業績不振で閉鎖させられて

しまうのである。本社にもどると、同期の社員で本社に居たままの者はかなり上の方に進

んでおり、処遇に困るので、また傍系の会社に出向重役として出される。するとまた、そ

の会社がおかしくなる、というわけで、今までがその繰り返しだったというのだ。

 念のためにいうが、それは、この人の経営の腕が悪いために、この人が行った会社がみ

んなダメになるというのではないのである(手腕という点からいえば、むしろ人並み以上

の手腕を持っているのである)。この人が行っても行かなくても、その会社はダメになるの

である。そういう会社に、この人は行かねばならぬような廻り合わせになってしまうのだ。

今度の会社もおかしくなってきているので、相談に来たのです、というのだが、典型的な

中途挫折の因縁のあらわれかたであった。

 薄志弱行タイプの場合は、すぐにあきたり、気移りしたりして白分から会社を転々とす

るが、意志強固タイプの場合は、自分でぱ一心に努力をして会社を変わるつもりはさらさ

らないのだが、他動的に転々と変わらざるを得ないようになってしまうのである。その人

のか字心、思劣、心構えなどに関係なく、結果は結尚おなじことになが、

因縁というものの、こわいところである。精神一到何小か成さざ‘ら人や、と気胆劣てみた

ところで、この因縁を持っていては、所詮、ダメなのだ。外的条件が許さないのである。

つねに転々として挫折する。

 昔から、よく、「人間には誰でも一生に三度はチャンスがある」といわれているが、運のないでも三度はチャンスがあるかわり、運のある者でも、三度以上そう何回もあるもの

ではない。人生ここ一番というチャンスを二、三度この因縁でつぶされてしまったら、も

うその人間は一生芽が出ないものと思わねばなるまい。そうして、この因縁のこわいとこ

ろは、この因縁は必ずその子に遺伝し、その場合、きまって親よりその子のほうが一段と

因縁の度を深めて悪くなってゆくことにあるのだ。

 この中途挫折の因縁が、そのようにして一段と強くなった場合、

 

 

運気不定・浮沈の因縁

という因縁になる。

 これは、運気に根が生じないので、そのため、浮沈変転してとどまらないのである。

 いわば、根無し草の人生である。居住、職業が定まらず、転々とする。一時的に幸運を

得ることがあっても、永続しない。一生、ホームレスか、それに近い境界となる。

 女性の場合、ちゃんとした結婚生活をつづけることが出来ない。再婚、三婚し、しかし

いくら結婚を繰り返しても、決して安定した夫婦生活を持つことは出来ない。

 「色情の因縁」のある場合は、不倫の関係に陥ったり、あるいは売春をする悲惨な因縁で

ある。

 

o  肉親血縁相剋の因縁

 これも、根本は、家運衰退の因縁から出てきているものである。

 この因縁は、肉親の者同士、血縁の者同士が、たがいに運気生命力を損ねあい、傷つけ

あって分散してゆくのである。

 毛利元就の「三本の矢」の教訓を逆にいって、おたがいに助けあい、協力しあってゆく

べき肉親血縁の者が、離散し、孤立して、次第に没落してゆく。

 まさに、家運衰退のあらわれである。

この因縁があると、同居している親子、兄弟など、血縁の噺が、年中不和で詐が絶えな

い。これは、血縁の者同士でお互いの運気(生命力)を損ねあい、傷つけあっているので、

無意識のうちに反発しあって争うのである。この場合、運気を傷つけあうといっても、必

ずしも表面立って争いをするとは限らない。ただ同じ屋根の下に住んでいるというだけで、

相手の運気(生命力)を損ねるのである。それはちょうど、何か目に見えない光線のよう

なものを放射しあって、相手の生命力を傷つけるように思われる。人間の生命というもの

は、自分を守るという自衛本能を持っているから、その本能がはたらいて、無意識のうち

に生命力を結集して相手に反発する。その結果として、相手の何でもないような動作や一

言一句が非常に気にさわる(神経が立っているので)。そこで静が始まるのである。肉親同

士で異常に仲が悪いのぱこのためである。それに加えて財産などの利害関係がからむと、

非常に深刻な争いに進展してゆく。

 この因縁のある家庭で、もし、同居の肉親同士が不和でなければ、家族の中に誰か一人、年中病気で苦しむ者か、極端に不運で運の開かぬ不遇の者が必ず出る。

 相当の才能、手腕がありながら、常にチャンスを逸したり、チャンスに恵まれない不遇

の人、あるいは長年病弱の人は、前記の「中途挫折の因縁」か、または、この「肉親血縁

相剋の因縁」によって運気(生命力)を剋害されているのではないかを疑ってみるべきで

ある。どちらかの因縁があったら、それを断ち切らぬ限り、いくら努力しても一生空転す

るばかりなのだ。

 この因縁を持つ人、(あるいはこの因縁のある家系)には、必ず、といっていいほど、霊

的な障害がある。つまり、三代か四代前に、その家(またぱ人)を強く恨んで亡くなった

怨念のホトヶがいるのである。

 また、横変死した人の霊障を受けている場食がほとんどである。

 前に述べた「家運衰退の因縁」、「中途挫折の因縁」、「運気不定・浮沈の因縁」は、いず

れも霊障のホトヶより生じていることが多い。

 この霊障を解かぬかぎり、この因縁は、何代でもつづく。

 成仏法によって、霊障のホトヶを解脱成仏させる以外に方法がないのである。

随眠という名の無意識層 

随眠という名の無意識層

第三章

欲求不満と危惧に対してはげしい怒りを発する心である。

 瞑は、わが心に背く事あれば(それが)善事にても必ず怒る心なり。(唯識大意)

 三、無明上凝ともいう。

 無智のこと。愚迷。もろもろの道理に迷う愚癈の心作用。ものの道理のわからぬこと。われわれの

存在の根底にある根本的な無智。すべての煩悩の生ずる根源とされる。

 境を照らす明なしというところから無明と名づけ、事物の道理を決断する智なしというところから

無智と名づけ、事物の道理を彰了する顕なしというところから無顕とも名づける。

 三、慢

 自分に傲って他を軽蔑する心。

 慢というは、わが身を侍んで人を役り、少しも謙下(へりくだる)なき心なり。(唯識大意)

 なお、慢には、七慢・八慢・九慢などの分類がある。つぎに七慢をあげておく。

 ’七慢

 1 慢=自分より劣った者に対してすぐれていると自負し、同等な者には同等であると高ぶる。

 2 過慢=同等の者に対してはすぐれていると慢じ、すぐれた者には同等であると慢ずる。

 3 慢過慢=自分よりすぐれた者に対し、逆に自分がすぐれているとする。

 4 我慢=自分の身心を永遠不変の我であるとたのむ。

 5 増上慢=さとりを得ないのに得たとする。学問・知識などその奥に達していないのに達したと

随眠という名の無意識層

第三章

欲求不満と危惧に対してはげしい怒りを発する心である。

 瞑は、わが心に背く事あれば(それが)善事にても必ず怒る心なり。(唯識大意)

 三、無明上凝ともいう。

 無智のこと。愚迷。もろもろの道理に迷う愚癈の心作用。ものの道理のわからぬこと。われわれの

存在の根底にある根本的な無智。すべての煩悩の生ずる根源とされる。

 境を照らす明なしというところから無明と名づけ、事物の道理を決断する智なしというところから

無智と名づけ、事物の道理を彰了する顕なしというところから無顕とも名づける。

 三、慢

 自分に傲って他を軽蔑する心。

 慢というは、わが身を侍んで人を役り、少しも謙下(へりくだる)なき心なり。(唯識大意)

 なお、慢には、七慢・八慢・九慢などの分類がある。つぎに七慢をあげておく。

 ’七慢

 1 慢=自分より劣った者に対してすぐれていると自負し、同等な者には同等であると高ぶる。

 2 過慢=同等の者に対してはすぐれていると慢じ、すぐれた者には同等であると慢ずる。

 3 慢過慢=自分よりすぐれた者に対し、逆に自分がすぐれているとする。

 4 我慢=自分の身心を永遠不変の我であるとたのむ。

 5 増上慢=さとりを得ないのに得たとする。学問・知識などその奥に達していないのに達したと

幻さて、いま、根本誌眠(根本煩悩)について解説した。

 日常生活の上に、日夜たえまなく生起するわれわれのこころの動きについて、じつに詳細かつ精緻に

観察していることにおどろきを感じるのは、わたくしだけではなく、おそらくあなたも同感であろう。

 しかし、古代仏教における人間のこころの観察分析は、この程度のものではないのである。

 根本煩悩に附随してつぎつぎと起きるこころを「随煩悩」という名でとらえて、さらに精密に論ず

るのである。

 さきで、「煩悩の十事L(十の性質)が説かれている。すなわち、一、根本を堅くすること。二、相

続を立すること。三、自田を治めること。四、等流を引くこと。五、自具を摂すること。六、識流を

導くこと。すべて、(根本)煩悩がひとたび目ざめて動きはじめると、つぎつぎといくつかの煩悩が連

鎖反応を起こす性質のあることを示している。この連鎖的に起動する煩悩を「随煩悩Lといい、論の

 

 

 

  随 煩 悩

 

第四章、随煩悩でこう説き明かす。

   『随眠は、既に説きつ。随煩悩は云何。

   頌にいわく、

    随煩悩は、此の余の、染の心所の行羅なり。                       

   論じていわく、この諸の煩悩を、亦た随煩悩と名く。皆、心に随って、悩乱の事を為すを以ての故なり。

 復た、此の根本煩悩の外に、余の

ヽ諸の根本煩悩に異なる染汗の心所の、行蔭に摂するものあ タ

  り。根本煩悩に随って起るが故に、亦随煩悩と名け、煩悩とは名けず。根本に非ざるが故なり。』

 その随煩悩をあげてみよう。

 ただし、随煩悩の種類のあげかたはいくつかあって、一概にはさだめがたい。ここでは、倶舎の「五

位七十五法Lによるものと、後世の唯識大乗によるものとの二つをあげて、解説したい。

 倶舎では十九種類である。

 大煩悩地法として、

 放逸・服怠・不信・悟沈・棹挙の五、

 大不善地法として、

 むざん む考ヽ                         ’

 無噺・無情の二、

 小煩悩地法として、

 ふん ぷく けん しっ のう がい こん てん おう きよう

 忿・覆・樫・嫉・悩・害・恨・諮・匝・僑の十、

 不定地法として、

 睡眠・悪作の二、

以上である。

 唯識においては、

随眠という名の無意識層

第三章

 忿・恨・悩・覆・脱・諮・僑・害・嫉・樫の十を「小随惑」とよび、

 無晰・無愧の二を「中随惑L、

 不信・爾怠・放逸・悟沈・棹挙・失念・不正知・散乱の八をI「大随惑」とよび、この三種二十の惑

を、随煩悩と名づけるのである。

 わたくしは、倶舎の不定地法による睡眠と悪作を除いて、唯識の失念・不正知・散乱を入れて、

「二十随煩悩Lとする。なぜかというと、不定地法は、かならずしも煩悩とはいわれないからである。

睡眠は善・不善・無記の三性に共通するものであるし、悪作も善・不善の二性に共通して善性のもの

もあるからである。もちろん、倶舎が随煩悩にとりあげている睡眠と悪作は、睡眠の不善・有覆性

と、悪作の不善性の、煩悩といわれ得るものをとりあげているのであるが、わたくしは、考えるとこ

ろあって右のようにするのである。

 では、随煩悩を解説しよう。

  随煩悩解説

1 忿

いかり。

自分の心にかなわぬ対象に対して怒りの情をいだき、刀杖等をとるにいたる、いわゆる短気の心作

 

 

用をいう。このこころは、根本煩悩の「賦」の等流(つづいてのちにあらわれ出た同類のもの)、つ

まり瞑にしたがって出てくるこころなので、眠は先払いのごとく、忿は後押しの如し、といわれる。 タ

 忿というは腹を立てて杖をとって人を打たんと思うほど怒る心なり 0(唯識大意)

 2 恨

 うらみ。

 敵意がひき続くこと。

 先に忿怒したことに恨みをむすんでいつまでも解けず忘れぬ心作用をいう。

 恨というは、人を恨むる心なり。恨みを結ぶ人の、残念口惜しとて押さえ忍ぶこと能わずして心の

内つねに悩むなり。(唯識大意)

 3 諮

 へっらう。

 自分の意志をまげてこびへつらい、人にとり入ったり、あるいは理屈をつけて他をおとしいれたり

する。

 諮曲といって、心を曲げて実の心をあらわさず、他を籍絡せんがため・に表面柔順をよそお、うなどす

の心を取り、あるいはわか

り。(唯識大意)

           だま                          かた

諮というは、人を隔くらかし迷わさんために、時に随い事にふれて奸ましく方便をめぐらし、人

               あやまち

をかくす心なり。世の中に詔曲の者というは、この心の増せる人な

 4嫉

 ねたみ。嫉妬。

 他人の幸福や成功を喜ばず、妬忌して憤酒する心。

 嫉というは我身の名利を求むるが故に人の栄えたるを見問して深くねたましきことに思うて喜ばざ

る心なり。(唯識大意)

 5 悩

 なやむ。

 憤憑や怨恨や憂悶にとらわれて使悩する。

 また、自分の考えを固執して捨てず、他人の忠告や諌めを入れぬ頑迷な心をいう。原語呂ぼ回

を、真諦は「不捨Lと訳しているが、これは、自分勝手なせまい見解を固執して捨てず、そのために

いろいろと悩みの生ずることをいうのであろう。                         タ

 悩というは腹を立て人を恨むに依って僻み戻り、心の中つねに安からず、ものを言うにその言かまびすくして険しくいやしく腹ぐろく毒毒しき心なり。(唯識大意)

 6 覆

 責任のがれ。

 自分のおかした罪やあやまちをおおいかくして偽陥する心。

 自分の地位や名誉、あるいは体面を失うことを恐れて、自分の非を隠蔽する心。

 覆というは名利を失わんことをおそれて、わが罪あやまちを覆いかくす心なり。隠す人は必ず後に

悔み悩みあるいは悲しむことあり。(唯識大意)

7 樫

ものおしみ。むさぽり。樫惜。樫貪。吝嗇。

ものや知識、技術などすべて自分の持っているものに執着して、他に頒つことを吝しか心。

樫というは財宝に敗着して人に施す心なく、いよいよ貯えんとのみ思う心なり。(唯識大意)

8 唐

欺隔。他人をあざむきたぶらかすこと。

無徳なのに有徳のように、下劣のものを優秀なもののように装って、他人を惑わす詐偽の心作用を

いう。裏切り、設計の能力。徳がないのに敬われようと欲する人。

 斑というは、名利を得んがために、心に異なる謀をめぐらして、矯ましく徳ありと現わす偽りの

心なり。世の中に証惑者というはこの心の増せる人なり。(唯識大意)

 たぶらかす、不実の語をいうなり。(『無門紗』)

 9 僑

 おごり高ぶり。自らおごり高ぶること。自己満足。

 自分の財産・地位・才能・学力・容姿などをほこり高ぶる心。

 僑も幔もともにおごり高ぶる心であるが、僑は自分の性質(美貌や若さや才能や血統、学識など)

をすぐれたものと考えて、自己に執着する心のおごりであるのに対し、幔は、自分は他人よりもすぐ

れていると妄想して、他人に対して誇りたがる心のおごりである。要するに、慢は他人を意識して起

こすが、僑は他人を意識せずに起こすものである。

 僑というは、わが身をいみじく盛なる者に思うておごり高ぶる心なり。(唯識大意)

 ただ自分のよきことのみをおもい人を見くらべず、なにごともおのれがよいとはこるが僑なり。

(『香月』)

1 害

 

 

 

 傷害。害意。人をきずつける心。

 生けるものに危害をくわえることを快しとする心作用。

 同情心に欠け、人の行動や生活をきずつけ妨害する。

 害というは、人を哀れむ心なく情なき心なり。世の中に慈悲性もなき者というは、この心の増せる

人なり。(唯識大意)

1

 

 反省心のないこと。はじらいのないこと。自分自身にたいして、罪を罪として恥じないこと。さか

うらみ。

 自分自身に対し罪や過失や不徳を恥ずる心のないこと。(自ら省みて恥じるのを噺・他に対して恥

じるのを愧という。無晰・無愧はその反対である)

 無噺というは、身にも法にも恥じずして、善根を軽しめ諸の罪をつくる心なり。(唯識大息)

12 無愧

恥じ入る心のないこと。破廉恥なこと。他人に対して恥じないこと。・

無愧というは、世間の見聞にも恥じずして、諸の罪を崇むる心なり。(唯識大意)

 13 棹挙

 軽噪。がるはずみ。とりとめのない心。心が浮動して静まりのないこと。心が寂静でないこと。軽

挙妄動してつねに落ちつかず燥泄の生活を送る。

 棹挙というは、動きやすくさわかしき心にて物にのりやすくおだてられやすい心なり。(唯識大意)

 

 14 悟沈

 沈唇。心のめいること。ふさぎこむこと。

 不活発な気質、心の不活動性。心を暗く沈ませる心作用をいう。気分が陰唇で善事をなすにたえら

れない性である。人をして憎惰、怠慢ならしめる。要するに気分が重く暗くてやる気がおこらない。

ことをおこなうにあたって、心が巧みでない。適応性がないのである。

 悟沈というは、重く沈み溺れたる心なり。9 重として目のくらむようになるなり。(唯識大意)

 無明と悟沈と相似てわきまえ難し。無明は閤く迷えり。重く沈み溺れたるにあらず、悟沈はただ闇

く迷えるにあらずして重く沈み溺れたるなり。(唯識大意)

15 不信

信のないこと。

実有・有徳・有能であることに対するヤ儲ず。

心が乱れさだまらず集中できない。知能がはたらかない。

心乱というは、心を散らし乱す心なり。この故に散乱と名づく。(唯識大意)

 

 心がきよらかでなく、よいことや正しいことを見聞しても、邪推したり歪曲してとって、信解しな

い。したが’つて悪行や邪行を楽しむ。

 不信というは、貴き目出たき事を見聞しても忍び願う心なくして、稿れ濁れる心なり。かかる人は

多く御怠なり。(唯識大意)

 16 謝怠

 怠惰。怠り。なまけて励まないこと。やる気を起こさない心性。

 仏道を修行するのに力を尽くして励まないこと。台心って教えを奉じないこと。釈尊の臨終のことば

は「つつしんで御怠することなかれLであった。

 世間のなぐさみ、囲碁将棋などして、善事をおこたるはみな謝怠なり。すべて善事をおこたるを脚

怠という。(『香月』)

 俗怠は諸の善事の中に解り嘲き心なり。かかる人は又多く不信なり。(唯識大意)

17 放逸

わがまま。放縦。なおざり。気ままに遊ぶこと

責任感に欠け、勝手気ままに行動する。

不注意で軽率、心が散役である。

放逸というは、罪を防ぎ善を修する心なくして、ほしいままに罪を遣る心なり。(唯識大意)

 18 失念

 飲酒などのためにぼうっとして自制心を失うこと。

 飲酒だけに限らず、趣味・道楽・かけごと・異性などのために心を散乱させて自制心を失ったり、

対境をはっきり記憶できなくなるのは、みなこの心である。

 失念というは、取りはずし物を忘るる心なり。かかる人は多く散乱なり。(唯識大意)

19 不正知

正しい認識ができない心。不完全な認識。

不完全な自覚―-なすべきこと、あるいはなすべからざることをわきまえない。

対象を正しく把握・理解せず、歪曲したり誤解しながら、それが正しいと思っている。

不正知というは、知るべきことをあやまって解す。かかる人は事を毀ち犯すなり。(唯識大意)

20 散乱

心の拡散。心が乱れ定まらないこと。

凡夫の心がつぎつぎと絶えまなくその対象に移し流され、一刹那もとどまらないこと。

 

 

 

 どうであろうか?

 まことにくわしく分析し尽くしたものではないか。

 わたくしは、むかし、はじめてこれを目にしたとき、一読、思わず、心から赤面したことをおぼえ

ている。ここにあげられているこころがすべて自分のなかにあり、しかもそのうちのいくつかは現に

動いていて、自分がそれに動かされつつあることをはっきり自覚したからであった。それを自覚した

刹那、そのこころのままに動かされて行動したとき、その結果がどういうかたちになってあらわれる

かが直感され、わたくしはそのこころをなんとかおししずめ、他のべつな方向に向けるべく努力し

た。それがわたくしの人生の一つの転機をなした。以来、わたくしはこの随煩悩の一覧表を作製して

所持し、時にふれ、目にすることにした。とくに自分の持つ因縁と相応してつよくあらわれやすいこ

ころは赤字でしるした。不徳のわたくしはこれにより少しでも自分を改造しようと決心したのである

(根絶する修行をはじめたのはもっとあとのことである)。

 しかしいまでもわたくしはこの一覧表を目にするとき、内心憤死たることしばしばである。

 あなたはどうであろうか?

 これらのこころがわれわれを形成しているのである。

 これらのこころにみたされ、これらのこころの動くままに行動したとき、その結果がどのようなか

たちであらわれてくるか、どう考えても、それは決して「このましくよきものLであるとは考えられ

まい。自分にとっても周囲にとってもそれはけっしてこのましくよきものを形成しはしない。しかし

われわれはこのこころに日夜動かされつつあるのである。大なり小なりこれらのこころがわれわれを

動かし、それの累積がわれわれの人生となり、われわれの環境をかたちづくっているのである。それ

はだれしも否めない事実ではないか。それを仏陀は「業」とよぶのである。

 根本煩悩に十、随煩悩に二十、じつに精緻に分析したものである。

 しかしこれは決して単なる心理論や心理学ではないのである。それはわれわれの存在の構造を示す

ものなのだ。この構造をどう改革するか? それが仏陀の教法である。この構造を改革し、さらには

この構造を大きく飛越しようとするのが仏陀の教法なのである。だから精緻きわまる心理分析も単な

る心理論ではないのである。そこでI-、重大な一つの論争がなされている。

 それは、煩悩と随眠との関係についてである。

 ひとロにいうと、煩悩はすべて意識的であるのか、それとも、習気(習慣的余力)としての無意識的

煩悩もあるのかという問題である。専門用語でいうと、随眠はこころと相応するのか、しないのか、

という問題である。

 

 それはアビダルマ教学史上に有名なヴァスバンドウ(世親)とサンガバドラ(衆賢)との論争で、

世親のあらわした『阿毘達磨倶舎諭』に対し、衆賢は『阿毘達磨順正理論』を以て世親の説を論破し

ようとしたのである。

 世親の立場は、随眠は心と相応するのでもなく、不相応でもない。煩悩の眠る状況、すなわち無意識

的状態が随眠であり、それが覚曜して意識的状況にあるとき、貳とよばれるのだとする(前出の通り)。

 これに対し、衆賢は、随眠と煩悩とはおなじであるとする。たとえば、貪随眠を貪即随眠と考え、

貪なる煩悩と離れて存在する貪の随眠とは考えないのである。その論拠は煩項になるからここには挙

げないけれども、要するに、衆賢は随眠を以てどこまでも意識的であるとみるわけである。それは、

われわれの生活活動をもっぱら意識的活動とみることになる。これにたいし、煩悩を、意識的活動と

しての纒と、無意識状態としての随眠とに分けて考える世親の立場は、人間の無意識的心理活動に大

きな意味をみとめようとするものであり、この両者には決定的な相違があるわけである。

 それはまさに決定的な相違であった。

 そんなことくらいどっちにしてもたいしたことはないじゃないかと思われるかも知れないけれど

も、そうではないのだ。この相違はまさに決定的な相違であったのだ。

 というのは、この論争の結論は、ただちに、仏教における実践法1-つまり修行法にかかわってく

ることになるものだったからである。

 たしかにこの両者では修行法がまったくちがってくる。だからそれはまさに決定的な相違であった

のだ。事実、仏教はここから大きく分かれて、べつべつの道を歩むことになるのである(世親のこの

立場はやがて種子論となり、つづいてアーラヤ識を生み出し、最後に唯識大乗をうち立てることにな

る。一方、衆賢の立場は、ついに、小乗といわれる「薩婆多部L〔一切有部〕のワクから一歩も出る

ことなくおわるのである)。だから、この、世親と衆賢のそれぞれの立場は、仏教の二つの立場をそ

のまま代表することになるわけである。と、そういうと、あなたはここで首をひねるかも知れない。

 それはおかしい、二人の意見の相違は相違として、いったい仏陀ご自身のご意見はどうなのか?

仏陀はどう教示されているのか?

 それほど重大な問題にたいして、仏陀はなにも教示されておられぬのか? と。

 それはたしかにその通りだ。はっきりした仏陀の御教示があれば、世親も衆賢も論争して意見が二

つに分かれたままということはないはずである。では、仏陀は明確な教示をなされていなかったのか?

 ひと口でそれに答えることはむずかしい。教示されていたともいえるし、教示されていなかったと

もいえるのである。

 そういうと、あなたはまたいうであろう。

 仏陀の教法、仏陀の教法、というが、それでは、仏陀の教法とはいったいなにをよりどころにした

ものなのか? と。われわれはなにを以て仏陀の教法とすればよいのか、と。

 たしかにそれはこの上なく重大なことである。それを明確にしないかぎり、仏陀の教法などと口に

することはできまい。では、根本に立ちもどって、それをはっきりしようではないか。

 

 

 

 

 

 

 

仏教用語

成仏法

becameーbuddha System

阿含  2600年前の真実 Agama: The truth 2600 years ago

 

阿合仏教を分析すると、それは二つの部分から成り立つ。

 

1 教えとして「縁起の教理」
2 修行法として「七科三十七道品」(三十七菩提分法”とも呼ぶ)
である。
これを、後世の分類法で呼ぶと、「縁起の教理」は「顕教」である。
解脱にいたる四つの階梯
「解脱にいたる四つの階梯」
だれでも、解脱にいたるためには、この四つの段階を経なければならない。
そしてこの四つの階梯を、すぐれたる聖師にしたがって歩んで行くならば、だ
れごも解脱に到達できるのである。もちろん、あなたにしてもその通りだ。
四つの階梯とは、
一、シュダオン(須陀垣)
二 シダゴン(斯陀含)
三、アナゴン(阿那含)
四、アルハット(阿羅漢)
である。
説明すると、
シュダオン  けがれをすべてとり除いた聖者
シダゴン   められた聖者
アナゴン   (次元を)飛躍した聖者
アルハット   仏陀
大次元を)超越し、完成した聖者、「ブッダ」ともいう。
は、この四つの階梯を、修行者はどのようにして歩んでゆくのだろうか。
霊性完成の方法と体系
シャカが残した霊性完成の修行法がそれである。これを、「成仏法」とよんでいる。成仏とは霊性を完成したことをいい、それを成就したヒトを「ブッダ」とよぶ。だから、わたくしはその方法を、「成仏法」とよぶのである。
それは七つのシステムと三十七種のカリキュラムから或る成仏のための方法
と体系である。の仏教用語である。

シャカがじっさい説かれたのは阿合経だけであるという、歴史的な事実のほ
かに、阿含経以外には、この「成仏法」がないから、わたくしはそう言うので
ある。「成仏法」のない経典など、わたくしは真実の仏教経典とみとめること
はできないのである。もちろん、それなりの存在意義なり存在価値はあろう
が、本流ではない。傍流というべきである。
七科三十七道品とはつぎのようなものである。
四念処法-‐―身念処法 受念処法 心念処法 法念処法
四正断法--断断法
律儀断法
四神足法一-―‐―欲神足法 勤神足法
随護断法
心神足法
修断法
観神足法
五根法ー一信根法 精進根法 念根法 定根法 慧根法
五力法l‐信力法 精進力法 念力法 定力法 慧力法
七覚支法-‐‐‐択法覚支法 精進覚支法 喜覚支法 軽安覚支法
定覚支法 念覚支法
捨覚支法
情賄法
正念法
正定法
以上である。
この七科目、三十七種のカリキュラムは、
―、瞑想
2、実践
3、tapas(練行)
に分類できる。
四念処法・五根法は、瞑想である。
四正断法・五力法・七覚支法・八正道は、実践と瞑想である。
四神足法は、特種なtapasである。
神足とは、神通力(超能力)のことで、この四神足法は、超自然的な神通力
を得るための四種の修行法である。前に述べたわたくしのtapasはこれに属
するものである。
この七つの科目のうち、taPasを中心に、瞑想と実践の科目をとり入れて修
行するのである。
どの科目をどうとり入れて、どのように訓練するかは、聖師が決定する。修
行者それぞれ、みな素質と因縁がちがうので、それをみて、グルがきめるので
ある。
この修行において、グルの果たす役目は大きい。グルについて、少しのべよ
霊性の洗礼
まちがいなく霊性を開顕したグルを見つけて、そのグルに受け入れて
にしへ、力修け八分通り成功したといっていいくらいである。それくらい重要なことであり、かつ、むずかしいということ
である。
グルなくして、ただしい霊性開顕の仏道修行は不可能である。ふつうの仏教
信心とはちがうのである。信心のしかたや、信仰のしかた、経典の講義や解釈
を教わるという程度のものならばとにかく、霊性開顕の仏道修行は、強力な霊
的能力を持つ聖師のたすけなくしては、ぜったいといっていいほど、できない
のである。
たとえば、インド近代の聖者ラーマナーマハリシが、入門者にたいして、
「凝視の方法」で受け入れの儀式を行なったとき、かれの両眼の輝きと力が相
手の心をつらぬいて、その雑念の流れを断ち切ってしまったといわれる。時と
しては、まるで電流が身の内に流れこんだように相手は感じたともいわれる。
こういう霊的体験によって、弟子はまず心をきよめられ、霊的なものにたい
するあこがれ、霊的向上心をいだくようになるのである。

 

 

Analyzing Aai Buddhism, it consists of two parts.

 

1 As a teaching, “the doctrine of auspiciousness”
2 As a training method, “Seven departments and thirty-seven dozens” (also called “37 Bodhipakkhi”)
Is.
If this is called by the classification method of posterity, “the doctrine of auspiciousness” is “religion”.
Four steps leading to liberation
“Four steps leading to liberation”
Anyone must go through these four steps to reach liberation.
And if you follow these four steps according to the excellent Holy Master,
The lever can also reach liberation. Of course, you are right.
What are the four ladders?
One, Shudaon (Sudagaki)
2. Sidagon (including this)
Three, Anagon (including Anagon)
Four, Arhat (Arhat)
Is.
To explain,
Shudaon The saint who removed all his injuries
Sidagon, the saint
Anagon (a dimension) a leap of saint
Alhat Buddha
It is also called “Budda”, a saint who transcends (large dimensions) and is completed.
How will the practitioner walk through these four steps?
Method and system of spiritual completion
That is the practice of spiritual completion left by Shaka. This is called the “Buddhahood Law”. The Buddhahood means the completion of spirituality, and the person who fulfills it is called “Budda”. That is why I call that method the “Buddhahood Law.”
It is a method for a certain Buddhahood from seven systems and thirty-seven curriculums
And system. Is a Buddhist term.
..
The historical fact that Shaka was actually told only by Agama
Since there is no such “Buddhahood method” other than Agama, I say so.
be. I consider it a true Buddhist scripture, such as a scripture without the “Buddhahood Law”.
Cannot be done. Of course, there will be some significance and value of existence.
However, it is not the mainstream. It should be called a sidestream.

The seven departments and thirty-seven dozens are as follows.
Satipatthana method — Satipatthana method, Satipatthana method, Satipatthana method, Satipatthana method
Four Right Exertions — Cutting Method
Law
Iddhipada Iddhipada ——– Iddhipada Iddhipada
Defensive law
Shinshin foot method
Cutting method
Kanjin foot method
Indriya method-Ichishinne method, Seishin root method, Nene method, Samadhi method, Keine method
Five-strength method l-credit method, devotion method, psychokinesis method, definite power method, morality method
Seven Factors of Awakening — Selective Factors of Awakening
Jokaku support method
Seven Factors of Awakening
Compensation law
Mindfulness
Orthodox method
That is all.
These seven subjects, thirty-seven kinds of curriculum,
-,meditation
2, practice
3, tapas (training)
Can be classified into.
The Satipatthana method and the Indriya method are meditations.
The Four Right Exertions, the Five Strengths, the Seven Factors of Awakening, and the Noble Eightfold Path are practices and meditations.
Iddhipada is a special tapas.
Iddhipada is a mythical power (supernatural power), and this Iddhipada method is a supernatural mythical power.
There are four types of training to obtain. My tapas mentioned earlier belongs to this
To do.
Of these seven subjects, meditation and practice subjects are taken into consideration, centering on tapas.
Do it.
The priest decides which subjects to take and how to train. Osamu
Each person has different qualities and ties, so when you look at it, the guru decides.
be.
Guru plays a major role in this training. A little about Guru
Spiritual baptism
Undoubtedly find a guru that reveals spirituality and accept it
It can be said that he was successful as he was able to improve his skills. It ’s that important and it ’s difficult.
Is.
Without a guru, proper spiritual manifestation of Buddhist training is impossible. Ordinary Buddhism
It is different from devotion. How to believe, how to believe, lectures and interpretations of scriptures
Anyway, the Buddhist training of spirituality is a powerful spirit.
You can’t do it without the help of a doctor of the church
It is.
For example, the modern Indian saint Ramana Maharishi, to his introductory
When performing the acceptance ritual in the “method of staring”, he combined the brilliance and power of his eyes.
It is said that he broke the heart of his hand and cut off the flow of thoughts. With time
It is said that the other party felt as if an electric current had flowed into his body.
This kind of spiritual experience first cleanses the disciple and wants to be spiritual.
You will have a longing to do it, and you will have a spiritual aspiration.

仏教用語

阿含宗     Agon Shu

阿含      Agon

 

本当の瞑想は、「いま苦しんでいる問題の解決」からはじまるのである。

 

ただ苦しみ悩みを解決させるだけではダメなのである。解決すると同時に、そのひとを向上させるのでなければならない。また、向上することによって解決するという場合もある。これが、正しい瞑想なのである。

 だから、本当の瞑想は、「いま苦しんでいる問題の解決」からはじまるのである。

 瞑想はゴータマーブッダがさいごに到達されたように、すべての存在から超越し解脱するのであるが、超越・解脱する前に、現実を自由自在に処理し解決するだけ

の力を持たねばならない。その力を持たずして、超越とか解脱とかいったって、それは一種の「逃避」に過ぎない。その力を持つ瞑想法が「欲界定」と「第二の段階」の瞑想なのだ。

 が、ここでまちがってはならないのは、この力を持つことが、ただたんに自分の欲望を思うままにとげるということではないということである。この力を持つことによって、自分の望むことがその通り実現されることもあるし、バカげた野望・欲望のとりこになって、いたずらに苦しんでいるおろかさに突然気がつき、夢からさめたひとのようになる場合もある。

どちらにしても、すばらしいことではないか。

 

瞑想の原点としてのヨーガ

 瞑想は、インドにおいて非常に古くからおこなわれていた。それは、インド民族

の歴史とともにあったといってよい。

 瞑想に関する文献は、ヴェーダ、ウパニシャッドの時代(紀元前一〇〇〇年~六〇〇年)にまでさかのげって、目にすることができる。そのころから、すでに、瞑想は、インド特有の身心修練の道として、修道者必修の行法とされていたのである。

 それは、ヨーガあるいは三昧あるいは禅とよばれた。

 日本では、ヨーガというと、一般には、体操の一種のように思われているようであるが、それは元来、瞑想を主とするもので、体操は瞑想を助ける肉体の調整法だつたのである。

 さきに述べたように、ブッダもまた当時の修道者のならわしにしたがってヨーガの瞑想を修行せられたが、それには満足できず、さらにすすんでブッダ独特の(智

慧の)瞑想を完成れたのである。ここでは、伝統的なヨーガの瞑想について、かんたんに述べよう。

ヨーガにおける心の綜制

 ヨーガ修行者の聖典ともいうベキゝ『ヨーガースートラ』によると、瞑想における精神集中への心理的過程を、四つの段階に分けている。

 割感・凝念・静慮・三昧である。

 このなかで、凝念・静慮・三昧の三つの段階を一括して、「綜制」といっているが、もちろん、実際の修練の上では、以上の三つの段階の一つゴつが独立しているのではなくて、連続的に進行するわけである。

  ところで、いったいヨーガとはなにかというと、『ヨーガースートラ』はつぎの・ように定義している。「ヨーガとは心のはたらきを抑滅することである」。

  また『ヨーガースートラ』より古い文献である『ガターウパニシャッド』では、「ヨーガとは五つの知覚器官を不動に執特することである」と述べている。

 つまり、何らかの精神集中法によって、心の本体であるとりとめもない動きを、しっかりと抑制することがヨーガであるのです。そして、それを修練して

いく方法がヨーガ行法なのであります。

 これを現代的に分り易く表現すれば、我々の日常生活における意識の動きを抑制していくことによって、自己本来の姿を見つけ出していこうとすることが

ヨーガであり、それを求めて修練していく方法がヨーガ行法なのであります。

『ヨーガースートラ』の中では、瞑想という精神集中法によって心の働きを制していく心理的過程が、詳細に分析的に述べられています。そして、このよ

うに瞑想を中心とした心理的なヨーガが、ラージアーヨーガとよばれるものなのです。そして、この精神集中へ深まっていく心理的過程が、段階的に制感・

凝念・静慮・三昧と分けられているのであります

 

 

Mind and heart

By the way, in mind and in mind, the “heart” is classified as follows from the top of the work.
Mind, heart, mind
It is.
The mind is the movement of the mind towards a certain direction, such as the will.
The
Just in case the movement of the mind is gathered and it comes to have one power,
The name “power” expresses this well.
Ki is a condition in which the body flows in the direction in which the mind is. However,
In this spirit, things created consciously, unconsciously, physiologically, and naturally
There are two types, those flowing in the body. For example, “I’m fine”
It is expressed in words. Therefore, depending on the point of view, it is important to
It could also be said. Originally, dividing one thing called mind
That’s why I can say that.
Here, for the sake of convenience, in the case of “Qi”, it is mainly consciously
Think of it as saying something created.
How to use the heart
Well, how do you use that “heart” then?
The heart is inherently incomprehensible. Always move with me
It is said that it was supposed to be “the time” about this from a distracting place
It is hard to grasp. How do you think of this
Do you make full use of it?
There is one way.
Something?
heart.
There is a very close relationship between heart and respiration.
The condition of the mind appears in the breathing as it is, and the condition of the breathing reflects the mind. heart
If you calm down, your breathing will calm down, and if you calm down, your mind will calm down.
Mind and breathing are one thing.
There, I control the mind by controlling the breathing
Use advanced techniques. Start from here and gradually masterfully
Finally, you will be able to use your mind as you see it.
No, that’s not all. Go ahead one step and use your body (muscles) as you think
It will be possible to Because breathing is one with heart,
Not only that, but because it is one with the body. As training goes on, this time breathing and mind
But. As you become the body, you will move the involuntary muscles as the image drawn by the mind
is there.

Breathing

I’m breathing. Alive
Now, I say that mind and breathing are one, but breathing is one and the same
It is not only a matter of course but also one with the body.
If you are healthy and stable in your mind, your breathing will be mild and stable.
If your body is upset, your breathing will also be disturbed and unstable. When tired or sick
When heavy, breathing is shallow and rough. Even when you receive a mental shock
It is
In addition, people with psychogenic illnesses and mentally ills also have rough breathing and are not normal.
Indeed, breathing is alive.
Therefore, the breathing method to control the heart is, first of all,
To start.
For if you’re breathing badly, you’re not a psychic. Body, mind,
The brain, too, is able to exert its full influence, even under the influence it has.
It is impossible.
No, it’s not only that you get sick or get sick, sometimes your right life
There is a risk of losing it.
On the other hand, if you get a good, good breath, your body will be strong and will last forever
As youthful, always bright and fresh, the brain also acts as light
Become.
Let’s breathe the opposite, not good, for evidence that it is not a lie. What
Is it?
L is the worst way of breathing.
Sorrow, shallow and weak breathing, and, worse, still, hold breath for a while
It is breathing.
For example, if your mind is closed to worry or anxiety
It is none other than breathing exercise. The lungs themselves will never breathe or breathe on their own
It is because you can not
Therefore, people who are breathing without having enough breathing muscles work should have enough breathing.
It means that it is not done.
Everyone knows how important respiration plays in maintaining the body.
There will be no one who does not. If your breath stops, it will immediately lead to death. It
If you are doing an important way of breathing in an inadequate way,
Will it be profitable or have you ever thought? This is to live
It should be a review of the most basic way of saying.
The purpose of respiratory exercise is not just lung gas exchange. It is in the blood circulation
It also shares important work. In shallow and weak breathing, in the blood
Not only lack of oxygen but also inadequate discharge of carbon dioxide from the body
become. In addition, the flow of blood also worsens. Therefore, I keep breathing like this
Then, the vitality of the whole body is reduced. Naturally, health is lost, and sickness
It is.
Without resistance, the body becomes a hotbed of illness.
The human body is made up of a huge number of cells, about sixty trillion
Sixty trillion cells are nourished by the flowing blood and are alive.
It is said that no cancer occurs in the blood-flowing viscera, which is filled with oxygen. Cancer fine
The cells are devoid of oxygen. Don’t underestimate that your breathing is shallow.
‘S. Furthermore, as you just mentioned, respiration is only related to cells throughout the body
There is no respiratory movement, autonomic nervous system, hormonal system, or lymphatic flow, each organ
It has a strong influence on the situation in between.
To do that, first of all, you must know how to get strong and strong breathing from strong respiratory muscles.
I must. As a result, you acquire a strong and strong mind and body, a bright and bright brain
The first foundation necessary for

The profound wisdom of seeds

Seeds with meaninglessness and meaninglessness
It is a good idea to use seeds as symbolic seeds that represent each one with a single word

You
The seeds are usually taken from the name of each prestige or true word. Ataka
So that many fruits can be obtained from the seeds of
It is said that it is named as seed because it can produce Buddha fruit such as Buddha wisdom and satori.
In this way, the seed representing Zhao has the meaning and virtue of the endless
It is believed that if you copy it, you will immediately get a bodhi.

Buddhist meditation
By the way, in ancient India, there is meditation as one of Brahmin’s practices before the advent of Buddhism.
Yes. It is said that the Buddha was best able to get the best by meditation. Buddhist meditation is true
Because it is a law that aims at reason and masters true wisdom, it can be said to be the basic and most advanced law of Buddhist practice.
maybe.

Prepare the environment for meditation

The five methods are to control eating and drinking in one. Two to adjust the sleep. In three

Set up. Set your mood for four. It is about adjusting your mind to five.

First of all, to prepare food is as follows.

Meals are for the purpose of helping people get along in the right path.

However, if you are eating too much, it feels good and only

It is difficult to feel calm, even if you take a seat.

However, if you eat too little and not enough, you will only get tired, your mind will grow,

I do not think well about what I think. Both of these two get the setting

It is not a way to

In addition, when you eat something that’s been broken or dirty, you realize your heart

Make it easy to get lost. If you are eating a stimulant that is not good for your body,

These diseases move (to have a chronic illness) and the condition of the body gets worse. So

If you’re going to learn to set up, by the way

It must be.

Second, to set up sleep because sleeplessness makes you feel overshadowed

Because there is, it means that this should not be left as it is.

If you need to sleep more often, you have more time to study Buddhist law

As well as being abolished, there is also a tendency to lose the spirit of effort, and also to make your heart clearer and good heart

Sink the sun. Just to understand that life is impermanent, sleep well,

Make your mood clear and brighten your mind.

The third is to adjust the body, the fourth to adjust the breath, and the fifth to adjust the mind,

These three conditions should be described together, as they should be used together.

You can’t. Let’s talk about this below.

First of all, in order for us to meditate correctly, we need to

It means that you have to adjust it.

Before starting meditation, when walking or stopping, even when moving

Even when you are doing something or something, every one is careful

It must be.

瞑想に環境に整える

五法とは、一に飲食を調節すること。二に睡眠を調節すること。三には身を

調えること。四に気息を調えること。五には心を調えることである。

 第一に、食を調えるというのはつぎのようなことである。

 食事はほんらいからだをたすけ正しい道にすすましめるためのものである。

それなのに、もし食べすぎているような状態でいると、気はあせり、からだけ

だるく、心がとぎれがちで、座禅をしても心は安らかになりにくい。

 だが、もし食べることが少なすぎて足りないと、からだけ疲れ、心は呆け、

思うところも考えることもしっかりとしない。この二つは、どちらも禅定を得

る道にはならない。

 また、もしけがれたものやよごれたものを食べていると、ひとの心を悟く

し、迷いやすくする。もしからだによくない刺激物を食べていると、かねてか

らの病が動いてくるし(持病が出ること)、からだの調子も悪くなる。だから

禅定を修習しようとするなら、そのはじめにぜひとも深くこれらをつつしまな

ければならない。

第二に、睡眠を調えるというのは、眠とはこれ無明が心に覆いかぶさるので

あるから、これをほしいままにしてはならないということだ。

 もし眠ることが必要度を過ぎて多いときは、それだけ仏法を修習する時間が

廃されるだけでなく、努力の心も失われがちで、しかも心をくらくし、善い心

を沈没させる。まさに人生が無常であることをさとり、睡眠をよく調伏して、

気分を清白に、心を明るくきよからしめるがよい。

 第三には、身を調え、第四には息を調え、第五には心を調えるのであるが、

この三つの条件は、まさに合わせて用うべきなので、べつべつに説明すること

はできない。以下これについて述べてみよう。

 第一に身を調えるとは、われわれが正しい瞑想をするためには、からだを正

しく調えなければならないということである。

 瞑想をはじめる前から、歩くときにも立ち止まるときにも、動くときも静か

にしているときも、なにかをしているときでも、いちいちがみな注意深く綿密

でなければいけない。