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福の源は徳 経文中に「

福の源は徳

経文中に「関尽す可からず」という言葉があります。直訳すれば、極め尽くすことができないということですが、ここでは広大・無限と考えてください。広大の反対は狭小です。狭く小さければすぐに極め尽くしてしまいますが、無限で広大だから極め尽くすことができません。「三善根(三福道)有り、窮尽す可からずして、漸く涅槃界に至る」は、「三善根(三福道)を修行するならば無限の功徳を得て、涅槃界に入ることができる」という意味になります。

それでは、三善根(三福道)とはどのような修行法なのでしょうか?

「如来の所に於て功徳を種う。此の善根窮尽す可からず。正法に於て功徳を種う。此の善根窮尽す可からず。聖衆に於て功徳を種う。此の善根窮尽す可からず」

お経には、 とあります。つまり三善根(三福道)とは、

①如来のみもとで功徳を種える ②正法において功徳を種える ③聖衆において功徳を補えるの三つの修行です。

お釈迦さまは、まず第一に、如来のみもとにおいて功徳を種えよ、とおっしゃっておられます。 功徳という語を、単に徳としてもさしつかえありません。前記のようにだれもが福

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願っていますが、福はなんの理由もなく突然にやってくるものではありません。福が授かるからには、福が授かるだけのもとがなければならないのです。福のもとはいったいなにかといえば、 それは徳です。福徳といいますが、福は徳から生じるのです。徳がなかったならば福は得られないのですが、一般世間の人はこのことをよく理解していません。世の人は、

「お金が欲しい。財福を得たい。長生きがしたい。権力を得たい。高い地位に就きたい」

と次々に願い求めて、それなりの努力をしているようですが、それだけでは福は生じません。

たとえ努力をしても、徳のない者には福は生じないのです。仏教には「博福少徳」という言葉がありますが、お経によっては、「神徳少福」となっています。福が薄いから徳が少ないのではなく、実際は逆で、徳が薄いから福が少なくなるのです。徳がないから不幸になるのです。なんの理由もなく不幸になるのではありません。徳が少ないから不幸になり、徳が多いから幸福になるのです。わたくしたちは、その点をよく理解しなければなりません。 「幸せになりたい。福を得たい」

といっているだけではしかたがありません。福を得て幸せになりたかったならば、徳を身につければよいのです。

それをお釈迦さまは二千数百年前に、はっきりと教えてくださいました。

「三善根(三福道)という、出世間福を受けるための三つの方法(道)があるのだ」とおっしゃっているのです。

それから、お釈運さまは「功徳を種える」とおっしゃっています。たしかに徳を履えなければ、 幅は実りません。普通、あるいはという場合は、「む」という葉が用いられます。「

徳を積む」「徳を積む」というでしょう。あるいは徳という熟語があります。

ょう。 ところがこのお経では、じつに微妙ないいまわしがされます。肌と書いて雇えると読ませています。「功徳を種える」となっているのです。大差はないように思うかもしれませんが、意味はまったく違います。「功徳を種える」と「功徳を積む」では、ニュアンスが違うのが分かるでし

「功徳を積む」というと、もうすでにいくらかの徳があって、その上にまた徳を積み重ねるような感じがします。たしかに、だれもがなんらかの徳を持って生まれてくるわけですが、生まれながらに出世間福を得るほどの徳を持っている人など、ほとんどいないといってよいでしょう。わたくしたちはみな、徳を種えるところから始めなければなりません。徳を積むなどというのは、 本来はとてもおこがましいことなのです。

「徳の種まきをせよ」

というニュアンスで、「功徳を種う」とされているのは、じつに表現の妙です。

お釈迦さまは三善根(三福道)の第一として、「如来の所に於て功徳を種う」とおっしゃっています。一見簡単そうですが、実際には非常にむずかしいことです。それはなぜでしょうか?

 

 

 

 

因縁の鎖を断ち切る成仏法

因縁の鎖を断ち切る成仏法

夜明け前の林は、まだ薄青い闇に沈み、僧院の堂宇は冷たい霧の中に静かに佇んでいた。
その中心にある講堂では、ひとりの青年僧トウマが、師である慧然(えねん)の前に正座していた。

「師よ……なぜ、成仏を心から願って修行しているはずの僧たちが、成仏できないのですか?」

問いを発したトウマの声は震えていた。昨日、彼は古老の僧が死の間際に叫んだ言葉を耳にしてしまったのだ。

“なぜだ……なぜ私は、まだ解き放たれない……?”
“私は……成仏できておらぬのか……?”

その不安が、朝になっても彼の胸を離れなかった。

慧然は目を細め、外の霧が晴れていく方角を見つめた。
その表情は哀しみとも慈悲ともつかぬ深さを湛えていた。

◆ 「なぜ成仏できないのか」

「トウマよ。彼らは確かに祈った。座った。念じた。だが——」

慧然は静かに言った。

「成仏の“法”を修めなかった。
それがすべてだ。」

「成仏の……法?」

「お釈迦さまが示された、《七科三十七道品》。
四念処、四正勤、四如意足、五根、五力、七覚支、八正道——
この七つの科目、三十七の修行が、成仏の道のすべてだ。」

トウマは息をのみ、拳を握った。
聞き慣れた言葉のはずなのに、今は鋭い刃のように胸へ突き刺さる。

「これらを修めずして、どれほど成仏を願おうとも——決して成仏には至らぬ。
お釈迦さまご自身がそう断言しておられる。」

「……そんな……」

僧院で学ぶ者の多くが、この修行に真正面から向き合わず、別の“近道”を探していることを、トウマも知っていた。
しかし、師の厳しくも揺るぎない言葉を前にすると、その現実の重さが襲いかかってくるようだった。

◆ 「修行すれば、望まなくとも解脱に至る」

慧然は、薄明の光がトウマの頬を照らし始めるのを見つめた。

「だが安心するがよい、トウマ。
成仏とは、欲するから得られるものではない。」

師はふと、羽音のように軽く笑った。

「修行が成れば、心は自然に解き放たれる。
解脱を望んでいなくとも、だ。」

「望んで……いなくても……?」

「うむ。ちょうど——」

慧然は講堂の窓の外、木の上に組まれた鳥の巣を指した。

「親鳥が、卵を温め、冷やし、また温め、正しく世話をしているとしよう。
ヒナは『外へ出たい』などと思っていない。
だが——卵は割れ、ヒナは自然と生まれ出る。」

トウマは息を呑んだ。
山鳥の巣から聞こえてくる微かな命の気配が、突然、自らの胸のうちで響き始めたようだった。

「なぜ孵化するのか?」

慧然は腕を組み、青年を見つめた。

「親鳥の世話が十分だからだ。
世話さえ正しくされれば、殻は自然と破れる。」

短い沈黙。
その中で、霧は薄れ、講堂に朝の金色の光がゆっくりと満ちていく。

「同じことだ、トウマ。」

師の言葉は、光とともに胸へ染み渡っていった。

「正しい成仏法——七科三十七道品を修めれば、
解脱を願わずとも、自然に漏尽解脱へ至る。
因縁の鎖は、自然に断ち切れていくのだ。」

◆ トウマの胸に灯った火

青年僧は、ふっと肩の力が抜けるのを感じた。

「では私は……
近道を探すのではなく、
ただ、この道を歩けば良いのですね。」

慧然は頷いた。

「それだけでよい。
それ以外は、何ひとついらぬ。」

その時、外の樹上で、ひとつの卵が小さくひび割れた。
かすかな声が空気を震わせる。

ピィ……

トウマは思わず目を見開いた。
慧然は穏やかな微笑を浮かべる。

「見たか、トウマ。
あれが成仏法の働きだ。」

青年は深く息を吸った。
長い霧が晴れ、胸の奥にひとつの火が灯る。

——因縁の鎖を断ち切る道は、ここから始まる。

 

雜阿含経・応説経

如是我聞。一時仏住拘留国雑色牧牛

聚落。爾時仏告諸比丘。我以知見故。

得諸漏尽。

得諸漏尽。

非不知見。

非不知見。

云何以知見故。

謂此色此色集

此色滅。此受想行識。此識集此識滅

 

以下、「長経」)の講義を行います。まずは経文を読み、現代語に訳し

如是我聞。一時仏住拘留国雑色牧牛

聚落。爾時仏告諸比丘。我以知見故。

得諸漏尽。非不知見。云何以知見故。 得諸漏尽。非不知見。謂此色此色集

此色滅。此受想行識。此識集此識滅。

の如く我れ聞きぬ。一時、仏、拘留国の雑色牧牛聚蒙に銭まりたまえり。爾の時、仏、諸比丘に告げたまわく、「我れ知見を以ての数に諸漏の尽きることを得たり。 不知見に非ざるなり。云何が知見を以ての故に諸漏の尽きることを得、不知見に非ざるや。調ゆる此れは色なり、 此れは色の集なり、此れは色の減なり、此れは愛・想・ 行、識なり、此れは識の集なり、此れは識の滅なりと」 そうしきぼくぎゆうじゆしき

 

此色滅。此受想行識。此識集此識滅。

行・識なり、此れは識の集なり、此れは識の滅なりと」

現代語訳

このように私は聞きました。ある時、仏さまはクル(拘留)国の雑色牧牛聚落におとどまりになっておられました。その時、仏さまはもろもろの比丘に、次のようにお話しされました。

「私は知見を得たことによって、もろもろの煩悩がなくなりました。不知見ではないからである。 なぜ、私は知見によって、もろもろの煩悩がなくなったのでしょうか? 不知見ではないからである。

である」 と。 それはどういうことかというと、これは色である、これは色の集である、これは色の滅である、 これは受・想・行・識である、(これは受の集である、これは受の滅である、これは想の集である、これは想の滅である、これは行の集である、これは行の滅である)これは識の集である、これは識の滅

解說

 

 

成仏できない僧侶たち

不修方便随順成就。而用心求令我諸漏尽心得解脱。当知彼比丘終不能得漏尽解脱。所以者何。不修習故。不修習何等。謂不修習念処正勤如意足根力覚道。

習せざるなり」

ほうべんずいじゅんじようじゅしか こころ 「方便を修し随順成就せずして而も心を用いて、我れだっえをして諸漏尽き、心に解脱するを得せしめんと求むるもつい ろじんげだつあた当に知るべし、彼の比丘は終に漏尽解脱を得ること能わしゅじゅうゆえなんらず。所以は何ん。修習せざるが故なり。何等か修習せざいわしようごん ねんじよによいそく こん りきかくどうる。謂ゆる念処・正勤・如意足・根・力・覚・道を修

 

「いろいろな方法を駆使して修行を行っても成就しない者が、もろもろの煩悩が尽き、心に解脱を得たいと思っても、あの僧侶(修行者)たちは、ついに漏尽解脱を得ることはできません。

それはなぜでしょうか?

修行していないからです。

なにを修行していないのでしょうか?

それは、いわゆる四念処法(四念処震)・四正默法(四正、配送)・四城意思密(耳被剧潜),玉概御・玉が出・も覚支出・心政、道を修行していないのです」

ここは、「応説経」の中でも特に重要なことが、説かれているところです。

たいへんなことが書かれているわけですが、諸君はそれに気づいたでしょうか?

福尽解説とは、漏(煩悩)がすべて尽きた状態ですから、完全解説、つまり成仏したということです。その完全成仏を心から願って修行しているのに、それができない僧侶たちがいる、とお釈迦さまがおっしゃっておられるわけです。これは大問題です。

なぜ、その僧侶たちは成仏できないのか?それは、四念処法・四正動法・四如意足法・五根法・五力法・七覚支法・八正道を修行しないからだ、とお釈迦さまは説かれているわけです。

す。 さんじゅうしちどうばんこの四念処法・四正動法・四如意足法・五根法・五力法・七覚支法・八正道というのが、わたくしがいつもお話ししているお釈迦さまの成仏法、「七科三十七道品」です。わたくしはこれを、 成仏のための七つの科目(システム)、三十七の修行法(カリキュラム)であると申し上げております。念処・正動・如意足・根・力・覚・道で七科目。そして、それぞれが四・四・四・五・ 五・七・八からなる修行によって成り立っておりますから、全部を合わせて三十七になるわけで

お釈迦さまは、この修行を行わない者はたとえそれが僧侶であっても、その人がどのように成仏を望んでも、絶対に成仏することはできない、とおっしゃっています。 わたくしは法話でしばしば、

と考えている人がいるでしょう。しかし、それはわたくしの独断や偏見ではありません。仏教の開祖のお釈迦さまご自身が、七科三十七道品を修行しない者はいくら他の修行をしても、絶対に成仏しないと説かれているわけです。

もよいでしょう。 日本にも数々の名僧知識が登場しましたが、この七科三十七道品を修行した人は皆無といって

「仏教の伝来以来、大乗仏教のお坊さんは、誰一人として成仏していない」

と、お話ししています。みなさんの中には、

「管長はずいぶん思い切ったことをいうなあ」

と、おっしゃっておられます。「後比丘」というこの三文字の中に、日本の大乗仏教の僧侶が全部入っているわけです。きっと、「阿含経」以外のお経を信仰し、それを広める僧侶たちが出現することを、予見しておられたのでしょう。

ですから、わたくしはこのお釈迦さまのお言葉に基づいて、 「仏教の伝来以来、大乗仏教のお坊さんは誰一人として、成仏していない」

と説いているのです。

ただし、わたくしは、曹洞禅の祖である道元禅師(一二〇〇―一二五三)と真言宗の開祖弘法太師空海(七七四一八三五)だけは、ひょっとするとこの成仏法をご存知だったのかもしれない、 と考えております。と申しますのは、道元禅師は『正法眼蔵』の第七十三で、

「この三十七品菩提分法(七科三十七道品の別名 著者注)、すなわち仏祖の眼睛鼻孔、皮肉骨髄、手足面目なり。仏祖一枚、これを三十七品菩提分法と参学しきたれり」

と成仏法を讚嘆しておられます。また、弘法大師空海は『私密ご教、獣』で、

「第一の浪室とは取ぢ是れ摩訶般若解脱出身なり。第二の法宝とは露く就定、「智慧の諸の妙。 功徳なり。いわゆる三十七菩提分法なり」

と記しておられます。ですから、このお二人が成仏法を知識として知っているだけでなく、実

Orto

際にそれを修行しておられたとしたならば、このお二人だけは、ひょっとすると成仏しているかもしれません。しかし、それ以外の僧侶は絶対に成仏していない。僧侶が成仏していなかったなちば、それに導かれる弟子も在家信者も成仏していないのは当然でしょう。また、自分を成仏させることができないのだから、先祖のお霊たちも成仏するはずはありません。

仏教を信仰する人は皆、その宗旨の教えや修行で成仏できると思うから、そこで一生懸命に信仰・修行に励むわけです。成仏できると信じればこそ、布教して歩きます。

昔の日本の僧侶たちは、お釈迦さまの教法を知ることができるのは「阿含経」だけだ、という真実を知りませんでした。しかし、今の僧侶たちは、みな知っているのです。

しかし、伝統的仏教は従来の教説の上に立ったままです。

わたくしは、少なくとも宗教家だけはこの世の中がどんなに悪くなっても、真実をいわなければいけないと考えます。だからこそ、宗教家は尊敬に値する存在なのです。もちろん、宗教家といえども、たまには方便を使うこともあるでしょう。しかし、ここ一番、これこそ大切なことなのだということについては、たとえ八つ裂きにされても、本当のことをいわなければならないとわたくしは思うのです。その宗教家が嘘であることを重々承知の上で、信者に真実ではないことを真実であるかのように説教をする。これは絶対に許されないことです。 続きを説明いたしましょう。

譬如伏鶏生子衆多。不能随時蔭餾消息冷暖。而欲令子以觜以爪啄卵自生安穩出殼。当知彼子無有自力堪能方便以觜以爪安穩出殼。所以者何。以彼鷄母不能随時蔭餾冷暖長養子故。 如是比丘。不勤修習随順成就。而欲令得漏尽解脱。無有是処。所以者何。 不修習故。不修何等。謂不修念処正勤如意足根力覚道。

現代語訳

りようだん 「闇えば伏鶏の生める子飛多冷暖すること能わずして、 以て卵を啄き、自ら生まれ安るも、当に知るべし、彼の子が如し。所以は何ん。彼の鶏て爪を以て安穏に殻を出づる長養すること能わざるを以て勤めて修習し随順成就せずしてめんと欲するも是の有ることちょうようつと習せざるが故なり。何等をか修

 

若比丘修習随顺成就者。雖不欲令報

尽解脱。而彼比丘自然漏尽。心得解

脱。所以者何。以修習故。何所修習。

謂修念処正勤如意足根力覚道。如彼

伏鷄善養其子。随時蔭餾。冷暖得所。

正復不欲令子方便自啄卵出。然其諸

子自能方便安穩出殼。所以者何。以

丘。善修方便。正復不欲漏尽解脱。

而被比丘自然漏尽。心得解脱。所以

者何。以勤修習故。何所修習。謂修

念処正勤如意足根力覚道。

「若し比丘、修習し随順成就する者は漏尽解脱せしめんと欲せずと難も而も彼の比丘、自然に漏尽し心に解脱を

得ん。所以は何ん。修習するを以ての故なり。何をか修

習する所なる。謂ゆる念処・正勤・如意足・根・力・

覚・道を修すること、彼の伏鶏の善く其の子を養い、随

時に蒸餾冷暖所を得、正しく復た子をして方便して自ら

卵を啄きて出てしめんと欲せざるも、然かも其の諸の子

自ら能く方便して安穏に殻を出づるが如し。所以は何ん、

彼伏鶏随時蔭餾冷暖得所故。如是比

現代語訳

「弟子たちよ、(七科三十七道品の成仏法を)修行し、成就する者がいたならば、その修行者が漏

尽解説をしたいと思っていなくても、自然に心に解脱を得て漏尽解脱を得るのです。

それは、なぜでしょうか?

修行したからです。

なにを修行したのでしょうか?

いわゆる、四念処法、四正動法、四如意足法、五根法、五力法、七党支法、八正道を修行したからです。それはちょうど、親鶏が卵を温めたり冷やしたりと十分に世話をしたならば、そのヒナが卵の外に出たいと思っていなくても、自然に殻を破り孵化してしまうのと同じです。 なぜ孵化することができたのでしょうか?

親鶏の世話が十分で、温冷の温度調節がうまくいったからです。

弟子たちよ、同様に(成仏法に則った)正しい修行をするならば、漏尽解脱を願っていなくても、自然に心に解脱を得て、漏尽解脱を得るのです。

なぜでしょうか?

修行したからです。

なにを修行したのでしょうか?

からです」 いわゆる、四念処法、四正勤法、四如意足法、五根法、五力法、七覚支法、八正道を修行した

因縁の鎖を断ち切る成仏法

中略譬如大舶在於海辺。経

夏六月風飄日暴。藤綴漸断。如是比丘。精勤修習。随順成就。一切結縛

使煩悩纏。漸得解脱。所以者何。善

修習故。何所修習。謂修習念処正勤

如意足根力覚道。說是法時六十比丘。

不起諸漏。心得解脱仏説此経已。諸

比丘聞仏所説。歓喜奉行。

現代語訳

「——中略――譬えばだ縦の窓辺に在り夏六月を経て

製、日に暴れなば感謝ぐ断するが如く、是の如く比丘

よ、精勤して修習し、随順成就せば一切の結縛・使・焼

悩・纏より漸く解脱することを得ん。所以は何ん。善く修習するが故なり。何をか修習する所なる。調ゆる念

処 ・正勤・如意足・根・力・覚・道を修習するなり」と。

是の法を説きたまえる時、六十の比丘、諸漏を起こさず

心に解脱を得たり。仏、此の経を説き已りたまえるに諸の

比丘、仏の説かせたまえる所を聞きて、歓喜し奉行しき。

「たとえば夏の六月ごろ、海辺に浮かぶ大きな船が嵐に遭ううちに、 て断ち切られるよ

全文雜阿含経・応説経

[全文雜阿含経・応説経

如是我聞。一時仏住拘留国雑色牧牛聚落。爾時仏告諸比丘。我以

知見故。得諸漏尽。非不知見。云何以知見故。得諸漏尽。非不知見。謂此色此色集此色滅。此受想行識。此識集此識滅。不修方便

随顺成就。而用心求令我諸漏尽心得解脱。当知彼比丘終不能得漏

尽解脱。所以者何。不修習故。不修習何等。謂不修習念処正勤如

意足根力竟道。譬如伏鶏生子衆多。不能随時蔭餾消息冷暖。而欲令子以费以爪啄卵自生安穩出殼。当知被子無有自力堪能方便以特

以爪安穩出殼。所以者何。以彼鷄母不能随時蔭餾冷暖長養子故。

如是比丘。不勤修習随顺成就。而欲令得漏尽解脱。無有是処。所

以者何。不修習故。不修何等。謂不修念処正勤如意足根力覚道。

若比丘修習随顺成就者。雖不欲令漏尽解脱。而彼比丘自然漏尽。

心得解脱。所以者何。以修習故。何所修習。謂修念処正勤如意足根力竟道。如被伏嘉善養其子。随時蔭留。冷暖得所。正復不欲令

子方便自啄卵出。然其諸子自能方便安穩出殼。所以者何。以彼伏

鶏随時蔭餾冷暖得所故。如是比丘。善修方便。正復不欲漏尽解脱。

而被比丘自然漏尽。心得解脱。所以者何。以勤修習故。何所修習。

謂修念処正勤如意足根力覚道。譬如巧師巧師弟子。手執斧柯。捉

之不已。漸漸微尽手指処現。然彼不觉斧柯微尽而尽処現。如是比

丘。精勤修習随顺成就。不自知見今日爾所漏尽。明日爾所漏尽。

然彼比丘。知有漏尽。所以者何。以修習故。何所修習。

処正動如意足根力覚道。譬如大舶在於海辺。

経夏六月風飄日暴。

謂修習念

藤綴漸断。如是比丘。精勤修習。随順成就。一切結縛使煩悩纏。

漸得解脱。所以者何。善修習故。何所修習。

足根力覚道。說是法時六十比丘。不起諸漏。

謂修習念処正勤如意

已。諸比丘聞仏所説。歓喜奉行

心得解脱。仏説此経

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[全文雜阿含経・応説経

如是我聞。一時仏住拘留国雑色牧牛聚落。爾時仏告諸比丘。我以

知見故。得諸漏尽。非不知見。云何以知見故。得諸漏尽。非不知見。謂此色此色集此色滅。此受想行識。此識集此識滅。不修方便

随顺成就。而用心求令我諸漏尽心得解脱。当知彼比丘終不能得漏

尽解脱。所以者何。不修習故。不修習何等。謂不修習念処正勤如

意足根力竟道。譬如伏鶏生子衆多。不能随時蔭餾消息冷暖。而欲令子以费以爪啄卵自生安穩出殼。当知被子無有自力堪能方便以特

以爪安穩出殼。所以者何。以彼鷄母不能随時蔭餾冷暖長養子故。

如是比丘。不勤修習随顺成就。而欲令得漏尽解脱。無有是処。所

以者何。不修習故。不修何等。謂不修念処正勤如意足根力覚道。

若比丘修習随顺成就者。雖不欲令漏尽解脱。而彼比丘自然漏尽。

心得解脱。所以者何。以修習故。何所修習。謂修念処正勤如意足根力竟道。如被伏嘉善養其子。随時蔭留。冷暖得所。正復不欲令

子方便自啄卵出。然其諸子自能方便安穩出殼。所以者何。以彼伏

鶏随時蔭餾冷暖得所故。如是比丘。善修方便。正復不欲漏尽解脱。

而被比丘自然漏尽。心得解脱。所以者何。以勤修習故。何所修習。

謂修念処正勤如意足根力覚道。譬如巧師巧師弟子。手執斧柯。捉

之不已。漸漸微尽手指処現。然彼不觉斧柯微尽而尽処現。如是比

丘。精勤修習随顺成就。不自知見今日爾所漏尽。明日爾所漏尽。

然彼比丘。知有漏尽。所以者何。以修習故。何所修習。

処正動如意足根力覚道。譬如大舶在於海辺。

経夏六月風飄日暴。

謂修習念

藤綴漸断。如是比丘。精勤修習。随順成就。一切結縛使煩悩纏。

漸得解脱。所以者何。善修習故。何所修習。

足根力覚道。說是法時六十比丘。不起諸漏。

謂修習念処正勤如意

已。諸比丘聞仏所説。歓喜奉行

心得解脱。仏説此経