增一阿含経・三供養品
增一阿含経・三供養品[全文]
聞如是。一時仏在舍衛国祇樹給孤独園。爾時世尊告阿難。有三善
根。不可窮尽。漸至涅槃界。云何為三。所謂於如来所而種功德。 此善根不可窮尽。於正法。而種功徳。此善根不可窮尽。於聖衆而種功德。此善根不可窮尽。是謂阿難。此三善根不可窮尽得至涅槃界。是故阿難。当求方便獲此不可窮尽之福。如是阿難。 爾時阿難聞仏所説。歓喜奉行
一五六
UA-135459055-1
增一阿含経・三供養品
增一阿含経・三供養品[全文]
聞如是。一時仏在舍衛国祇樹給孤独園。爾時世尊告阿難。有三善
根。不可窮尽。漸至涅槃界。云何為三。所謂於如来所而種功德。 此善根不可窮尽。於正法。而種功徳。此善根不可窮尽。於聖衆而種功德。此善根不可窮尽。是謂阿難。此三善根不可窮尽得至涅槃界。是故阿難。当求方便獲此不可窮尽之福。如是阿難。 爾時阿難聞仏所説。歓喜奉行
一五六
応説経 ― 殻を破る者
Ōsetsu Sutra
— The One Who Breaks the Shell
風は静かに 草原を渡り
まだ見ぬ道を 心が探す
殻の内側 灯るいのち
目覚めの時が 近づいている
Namosattanan
sanmyaksanmodaktinan
taniyata
on shaley shurei juntei
sowaka
見るがままに 生まれては消え
執着の鎖 ほどけてゆく
歩み続ける その先に
心は自由へ ひらかれてゆく
Namosattanan
sanmyaksanmodaktinan
taniyata
on shaley shurei juntei
sowaka
The wind moves gently across the plain,
The heart searches for an unseen path,
Inside the shell a life is glowing,
The moment of awakening draws near.
Namosattanan
sanmyaksanmodaktinan
taniyata
on shaley shurei juntei
sowaka
Arising and fading just as they are seen,
The chains of clinging slowly fall away,
Continuing onward along the path,
The heart opens into freedom.
Namosattanan
sanmyaksanmodaktinan
taniyata
on shaley shurei juntei
sowaka
小説風 『応説経 ― 殻を破る者 ―』
雪解け前の乾いた風が、草原を静かに渡っていた。
拘留国――
雑色牧牛の集落は、牛の鈴の音と土の匂いに満ちた小さな村であった。
朝の光はまだ柔らかく、遠くの丘には薄い霧が残っている。
その村の外れに、世尊は滞在しておられた。
比丘たちは静かに集まり、半円を描くように坐していた。
誰も言葉を発しない。
ただ、そこには深い期待があった。
やがて仏は、ゆっくりと比丘たちを見渡された。
その眼差しは澄みきった湖のようであり、同時にすべてを見通す光を宿していた。
そして語られた。
「比丘たちよ。」
低く、しかし明瞭な声だった。
「私は、知と見によって諸々の煩悩を尽くした。」
風が止んだように、場が静まる。
「無知のまま成し遂げたのではない。」
若い比丘の一人が、思わず背筋を正した。
解脱とは、神秘的な奇跡ではない――
その響きが、胸に落ちた。
仏は続けられる。
「では、どのようにして知見によって漏を滅したのか。」
しばしの沈黙。
そして、ゆっくりと語られた。
「これは色である。」
比丘たちは、自らの身体を感じた。
呼吸。重さ。温もり。
「これは色の生起である。」
生まれ、変わり、老いていくもの。
「これは色の滅である。」
やがて消え去るもの。
仏の言葉は、波のように続いた。
受。
想。
行。
識。
心そのものさえ、現れては消える流れであることが示されていく。
その理解は、理屈ではなかった。
見ること――ただ正しく見ることだった。
しかし仏は、静かに首を振られた。
「比丘たちよ。」
「もし修行を行わず、ただ心の中でこう願ったならば――」
仏は人の心を映すように言われた。
「『私は解脱したい』」
何人かの比丘が、胸を突かれたように息を呑む。
「その者が漏尽解脱を得ることはない。」
厳しい言葉だった。
だが声には慈悲があった。
「なぜか。」
少し間を置き、仏は答えられた。
「修習していないからである。」
仏は地面に落ちていた卵殻を手に取られた。
近くの農家から転がってきたものだった。
「たとえば――」
比丘たちは身を乗り出した。
「多くの卵を抱えた雌鶏がいても、
温めず、守らず、世話をしなければ、雛は生まれない。」
朝日が卵殻に反射した。
「雛に力がないのではない。」
仏は静かに言う。
「育て方が正しくないのである。」
その言葉は、修行者の胸の奥へ深く沈んだ。
やがて仏は続けられる。
「しかし、正しく修行する者は違う。」
「解脱しようと特別に思わなくとも、
心は自然に解き放たれる。」
自然に――。
その響きは、風のように優しかった。
仏はさらに譬えを語られた。
斧を握り続ける職人の話。
気づかぬうちにすり減る柄。
日々の変化は見えない。
しかし確実に進んでいる。
修行もまた同じであった。
今日どれだけ煩悩が減ったか。
誰にも分からない。
だが歩みは止まらない。
さらに仏は海を語られた。
岸につながれた大きな船。
蔓は一本ずつ弱まり、
やがて――
静かに切れる。
船は誰にも押されず、
ただ自由になる。
解脱とは、そのようなものであった。
そのときだった。
比丘たちの中で、何かが変わり始めていた。
誰かが悟ろうと力んだわけではない。
ただ、法が正しく理解された。
執着が、音もなくほどけていく。
雲が晴れるように。
その場にいた六十人の比丘は、
もはや新たな煩悩を生じることなく、
心の束縛から解き放たれた。
説法が終わると、草原には再び風が流れた。
比丘たちは深く礼拝した。
歓喜は静かだった。
叫びも涙もない。
ただ――
歩むべき道が、はっきりと見えていた。
殻は、すでに内側から割れ始めていたのである。
雑阿含経・応説経(現代語訳)
このように私は聞いた。
ある時、仏は拘留国の雑色牧牛の集落に滞在しておられた。
そのとき仏は、比丘たちに告げられた。
「私は知と見(正しい智慧)によって、すべての煩悩(漏)を滅し尽くした。
無知のままで成し遂げたのではない。
では、どのように知見によって諸漏を滅したのか。
それは次のように知ることである。
これは色(身体)である。
これは色の生起である。
これは色の滅である。
受・想・行・識についても同様に、
これは識である。
これは識の生起である。
これは識の滅である。
このように正しく知ることである。
もし比丘が、修行の方法を修めず、道に随順して完成させることもなく、
ただ心で 『私は煩悩を尽くし、解脱したい』 と願ったとしても、
その比丘が漏尽解脱を得ることは決してない。
なぜか。
修習していないからである。
では、何を修習していないのか。
それは、
四念処
四正勤
四如意足
五根
五力
七覚支
八正道
これらを修めていないのである。
たとえば、卵を多く抱えた雌鶏がいても、
適切な時に温めず、世話もせず、
冷暖を調えなければ、
雛が自ら殻を破って安全に生まれることはできない。
それは雛に力がないからではない。
母鶏が正しく育てなかったからである。
同じように、
修行を勤めないまま解脱を望んでも、
それが実現することはない。
しかし、もし比丘が正しく修行を修め、完成へと向かうならば、
たとえ 「解脱しよう」 と特別に思わなくても、
その比丘は自然に煩悩を滅し、心は解脱する。
なぜか。
修習しているからである。
何を修習するのか。
すなわち、
四念処
四正勤
四如意足
五根
五力
七覚支
八正道
である。
それは、よく雛を育てる母鶏のようなものである。
時に応じて温め、
冷暖を適切に保てば、
雛は無理に助けなくても、
自ら殻を破って安全に生まれてくる。
同じように、
修行を正しく行う比丘は、
解脱を求めなくても、
自然に漏尽し、心は解放される。
また、巧みな職人や弟子が斧の柄を握り続けると、
知らぬ間に柄は少しずつ摩耗し、
やがて減っていることが現れる。
しかし本人は、 「今日これだけ減った」 「明日これだけ減った」 とは気づかない。
それでも確かに減っている。
修行者も同じである。
精進して修行していると、
日々どれだけ煩悩が減ったかは分からなくても、
やがて漏尽に至ったことを知る。
それは修習によるのである。
また、大きな船が海辺につながれていても、
つないでいる蔓が少しずつ切れていけば、
ついには自由になる。
比丘も同じである。
精勤して修行すれば、
次第に解脱へと近づく。
夏の六か月、風と日差しにさらされれば、
束ねられたものも自然にほどけていくように、
すべての結び・束縛・煩悩の絡みもまた、
四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚支・八正道を修習することによって解かれていく。
この法が説かれたとき、
六十人の比丘は諸漏を起こさず、
心が解脱した。
仏がこの経を説き終えると、
比丘たちは仏の教えを聞き、歓喜して実践した。
以下に、『雑阿含経・応説経』全文を、意味を損なわないように現代日本語へ訳します。
雑阿含経・応説経(現代語訳)
このように私は聞いた。
ある時、仏は拘留国の雑色牧牛の集落に滞在しておられた。
そのとき仏は、比丘たちに告げられた。
「私は知と見(正しい智慧)によって、すべての煩悩(漏)を滅し尽くした。
無知のままで成し遂げたのではない。
では、どのように知見によって諸漏を滅したのか。
それは次のように知ることである。
これは色(身体)である。
これは色の生起である。
これは色の滅である。
受・想・行・識についても同様に、
これは識である。
これは識の生起である。
これは識の滅である。
このように正しく知ることである。
もし比丘が、修行の方法を修めず、道に随順して完成させることもなく、
ただ心で 『私は煩悩を尽くし、解脱したい』 と願ったとしても、
その比丘が漏尽解脱を得ることは決してない。
なぜか。
修習していないからである。
では、何を修習していないのか。
それは、
四念処
四正勤
四如意足
五根
五力
七覚支
八正道
これらを修めていないのである。
たとえば、卵を多く抱えた雌鶏がいても、
適切な時に温めず、世話もせず、
冷暖を調えなければ、
雛が自ら殻を破って安全に生まれることはできない。
それは雛に力がないからではない。
母鶏が正しく育てなかったからである。
同じように、
修行を勤めないまま解脱を望んでも、
それが実現することはない。
しかし、もし比丘が正しく修行を修め、完成へと向かうならば、
たとえ 「解脱しよう」 と特別に思わなくても、
その比丘は自然に煩悩を滅し、心は解脱する。
なぜか。
修習しているからである。
何を修習するのか。
すなわち、
四念処
四正勤
四如意足
五根
五力
七覚支
八正道
である。
それは、よく雛を育てる母鶏のようなものである。
時に応じて温め、
冷暖を適切に保てば、
雛は無理に助けなくても、
自ら殻を破って安全に生まれてくる。
同じように、
修行を正しく行う比丘は、
解脱を求めなくても、
自然に漏尽し、心は解放される。
また、巧みな職人や弟子が斧の柄を握り続けると、
知らぬ間に柄は少しずつ摩耗し、
やがて減っていることが現れる。
しかし本人は、 「今日これだけ減った」 「明日これだけ減った」 とは気づかない。
それでも確かに減っている。
修行者も同じである。
精進して修行していると、
日々どれだけ煩悩が減ったかは分からなくても、
やがて漏尽に至ったことを知る。
それは修習によるのである。
また、大きな船が海辺につながれていても、
つないでいる蔓が少しずつ切れていけば、
ついには自由になる。
比丘も同じである。
精勤して修行すれば、
次第に解脱へと近づく。
夏の六か月、風と日差しにさらされれば、
束ねられたものも自然にほどけていくように、
すべての結び・束縛・煩悩の絡みもまた、
四念処・四正勤・四如意足・五根・五力・七覚支・八正道を修習することによって解かれていく。
この法が説かれたとき、
六十人の比丘は諸漏を起こさず、
心が解脱した。
仏がこの経を説き終えると、
比丘たちは仏の教えを聞き、歓喜して実践した。
もし希望があれば、次に